「あら、イナバ。もう寝るの?」
にっこりと満面の笑みを浮かべた輝夜に鈴仙は声をかけられた。
鈴仙は風呂上がり。長い髪も乾かし終わり、なかなか言うことを聞こうとしない幼い妖怪兎たちを寝かしつけて、自らの部屋へと向かう途中だった。
本来は永琳や輝夜のいるはずのない従者のためのスペースである。それなのにもかかわらず。ひょっこりと暗い廊下の奥から姿を現した輝夜に、慌ててしまう。
そもそも不意打ちであり、あとはもう眠るだけ、と気が抜けていたのだ。服装も主に会うにはふさわしくない薄桃色のパジャマで、どうにも落ちつかない。そんなことを気にするような輝夜ではないことぐらい分かってはいるのだけれど、月でそのあたりの上官に対する礼儀は叩きこまれているから。
「明日は私が朝食当番なんです」
だから、早起きしなくちゃいけなくって。
あ、明日はなんて言いましたけど、てゐはいっつもサボるから、結局私が作ってるので、いつもどおりなんですけどね。
すっかり動転した鈴仙は、やや早口で言葉を紡ぐ。あわあわとした様子がおかしかったのか、輝夜は話を聞きながら、くすり、と笑う。お姫様らしく口元を袖口で隠すようにして、上品に笑う。満月のようにまんまるい窓から降り注ぐ半月と星々の光だけに照らされた薄暗い廊下では、お互いの表情も昼日中のようには分からないのだけれど、気配やおおまかな仕草だけで、どんな顔をしているのか分かる。
「大変ね」
「本当ですよー」
本当にてゐときたら、と、鈴仙はがくりと肩を落とす。そんな様子を感じ取ったのか、なおさら楽しそうにしている輝夜。
「でも、それでこそあの子よね。とってもらしいわ」
「そんなぁ」
「あ、でも、知ってる? あの子あれで、料理得意なのよ?」
「ええ?」
「前におはぎを作ってくれたことがあったんだけど、とってもおいしかったもの」
「本当ですかー?」
「本当よ? あ、ねえ、イナバ、明日おはぎが食べたいわ」
「まだ夏になったばかりですか。季節外れにもほどがありますよ」
「じゃあ、ぼたもちでいいわ」
「それは春じゃ」
他に誰もいないというのに内緒話のように小さな声で語る主に、鈴仙も知らず知らずのうちに微笑んでいる。いつもどおりの気ままで無邪気な輝夜と話しているうちに、肩の力もいつの間にか抜けていて。
「食べたいの、ダメ?」
「……」
両手を胸の前で合わせて、美髪をさらりと揺らして小首を傾げる。
いつも通りのおねだり、のポーズだ。こんな顔をされては、どうにも断るわけにはいかないような気がしてくるのである。
師匠だって敵わないんだから、しかたないよね、と自分に言い聞かせて、鈴仙は首を縦に振ることに決めた。
「……分かりました。確か、小豆ももち米もまだ残ってましたから、多分大丈夫です」
「ふふっ、ありがとう、イナバ」
ぱあっと、花が咲くような、満面の笑み。ずいぶんと長い年月を、鈴仙にはとても考えもつかないほど長い時を生きているというのに、いつまで経っても無邪気な子供のような笑顔だ。薄暗がりの中では、それもぼんやりとしているのだけれど、それでもなぜかドキドキしてしまう。
「ふふ、じゃあ、今日はしっかり寝ないとね?」
「輝夜様?」
にっこりとした笑顔は変わらないまま、しかし、大きな瞳にきらきらといたずらっぽい光が宿る。何とはなしに嫌な予感を感じた鈴仙だったのだが、輝夜の方が動きは速かった。
「イーナバ」
「ちょっ、ひ、姫様っ」
輝夜のひんやりとした細い指が、鈴仙の頬にそっと添えられ。
僅かな光にもきらめく艶のある黒髪が近づいてきて。
ふわり、とお香のような甘いいい香りが鈴仙の鼻をくすぐった。
ちゅ、と。
輝夜は鈴仙の頬に口付けた。
ただ、柔らかな唇が触れて、離れた、それだけのこと。まるで音を立てることもなく、静かに、ひそやかに、すみやかに。
けれど、まったく想定外のその行動は、鈴仙の顔を真っ赤に染め上げ、まともに受け答えができない程度に思考を奪うだけの威力があった。
「あ、ひ、うあ、え? 姫、さま?」
本当にまだ喋ることのできない赤ちゃんのように、あうあう、と言葉に詰まる鈴仙。
何が起こったのか一瞬理解できなくて、しかし、理解するなり、顔が暑くてしかたがない。腰が抜けてしまいそうになるのを必死にこらえながら、うわ言のように呟く。
言いたいことも、聞きたいことも、あるのに言葉にならない。
ちらり、と視線を向けた先にいた輝夜は、やはり平然として、楽しそうな笑みを浮かべている。
そうして、ぴんとまっすぐに伸ばした人差し指を口元に当てて、得意げに、しかし、内緒話のように、こっそりと呟いたのだった。
「よく眠れるおまじない、よ」
それじゃあ、おやすみなさい、イナバ。おはぎ、楽しみにしてるわね。
それだけ言い残すと、現れた時と同じように音もなく、輝夜は去っていった。
暗闇の中に紛れて揺れる黒髪と、ぼんやりと遠ざかっていく薄桃色を眺めながら、ずるずるとへたり込んだ鈴仙は、なぜだか震える声で小さく呟く。
「こ、こんなの……」
あったかで、柔らかくて、いい匂いがして。ありありと頭の中に、浮かぶ先ほどの光景に、ぎゅうっと目をつぶって。首を横に振る。へにょりとした耳がそれに従って、ぶらぶらと揺れる。
無意識のうちに、口づけられたほうの頬に手を添えて。
「逆に、眠れませんって……」
「鈴仙? どったの、そんなとこでヘタって」
それから、どれほどの時が経っただろうか。結局、腰が抜けてしまって、暑い頬が冷えるまでそこにいた鈴仙に声をかけたのはてゐだった。
夏の寝巻き代わりにドロワーズとスリップドレスだけを身にまとったてゐは、珍しくも怪訝そうに首を傾げる。
「てゐ……」
どうにか冷静な思考を取り戻していた鈴仙は、疲れた声でそれに答える。
あんな風にキスをされたのはじめてだったから、取り乱してしまったけれど、いつもの気まぐれに違いない。それが嫌だとは思わないのだけれど、どうにも慣れない。
今、あった出来事をつっかえつっかえに話せば、腕組みをしたてゐは、わざとらしく大仰な動作で、うんうん、と頷く。
そうして、話が終わる頃。けろりとした表情で言う。
「ああ、それなら、私もしてもらったよ?」
「てゐも?」
「今度は、人形遣いに影響されたみたいでさ」
同じように、よく眠れるおまじない、と言って、てゐも頬にキスをされたらしい。
しかし、そこはてゐだ。鈴仙よりもずっと年上であるだけあって、そうそう簡単には動じない。何事もなかったかのように、輝夜におまじないをどこで聞いたのか、なんて話を続けてしたのだという。
「なんか、西洋の方の文化らしいよ。挨拶代わりの口付けって」
「あ、そういえば、聞いたことあるかも」
「でさ。アリスにしてもらって、嬉しかったらしくて」
意外でもなんでもないが、輝夜はスキンシップを好んでいる。
そういうところも月で暮らしていくことを厭わせた原因の一つなのかもしれないが、しばしば、人にくっつきたがる。
鈴仙やてゐはよく撫でられたり、抱きしめられたりする。膝枕や手をつなぐことも少なくない。もはや夫婦のような関係の永琳とは言わずもがなだ。
そんな輝夜が、挨拶のキスを好むのも何も不思議ではない。
「なるほどね、姫様らしいわ」
「でしょ?」
「ほんっとにびっくりしたぁ」
それを知ってしまえば、安心だ。うろたえてしまった自分がおかしくて、鈴仙は笑う。緊張がとけて、なぜだか今は楽しくてしかたがない。
ひとりでけらけらと笑う鈴仙を、しかたないなあ、というようにお姉さんの顔をして眺めていたてゐは不意に、いいことを思いつく。
可愛らしい妹分を、可愛がってあげる悪戯。
「ね、ね、鈴仙」
「てゐ?」
「わたしたちもしよっか?」
「え?」
きょとんとした顔をしている鈴仙に、てゐはにやりとした笑みを深めて。
そっと屈みこんで、座りこんだままの鈴仙に手を伸ばす。
「挨拶、なんでしょ?」
「永琳」
もうすっかり夜も更けた時間。遠くで騒がしくしていた兎の子たちも寝静まって、聞こえるのは笹の葉がさらさらと風に吹かれる音だけ。
一人用にはすこしばかり大きすぎる、けれど、二人で寝るにはすこし狭い布団の上に正座して、想い人を待っていた永琳は、ようやく耳に飛び込んできた柔らかい声に顔をあげた。
返事を待つことなく、ゆっくりと襖が開いて、白襦袢に身を包み、枕を抱えた輝夜が永琳の部屋へと入ってくる。夜、一緒に眠るのはいつものことなのだから、問題ない。
ここのところ、いつも楽しそうに微笑んでいる印象のある輝夜だが、今日はいつにもまして上機嫌だ。誰よりもそばにいる永琳には分かる。
何しろ、「永琳」と呼ぶ声が、いつもよりリズミカルなのだ。いつもなら、「えいりん」といった調子なのだけれど、今日は「えーいりんっ」といった感じなのだ。語尾に音符とか、ハートだとか、ついていそうな勢いなのだ。
「随分、楽しそうね」
「ふふっ、ねえ、永琳、聞いて?」
永琳の隣に腰を降ろした輝夜は頬を擦りつけるように、少し高い位置にある肩にもたれかかる。抱えていた枕はその辺にほおって、代わりに永琳の腕を抱きしめる。
そんな輝夜の行動に、愛おしそうに頬を綻ばせた永琳は、無言で続きを促す。
「あのね、西洋式の挨拶ってすてきなのよ」
「挨拶?」
「ふふ、これからは永遠亭でも取り入れていこうかしら、ねえ、どうかしら?」
珍しくもお酒でも飲んでいるかのように浮かれた様子の輝夜。苦笑しながら、永琳は黒髪をそっと撫でていく。指通りの良い髪の感触が気持ち良い。
要領は得ないけれど、こうして、幸せそうな輝夜を見ているのは永琳にとってなにより幸福なのだ。
「ちょっと、落ち着いてちょうだい、輝夜。それじゃ、分からないわ」
「ふふっ、そう?」
「そうよ」
じゃあ、何から話せばいいかしら、と考えながら、輝夜はふわふわとした永琳の長い銀髪を指で弄ぶ。柔らかな髪質は輝夜の大のお気に入りだ。
お互いにお互いの髪を梳き合うという状態になりながら、輝夜は語る。
おやすみのキス。おはようのキス。
悪い夢を見ないおまじない。いい日になるようにするおまじない。
大切な人たちとスキンシップを交えた挨拶をすることの幸せなこと!
アリスに教わったすてきな習慣を試したら、予想通りすてきな気分になれたこと。
興奮した様子で楽しそうに笑う輝夜とは対照的に、永琳の胸中はだんだんと陰っていく。
もちろん、それを顔に出すことなんてしない。もっとも、遅かれ早かれ、永琳の感情の動きには鋭いところのある輝夜は、気付いてしまうのだけれど。
他意はないのは分かっている。子供のじゃれあいと一緒だ。
小さな子どもに食べちゃうぞ、なんてあやすのと同じだと思う。永琳とて、幼い頃の綿月姉妹とそういうようなことをしなかったわけではない。
だが。
「西洋は西洋、幻想郷は幻想郷よ、輝夜」
「永琳?」
「小兎達がそれを常識だと思って、よその人にキスをして回るようになったら困るでしょう?」
なんとなく、面白くないのだ。
きわめて大人らしい事情を添えて、そう言ってはみたものの、要するに永琳が言いたいのは、極めて子どもっぽいわがままなわけで。
いつも通りであるはずの永琳の声音に、ほんの少し紛れ込んだ違和感を感じたのか、輝夜はきょとんとした顔で永琳を見上げる。
もちろんそのままの体勢であるため、横顔しか見えないのだけれど。二人の関係ではそれでもう十分お互いの思いは分かってしまう。
「焼きもち?」
「……それは」
見つめられることに決まりが悪くなってきたのか、輝夜が抱きついているのとは逆の方を向いて目を伏せる。結局のところ、輝夜が指摘したとおり。
それが魅力でもあるのだけれど、輝夜はどうにもとらえどころがない。ぎゅっと抱きしめていたつもりでも、知らないうちに腕からすり抜けてどこかへ行ってしまいそうな気がする。
そんなことをしないと分かっていても。これまで永琳にだけ許されていたその行為を皆がするようになったら、自分から離れていってしまうのではないか。
不安に、なる。
口に出さなくとも、長い付き合いだ。輝夜も永琳がそういう不安を抱いていることはうすうす勘付いている。輝夜としては、それこそが不満だったりするのだけれど。
こんなに輝夜は永琳のことが好きなのに。
ちょっと拗ねた永琳の様子を眺めていた輝夜は不意に、ふふ、と笑う。
「永琳は心配症ね」
「慎重なだけよ」
「いったい何度言えば、私の一番好きな人が永琳だって分かってもらえるのかしら?」
「輝夜?」
正座した永琳の正面に移動して、腕をぐいっと伸ばす。
首の後ろにまわされた腕に、輝夜の思惑を感じ取った永琳は同じように黒髪へ手を伸ばし、そっと目をつむる。
ゆっくりと閉じられた瞼に連動するように顔を近づけて、唇をそっと重ね合わせた。
触れるだけの軽いキス。大好きを伝えるためのキス。
長い時間ではなく、すぐに顔を離して、今度はぎゅうっと抱きしめる。
「あのね、永琳」
「輝夜」
「口は、特別なひとだけなんだから」
耳元で囁く輝夜。吐息すらかかるほど近くで、聞こえる幸せそうな声。
愛おしさに抱きしめる腕に力を込めれば、それに返事をするように輝夜も強くしがみついてくる。
「特別な永琳のために、何度だって言ってあげるわ」
「輝夜」
「大好きよ、永琳。大好き」
「私もよ、輝夜」
何度も大好きを繰り返して、そのまま布団に寝そべって。
身長の高い永琳に比べて、小柄な輝夜はすっぽりと永琳の腕の中におさまってしまう。
ふふ、と胸の奥から込み上げてくる笑いをこらえて、すっかり幸せそうに溶けた表情をしている永琳に問いかける。
「ところで、永琳?」
「何?」
「永琳にとって私は特別?」
もうすっかり分かりきっているのにも関わらず、期待を込めてきらきらと輝いた瞳。
言わせたいのだろう、その気持ちはよく分かる。
「もちろんよ、輝夜」
返答はもちろん。
特別なひとへのキスを添えて。
本編で語られていない輝夜とアリスのことを想像してニヤニヤ
あーもー何と云うか、御馳走様でした
かぐてゐがものすごく気になります、てゐに対して主導権を握れそうなのは姫様だけ
あなたの作品はあとがきの後日談(?)も面白くて最後まで楽しく読めて良いです
でもあいさつのキスって実際にはして欲しくないなあ