「……来ちゃいました」
来ちゃいました。
その声は蝉の音にかき消されそうな程にはっきりと、だけれど小さかった。
「……え?」
麦わら帽子を深々と被って、なのに真冬のコートで見ているだけで暑い、全部のぼたんを止めて違和感がとても凄くて。
手には小さな鞄一つだけの身軽な格好で。
真夏の日差しに少々疲れた笑みを浮かべながら、手を伸ばせば触れられるぐらい近くで、私を見つめ返している。
彼女は、そう。
古明地さとり。
私の大切な彼女が、そこにいた。
それは幻想郷という大地だろうとおかしなぐらい。
幻想みたいに儚くて、夢みたいに脆い光景みたいに頼りなく。
触れたら消えてしまいそうに、呆然とした私には見えた。
「……混乱、していますね」
そりゃあ、する。
するだろう。当たり前に。
静かな声が私に染みこむには、まだ心の準備が出来きっていないみたいで。
彼女はただ優しい目をしてくれた。
だから、私は彼女の笑みを馬鹿みたいに見つめる。
「そう。では、元に戻してあげるわ」
はあ……。
それはどうもありがとうございます。
もう何も考えずに、私は頷いた。
「いいのよ。では、貴方のお名前は? 種族は? 今の季節は?」
村紗水蜜です。船幽霊です。夏です。
「ええ、私は誰? 私は何? 私はどこにいる?」
貴方は、古明地さとり、さんです。さとり妖怪です。命連寺の、門の前にいます。
一輪が忙しなく私を呼んできたから、何事かと外に出たら、貴方がいて。
……なんか、まだ、魂が飛んでいるみたいだ。
「ええ、そうね。よろしい。では」
満足そうに頷いて。
何がよろしいのか、彼女は笑みを深くして、片腕をあげる。小さな指が、誘う様に宙に停止する。
まるでダンスを申し込むみたいに、優雅な手つきで。
小首を傾げて私を誘う。
「私を、招いてくれますか?」
「………よろこんで」
喉をならして。
夢見心地でその手をとる。
微かな熱と、絡む指の強さに、これは夏が見せた蜃気楼みたいな幻ではなく、本当で本物の、さとりさんなのだと、私はようやく実感する。
―――うわ。
ぎゅっとその手をつかんで、まるで逃がさないみたいに強く包み込んだ。
「…………真っ赤」
からかう様な小さな声に、顔を反射であげると。
泣きそうに目を細めて、安堵しているみたいに穏やかに、私と繋がる手を見つめる彼女がいた。
本物だ、なんて。
その姿を見て、さらに強く、私は心を震わせた。
◆ ◆ ◆
「……お、驚きましたよ」
驚きましたよ。
なんて少し拗ねた響きは、廊下を歩く足音で消えるぐらいには小さかった。
あの頃から少しも変わらない調子で、私の手を取って歩く彼女に満たされながら私は「そう?」と繋いだ手に力をいれる。
「そうですよ。急に『来ちゃいました』なんて、驚きますよ。手紙のやり取りだってしているんだし、来るなら来るで教えてくれないと」
「あら、それじゃあサプライズにならないわ」
「……なっ」
「ほら、ムッとしないで、私が貴方を驚かすのが好きなのは知っているでしょう?」
「……知ってますけどね」
心の中でぶちぶちと文句を言う彼女に知らず唇を緩ませながらも、腕に抱きつく事で宥めてあげる。
そうすれば、すぐにチクチクとした心は丸みをおびて、柔らかく手触りの良いものになる。
彼女のそういう単純な所はやはり好ましいと、まだ顔だけは拗ねていますの振りをする彼女にたまらず笑いかけた。
「単純ですね」
「……失敬ですよ。キャプテンとは、常に複雑で苦みばしった男の色気で溢れるもてもて野郎なんです。私もいつかぶ厚い胸板をゲットし、身長二メートルを超える筋骨隆々の猛者になるんです。そんな素敵キャプテンを目指す私が、単純な訳ないんです!」
「ええ、そうね。貴方は地獄の元船長たちに毒されすぎて素直すぎて無茶しすぎです。そこは素直に諦めて欲しいわ。女の子なんだし」
どうしよう。
やっぱりこの子、目標まであの時と変わっていない。面白い。
くつくつと笑えば、唇を尖らせて「今に見ていて下さいよ。私は幽霊だから成長しないとか言われていたけど、ここには天才薬師さんがいるんですから、すぐに立派な体を手に入れてやるんです! そうです。一輪たちが泣いて止めなかったらもうなっていたのに……!」なんて、まだぶちぶち言っている。
ええ、もう貴方が本気だって分かっただけで笑いが止まらないわ。
いくら私でも、久しぶりに再会して貴方がマッチョで胸囲180cm超えなんてしていたら逃げているわよ。
ぺちぺちとムラサに抱きついて薄い胸をたたくと「笑いすぎです!」と怒られたけれど、責任のほぼ8割は彼女にあるので無視する。
ムラサは更にむっすりして、私を抱きつぶしにかかるけれど、手加減されればただ心地良いだけで、むしろ望むところだった。
「うりゃ!」
「もう」
笑いながらお返しで背に腕を回し、ぎゅうっと本気で潰そうとすると「うぎゅ」っとムラサの口から間抜けで苦しそうな音が漏れて、くすくすと笑い声が止まらなくなる。
……ああ、懐かしい。
彼女といると、本当に、こんな風に自然に笑えていた。
それを思い出して、暫し懐かしさに浸る。
そうやって、抱き合い、改めてお互いがこそりと微笑んだ頃。
「……あら、仲がいいのね」
と。見知らぬ声。
ムラサの胸に埋めていた顔をあげると、そこには……あぁ、何度かムラサの心が写すのを見た事がある。彼女の恩人、聖白蓮が、目を丸くしてあらあらと唇に指をあてて此方を優しい眼差しで見守っていた。
「……」
そっとムラサから離れる。
背中に回されたムラサの腕から抜け出すのは少し躊躇したが、この体勢では彼女と話をしにくいと、ムラサの顔を見上げれば、彼女はすぐに手を離してくれた。
「……はじめまして」
「ええ、こんにちは。貴方は、もしかして古明地さとりさん、かしら?」
「……そうですが、なぜ、私の名前を?」
僅かな警戒。
まさか、会って数分もしない内に私の正体に気づき、優しく微笑まれるなんて気持ち悪い経験はついぞなかったので、ムラサの服を強く握りながら、表情に笑顔の仮面を貼り付ける。
聖白蓮は、それは嬉しそうに頬を染めた。
「あら、だってムラサがよく貴方の事を話してくれるんですもの」
「――え?」
「いつも眠そうな瞳がとっても可愛い、人に誤解されやすいけどとても優しくて可愛いさとり妖怪さんって」
「ひ、聖!」
慌てるムラサを見上げて、にこにこする聖白蓮を見て、今は冬服のコートの下の第三の目に触れる心を読んで、それが嘘ではないと分かってしまい。顔が熱くなる。
「……なっ、なにを言っているんですか、ムラサ!」
「いぅ、ちょ、ああもう聖! 言わないで下さいよそんな事! そ、それと、いいじゃないですか! なんか話題によくあがっちゃうんだから!」
「い、いい訳ないわよ。……もう!」
「いたっ、ちょ、痛いって、抓らないで」
背伸びして逃げようとする彼女に、背伸びして追いつこうとして、腕をいっぱいに伸ばして彼女の頬をぎゅうぅ、と抓る。
涙目でごめん、ごめんなさい、許してってばぁ、と心が必死だけど、今はとても許してあげる気にならない。
私を突っぱねる両手を肩に感じて、だけどぎりぎり届く頬は攻撃したまま、硬直状態。
お互い、爪先立ちでぷるぷる震えだすけれど、それでも終わらない。
んーんー! と痛がるムラサは、聖白蓮が思い出した様にのんびりと声をかけるまで、ずっとこのままだった。
手を離すと、片方の頬だけ異様に赤くなっていた。
◆ ◆ ◆
「……村紗水蜜を、取り返そうかと思いまして」
村紗水蜜を、取り返そうかと思いまして。
なんておかしな台詞は、客間にとても変な空気を残してしっかりと皆の耳に届いていた。
「…………は?」
「あら、聞こえなかったの? 私は、貴方を取り戻す為にここにきたのよ」
行儀よく正座して、コートも脱いだ彼女は普段着のまま、第三の目をこちらにきょろりと向けて、一緒ににこりと笑った。
それが、ちょっと可愛いな、なんて思いつつ、隣の一輪の顔色が微妙に悪いのが少し気になった。それに、星がちょっと口元を拭ったのと、ナズーリンが齧り甲斐がありそうだ、と言わんげのうずうずっとした口元も気になった。
……我が家族ながら、さとり妖怪を前に普通の反応をする者はほとんどいないみたいだった。
勿論、一緒に地底にいた一輪とぬえはお約束の行動をするのだけど、聖や星やナズに、そういう期待はするだけ無駄だろう。
特に獣二匹の方はおいしそうなものを見る感じで、第三の目を見ているし。
……冷静に考えると、ちょっとグロい。
そうそう。ぬえはさとりさんが来たと知るやいなや、すぐさま寺を飛び出した。
彼女のことが心から苦手らしく、その割に彼女の妹とは仲良く遊んでいるんだからよくわらかない。
さすがは正体不明というところだ。
「うふふ、ムラサ。現実逃避もいいけれど、どんどん脱線していっているわよ」
「……ぬぐっ!」
心読まれた。
っていうか、かなり意地悪な顔をして三つの目がにいっと笑うから、もう全部読まれていたのだろう。
慌てて、さとりさんのおかげで鍛えられた無の領域に至らんと頭の中を空っぽにする。
というか、それはやっぱり一輪の方が上手くて、すでに目を閉じて凛とした横顔が相変わらず美人で。
「だから、貴方が無の領域なんて大層なものに入ったことは一度もないわ。私が心から保証する」
「しないで下さいよ傷つくから!」
ひどっ!? 他の誰にされるより貴方にされんのが本当に傷つく。
っていうか思考に割り込むような突込みがいつもの事とはいえ容赦ない。
これでも、聖の為に修行しているのに、ちっとも成果がないのは分かっているからこそ更にきつい。
思わず怒鳴る私に「はいはい」と適当に返事をして、さとりさんは聖に向き直り、またよく分からない事に重点を置いた話を進める。
なんか、私の傷ついた心は無視である。……やっぱ意地悪だよなこのさとり妖怪。
「では、そういう事でいいですか?」
「ええ、最終的にはムラサの気持ち次第、という事になりますが」
「……分かりました。では」
す、とさとりさんは立ち上がる。
そのまますたすたと私の前にくると、傷ついた心を癒さんと聖を見ていた視界に入り込んで、首をぐきっと曲げられ、そのまま手を取られて引きずられる。
「? 痛いし、どうかしたんですか」
「ええ、今さっき、聖白蓮から試練を受けてね」
「試練?」
「そうよ。貴方の好きな味を再現する事と、貴方の身の回りの整理整頓に、貴方の気持ちの確認」
「……んん?」
「じゃあ、行きますよ」
「……ええ?」
「まずは、台所です」
きっぱりと言うさとりさんの目は、やる気に満ちていた。
……。
いや、まあ、いいか。
話を良く聞いていなかった事を今更後悔するが、多分大丈夫だ。
とりあえず、彼女の後についていく事にする。
後ろで。
「……凄いな船長。あれも一種の押しかけ女房というものだろう。恐れ入る」
「本当ですね。でも、一輪はどうしてそんなに怯えているんですか?」
「……ふっ、そりゃあ、会うたびにじと目で睨まれてトラウマ突かれたら、苦手意識もわくわよ」
「うふふ、彼女は本当にムラサと仲良しなのね」
なんて会話が聞こえたが、よく分からず、さとりさんと顔を合わせて「?」と首を傾げた。
とりあえず、一輪を苛めないで下さいと要求すると。彼女は目を逸らし、首を更に傾げてから。
「私も、どうして彼女にあんなに辛くあたるのか、よく分からないのよ」
と、不可解そうな答えが返ってきた。
◆ ◆ ◆
「私はカレーが好きです!」
私はカレーが好きです。
とかお決まりすぎる台詞は、台所で元気よく響いた。
「却下。他には?」
「あっさりと?! ……い、いや、カレー以外は、あんまり、その」
「…………」
「だから、私ってば死んでて、味覚とかあんまりちゃんと機能してないんですよぉ。だから刺激物はおいしいって感じられるから好きで、やっぱりカレーがいいというか……」
「……まあ、それは知っているけれど、なら、貴方の普段の食事って精進料理でしょう? 味なんて感じるの?」
「え? いいえまったく。作ってくれる一輪たちには悪いけど、泥でも食べてる感じですねー」
あははは、と。
……。
このノリ。
割と重い事を言っているのに、それを心から気にしていない。死んだんだからしょうがないし、なんて明るさが、幽霊にあるまじきと言うか前向きというか。
……カレー。
……むぅ。
「ちょっと」
ムラサの裾を引っ張る。「?」と顔を寄せるムラサに、私は困りきった顔をなんとか無表情で覆い、声に感情が滲まない様に注意しながら、彼女の目を見る。
「……私、カレーの作り方なんて、知らないわよ」
ほへ?
と、ムラサが変な顔をした。
そのまま、あーはいはい。と顎を撫でる。
私の葛藤を、彼女はきちんと理解して頷いてくれた。
「そういや、幻想郷じゃカレーってあんまり知られていませんよね」
「ええ、貴方がどうして知っているのか不思議なぐらいだわ」
「いえいえ、地獄の幽霊船長たちの間では、隠れメニューとして隠れてないぐらいの大判振る舞いですって。地獄落ちした元海軍のなんたらかんたらが、一週間に一度はこれじゃなきゃ落着かん。作れ! って無茶振りから始まりました」
「……幽霊、本来食事いらないのに」
「ほぼ精神体ですからねぇ、ま、だからこそなのか、食べたいと思えば食べられるっぽいですよ。凄いですね霊体って」
「………………いえ、いいわ。うん。今度映姫に聞いてみるから」
話の合間に、ひょいひょいと材料を並べていくムラサの背中を見て、難しいものねと、つい溜息。
それと彼女の意外な手際の良さを流し目に、その隣に並ぶと、ムラサは軽く笑っていた。
「まあ、いいじゃないですか」
「え?」
「さとりさんが作る物なら、何でもおいしいですよ」
「……っ」
変に、ぎょっとした。
さらりと普通に、まるで空は青いですねと当然の事を言うぐらい、自然に言われたから。
暫し絶句し、ついでに軽く苛立ち、かぁ、と全身が茹でられて赤くなる様な幻覚をみる。
「……そう?」
だから、言葉が勝手に冷えていく。
だけど分かりやすい、どこか不自然な熱を孕みながら、ムラサにむっすりとした目を向けて。口を開く。
「……貴方は、味が分からないんじゃなかったの? なら、私が作る薄味のサラダでも、貴方はおいしいなんて言えるのかしら?」
「言えますよ」
あっさりと。また、こっちが反応できないぐらい自然に言い切られた。
うぐっ、と今度は流石に喉がつまり、結局何の反応もできずに、小さく俯く。
そんな私を見て、ムラサがくすりと笑っていた。
「うん。言えますよ」
「ムラサ……」
「だって、さとりさん野菜を切るのは上手いのに味付けが独特すぎて、私以外は悶絶ものですもの。いやあ、私が味オンチで本当によかったたたたたたあ?!」
まだ赤い頬をぎゅうぅっと抓りあげた。
何か、色々と台無しにされた。
心の中で、違うわよ失礼ね! と文句を言う。
強く頬を抓って、単にペット用の味付けと人型用とのが色々混ざって、たまに間違えるだけよ! とは、何だか負け惜しみみたいで言えずに、ぎりぎりと容赦なくムラサを抓る。
「いひゃい、いはいれふってぇ!」
でも実際、前にムラサを招いて料理を出したときは、緊張していたのかそんな初歩的な失敗をしてしまい、一緒に招いた雲居一輪が悶え苦しみ、ムラサだけがぱくぱくと全部食べてくれていた。
「…………」
眉間に皺がより、自分でも嬉しいのか悔しいのか分からなくなる。
……ええ、そうね。そう。
あの時は本当に失礼しました雲居一輪。今度顔を合わせたら、頑張って優しくしよう。
そしてムラサはとても失礼なので優しくしない。これでいいだろう。
「……まったく、反省しなさい」
「……いひゃい、うう、理不尽だぁ」
「馬鹿ね。今のは私の方が理不尽よ」
ぬか喜びというか、露骨にがっかりしてしまった。
……いえ、何がとは言わないけれど。
とにかく、調理を開始する。
やり方はわからなくとも、隣にいるムラサの心を読んで次にする工程が分かるので、それほど苦労はしない。
心を読める私にとって、相手の好みを知るなんて簡単な事である。
聖白蓮も、何を思って、こんな簡単な――――
って、え?
「はい、トントントン」
「…………ん?」
「そして、またトントントントン」
「……………? ……………?!」
かなり遅れて状況を理解する。
唇が変な感じに曲がって、色々と限界を迎えそうである。
なっ。
まて。まって。
どうして私は、ムラサに後ろから抱かれる様にして、手と手で仲良く包丁を握って、野菜を切っているの?
どうしたのこの近さ?
どうしてこうなるの?!
「む、むら、ムラサ?」
「はい?」
「なに、なな何をしているのかしら?」
「? 野菜切ってますけど。ほら人参をざっくざくと」
いやそうじゃない!
そこじゃない!
一瞬、本気で刺してやろうかと思ったが、彼女の心は何と言うか単純で、野菜を切っているけど何かおかしいのかなー? と極めて口にしている事と大して変わらない。
つまり、彼女は素でこんな恥ずかしい事をしているのだ。
「はい、次はじゃがいもですよ。皮をむくから、あんまり動かないで下さいね。はいするするっと」
「上手っ?!」
びっくりした。何この切れ味。じゃがいもの皮がするするとそれは見事にまな板の上で山に、ってだから違う!
近いの、近すぎるのよ。
今まで真正面から抱きついてじゃれあっていたからいいけど、こんな、包み込まれる様なのは初めてで、落ち着かず、ムラサが握ってくれていなかったらとっくに包丁を落としてしまっている。
改めて、集中してムラサの心を深く読み取る。
見えてきたのは、鼻歌交じりの本音。
『えっとー。一輪は、人参がまだ苦手っぽいので、小さく小さく切って。ぬえはじゃがいものほくほくが嫌いで、でも星は好きだから、両方作って、ナズはチーズ入れるのが好きだから、彼女の椀にだけ、溶かしたチーズを泳がせてー』
……って。
あ、そういう事ですか。
読み終えて呆気に取られて、体から力が抜けた。
ああ、はい。……そうですよね。
分かれば、それは納得のいく彼女の行動理由だった。
「……はぁ」
私は、カレーを作らねばならない。自分の手で。
しかし、私はカレーの作り方を知らず、ついでに彼女たちの好みも知らない。それでは皆の好み通りのカレーも出来ない。
なので、こうやって調理すれば自分が手伝った事にはなるが、ちゃんと私が作った事になるし、聖も認めてくれるだろう。
と。
彼女なりの気遣いの結果だった。
「………焦って損をしました」
「はい?」
「いいえ、じゃあ、とりあえずこのまま煮えたら、貴方の分だけ小分けしますから」
「?」
「貴方にだけ、私特性の味付けです」
本当、彼女のこういう所には適わない。
そんな事をつらつらと思いながら、手際よい切り味を眺めて、せめてもの意趣返しだと首だけで彼女を見上げる。
彼女の冷たい体温を感じながら、微笑む。
「とりあえず、貴方は辛ければいいみたいですから、ね」
にこりと、意地悪く言ってやる。するとムラサはぎょっとして顔を赤らめ、器用に私の指を避けて自分の指を切っていた。
とても痛がって悶絶していた。
彼女の心は、痛いで一杯になって。なにか、一瞬過ぎった暖かな声は私には聞こえなかった。
◆ ◆ ◆
「……さあ、はじめましょう」
さあ、はじめましょう。
等と何故か楽しげに言った彼女は、必死に押しとめようとする私をよけて、私の部屋へと嬉々として入っていった。
カレーを作り終えるとすぐさまとばかりに、貴方の部屋を案内しなさい、で。
これである。
勿論私は必死に止める。っていうか、これは誰だって普通に止めるだろう。
ってか、うん。ちょっ、マジでやめて下さいってば!
その、部屋の中には見られると困るものとか、えっと、察して下さいというかー!!
「うふふ、分かっていますよ。あら、意外に綺麗に整頓されていますね。…………そう、貴方の秘密はこのベッドの下なのね。とてもベタだわ」
ぎゃー!? 一瞬でばれたー?!
「ちょっ?! やめっ、ええい実力で止める!」
「ムラサ」
「!」
くるん、と。
飛び掛る私に合わせるみたいに振り返ったさとりさんは、そのまま両手を広げて、たたらを踏んだ私をぎゅっと拘束。そのまま額に噛み付いた。
「は?」
流れる様な綺麗なその動作に、何故に私は額に歯形をつけられてるんだとかそういう根本の疑問が浮かぶ前に、その空白の隙をつかれた。
ぺたりと。
「えい」
「ふぎゅ」
ちょうど、彼女の歯形がついているだろうそこに、何やらけったいな気を感じるお札を貼られた。
……ってお札ぁ?!
「ふっ、幽霊専用金縛りのお札らしいです」
「ぢょ」
「暫く大人しくしていて下さい。本当に貴方は素直で単純で可愛いですね」
「ご」
この鬼! 悪魔! 最低だこの妖怪!
ええい! 貴方なんて足くじいて転んでしまえばいいんです! 岩に頭ぶつけそうになったらちょっと助けてクッションになるから、足をくじいてしまえー!
さとりさんは、私の悲痛な声に、はいはいと適当だった。
「……ふぅ、ほんとう、貴方ってお人好しというか、船幽霊としての本能をすっかり洗い流されているのね」
「む゛?」
「いいから、大人しくしてた方が良いわよ」
と、
僅かに目を細めて、どこか面白くなさそうにさとりさんは呟くと、そのままベッドの下に手を伸ばした。
って、うあ、うああぁあ?!
口すら痺れて動かない今、私はそれを見守るしかなくて、全身がカラカラに干からびそうになる。
そして、さとりさんはそれらを外に出して、にやり、と意地悪なのに可愛くみえる反則的な笑顔を作る。
「あらあら、いけないご本が」
ぎゃー、きゃー、にゃー?!
「それも、こんなに……うふふ♪」
うわあう?!
やめてー!
い、いいいいっそ殺せー! 殺して下さい!
「ふぅん。なるほど、だから、そんなに必死に隠していたのね。へえ、ふぅん……」
あうぅ、あぅあぅあぅあぅあぅ。
いやだ何これ今すぐ成仏したいっていうか消え去りたいぎゃうぅう?!
「……『思春期の子供との付き合い方』ね」
がふぅわ?!
私の精神が一気に致命傷になった。
「あらあら。それに『お年寄りを大切にしよう』と『正しいペットの飼い方』に」
やーめーてー!?
死ぬ! 本気で死ぬ! 体さえ無事ならお風呂に沈んで死ねるからー!
「あら更には『正しい害獣駆除』に『友達と一生付き合える本』と『紳士として目指すもの』。…………あらあらあらリスペクトを見るに、家族と自分に不満でもあるのかしら?」
ぎゃわあああ!
もう本気で涙が出てきた。っていうか泣いていた。
ど、どうか皆には内密にー!
必死に叫ぶ。
ちが、違うんです!
金縛りから抜け出そうとみっともなく抵抗しながら、私はさとりさんを涙目で見る。
み、皆の事は、別に困っているとかそう思っているとかじゃなくて、なんか、本屋をみたら参考になりそうっていうか、私ってば船幽霊の妖怪だけど悪霊で常識が分かってない気もするしで、一般的なそういう知識が欲しくて。
だから別にそういう意味でってうわあああ死にたいぃいいい!!
私を見るさとりさんの目が冷め切っているのが、いっそとどめを請いたくなるというか、きつ―――
「落着きなさい馬鹿。…………もう。やっぱり、貴方ならこの程度ですよね」
へっ?
ぐすっと痺れながら鼻を鳴らすと、さとりさんの、意外に温かみのある呆れ顔がそこにあった。
ぽかん、と思考が停止して。
気づいたらくいっと、目元を拭われて、頭を撫でられていた。
「……はぁ、そこで、本当にイケナイ本だったなら、少しは成長したと喜ぶ所だったのに。……何かベクトルが大きく違うし。呆れます」
あれ? ……私の事、軽蔑しないんですか?
「しませんよ。馬鹿。そんな事で。……というかベッドの下が隠し場所というのが、お粗末すぎて逆に心配になってくるぐらいです」
ぺし。
お札ごと額を叩かれ、微妙な力加減で叩かれてちょっと痛かった。
「……あと、これは意地悪ではなく、忠告ですが」
「?」
なぜか、そこで意地悪の限りを尽くした様なさとりさんが、戸惑いの表情で私を見た。
無意味に緊張して、また心がこわばってくるが、さとりさんは口を開く。
「……ムラサ、本当に大事なものを隠したいのなら、もっと良い所があるから後で教えてあげる。……あのね……それと、貴方には酷かもしれないけど、たぶん、もう皆が知ってると思うわよ。……このいけないご本の存在」
がふっ。
意味を、理解し否定するより先に、心が血を吐いて絶望が降り注いだ。
「……ムラサ。ねえ、貴方、最近、酷く優しくされた事、ない?」
遠慮深げに聞いてくる、此方に気を使ってくれる彼女が全然有難くないって……
あった。
ひんやりとした、気味の悪い眼差しで、さとりさんが「そう」と怯える私を見据える。
「……他にも、会話の最中、隠し場所に適しそうな場所を、それとなく交えて色々と教えられなかった?」
―――?! 心当たりがあるー!?
愕然として本当に吐血した。
幽霊は精神攻撃に弱いのである。
そ、そういえば、宝物庫の穴場とか、天井裏とか、機関室がどうのとかー!? ナズとか星とか一輪とか聖やぬえから、っていうか全員からー!?
聞かされて、そうなんだーって暢気に感心してた私ー!?
「……そう。なら、そういう、事よ」
チーン、と。
切なさを誘う、哀愁を交えて綺麗な笑みを浮かべて、さとりさんはぽんっと私の肩を叩いた。
元気出して、とその顔は言っていた。
そして、その小さな慰めの動作でお札がはらりと取れて、自由の身となった私はごふっ、と吐血して床に沈みこんだ。
……………………今、めっちゃ消え去りたいです。
恥ずかしさは幽霊だって殺す。
私は顔を両手で押さえて心の中で悲鳴をあげながら全力で床を転がる中、さとりさんは「ええ、ええ。いいのよ。好きなだけ暴れなさい」と、変に優しいのが更に傷口に響いた。
……今度から、見られたくない物をベッドの下に隠さない様にしようと、私はまた紳士に一歩近づけたんだ……と、思うことにして、今日は泣こうと思う。
……ってか、布団に入ってマジで泣く。
私の心に深い傷跡を生みながら、さとりさんはどうやら目的を達したらしく。そのまま特に何をするでもなく、私の頭を撫で続けてくれた。
でも、お願いだから放っておいて欲しかった。
優しさが非常に邪魔臭い時があるんだって、私はそれも始めて知るのだった。
つか、さとりさんは分かっていてやっているから、もう本気で処置なしなのだ。
◆ ◆ ◆
「ごめんなさい」
ごめんなさい。
それはあっさりと傷つく間もないぐらいに、透明に心に響いた。
場所はムラサの部屋から、最初の部屋に。
あれから、ムラサをひきずって静かに待っていた聖白蓮の前に立ち、二つの試練は無事にクリアできたと伝えると、彼女はそうですかと頷き、ムラサに優しく尋ねたのだ。
『貴方は、さとりさんの家に行きますか?』
と、シンプルに。
まるで何も知らぬ子犬に、どちらが良いか選ばせる様な。
どこか残酷な問いかけ。
『!』
そして、それを聞いたムラサは即座に、丁寧に、迷いもなく頭を下げたのが結論。
だから、だろうか? 私はむしろ、がっかりするよりも納得すらして、彼女の顔を見ていた。
「……どうして、と私は聞いていいですか?」
「はい。私は聖の傍にいたい。きっと、貴方の傍よりも」
「…………」
じん、とそれは私の心に染み込んだ。
「ちょっ、ムラサ?!」
「船長、それは、幾らなんでも」
「そうです。失礼ですよ!」
でも、心は意外な程に静か。
久しぶりの再会で、静かに動揺していた表情とも、料理の時とも、先程の情けない顔とも違う、真剣で愛おしさすら覚えてしまいそうな、素敵な表情。
胸が、すっとする。
私たちを見て、動揺する他の者たちの心の声の方が滑稽にすら感じる。
それは、私とムラサだからこその、ごめんなさい、だからだろう。
「……そう、ですか」
「はい」
「まあ、諦めませんけれどね」
「はい。……はい?」
こてん、と首を傾げるムラサに、私は、むしろ呆れて溜息をつく。
どうしてそこで不思議そうにするのか、非常に気分が悪くなる。
あのねぇ、と聖白蓮よりも優しく、わざとらしく微笑みながら彼女を手招きする。
「?」
私に呼ばれて、大人しく四つんばいで近づいてくる危機能力ゼロの彼女に腕を伸ばし、そのまま首と頬に指を当てる。
彼女の冷たくて柔らかい肌の感触を味わい、そのままムラサの意識がその二つに移ったのを狙い、あのお札をべたり、と張る。歯形がいまだ深く刻まれた額へと。
「ちょっ?!」
と叫ぶムラサをそのままに、腕の中に無理やり頭を閉じ込めて、こほんと咳払い。
これは、一言でも二言でも、しっかり言っておくべきだった。
暴れようにも暴れられないムラサを、とりあえず小突いた。
こつん、と。
「……あのね、貴方。……さっきから、わざわざ言わないだけで、どれだけ私の事が嫌いじゃないとか、むしろ好きとか、思っているのよ。恥ずかしいし、苦しいでしょう?」
はい?
と、その場にいるムラサの家族が、同時に、しかしあまりでしゃばらずに心の中で呟いた。
本当に、仲が良くて結構である。
それらを無視して、私より実は意地悪なムラサを、えいっと責める。
「……いつか、一緒に住める様に頑張る、とか、私の事よりお仕事は大丈夫なのか、とか、いいのよそんなの。私の事はいいの。というか、さとりさんと会えて、話して、行動できて、嬉しいって、か、考えすぎなのよ……!」
後半、声が勝手に掠れたが、無視してムラサをぎゅうぎゅうに抱きつぶさんとする。
ムラサの頭をついでにくしゃくしゃっとかき混ぜて、その頭に今度は噛み付いてやる。
あいたぁ?! と大げさな悲鳴が目にびびっと届いた。
「ふんっ、痛いからやめろだなんて、嫌ですよ。なら、あと、今考えている事も早く訂正して頂戴。……諦めて欲しい、なんて私に失礼よ。え? ちゃんと修行して頑張って、むしろ迎えに行くからいいって、そ、んなに待てないですよ……! あ、貴方に才能がないのは分かっているのよ。ぅ、信用しろ、って? 無理、ですよ。酷いって? どこがです」
傍目には、痛い独り言としか見えないだろうけれど、こちらは大真面目である。
このムラサは、言葉に出さないで心で他者に懐きすぎなのだ。
行動に表れるそれらが全然足りないぐらいに、彼女は、船幽霊としての生者に対する恨みや妬みが、聖白蓮の力で、綺麗に反転されている。
心の中では、ずっと、私を好きだと言ってくれていた。
でも、それでも、私はもの足りないのだ。
この子犬気質のムラサが、よく見えるからこそ。今のままじゃ物足りなくて、そして他の人に懐き過ぎないか、私はいつも心配している。
地底から離れて、地上で暮らす彼女に、いつも不安と不満が生まれている。
「もう、馬鹿。……いいえ、馬鹿よ。少しも酷くはないわね。本当なら、もう絶交宣言するぐらいの。……え? ……あ、ごめんなさい。いえ嘘よ。だから、嘘です。……ごめんなさい。はい。ええ。私も言い過ぎたわ。……ええ、うん。……ばか」
二人だけの内緒話。
苛立ち紛れで失言して、傷つけて、怒られて、仲直りしてと。短いけれど大切な意思の疎通。
でも。
これ以上は、お互いに変に不器用な傷をつけそうなので、そっと彼女の頭を離してあげる。
そして、ごしごしと乱暴に頭を撫でて、彼女につけたお札を外してあげる。
「ぷあ」
人心地ついた様に、ムラサは安堵の表情を浮かべる。
私も、身動きできないムラサに、色々とするのは面白いけれど、やはり私は、ムラサにはちゃんと言葉で伝えて欲しいと願うから、もう、このお札を使う事は、ムラサが馬鹿をした時にしかないと思う。
「……ふぅ、ったく、それ、本当にきついんですからね」
「ええ」
「あんまり、使わないで下さいよ」
「ええ」
「そんで」
「ええ」
ムラサは、ちろりと私の後ろの住人たちを気にして、照れた様にうつむくと、意を決して私の耳元に唇を寄せた。
「――――本当は、貴方の傍にだって、いたいんですからね」
皆の前でついた、小さな嘘。
でも、私はさとり妖怪だから、分かってた。
……うん。知ってた。
私は、くしゃりと笑いそうになるのをこらえて、わざとやれやれと笑い、ちゃんと言えて満足そうなムラサの鼻先に、がぶっと噛み付いた。
小さな歯形を、額と鼻先につけたムラサは、私の真似をしてやれやれと笑い、そのまま、私の手首に柔らかく、あーんと噛みついた。
お互い、頑張ろうね、と。
そういう意味が、こめられているらしい。
◆ ◆ ◆
「また来ます」
また来ます。
さらりと聞き流す自然さで、彼女はそう言った。
聞き返そうとすると、さとりさんは私の疑問に気づいているのに、そ知らぬ振りで小分けされたカレーを、ぽんっとお鍋ごと手渡してきた。
それはまだ少し温かくて。ほどよいスパイスの香りが鼻腔をくすぐった。
「……また来るのよ」
「え?」
「だって、しょうがないじゃないですか。貴方に、ちゃんとおいしい物を食べて貰いたいし、貴方のいけない本の隠し場所も手伝ってあげたいし、何より、貴方に『うん』と言わせて、地底に帰って来て欲しいのだから」
ぽつぽつと、彼女は満足そうに物足りなさそうに、不思議そうに笑う。
えと。
……まだ、諦めてないんだ。
「まだ、諦めてないんですね」
「ええ、同時に言わなくてもいいから」
くすり、と唇が綺麗に真横にした三日月みたいに、可愛く笑って。さとりさんは私を見上げる。
ちょっとだけ背が低い、小さくてか弱く見えて、実際手首とか細すぎて心配で。抱きしめると柔らかいけど頼りない。
そんな彼女。
「……ムラサ」
「……うん」
この時間を切り取って、一生残せればいいのに、なんて子供でも望まない様な願いが生まれる。
それぐらい、彼女は綺麗だった。
沈む夕日に照らされているから、とかそういうのじゃなくて、もっと根本的に、彼女は綺麗で。
その在り方は、尊いとまばゆく私みたいな奴の瞳にも、鮮やかに映る。
「ばぁか」
私の心を、一言で切り捨て、そのまま抱きしめる声で、彼女は言う。
だから私も照れて笑って、そうだねと頷いて。
またね、と手を振る。
彼女もまた「ええ」と手を振って。
ぴたりと重なっていた二つの影は、離れていった
「船長。結局、君とあのさとり妖怪はどういう関係なんだい?」
「? 見ての通りの、仲の良いお友達という関係です」
「…………君は馬鹿か?!」
「えっ?」
「お帰りなさいさとり様、首尾はどうでした?」
「あら燐。……ええ、そうね。やっぱり駄目だったわ。……でも、彼女は私の大切なお友達だもの。諦める気はないわ」
「……へー、そうなんですかぁ、頑張って下さいね!(もうあんたら結婚しろよ……!)」
「えっ?」
船長はともかく、さとりぐらいは自分の気持ちに気付くべき
お燐に超同意
甘くて恥ずかしくて優しい話でもう最高でした!
友達って言葉の意味についてもうちょっと考えてみようか。