早朝、妖怪の山。
川べり。
「ん……」
椛は眉をひそめた。
「……」
視線の先には、こちらと同じように、眉をひそめてこちらを見ている文がいる。川原の砂利のうえに置いた腰掛に、裸の尻を乗せている。
どうやら頭を洗っていたようだ。泡だった頭に指を乗せたまま、こちらを見ている。
「……」
「……」
(……ちっ)
椛は心の中で舌打ちした。ちょうど、起き抜けに、朝の水浴びをしようとやってきたところだったのだ。
(ついていない)
椛はぶつぶつと呟いた。なにやら、いやな奴と顔をあわせてしまったと、あからさまにいやな顔をしてみせる。
もっとも、ここは、天狗の間では共同の洗い場として使われているところなので、仕方がないといえば仕方ないことだった。文は、山の実力者として名高い輩だが、そういうことは関係なしに、自分の好むところを利用している輩でもある。
普通は上級天狗の連中はこんなところを利用しない。だが、この文はこういうところにも、ほいほいやってくるような輩なのだ。
(邪魔臭いな、くそ……)
椛はぶつぶつと思いつつ、川辺に近よっていった。いつもどおり、竹篭を置き、文には一言も挨拶をせずに、さっさと衣服を脱ぎ始める。
簡素な構造をした服を脱ぎ捨てて、肌をさらすと、川辺の清涼な空気が、肌にからみついてくる。椛は脱いだ服を少し嗅いだ。
(ふむ)
昨日の寝苦しい夜のせいで、汗まみれになった服は、やはり多少匂うようだ。ついでに洗っていこう。
椛は思いつつ、脱ぎ捨てた衣服を適当にまとめて竹篭に入れ、川の方へと近づく。川のすぐ近くには、腰掛とブリキの洗面器が、幾つもつんである置き場があり、すぐ脇には、洗濯板や、洗い物のための道具なども置いてある。
椛は、そこから、腰掛と洗面器をひとつづつ持ちだすと、文のいる三歩ほども隣へとやってきて、持ってきた道具を置いた。よいしょ、と腰掛に裸の尻を下ろすと、洗面器に川の水を蓄える。
用意を終えると持ってきた自前の石鹸をあわ立てて、身体を洗い始める。ふと、目の端でちらりと文を見ると、全くの無言で黙々と頭を洗っていた。
(やけに念入りだな……)
などと、椛はちょっと妙に感じつつも、気にせずに目をそらした。さっさと身体を洗い終えると、水で流して、今度は頭のほうに取り掛かる。
石鹸をあわ立てて、わしゃわしゃと指で頭皮を刺激する。椛は元が狼であるから、自分の毛を洗うのは、好きなほうである。
(ん?)
塗らした髪をあわ立てていると、ふと、こつり、と頭に軽い衝撃が走った。ちょっと眉をひそめていると、続けざまに、もう一度、こつり、と何かが頭に当たる。
「……」
椛は、手を止めて顔を上げた。あたりに目をやるが、とくに変わった様子はない。
(小石……か?)
椛は思いつつ、眉をひそめた。ふと、文のほうに目をやる。
文は、さっき見たときと変わらず、黙々と頭を洗う手を動かしている。こちらを見ている気配はないし、動いたような気配もない。
「……」
椛は、なんとなく黙り込みつつも、文から目をそらした。また頭を洗うため、わしゃわしゃと髪に絡めた手を動かす。
すると、またこつ、と頭に軽い衝撃が返った。さらに、続けざまにもうひとつこつり、と返る。
「……」
椛はばっと顔を上げた。文のほうを見る。
文は変わらず頭を洗っている。椛は眉をひそめた。
「……。おい」
「あん?」
文は声をかけられると、すぐに返事を返してきた。頭を洗う手は止めていない。
椛はじろりと見つつ聞いた。
「何をするんだ」
「何ってなによ。何もしてないけれど」
「嘘をつけよ。石を投げただろ、今」
「ああん? なに言っているのよ。だいたい、今、両手がふさがってるっていうのに、どうやって石なんか投げるのよ。変ないいがかりをつけないでくれない?」
「おい、白々しいことを言うなよ。お前のせこい芸当をもってすればそんなのは――」
「知らないわよ。証拠もないのにうたがうのはやめてくれませんかね迷惑なんですけど」
「いきなり丁寧語になるな。馬鹿にしてるのか?」
「してませんよ。そんな暇じゃないもの」
文はそっけなく言った。ちょっと眉をひそめながら、頭を下げて耳の後ろを洗っている。
椛はしばらく文をじっとりと見ていたが、やがて小さく舌打ちをして、また頭を洗い始めた。
(くそ)
椛は毒づいた。すると、こつ、と頭に何かが当たった。
「……」
眉をひそめていると、さらにこつ、ともうひとつ。
「……」
椛は手を止めて、ばっと文を見た。文は、ちょうど頭の右脇を念入りに掻いているところだ。
「……」
「……」
「……」
椛は眉をしかめつつ、文から目を離した。今度は、若干そうっと腕を上げる。
わしゃわしゃと指を動かしはじめる。すると、ほどなくして、こつ、と頭に何かが当たった。続けてもうひとつ。
(こんの――)
椛はさすがに堪忍袋の尾を切って、文をにらみつけようとした。が、その瞬間、くわん!! と、なにか頭の横で音が鳴った。
(おう)
がらん、くわんくわんくわん、と足元で音が鳴る。椛は一瞬、頭が揺すられて、目の前に火花が散るのを見た。衝撃から一拍遅れて、じわんという激痛がやってくる。
(ぐぬうぉつ)
椛は、一瞬何が起こったのか、理解しそこねた。頭を押さえつつ、ちょっと涙のにじんだ目で足元を見下ろす。
すると、ブリキの洗面器が、砂利じきの川原に丸ごとひとつ転がっていた。間違いなく頭を直撃したのはこれだ。
(このやろう)
椛は、さすがにぎろりと文をにらんだ。文はどこ吹く風で頭を洗い続けている。
思わず、こっちもなにか投げ返してやろうかと、ブリキの洗面器に目をやるが、ふと思い直した。しばし、文をにらんでから目をそらして、また頭を洗いはじめるようにして、腕を上げる。
と、そこから不意に椛は、さっと顔を戻した。きっと文の姿を目に入れる。
「――あ」
文はちょうど握り拳ほどの大きさの石を拾い上げ、こちらに振りかぶっているところだった。ちょっと口を開いた顔でこちらを見ている。
「くおらああああああ!!」
椛は怒鳴ると、すばやく走り出した。そのときには文はとっくに立って、自分の服を抱え上げて走り出していた。
「待てえ!!」
「おおこわいこわい」
文は言いつつ、そのまま猛烈な勢いで走り出す。椛も手ぬぐい一枚引っさげると、自分の剣を取って、文を追い始めた。
「うおっと! え? なに?」
途中、すれ違ったはたてが、驚いた声を上げる。ちょうど水浴びに来たらしい。
椛は、それにいっさい構わずに、目の前の羽を広げた烏天狗の後を追った。
「待てこらああ!!」
「おおおそいおそい」
「今日という今日は許さないわよ!! そこに直れ、斬り捨ててくれる、このお山の恥が!」
「そうですか。おおよわいよわい」
「馬鹿にすんなこらああああ!!」
「おっと惜しかったな犬走……おまえがそろそろ背後から駆け込んで抜剣してくる頃と思っていたぞ……ほんの一瞬……あとほんのチョッピリ力をこめるだけでこの脳組織をかきまわして破壊できたのにな……」
「ぬぅおおおおおおおお!!」
椛の怒声が、夏の朝に大きく響き渡る。切り倒された木が、次々と地響きを上げて倒れ付していく。
騒動は、やがて、だんだんと遠ざかっていった。あたりには、烏の羽音と小鳥のさえずりと蝉の声が聞こえるようになってくる。
「……」
立ち止まって、呆然とそれをながめていたはたては、しばしあっけにとられてからやがてあきらめたようだった。とりあえず、自分の水浴びを済ましてしまうことにして、ぱたぱたと襟を仰ぐ。
向こうで立派な杉の大木が、また一本切り倒される音がした。鳥がばさばさと飛び立つ音が響き、蝉の声がしーわしーわと降り注いでくる。
「まあ、夏だしねー……」
はたてはぼそりと言った。じわじわと染み付くような暑さが肌にねっとりと絡み付いてきていた。
霧が薄れ、山の気温は今日も上がり始めているようだった。
川べり。
「ん……」
椛は眉をひそめた。
「……」
視線の先には、こちらと同じように、眉をひそめてこちらを見ている文がいる。川原の砂利のうえに置いた腰掛に、裸の尻を乗せている。
どうやら頭を洗っていたようだ。泡だった頭に指を乗せたまま、こちらを見ている。
「……」
「……」
(……ちっ)
椛は心の中で舌打ちした。ちょうど、起き抜けに、朝の水浴びをしようとやってきたところだったのだ。
(ついていない)
椛はぶつぶつと呟いた。なにやら、いやな奴と顔をあわせてしまったと、あからさまにいやな顔をしてみせる。
もっとも、ここは、天狗の間では共同の洗い場として使われているところなので、仕方がないといえば仕方ないことだった。文は、山の実力者として名高い輩だが、そういうことは関係なしに、自分の好むところを利用している輩でもある。
普通は上級天狗の連中はこんなところを利用しない。だが、この文はこういうところにも、ほいほいやってくるような輩なのだ。
(邪魔臭いな、くそ……)
椛はぶつぶつと思いつつ、川辺に近よっていった。いつもどおり、竹篭を置き、文には一言も挨拶をせずに、さっさと衣服を脱ぎ始める。
簡素な構造をした服を脱ぎ捨てて、肌をさらすと、川辺の清涼な空気が、肌にからみついてくる。椛は脱いだ服を少し嗅いだ。
(ふむ)
昨日の寝苦しい夜のせいで、汗まみれになった服は、やはり多少匂うようだ。ついでに洗っていこう。
椛は思いつつ、脱ぎ捨てた衣服を適当にまとめて竹篭に入れ、川の方へと近づく。川のすぐ近くには、腰掛とブリキの洗面器が、幾つもつんである置き場があり、すぐ脇には、洗濯板や、洗い物のための道具なども置いてある。
椛は、そこから、腰掛と洗面器をひとつづつ持ちだすと、文のいる三歩ほども隣へとやってきて、持ってきた道具を置いた。よいしょ、と腰掛に裸の尻を下ろすと、洗面器に川の水を蓄える。
用意を終えると持ってきた自前の石鹸をあわ立てて、身体を洗い始める。ふと、目の端でちらりと文を見ると、全くの無言で黙々と頭を洗っていた。
(やけに念入りだな……)
などと、椛はちょっと妙に感じつつも、気にせずに目をそらした。さっさと身体を洗い終えると、水で流して、今度は頭のほうに取り掛かる。
石鹸をあわ立てて、わしゃわしゃと指で頭皮を刺激する。椛は元が狼であるから、自分の毛を洗うのは、好きなほうである。
(ん?)
塗らした髪をあわ立てていると、ふと、こつり、と頭に軽い衝撃が走った。ちょっと眉をひそめていると、続けざまに、もう一度、こつり、と何かが頭に当たる。
「……」
椛は、手を止めて顔を上げた。あたりに目をやるが、とくに変わった様子はない。
(小石……か?)
椛は思いつつ、眉をひそめた。ふと、文のほうに目をやる。
文は、さっき見たときと変わらず、黙々と頭を洗う手を動かしている。こちらを見ている気配はないし、動いたような気配もない。
「……」
椛は、なんとなく黙り込みつつも、文から目をそらした。また頭を洗うため、わしゃわしゃと髪に絡めた手を動かす。
すると、またこつ、と頭に軽い衝撃が返った。さらに、続けざまにもうひとつこつり、と返る。
「……」
椛はばっと顔を上げた。文のほうを見る。
文は変わらず頭を洗っている。椛は眉をひそめた。
「……。おい」
「あん?」
文は声をかけられると、すぐに返事を返してきた。頭を洗う手は止めていない。
椛はじろりと見つつ聞いた。
「何をするんだ」
「何ってなによ。何もしてないけれど」
「嘘をつけよ。石を投げただろ、今」
「ああん? なに言っているのよ。だいたい、今、両手がふさがってるっていうのに、どうやって石なんか投げるのよ。変ないいがかりをつけないでくれない?」
「おい、白々しいことを言うなよ。お前のせこい芸当をもってすればそんなのは――」
「知らないわよ。証拠もないのにうたがうのはやめてくれませんかね迷惑なんですけど」
「いきなり丁寧語になるな。馬鹿にしてるのか?」
「してませんよ。そんな暇じゃないもの」
文はそっけなく言った。ちょっと眉をひそめながら、頭を下げて耳の後ろを洗っている。
椛はしばらく文をじっとりと見ていたが、やがて小さく舌打ちをして、また頭を洗い始めた。
(くそ)
椛は毒づいた。すると、こつ、と頭に何かが当たった。
「……」
眉をひそめていると、さらにこつ、ともうひとつ。
「……」
椛は手を止めて、ばっと文を見た。文は、ちょうど頭の右脇を念入りに掻いているところだ。
「……」
「……」
「……」
椛は眉をしかめつつ、文から目を離した。今度は、若干そうっと腕を上げる。
わしゃわしゃと指を動かしはじめる。すると、ほどなくして、こつ、と頭に何かが当たった。続けてもうひとつ。
(こんの――)
椛はさすがに堪忍袋の尾を切って、文をにらみつけようとした。が、その瞬間、くわん!! と、なにか頭の横で音が鳴った。
(おう)
がらん、くわんくわんくわん、と足元で音が鳴る。椛は一瞬、頭が揺すられて、目の前に火花が散るのを見た。衝撃から一拍遅れて、じわんという激痛がやってくる。
(ぐぬうぉつ)
椛は、一瞬何が起こったのか、理解しそこねた。頭を押さえつつ、ちょっと涙のにじんだ目で足元を見下ろす。
すると、ブリキの洗面器が、砂利じきの川原に丸ごとひとつ転がっていた。間違いなく頭を直撃したのはこれだ。
(このやろう)
椛は、さすがにぎろりと文をにらんだ。文はどこ吹く風で頭を洗い続けている。
思わず、こっちもなにか投げ返してやろうかと、ブリキの洗面器に目をやるが、ふと思い直した。しばし、文をにらんでから目をそらして、また頭を洗いはじめるようにして、腕を上げる。
と、そこから不意に椛は、さっと顔を戻した。きっと文の姿を目に入れる。
「――あ」
文はちょうど握り拳ほどの大きさの石を拾い上げ、こちらに振りかぶっているところだった。ちょっと口を開いた顔でこちらを見ている。
「くおらああああああ!!」
椛は怒鳴ると、すばやく走り出した。そのときには文はとっくに立って、自分の服を抱え上げて走り出していた。
「待てえ!!」
「おおこわいこわい」
文は言いつつ、そのまま猛烈な勢いで走り出す。椛も手ぬぐい一枚引っさげると、自分の剣を取って、文を追い始めた。
「うおっと! え? なに?」
途中、すれ違ったはたてが、驚いた声を上げる。ちょうど水浴びに来たらしい。
椛は、それにいっさい構わずに、目の前の羽を広げた烏天狗の後を追った。
「待てこらああ!!」
「おおおそいおそい」
「今日という今日は許さないわよ!! そこに直れ、斬り捨ててくれる、このお山の恥が!」
「そうですか。おおよわいよわい」
「馬鹿にすんなこらああああ!!」
「おっと惜しかったな犬走……おまえがそろそろ背後から駆け込んで抜剣してくる頃と思っていたぞ……ほんの一瞬……あとほんのチョッピリ力をこめるだけでこの脳組織をかきまわして破壊できたのにな……」
「ぬぅおおおおおおおお!!」
椛の怒声が、夏の朝に大きく響き渡る。切り倒された木が、次々と地響きを上げて倒れ付していく。
騒動は、やがて、だんだんと遠ざかっていった。あたりには、烏の羽音と小鳥のさえずりと蝉の声が聞こえるようになってくる。
「……」
立ち止まって、呆然とそれをながめていたはたては、しばしあっけにとられてからやがてあきらめたようだった。とりあえず、自分の水浴びを済ましてしまうことにして、ぱたぱたと襟を仰ぐ。
向こうで立派な杉の大木が、また一本切り倒される音がした。鳥がばさばさと飛び立つ音が響き、蝉の声がしーわしーわと降り注いでくる。
「まあ、夏だしねー……」
はたてはぼそりと言った。じわじわと染み付くような暑さが肌にねっとりと絡み付いてきていた。
霧が薄れ、山の気温は今日も上がり始めているようだった。