深い奈落の底へと堕ちてしまった――――堕ちた。……堕ちた?
まあ、比喩ではないか。
日の光も届かないそこは、海溝の底となんら変わりが無くて、漂う泡沫も蒼よりかは藍。
いや、もっと。
藍よりも黒よりも暗い、完全な闇。
私も人間の子で、神話にある根の国の住人などでは決してないから、その暗闇に怖さを感じずにはいられなかった。
毎日のように怯えていた。
でも、人間の適応能力っていうものは凄い。ずっと暗闇の中で過ごすうちに、太陽がない恐怖にも、怯え続ける自分にも、慣れてしまった。
子供の頃。父から毬をプレゼントされたことがあった。やはり貰った時は子供ながらに、その丸い輪郭と土に弾む不思議な物体に驚いて、小突いて遊んでいるうちにだんだんと遊び方を覚えていって、随分と楽しんだものだったが、やがては飽きてしまって、いつしか毬は埃を被った。
思うに、恐怖とは驚きとなんら大差の無いものだ。そのどちらを沸き起こすのも、同じ未知なるものへの好奇心と抵抗感。新鮮さが失われれば、心に沸く感情は欠片も無くなる。
――私は少々永く生き過ぎた。
今は、谷の底に溜まった腐葉に身を横たえているだけで心地よい。
こうしてずっと安らいでいると、いつの間にか、見上げている先にナニかが表れたような気がした。
もう地上の様子も聞こえないから、ほんのちょっとの変化も随分巨大な事に感じるようになった。
どうやらそれは、一本の細い糸に、一本の銛がくくりつけられているらしい。真鍮製の尖った刃先が私の頭上を捉えている。
ぶらんぶらん。
ぶらん。
助けの糸であるはずがない。救出のためなら、もっと丈夫な紐を使ってもよいだろうに。絹よりも細い……まるで蜘蛛の糸じゃないか。
溺れる者は藁をも掴むと言うが、あいにく私は溺れてなどいないし、また助けも求めていない。いつ切れるかもわからない銛と糸に身を任せるなんて、しようとも思わない。
――ところが。
気づけば、私はその銛を掴んでいた。
ひんやりとした金属の感触がした。赤茶けた部分からは錆びの臭いがする。
ふと、手の平にぎざぎざとした抵抗感が伝った。なんだろうかと確かめて見れば――暗がりでほとんど何も見えないはずなのに――風化した銛の表面に、ナイフのようなもので、小さな文字が彫られていた。
私はそれを見て、小さく笑った。
私からの合図に気付いたのだろう。しばらくして、銛が徐々に上へと引き上げられていく。私の身体も少しずつ持ち上がる。
糸がぎしぎしと軋む。今にもふつりと切れてしまいそうだ。
谷の底がみるみる遠く離れていく。
私の心の中で、久しぶりにある感情が芽生えた。
――あの土に叩きつけられたら、きっと痛いだろうな。
そんな私の心配とは裏腹に、銛は一段一段確実に上へ上へと登っていく。
そういえば、谷底に堕ちた私はどうして生きているのだろう。条理を外れた身という意味ではなくて、単純な記憶――痛みの衝撃すら覚えていないというのはどういうわけなのだろう。
もしかしたら、とっくに身体は朽ちていて、魂だけが浮遊しているのかもしれない。それなら、糸が切れないのにも説明がつく。けれど、生きていようが死んでいようが、そんなことはどっちだっていい。
そろそろ、地上だ。
幾月振りの眩い光の中に、たった一つ、人影が見えた。
まあ、比喩ではないか。
日の光も届かないそこは、海溝の底となんら変わりが無くて、漂う泡沫も蒼よりかは藍。
いや、もっと。
藍よりも黒よりも暗い、完全な闇。
私も人間の子で、神話にある根の国の住人などでは決してないから、その暗闇に怖さを感じずにはいられなかった。
毎日のように怯えていた。
でも、人間の適応能力っていうものは凄い。ずっと暗闇の中で過ごすうちに、太陽がない恐怖にも、怯え続ける自分にも、慣れてしまった。
子供の頃。父から毬をプレゼントされたことがあった。やはり貰った時は子供ながらに、その丸い輪郭と土に弾む不思議な物体に驚いて、小突いて遊んでいるうちにだんだんと遊び方を覚えていって、随分と楽しんだものだったが、やがては飽きてしまって、いつしか毬は埃を被った。
思うに、恐怖とは驚きとなんら大差の無いものだ。そのどちらを沸き起こすのも、同じ未知なるものへの好奇心と抵抗感。新鮮さが失われれば、心に沸く感情は欠片も無くなる。
――私は少々永く生き過ぎた。
今は、谷の底に溜まった腐葉に身を横たえているだけで心地よい。
こうしてずっと安らいでいると、いつの間にか、見上げている先にナニかが表れたような気がした。
もう地上の様子も聞こえないから、ほんのちょっとの変化も随分巨大な事に感じるようになった。
どうやらそれは、一本の細い糸に、一本の銛がくくりつけられているらしい。真鍮製の尖った刃先が私の頭上を捉えている。
ぶらんぶらん。
ぶらん。
助けの糸であるはずがない。救出のためなら、もっと丈夫な紐を使ってもよいだろうに。絹よりも細い……まるで蜘蛛の糸じゃないか。
溺れる者は藁をも掴むと言うが、あいにく私は溺れてなどいないし、また助けも求めていない。いつ切れるかもわからない銛と糸に身を任せるなんて、しようとも思わない。
――ところが。
気づけば、私はその銛を掴んでいた。
ひんやりとした金属の感触がした。赤茶けた部分からは錆びの臭いがする。
ふと、手の平にぎざぎざとした抵抗感が伝った。なんだろうかと確かめて見れば――暗がりでほとんど何も見えないはずなのに――風化した銛の表面に、ナイフのようなもので、小さな文字が彫られていた。
私はそれを見て、小さく笑った。
私からの合図に気付いたのだろう。しばらくして、銛が徐々に上へと引き上げられていく。私の身体も少しずつ持ち上がる。
糸がぎしぎしと軋む。今にもふつりと切れてしまいそうだ。
谷の底がみるみる遠く離れていく。
私の心の中で、久しぶりにある感情が芽生えた。
――あの土に叩きつけられたら、きっと痛いだろうな。
そんな私の心配とは裏腹に、銛は一段一段確実に上へ上へと登っていく。
そういえば、谷底に堕ちた私はどうして生きているのだろう。条理を外れた身という意味ではなくて、単純な記憶――痛みの衝撃すら覚えていないというのはどういうわけなのだろう。
もしかしたら、とっくに身体は朽ちていて、魂だけが浮遊しているのかもしれない。それなら、糸が切れないのにも説明がつく。けれど、生きていようが死んでいようが、そんなことはどっちだっていい。
そろそろ、地上だ。
幾月振りの眩い光の中に、たった一つ、人影が見えた。