「わぁ」
私は思わずため息を吐いた。呆れや落胆ではなく、それは惚けた色をしている。
うだる暑さの残る地霊殿のリビングで、むんむんとした熱を噴出しながら、お姉ちゃんが寝ていた。そのまんまだ。寂れたネジの金切り声が止まないソファに身を沈めて、片手だけだらんと外に放り投げたまま、あとは薄い紙のようなタオルケットに包装されていた。腕をその中に押し込めてしまえば、すぐ出荷できそうなほどに、お姉ちゃんは小さく小さく体を丸めて、蒸し暑さにウンウン唸っている。
ばかだなぁ、と私は思った。お姉ちゃんは、また、考え込んでしまったのだろう。
ひとりで考え込むとき、ひとりで物思いに耽るとき、ひとりに決断を迫られたとき、お姉ちゃんはこうして自分の殻に篭るのだった。生まれたときのように体を幾重にも折りたたんで膝とキスをする。それはとてもとても滑稽で、とてもとても悲しい気持ちにさせられた。今回もそのパターンだった。考えあぐねていた挙句に、とろりとろり瞼が落ちてしまったのだろう。規則正しく上下するタオルケットの下にある表情に思いを馳せて、私はもう一つため息を落とした。それは転々と転がって、カーペットへと沈んでいく。
お姉ちゃんが寝顔を見せる回数は、ここ最近、めっきり減っている。それはたぶんお姉ちゃんの抱えている問題が原因であることなのだろうけど、お姉ちゃんはそれを口に出さないから、私が憶測せねばならなくなるのだ。
まあ、これもたぶんだけど。
その原因は、私にあるのではないかと思う。
■
「悲しい夢をみたの」
夢から戻ってきたはずなのに、その朝はやけに寒くて、寂しかった。
心をぐさりと突き刺す氷柱がいつまでたっても抜けないでいる。
「悲しい夢をみたのですか」
お姉ちゃんは暖かいココアを淹れながら私の言葉を反復するだけで、あとは小石のように押し黙った。
やけにあっさりとした会話だった。朝の空気に似つかわしいものだった。その言葉自体は、爽やかな空気にとって過重なもののはずなのだけれど。
「お姉ちゃんを嫌う夢なの。拒否して忌む夢なの」
「それらは全て慣れていますが、実の妹にやられると、結構悲しい気がしますね」
「うん。私も悲しかった」
「ということは、私も悲しんでいたということですか。そうだったら少しだけ報われます」
舌を火傷させない温度のココアを渡しながら、お姉ちゃんは小さく笑んだ。私はこの笑みが大好きだった。こどもが道端に転がっている小さなよろこびを見つけたときにする、目尻がとろりんと垂れて隠れていたえくぼがひょっこり顔を出す、そんな笑顔。元々あまり笑わないお姉ちゃんにとって、それは満面の笑み代わりなのだと思っている。でも、私は夢の中で、その笑顔を奪ったのだ。
現ではなにもしていないはずなのに、罪悪感がじくじくと心を侵食していく。がぶりと第三の目を噛まれた。
夢はこんなに辛いものだろうか。もっとふわふわ浮いているものだと思っていたばっかりに、私の頭に掘り込まれた夢の第一印象は最悪なものになった。みんな優しくて柔らかい夢ばかり見ていた気がするのに。もしも誰かが私の夢を選んで見せているとするのなら、初めての夢ぐらい、もっといいものを見せてくれてもいいのに。
だれもがいじわるだった。
「夢はひとの願望を見せる。またその逆もあるのです。こいしがどちらを望んだのか、私にはわかりませんが、きっとその夢を見たことに意味があるのでしょう。なにせ、」
お姉ちゃんはそこで一度言葉を切って、自分用に淹れた紅茶を引っつかんだままソファに腰を沈めた。お燐ではない子猫が、ソファの金切り声に驚いて毛を逆立てる。お姉ちゃんはそれを宥めすかしながら、私から目を逸らすように言った。
「それは貴女が、私に初めて話してくれた夢なのですから」
悪い夢はお話なさい、とお姉ちゃんはよく私に言い聞かせていた。
良い夢はとっておきなさい、とも。
お姉ちゃんはそうして、私のちょっとした異変を探ろうとしていた。でも私は今日が初めての夢デビューだったのだから、それを実行することなんて今まで一度もなかったのだ。ああ、夢と言葉に出すのもむず痒い。この記憶をゴミ箱に捨てられないかしらん。
だからお姉ちゃんは。私がこうして、怖い夢を見たと泣きついてくるのを待っていたのだろう。まったく、まったく、お姉ちゃんは。
「私が望んでその夢を見たと思う?」
「どうでしょうね。私には分かりかねます」
「きゃはは。お姉ちゃんのいじわる」
「そうですか? 貴女にとっては、利用しやすく流されやすいひとのつもりでしたが」
「あ、そこ言っちゃうのね」
「つい口がすべって」
特に慌てた様子もないお姉ちゃんの瞳をじぃっと見つめて、それからきゃっきゃと笑った。甲高い声が高い天井まで駆け上がっていく。可笑しくて可笑しくてたまらない。お姉ちゃんは俗に言う、つんでれというやつなのね。
先程まであった笑顔の仮面が吹き飛ばされたみたいに冷徹な顔をしているお姉ちゃんもなかなかかっこよくて、少しだけ苛ついたから。
少し、意地悪をしてやろうと思った。
可愛い可愛い妹の、ちょっとした絞殺のはずだった。
「でもざんねん。私が見た夢は、望んだものだったのです。きゃは」
■
吹き出してしまうほど可笑しい格好のはずなのに、その姿は息を呑むほどに綺麗で、頬を染めてしまうほど妖艶だった。まるでガラス細工に水を入れて上から覗き込んだときのように、静かな波紋がゆらゆらと揺れているようだ。お姉ちゃんが息を吸って吐く度に波紋は静かに、大きく広がっていく。ゆらゆらり。ゆらゆらり。こんなに眠っている姿が美しい妖怪は、お姉ちゃんだけしか、私は知らない。
「あはは、お姉ちゃん、かわいいなぁ」
疲れ果てて眠るお姉ちゃんに私は容赦ない。包まれたタオルケットの上からつんつんと突いてやったりするし、ふぅっ、と息を吹きかけてやったりもする。そうしてやるごとに、ふるりと震えるお姉ちゃんがどうしようもなく愛しいのだ。
起こしてあげたいけど、そしたらお姉ちゃんはまた閉じこもるから。生まれるのを拒否する胎児のように、延々と子宮の中に閉じこもるから。私はお姉ちゃんが寝ている間だけでも、こそばゆくて一寸だけ身悶えする夢を見せてあげたかった。目が覚めたときに襲いくる現実とのギャップをできるだけ小さめに抑えるため。
ああ、なんて健気な妹なのかしら。
自画自賛してきゃっきゃと笑った。
「ばかだなぁ、お姉ちゃんは。そんなことしたって生まれ変わることなんてできないんだよ。だから早く生まれてきてよ。そんなところでぐずっても、お姉ちゃんはもう生まれちゃってるんだから。私のお姉ちゃんなんだから。我慢してよ、お姉ちゃん。じゃないと、全部ゴミにして捨てちゃうんだから」
タオルケットに包まれたお姉ちゃんの体躯が、一際こんもりと盛り上がっている部分に口を当てて、そう囁いた。瞳を閉じてから、私は嘘を吐くことが下手くそになってしまったから、本当のことしか口に出せなくなっていた。ごわごわしたタオルケットに、薔薇に近い花の強い香りが脳の中で煙のようにとぐろを巻いている。クラクラした。これがお姉ちゃんの臭いなのだから、たまらない。
「こいしがゴミ箱に座っているというシチュエーションがあるのなら、それはそれで」
くぐもった、沈んでは浮かぶ声色がタオルケットの向こう側から聞こえてきた。
「あら起きちゃった」
「あれだけ騒がれてはおちおち寝ていられません」
「ふぅん。もうちょっと我慢してたら、おはようのキスしてあげていたのに」
「え。……それは今じゃ駄目なんですか」
「だぁめ」
意地悪く笑うと、悔しそうに呻く声が届いた。私はまたきゃっきゃと笑う。
お姉ちゃんはもぞもぞと体を捻ったりくねらせたりして、ようやくタオルケットから顔を出した。頬は赤く茹っており、吐く息は熱くとろけそうだった。すみれ色の髪はボサボサで、明らかに寝起きの表情を貼り付けている。
「駄目ですか。もうタイムアウトなんですか」
「うん」
「くぅ」
「あはは、お姉ちゃん可愛い可愛い」
ほっぺをぐにぐにと抓ってやると、お姉ちゃんはぐに、と唸った。ペットらしいペットとは、もしかしたらお姉ちゃんのことではないのか。可愛い可愛い私の愛玩動物。
「ねえお姉ちゃん」
ぐにーっと指で頬を抓りあげながら、私は問うた。
「もしかして、最近悩んでるのは、私が原因なんじゃないのかな」
「……別に」
鉄仮面は未だ剥がれることなく張り付いたまま、取れなくなっている。あのとき見た表情こそが私の夢だったのではないかと思わせるほどに。
「お姉ちゃん、もしかしたら、私が望んだ夢を見させることになった自分の不甲斐なさに嫌気が差して、生まれ変わりたいなんて思ってないよね」
「別に、そんなことは」
「嘘だよ」
「え?」
「嘘だよ、あれ」
いたずらな笑みを浮かべて、私はにししと笑った。
愛する愛するお姉ちゃんが私には存在しているというのに、それを蔑ろにするような夢を望んでみるわけがないじゃないの。
ほんとう。おねえちゃんって、ばかね。
「嘘……ですか」
「そう。幻想よ。もしお姉ちゃんが私のことで悩んでいるとすれば、それも幻想よ。でもよかったと思わない? 怠惰な時間を私のことで費やせたんだもの。素晴らしいと思うでしょう?」
それも幻想だけどね。
「そうですか……嘘……」
お姉ちゃんはふるりとまつ毛を震わせて、すみれ色の髪をやわらかく揺らした。泣いているようでもあったし、笑いをこらえているようでもあった。どちらでもよかったんだけど、どっちかといえば泣いていて欲しかった。傷つけることに躊躇いなんてなくなってしまったから、無意識のうちに私はお姉ちゃんの首を強く締め付けていて、それがすべて夢だったのだと伝えることに罪悪感なんて微塵にも感じなかった。夢は夢で、怖かったけど。
だからねえお姉ちゃん。
これも私の我儘でいじわるなの。
「まあでもよかったです。嘘で」
あちゃー。
けろりとした表情に、私は面食らった。やはりお姉ちゃんはお姉ちゃんのままであった。何事にも動じない鉄の仮面を被ったまま、私を転がしているだけ。それはとてもとても羨ましいけれど、こういうときぐらい、演技でもいいから泣いてくれないかなあなんて思ってしまう。
それはちょっといじわるしすぎだろうか。まあいいや、お姉ちゃんだし。
「嘘じゃない、って言ったらお姉ちゃんはずっと殻に篭ってたのかなぁ」
「そうかもしれません。そうだったとしても、それは貴女が望むことですから」
「ありゃ、ばれちゃってた」
「当たり前」
何年姉を役っているつもりだとお思いで? と、瞳で怒られた。てへ。
「ちょっとした我儘だったのよぅ。許してぇ」
「このぐらいの我儘なら可愛いものです。前はトリカブトなんかを食事にいれやがりましたしね」
「お姉ちゃんの頑丈さを調べてみたかったんだもん」
「死んだらどうするつもりで?」
「酢に漬けてピクルスといっしょにいただくわ」
「わぁ、おいしくなさそうですね」
食べ物の話をしていると、必然的にお腹が空く。
ぐきゅるる。といい音を立てた腹を見やって、お姉ちゃんは寝起きの声で低く笑った。
「朝ごはんでも食べますか」
「いま何時なんだろうね」
「さあ。でも、私が起きたから朝ごはんなのです。こいしも食べますか?」
「食べるぅ」
耳障りな音がソファの内部に響いていく。ペタペタとスリッパを鳴らしながら、気だるそうに歩くその姿こそ、お姉ちゃんなのだ。
なんだかんだいって、私はこの姉に生かされているし、背負られているし、叶えられている。
体の内部から幸せが滲んでくるようだった。たまらなくなってきゃははと笑う。
ふと、思い出したようにお姉ちゃんが立ち止まって、こちらを振り返る。
とろりんと目尻の下がった。大好きな顔だった。
「とりあえず。おはようございます、こいし」
「たぶんおはよう。お姉ちゃん」
今日がいつ終わるかわからないけれど。
ベッドに埋もれるそのときは、いい夢が見れそうな気がした。
とても面白かったです
夢のようなのに、姉妹の相思相愛振りが等身大で伝わってくる不思議な感覚……
小さな仕草や何気ないやり取りに想いがぎゅっと詰まってて幸せな気持ちになれました
こいしちゃんのわけわかんないようでわかるところも好きです。
楽しめました、ありがとう。
古明地姉妹のギュンギュンくる魅力のひとつを感じられました。
幸せをありがとうございました。