あめ あめ ふれ ふれ
まがい物でも、かまわないから。
――私は雨が嫌いだった。
だからといって空色が変わってくれるはずもなく。今日も地底はざあざあ雨が降っていた。たまに、雪も降る。
灼熱地獄へ放り込まれた死体から湧き出る、塵混じりの煙が高く高く立ち上って、やがて大きな雨雲となり、地面を鋭く突き刺すような強い雨が降るのだ。それを地底の住人は口を揃えて、綺麗だなあ、風流だなあ、などと呟きながら酒の肴にぱらりぱらり堕ちゆく雫を見つめている。
私はその喧騒の中に佇んでいた。というよりは、その喧騒に混ざって、踊り狂っていたと言った方がいいのかもしれない。
腕を大きく広げてくるくるりと回り続けた。喉が渇けば、雨を舐める。死体が燻り続ける欠片を口に含んでは、にししと笑った。
ひとびとは私の姿を嫌悪を孕んだ瞳で見据えた。指をさして笑った。ほら、また古明地のところの――と陰口を叩いた。ため息をつくひともいた。私と同じように踊り狂うひともいた。
そうして誰かがゆっくりと、水溜りに足を取られながら、私の肩を叩くひとがいた。
「こいし」
お姉ちゃんだった。
怒っているのか悲しんでいるのかよくわからない表情を貼り付けている。
私の肩に乗せられたお姉ちゃんの骨と皮しかない手の甲にも、容赦なく雨粒は降り注いでいた。ばちばちと痛そうな音がする。痛いのだ。痛いはずだった。頭から受け止めている私も痛いのだから。
「帰りましょう。こいし」
唐傘を肩に引っ掛けているのに、お姉ちゃんの頬にはいくつもの雫が這っていた。ずるりと、そのまま顎へ撫でていく。
気づけば辺りに散らばる地底の愉快な住人は姿を消していた。お姉ちゃんの姿を見るや否や、蜘蛛の子を散らすように各々の住処へ戻っていったのだ。屋根のある暖かいところへ、そそくさ帰っていった。待っているひとがいるところへ、泥水を跳ねつけながら帰っていった。お姉ちゃんの靴下にまだら模様が広がっていく。
「帰ってもつまんない」
「たくさん、たくさん、濡れています。風邪を引いてしまったら大変ですから、家に帰りましょう」
白露に濡れたてのひらはやけにぬめぬめとして、私は思わずその手を払いのけた。
お姉ちゃんに触れられたところから、皮がぺろりと剥がれ落ちてしまいそうだったから。
払いのけられた指先から露が零れ落ちる。ぱらりと、それは私の頬に触れた。
「お姉ちゃん、先に帰っててよ。私は後からでもいいからさ」
「そういうわけにもいきません。私は貴女を迎えに来たのですから」
「ここ、さ。五月蝿いでしょ? お姉ちゃん、耳鳴りしない?」
「この位の喧騒にくじけるぐらいなら、私はとっくに覚であることを止めています。どちらかというと、五月蝿いほうが性に合うのです。静か過ぎるよりは、よっぽど」
ばらばらと傘が雨粒を受け止めている。ひとまわり大きな雫が私の頬に落ちた。痛かった。体中で小さな爆発が起きているように、雨粒は勢いを増して降り続けていた。傘はもう、ほとんど意味を成していない。
私にとってお姉ちゃんとは、傘のような存在だった。それ以上でもそれ以下でもなく、私を守るためだけの、ビニールのようにぺらぺらな体をした――それが私の家族で、私のお姉ちゃんだった。自分が濡れることを躊躇わずに、傘を丸々一本与えてしまえるひとだった。勿論私だって、お姉ちゃんのことは好きだ。多分、他のだれよりもなによりも好きだ。世界で一番。大好きなのだ。今も。
でも、お姉ちゃんの感情と、私のそれは、何か違う気がした。
お姉ちゃんは私に全てを与えてくれた。でも、別に、全てでなくてもいいのだ。少しでいい。お姉ちゃんの全てを受け止めるには、私では収まりきらないから。溺れる程の愛情に浸かってしまうのもいいかもしれない。でも、そうじゃない。分け合わなければいけない気がした。お姉ちゃんのためにも。私も何かを与えなければいけない気がした。
パンが一つしかないのなら、二人で半分こすればいい。
ベッドが一つしかないのなら、二人で温めあえばいい。
傘が一つしかないのなら、二人で半分ずつ入ればいい。
お姉ちゃんは分け合うことを知らなさすぎた。自分が犠牲になることに慣れすぎて、そんな、ありふれた感情をどこかへ置いてきてしまっていた。覚として生きすぎたのだ。自分が忌み嫌われ、疎んじまれ、憎まれすぎた所為で、愛というものを履き違えてしまった。お姉ちゃん自身が体験したことを、私だけにはさせたくなかったのだろう。そうして、私は愛でられた。鏡の中にいる自分を愛で、慈しみ、慰めるように。行き場を失ったお姉ちゃんからの、目的もない愛情だけが飽和状態になったまま私へと押し付けられていた。
それは、幸せと言えないよ。おねえちゃん。
■
すみれ色の髪が顎にまとわりついていた。そこから一つ、また一つと雫が垂れていく。
雨は上がり始めていた。それでもお姉ちゃんは私に傘を差し出したまま動くことはない。もう傘なんて差しても意味がないほど私たちはずぶ濡れになっているのに。それでも、だ。この傘を私が手に取ることに、意味があるのだろう。
「帰りましょう。こいし」
先程と同じ言葉を放ったお姉ちゃんの腕は震えていた。力が無いのに、ずっと傘を差していた所為だ。だからお姉ちゃんは駄目なのだ。疲れたなら力を抜けばいいのに。抜く方法さえ知らないのだろうか。感覚が麻痺して、それすらもわからなくなっているのだろうか。
「うん。帰ろう、お姉ちゃん」
一見冷たく硬くそれでいて強そうに見えるお姉ちゃんだけれど、肝心な中身は弱いままだった。心の芯は、一ひねりしてしまえばいとも簡単に壊れてしまうほどだった。だから殻を被ったのだ。そう簡単に壊すことの出来ない殻を、自ら被ったのだ。
嫌だった。辛かった。
結局お姉ちゃんの中で世界は構成されていて、私がそこに入ることを潔しとしなかったからだ。お姉ちゃんがひとりだったからだ。
お姉ちゃんは私と幸せにならなきゃいけないのに!
「ねえお姉ちゃん。傘差してかえろうよ」
「意味がないほどに、濡れてしまいましたね」
「うん」
私だけが幸せじゃいけない。姉妹なのだから、二人で幸せにならなければいけない。弱いくせに意地まで張って、私を守ってきたひとはすべからく幸せにならなければいけない。私がそう決めた。今決めた。
傘を渡そうとするお姉ちゃんの濡れた頬を見つめながら、私はにししと笑う。
「違うよ、お姉ちゃん」
疑問符を浮かべるお姉ちゃんの腕をまるごとひったくって、まだぱらりぱらりと傘を濡らす雨を避けるために中へ入った。勿論お姉ちゃんも一緒だ。
お姉ちゃんは驚きと困惑に顔をしかめた。私はまたにししと笑った。
「相合傘だよ、お姉ちゃん」
半分こだよ。お姉ちゃん。
「私は構いません。貴女ひとりでお入りなさいな」
「私が構うんだよ。一緒に入ってよ」
お姉ちゃんは私に弱いから、渋っても結局は言うことを聞いてくれる。
こんなときだけは、私はお姉ちゃんに甘やかされてよかったのだと思うのだ。
「一つのものを分け合うって、いいことでしょう」
「まあ、こいしとなら」
「ねねね。今度からもこうしようよ。私が外に出ていたら、こうして帰ろうよ」
「できることなら外には出たくないのですけどね」
「私が帰ってこなくてもいいの?」
「それも困りますね。……そんないじわるしなくてもいいではないですか」
「ごめぇん」
「ふむ。まあ、たまにならいいでしょう。こんな日も悪くないです」
「ね。相合傘なら、雨の日も悪くないねえ、お姉ちゃん」
古明地姉妹は二人で一緒に幸せになるべきだ
姉妹の抱える想いは一緒だからこそ……さとりの優しさが少しでも感じられたら十分だよって遠慮してしまったり
こいし自身が感じている幸せを共に分かち合いたいと、我侭言って甘えてしまうのでしょうね
二人の間にある確かな絆がそっと伝わってくる素晴らしい作品でした
優しいのぅ。
しっとりしたお話ですね
ほかほかとした、いい気持ちになれました。