まだ未熟で幼かった私は、無邪気に手を伸ばしていた。
そっと合わさった手の平同士の温度の違いが不思議なぐらい楽しくて、きゃっきゃっと笑い、その大きな手に指を絡ませて遊んでいた。
『ねえ、水蜜お姉ちゃん』
『どうかした? 一輪ちゃん』
優しいけど、どこか不自然な、お姉さんぶろうとしているみたいな笑顔。
慣れない調子で、よく私の名を呼んで、抱き上げてくれた彼女。
ある日、聖が連れてきた船幽霊という種族らしい少女は、最初の内は塞ぎ込んでもいたけれど、日が経つにつれて、私の相手をしてくれる様になった。
強張っていた表情が次第に柔らかく、温度を感じられる様になったのが嬉しかった。
名を呼ぶと返してくれる声が、にこりと笑顔になるぐらい暖かいのが好きだった。
だから、私は彼女を姉だと慕って。
彼女も、私を妹だと大事にしてくれて。
その数十年は、とても幸せだった。
◇ ◇ ◇
くるりと砂時計を回して、ムラサが此方を振り返る。
物珍しそうに私の部屋を訪れたムラサは、ぼうっとしている私を一瞥して、そのままその小さな砂時計を持ってくる。
手の平に隠れるか隠れないかのそれは、古道具屋で見つけて、一目で気に入ってしまったものだ。
シンプルで飾り気のない、そういう形に好感を持った。
透明なガラスの中で、砂がサァと落ちていく。
「一輪はこういうの好きだよね」
「まあね。けっこう便利なのよそれ」
「うん。今度必要になったら貸してくれる?」
「ええ、構わないわ」
ムラサは砂時計をじいっと見つめながら、クッションを敷いて私の隣に座る。
こういう時は、ついつい砂時計の砂が流れ落ちるまで見てしまうのを、経験的に知っていたから、私はそんなムラサの横顔を何となくも眺める。
少女の横顔だと、そのまんまに思った。
「……」
意思の光で眩しくも暗くもなる、緑の瞳が印象的なぐらいで、それ意外は里の娘とあまり変わらない無垢な横顔。
可愛らしい顔立ちをしているのに、船長ですからと少しも女らしい事をしない、毎朝錨をぶんぶん振り回して、にかっと笑う白い歯とか。
ベッドに腰掛けて無意識に足をとんとんってする癖も変わっていない。
変わらないぐらい、変われない。
「……」
どうしてか見ていられなくなり、気まずく目を逸らしたのに、頬に指先で触れると少し熱を帯びていた。
と。ムラサの手の平の感触。
さわさわ。
っ。
たぶん、無意識の行動なのだろう。
頭巾越しに、彼女の手の平が、まるであやすように私の頭をなでている。
「……ちょっと、ムラサ」
「んー?」
「……いえ、いいのだけど」
とりあえず小さく抗議しようとするが、ムラサは手の中の砂時計の、サラサラのお砂に夢中になっている。
触れてみたら柔らかそうにも感じるそれに、かつていた海の砂浜でも連想しているのか、とにかくジッと見ていて、邪魔しては悪い気がしてしまう。
「……ん」
しょうがないので頭巾を脱ぐ。
頭巾越しに撫でられ続けてはくすぐったいし、どうにも居心地が悪い。
そうすると、直にムラサの手の平が髪をかき混ぜて、それを敏感な頭皮で感じて、ちりちりと懐かしい気持ちが湧き上がってくる。
というか、ムラサには口を酸っぱくして、私は頭を撫でられるとくすぐったくてむずむずすると訴えているのだが、こうやって気が向くと頭を撫でてくる癖? を改善する様子はない。
「……もう」
いや、私も本気で止めて欲しいと思っている訳ではないけれど、二人きり以外の時でやられると、変な声が出てしまうので、やっぱり出来る限りは止めて欲しいというのが本音。
「……ぅん」
くしゃくしゃって撫でられる度に、何だかぞくぞくと背中にくるものがあって、つい漏れそうになった声を呑む。
頭を洗う時の自分の指ですら敏感に感じすぎて少し困るのは、やはりおかしいのではと昔ムラサに相談すると、ムラサは笑って「可愛いからいいと思うよ」なんて適当に答えてくれた。
私は、もっと真面目に考えてくれてもいいのにとふくれて、でも可愛いのならいいかもしれない、なんて納得もした。でも、その後にムラサはすぐに姐さんにお願いして頭巾を貰い、それを私に渡してくれた。
『ほら、これなら、怒られて拳骨されたり、虫が落ちてきたりしても痛すぎたりくすぐったすぎたりしないよ』
そう言ってにこっと笑うムラサを見上げて、私はきょとんとして、とりあえず被ってみたら「うん可愛い」って言われて、自分ではおかしいのではないかと不安だったのに、その言葉だけで安堵して、それからずっと頭巾を被っている。
姐さんたちも「一輪はくすぐったがりなのね」って、無闇に頭を撫でるのを止めてくれた。
まあ、ほんの少しだけそれは寂しかったりもしたのだけれど、ムラサだけはそういう気遣いはちっとも見せずに、くしゃくしゃくしゃくしゃと、私が顔を真っ赤にしても撫でてくるので、そういう寂しさもすぐに薄れた。
「……って、何を思い出しているのよ、私は」
少し、赤面しながら自己嫌悪。
おかしい、というか。
今日はどうにも、昔の事をよく思い出す。
ムラサはそんな私に気づかずに、何やら先ほどよりも真剣に砂時計を見つめていた。
くるんと一回転させては、砂の落ちる光景に魅入っているみたいだ。
くしゃくしゃと、髪の中に指を入れて、直接頭皮をなぞられる。
「ひゃっ」って、ぎゅっと両手で服を掴み、体が丸まりそうになるのに耐えて、恨めしげにムラサの器用な指に噛み付いてやりたくなる。
そうだ。私は頭が弱いけれど、そんなムラサは指が弱い。
元から器用なのか、指を好き勝手に動かせるムラサは、とある宴会の時に、メイド長とやらが見せた、小さなボールを指だけで生き物の様に動かすというその技を、少しの教えで実践できてしまい、聖に褒め られて照れていた。
だからだろうか、指をちょっと切るだけでもかなり痛がり、噛み付くと悲鳴をあげて、舐められると顔を真っ赤にする。
……いえ、勿論噛んだのも舐めたのも私ではなく、散歩中だった近所のわんちゃんだけれどね。
まあ、一度ぐらい噛んだりしてみたいと心に思いながらも、実践する機会のなかった今、このタイミングに仕返しみたいに噛み付いてみようかしら、と計画して。
くしゃくしゃ、くいくい、くるくる、と。
撫でられて、引っ張られて、指に巻きつけられて、腰から力が抜けてきて、呼吸すら気づけば乱れている私には、たぶん実践できそうに無い。
……というか、私ってば本当に弱すぎじゃないか?
「あ、ぁの、むらさ?」
気づいたら声すら震えかけていて、慌てて引き締める。けど、ちょっと涙目かもしれない。
他の誰か、例えば姐さんに触られても、そこそこに平気なのだが、ムラサは駄目なのだ。
ムラサの、器用な指で微妙な強弱をつけて触られると、じりじりと追い詰められている気持ちにさせられて、それがそう不快でもないから抵抗も出来ずに、私はムラサに小さく声をかけるしか出来ない。
そんな追い詰められている私に、彼女は「うーん?」と酷く緩慢に、くいいっと私の髪を引っ張りながら返事をした。
「ひゃう?!」
「……へ?」
変な声が大きくでて、ようやくムラサがこちらを向いた。きょとんとしているけどどこか驚きを含んだその顔に、先程と違う意味で顔が更に熱くなる。
「どしたの? 変な声出しちゃって」
「あな、たが、髪を引っ張るからよ……! ばか」
とりあえず理不尽なのでほっぺを引っ張ってやると、ムラサはようやく自分の片手が何をしていたのかを自覚して「ありゃ」と酷くのんびりとした声を出した。
いえ、ほっぺを引っ張られているから、変な声しか出せないのはわかるのだけれど、どうにも予想よりも反応が薄くてむっとしてしまう。
「あれ? どうして頭巾を脱いでるの?」
「……いや、そこなの? って、ん、だって撫でるのに邪魔そうだったから」
「え? それはありがとう?」
「……いや、疑問系でお礼を言われても」
私としても困るというか、そんなにびっくりして首を傾げてどうなってるの? って感じだと、いまだに髪が指に巻きついているのに、怒るに怒れなくなってしまう。
「……えっと、髪がいつも綺麗だよね」
「……いえ、思い出しように褒められても困るわよ? というか、早く離してよ」
切実に訴える。何が切実なのかは聞かれても説明しにくいけれど、もうけっこう限界なのだ。
すると、ムラサはどうした事なのか、とても変な顔をして、自分の指と私の顔を交互に見ている。もう片手にもった砂時計の事すら、今は意識にあるか怪しかった。
「……あー、言いにくいのだけれど、あのね一輪」
「なに……?」
「……指が、けっこう強く絡まっているみたいで、簡単に取れそうにない」
「は?」
お互いに、唖然として見詰め合う。
よくよく見ると、ムラサの顔は僅かに赤い。
「……っていうか、一輪の髪、ちょっと強く絡まってるみたいで、その、むずむずして引っ張りたいの我慢してる」
「…………」
だから、貴方の敏感な所は指で、私が弱い所は頭で。
お互い、本当に困りきった顔で、なのに頬は赤いままに見詰め合ってしまう。
「ど、どうしよう?」
「知らないわよ、馬鹿!」
「いや、ごめんなさい」
どう考えてもムラサが悪い、とじと目で睨むと、ムラサはすぐさま謝って、誤魔化すみたいに笑うけれど逆効果。
今までの事もあってムッとしたので、ムラサから砂時計を奪い取り、丁寧に床に置いてから、空いた片手をぎゅうっと摘んだ。
あいたっ?! と叫ぶ悲鳴に、僅かに心がすっとしたのも束の間、絡まった指をぎゅっと反射で握られてしまい、私の髪は軽く引っ張られ、きゃわ?! なんて悲鳴を上げてしまって。
……結局、お互い暫く痛みとか別なものとかで、痙攣してしまった。
◇ ◇ ◇
大きな手だねって、私はよく言っていた。
そうかな? って、彼女はいつもそう返していた。
実際、当時の私にはムラサの手は本当に大きかったのだ。
寺が雨漏りすれば、器用に修繕するムラサが格好良かったし、竹とんぼとかも一本のナイフですいすいっと作ってくれた。お手玉は何だかへたくそだったけど、笹の葉で船を作るのも折り紙でお馬さんを作るのも上手で綺麗で、私はムラサの手はすっごいといつも思っていた。
だからだろうか?
ふと、ある時に、お昼寝しているムラサの手を持って、久しぶりにと照れながらも手を合わせて、その手が、以前よりも大きく感じない事に、あそこまで愕然としてしまったのは。
『……え?』
無意識に弾かれる様に顔をあげると、そこには見知った大きな柱。それには随分前から私の身長を測りナイフで削っていった成長の痕跡があり。
私は、いつの間にかムラサの腰ぐらいしかなかったのに、今では胸ぐらいまで背が伸びていると、成長しているというそれを、
今まで知っていたのに知らなかったみたいに、ことさら、重く鈍く、ギシリと音がなるぐらいに、確かな自覚となって私の中で変な感触を生んだ。
『……あ』
そして気づいた。
私は、どうしてか深く考えもせずに、ムラサも私と同じように成長していくのだと信じていた事に。
私は、私の身長が伸びるたびに喜んでくれる皆と、ムラサの笑顔が少し違う事の意味を知らなかった事に。
私は、ムラサがどうしてただの手合わせをあんまりしてくれなくなったのか、ようやく、悲しくも理解した。
きっと。その時私の胸を襲ったのは、深い寂寥感で。
ただただ、変わるものは怖いのだと、心が騒いだ。
でも、その次に生まれたのは、変わったからこそ感じられた新しい感情で。
彼女は、いつまでもこのままで、私は変わっていくのだという、残酷で確かな未来と。
急に、もろくみえた、私の『水蜜お姉ちゃん』
溶けて消えてなくなりそうで、怖くなって、私は寝ている彼女に抱きついた。
寝ぼけて驚く彼女に、何も言わずに抱きついて、ぽろぽろとこれ以上ないぐらいに泣いた。
それがきっと始まり。
私が、彼女を『水蜜お姉ちゃん』以外で意識して、守りたいと願った。変化の最初の一歩。
◇ ◇ ◇
「ムラサ、痛いわ」
「ごめん、待って、頑張ってるから」
ちくちくしてぞくぞく。
何だかさっきから腕にすら力が入らなくなりそうで、赤い顔のままムラサに文句を言うが、ムラサは真剣に、かつ丁寧に、一本一本の髪を傷め無い様に細心の注意をこめて、ゆっくりと指に絡まった髪をほどいていた。
「もう、ちぎっちゃっていいから……!」
「駄目。せっかく綺麗なのに勿体無いから」
「き、れいって、姐さんの方が綺麗よ」
「うん。聖も綺麗。でも一輪も綺麗」
何だか集中しているからか、どこか適当なのに熱っぽく言われて、私は口をつぐみながら、ムラサが作業しやすいように、ムラサにぴったりくっついて、静かに変な声をあげそうな唇を閉ざしていた。
いろいろと、恨めしくなる。
こういう時は、やっぱりムラサは昔のままに『水蜜お姉ちゃん』で。
今では、私のほうが姉に見えるぐらい、身長だって伸びたし、面倒見だってそれなりにあるって言われるし、料理だって掃除だって、ムラサに負けないぐらいになったのに。
どうしてこんな理不尽に、私はやっぱり彼女に勝てないみたい、なんて思わなくてはいけないのだろう?
「ムラサの馬鹿」
「うん。ごめん」
……打てば返る、あんまりにも心がこもってない謝罪。
やっぱり苛立って、いつもはこうでもないのに、ムラサの前だと不意に『一輪ちゃん』って呼ばれていた頃みたいに、我侭をぶつけてしまいたくなる。
そんな衝動を、今は抑える意味が見いだせずに、ついムラサにイライラをぶつける。
この状況と、そして全然関係ないジレンマとかを、ない交ぜにして。
「もう、ムラサの不器用」
「うん。すいません」
「まだ解けないの? 鋏で切っていいって言ってるのに!」
「うん駄目。もうちょっと。我慢しててね」
「……いいわよ。ムラサだって、指が痛いでしょう?」
「うん痛い。痺れて変に感じてる」
「はっ? え、ええ、そう。……ねえムラサ」
「うん。何?」
一瞬の間。
それを意識して、私は彼女の真剣な緑の瞳を見上げる。
あの頃みたいだと、戻らない時を感じながら……
「……キス、してもいい?」
「……うん、いいよ」
不自然だね。
って、何でもないのに泣きそうになった。
なんで断らないのよ、って小さく拗ねながら。
―――――。
そして、びっくりしたって、ムラサは言った。
急に口を塞いだら駄目だよ一輪ちゃん、って。冗談みたいに。
頬も赤く、瞳も潤んで、ようやく開放された指を頬より赤くして、彼女は唇を押さえる。
だから私は、悲しくもないのに泣きそうになって、小さく笑う。
別にいいでしょう、水蜜お姉ちゃん。って。
―――好きだから、って。
すると、ムラサは目を丸くして赤くなり、すぐに、どこか拗ねた顔をした。
だめだよ。って
そういうのは、お姉ちゃんから言わせるものだよ一輪ちゃん。なんて。
とてもとても、ずるい台詞を言ったのだ。
床に転がった砂時計の砂は、とっくに止まって歪な山を作っていた。
とても甘くていいお話です。
一輪が小さい頃から相思相愛なのはよく分かったwセリフずるすぎ同意w
頭撫でられるのが弱い一輪さんと指が弱い船長という設定は流行れ!いや流行って下さいお願いします!
夏の暑さのお陰かと思うとこの暑さに苛々しなくなりましたわ。
相思相愛なムラ一最高です。
一輪さん可愛すぎて死にました