射命丸文は悩んでいた。
時刻は夕暮れ、宵の口。パジャマに着替えて身支度は済ませ、あとは布団に潜り込むだけの体勢で、
自宅の長年愛用のデスクに腰掛け眺めているのは自分のメモ帳。
ひらいているページには太刀を抱えた白狼天狗の写真がペタペタと貼り付けられている。
写真に映る白狼天狗、犬走椛は少々幼げな顔をオーバーなくらい厳しくさせてカメラのレンズを睨めつけている。
擬似決闘たる弾幕ごっこの最中とは言え、否、だからこそこの敵意の表現は仰々しすぎる。
実際のところ、この犬畜生の敵意の現れは弾幕ごっこの最中のみではない。
ただ声を掛けただけでもつっけんとんな返事が返ってきて、場合によっては酷い嫌味を投げつけられ、ことによると怒鳴られたりもする。
そのくせ上司の大天狗には忠実で、覚えはそれなりにいいらしい。
総合すれば、新聞記者の多い烏天狗を見下して、強いものに尻尾を振る典型的な犬――それが射命丸文の犬走椛評であり、これがおおよそ正しいという自負もあった。
しかし、しかしだ。
『ねえ、文のネタ帳、ちょっち見せてくんない』
昼間に会った同業者のはたてからそんなことを言われたとき、文はキッパリと断った。
他人にネタ帳を見せるなど、新聞記者としてあってはならないことである。
『もう記事にした奴だけでいいのよ。どういう取材がどういう記事になったのかって、参考になるかなと思ってさ。ほら、私のも見せたげるから』
そう言いながらひらひらと自分のネタ帳を見せびらかすはたて。
文はしばし考え込んだ後、読んでいい箇所をしっかりと言い聞かせてから自身のネタ帳、文花帖をはたてに手渡した。
はたての言い分も一理あると思ったし、なにより門外不出の他人のネタ帳を気兼ねもなく見ることが出来ると言う誘惑には抗い難かったのだ。
適当にパラパラと捲りながらはたてのネタ帳を眺める。
なるほど、こうして見ると同一の事象に対しても全く違う観点からの洞察もあり、非常に刺激となるものだ。
それなりに楽しみながらネタ帳を眺めていた文の目に、ふと、一枚の写真が写りこんだ。
透き通るような白い髪、紅白の白狼天狗の仕事着、バカでかいダンビラ、幼げな顔立ち。
間違いない、犬走椛だ。だが、なんだこれは。この写真の
ほんの少しはにかんだ淡い笑顔。子供っぽい顔つきも相俟ってなんというか、非常に庇護欲をそそる可愛らしい顔だ。
何だ、あの犬はこんな顔も出来たのか。これこそ大スクープ、妖怪の山もひっくり返る大スキャンダルだ。
文は少し目を落として写真に添えられたはたてのメモに目を通し……そこで、決定的な違和を感じた。
妙にメモが椛に対して好意的なのだ。まあたしかに白狼天狗には白狼天狗のいいところがあるのはその通りなのだが――。
(あいつの態度見たら、まずそちらの印象が強く残るはずですよねぇ)
あの刺々しくて生意気な振る舞いを見て彼女と白狼天狗を擁護できるほどはたての心が広いとも思えない。
或いは、はたてと椛が特別仲が良いのかも知れないが、それにしても……。
それからしばらく、文は妖怪の山中を飛び回り、河童や山の神、同僚の天狗達に到るまで聞き込みを続けた。
内容はズバリ「犬走椛について」。
日が暮れ始めるまで飛び回って集めた情報を総合した結果はある意味意外で、それでいてやはりと思わせるものであった。
“よくは話したことがないが、いつも真面目に見張りをしているし、挨拶の声もいい。いい子だと思うね”
“可愛いですよねぇ、背伸びしてるっぽいところも。ハグハグしたいです”
“将棋は下手なんだよねー、短気なところがあるのかもね。ああ、別に悪い意味じゃないよ”
“礼儀もなってるし仕事もよく出来る、いい部下さ”
人によって評価に多少のブレはあるものの、ほとんどの者が共通して礼儀に関して良い評価を下している。全体的な印象も悪くない。
明らかに刺のある態度なのは文だけ。即ち、椛は烏天狗全体を見下しているわけではなく――文だけを嫌っている。おおよそ間違いはあるまい。
しかし、何故だろう。
無論、文とて椛は気に入らないが、それは大体のところ椛自身の態度に帰結する。
文は新聞記者として接するときには態度は弁えているつもりだし、そもそも何の偏見もない初対面の時から態度としてはあんなものだったはずだ。
何か……何かがある。文の知らない何かが。
本来なら放っておいても問題はない。白狼天狗の一匹に嫌われたところでどうということもない事だ。
しかし、気になる。原因が恐らく自分にあるのだろうに、それが分からないのは真に気分が宜しくない。
ならば確かめよう。この眼と耳で真実を突き止めてやろう。
それが文のいつものスタンスだった。
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
翌日、文は秋めき始めた九天の滝へと向かい一直線に飛翔していた。
川面を指先でなぞり、舞い散る紅葉を躱しながら、一直線に。
いつも通りなら、九天の滝の突き出た岩場で、アイツはいつも通りに見張りをやっているはずだった。
木々で閉ざされていた視界が開け、眼下に雄々しく水を跳ね上げる大滝が姿を見せた。
しばらく下ると、予想通りに途中の岩場にそいつは立っていた。
透き通るような白い髪、紅白の白狼天狗の仕事着、バカでかいダンビラ、幼げな顔立ちをきりりと引き締めて。
「あややややや。こんにちわです、椛」
「今日は。相変わらず暇そうですね、文さん」
声を掛けるといきなり不機嫌な顔でカウンターを食らわせられた。
軽口の応酬は弾幕少女の嗜みとは言え、こうまで悪意が込められていると対応に困る。
「暇とは失礼ですね。こう見えても新聞記者ってのは忙しいんですよ?」
「無意味に私のことを探り回るくらいには暇でしょう」
ぴくりと、一瞬文の笑顔が引き攣る。
何故こいつがそれを知っているのだろう?
「小耳に挟んだんですよ。文さんと違って友達多いですから」
(こ・い・つ・はぁぁぁぁぁっ!)
額に青筋が浮かびそうになるのを必死で堪える。
自分がここまで我慢しているというのに何で、何でこいつは――!
文は大きく一つ溜息をつくと深呼吸をして心を落ち着けた。
今日は喧嘩をしに来たわけではないのだし、知っているならちょうどいい。
「じゃあ話は早いですね。
椛、何でそんなに私を気嫌いするんですか」
その問いかけに、椛はきょとんとした顔でしばし文の顔を見つめ――露骨に嫌そうな顔をした。
「何です急に、気持ち悪いですよ」
「そっちはどうでも良くてもこっちは困るんですよ。
記者と言うのは人と接する仕事ですからね、ウザったがれるくらいならともかく嫌われるのは困ります」
「違いがよくわかりませんけど……どうでも良くないですか、それ」
「どうでも良くありませんよ。私に悪い部分があるんだとしたら今後のネタ集めにも影響が出るんですから。
教えてくれるまで帰りませんよ?」
腰に手を当てふん、と鼻を鳴らす文。
あまり強硬に聞き出すのもどうかと思ったが、つい売り言葉に買い言葉が重なってしまった。
椛はしばし考えこむ仕草を見せて……ふと、右腕を持ち上げた。
さりげなく、極々自然な動作で右腕を文に向けて――
――その手にある太刀を文の首筋に突きつけた。
首筋に冷たく重い感触。これが軽く引かれれば、それだけで文の首は滝壷へと落ちていくだろう……胴体をここに残したまま。
「椛……これはさすがに冗談で済まされるレベルじゃあないわよ?」
口調が新聞記者のものから射命丸文個人のプライベートなものへと切り替わる。
新聞記者であり傍観者たる射命丸文から事件の渦中にいる一個人・射命丸文へと、あり方そのものが入れ替わる。
新聞記者は自ら事件を起こさない。しかし射命丸文と言う個人はそれとは別個の個人的な意志で動く。
(見張りの白狼天狗、謎の失踪って見出しになるかしらね)
鋭い殺意を込めて、文が椛を睨む。
椛はその視線を正面から受け止めながら、わずかに肩を竦めた。
「例えばです、文さん。私が貴方を嫌う理由をしゃべったら、私は貴方を斬らないといけないかもしれない。
……そういう事情があったとしても聞きますか?」
「貴方が私を斬れるとでも?」
「見逃しても斬り損なっても最後には私の首が落ちるだけですし」
最終的に、どちらかが口を噤まなければいけない。そんな理由があるのだ、と。
(――なんですか、これは)
何かがおかしい。何かが食い違っている。これは本当に自分の身に降りかかっている出来事なのか。
椛が自分を嫌う理由に、いったい何があるというのか。
「……聞かせてもらうわよ、椛。自分の知らないところで勝手に物事が進むなんて気分が悪いわ」
はっきりと、伝えた。
もしかしたら聞かずに居れば、このままなんとなく話は終わっていたかも知れない。
だが、聞きたかった。ここまでとんでも無いことをされる理由を知らずに居るなんて、とてもじゃないが我慢出来ない。
椛は刀を首筋から退けて、腰の鞘に収めた。
いずれ話すつもりではいたんで、丁度良かったですよと椛は言う。
滝の半ばに突き出た岩に腰掛け、しばらく遠くを眺め、そして話し始める。
「私の友達にカエデという白狼天狗が居ましてね、とても新聞が好きなんです。
千里眼で事件を見たら直ぐすっ飛んでいって、皆に考えさせる凄い文章を書くんですよ。
天狗の新聞大会に出れば優勝間違い無しです」
椛はふう、とため息を一つ付く。
「でも、白狼天狗だから山の見張りから動けません。事件を取材できないから新聞も書けません」
文には、まだ椛が何を言いたいのか分からない。
椛は続ける。
「私の上司の大天狗は体を動かすのが好きで、風を読んで気配を捉えるのが凄く上手いんです。
私達の千里眼より正確なんですよ、すごいでしょう?」
椛はふう、とため息を一つ付く。
文は薄々と、この白狼天狗の言いたいことを理解し始めていた。
だが、その考え方は、余りにも危険なものに見えて――。
「でも、大天狗だからずっと苦手な書類仕事なんです。無理を言って白狼の纏め役には付きましたけど」
椛が、立ち尽くす文を見上げる。試すような視線で射ぬかれ、文は少なからず動揺する。
「昔から、天狗は生まれで仕事が決まってる……。おかしいと思いませんか?
「何、が、何が、言いたいんです、椛」
言わせてはいけない。言わせてしまったら、文はこの白狼天狗を始末しなければいけない。
椛は立ち上がり、文の瞳を覗き込むようにして続けた。語気が強まっていく。
「貴方が嫌いなんです。貴方が象徴なんです。千年の齢を重ねる長老の癖をして、誰よりも狡猾で頭が良くて、妖怪の山だけじゃない幅広い人脈を持っていて、天狗の中でも有数の力を持っていて。
その癖単なる売れない新聞記者に収まっている。文さん、貴方はこの理不尽な山の社会の象徴なんですよ。
貴方ほどの人がそんなところで収まっているから、カエデだって私の上司だって、やりたいことを諦めてしまう! 貴方は――」
「やめなさい椛ッ! 誰かに聞かれでもしたらどうするの!」
文が叫ぶ。嗚呼、この天狗は確かに真面目だ。実直だ。
だけど、だからこそ、この先は言わせてはならない。言ったなら、ペンではなく剣で、この天狗の口を噤ませねばならない!
「貴方は、天魔様に取って代われるだけの器があるというのに!」
叛意である。謀反の意思である。
無論、このような考えを持っているだけですぐさま処罰とまでは行くまい。
だがこの白狼天狗は実直だ。今の世を許せぬと義憤に燃えている。
いずれ椛は義憤を、力を持って示そうと試みる。その目を摘まねば、いずれ山全体に厄災が振りかかるだろう。
――その前に革命の芽は摘まねばならない。
「今の天魔様が居る限り、今の社会体制は変わりません」
「……ご立派ね、椛。貴方は革命起こして英雄にでも?」
「真逆。私は山の見張りで精一杯です。やるべきなのは貴方だと思ってるんです。
貴方は自分でも思っているより影響力があるんですよ? 貴方が体制に従っているのでは、誰もその流れに逆らえません」
ああ、この状況はなんなのだろう。
何故こんなところで、こんな話をしているのか。ここは本当に幻想郷なのか。
ひょっとしたら、あの鬼が消えた直後の頃の妖怪の山にタイムスリップしてしまったのかと、文は思った。
あの当時も、こんな理想に燃えて山の支配者になろうとした天狗は大勢居た。
だけど、だけれども。最後に残った今の天魔を別として、それらの天狗は、皆、死んだのだ。
或いは追い落とされ、或いは謀殺され、或いは戦の中で。
あの鉄火の中を生き抜いた天魔である。油断はすまい、用心は欠かさぬまい。
いずれ椛の考え方が広がり驚異になると判断した時点で、椛は跡形もなく消される。
それはこの山と幻想郷を平和に保つ上で、恐らくは、正しい。
「勝手な話ね、椛。やりたいなら貴方がやるべきよ。勝手に人を頼らないで」
「だから貴方が嫌いなんです、文さん。
私はやりたくても力が足りない。貴方はなんでもできるのに……何にもしない」
椛はそう吐き捨てると、腰に佩いた太刀を文に手渡した。
そのまま岩に座り込み、文に背を向け瞑目する。やるならやれ、と言うことらしい。
「何でわざわざ話したの、私なんかに」
「聞いたのは文さんでしょう? 私の命と引換えに遺志を継いで、なんて言いません。
文さんに覚えておいて欲しいんですよ。そうすれば、きっといつか――」
きっといつか、変わるかも知れない。
カエデや椛の上司がやりたいことを出来るようなるかも知れない。
――射命丸文なら、きっと――。
文はしばし押し付けられた太刀と椛の間で視線をさ迷わせ……そして、心底疲れた顔で刀を滝壷に放り捨てた。
きらきらと光を反射しながら落ちていく刀を見とめた椛が、目を丸くして文を見上げる。
文は両手を胸の前で組むと、眉を怒らせてもみじの顔に己の顔をぐぅっと近づける。
「椛、何を勘違いしてるか知らないけどね、私は新聞記者であることが好きで、新聞記者でありたいからやってるの!
体制なんてどうだっていいし、やりたいことを好き勝手にやってるだけ! 変な期待だのなんだので勝手に人を嫌わないで頂戴!
大体一人でグヂグヂ腐られちゃ私じゃどうしようもないでしょうよ! ええ?!」
ひとしきり怒鳴りつけて、文はすっきりした顔で伸びをした。
ポカンと口を開けて座り込んでいる椛を尻目に、懐から文花帖とペンを取り出し、気持ちを取材モードに切り替える。
「さて、それでは椛。まずはそのカエデさんという方の新聞についてお話を聞かせていただけますか?」
「…………は?」
今度こそ訳がわからないと言ったふうに、椛が間抜けな声を漏らした。
「ペンは剣よりも強し、ですよ。暴力革命なんてつまんない事考えるより前に、周知を図ることが大事なんです。
実際、そういう不満を知らない人も結構いるでしょうし。
さ、そういう訳で次の文々。新聞の一面は知られざる新米新人記者と、ある大天狗の秘密の特技について、ですよ?」
しばらくの間、椛はぼんやりと文を見つめ、そして――
「はい、文さん!」
その幼げな顔に、ほんの少しはにかんだ淡い笑顔を浮かべた。
・
・
・
・
・
・
「あれ、そう言えば、私の刀……あーっ!」
「あ、ああー、あはは。あれっくらいの刀なんて、直ぐに手に入りますよーあははー」
「官給品なんですよ、官給品! 代わりを手に入れるのに始末書と申請書類何枚必要だと思ってるんですか!」
「嫌ですねー。私に渡したの、椛でしょ? 私は知りませーん」
「……色々な話は別にして、文さんのそういうとこ、私は嫌いです」
最後の椛の心変わりの様子が少し急ぎすぎた感じがしました。
しかし全体を通して、どのような展開になるのか、物語に自然と引き込まれました。
文らしいなぁ
面白かったです。
文と椛、それぞれの「らしさ」が出ていて、とてもよかったです。
1さんのように椛の心変わりが性急と感じたが、
あなたの書く物語の展開と文体に大きな魅力、期待を感じました。
歓迎しよう、盛大にな!!
文も椛もらしいと思えるすばらしい作品ですね。
ちょっとさっぱりしすぎな部分も感じますが原型を感じられる素敵な話ですね