53分の道程に休憩は要らない。
故に販売員から不必要に高価なサンドイッチを買うこともなく、ただ漫然と流れる景色に身を委ねるだけでいい。
美しい景色はそれなりに整えられた情景で、高層ビルも送電線も高架橋も踏み切りもアスファルトも見受けられない。学術的に言うなれば、一般的に美しいと感じられる顔は余計な特徴を全て削ぎ落とした形だという。なるほど確かに、シミやニキビのひとつもなく、むくみもふくらみもなく整った顔立ちは無個性としか言いようがない。
けれども人の心は複雑なもので、完璧な造形が美しいと思う心はあれど、好きだと感じ、愛でたいと思う形は各人によって異なるもの。だからこそメリーは、眼前に広がる半パノラマの美景を本当に美しいと感じながらも、遥か頭上に聳え立つ、美しいのかそうでもないのか、いまいち判然としない本物の富士の山に憧れを抱くのだった。
「蓮子」
「あははー」
「お酒飲みすぎ」
眉をひそめる。メリーも飲む? と差し出されたお猪口のようなものを、メリーは丁重に退けた。蓮子が冗談ぽく唇を尖らせる仕草が、偽物の富士を祭り上げた窓に映り込む。
「うーん、おいしいのになぁ」
「朝っぱらから飲むもんじゃないの。その調子だと着く頃にはいい感じに出来上がっちゃうじゃない。控える控える」
軽量化された小瓶を巧みに奪い取り、あっさりと蓋を閉める。あぁー、と嘆く蓮子の声を他所に、メリーは先程から頭の内側に押し当てられている違和感の正体を外の景色に求めた。
結界の裂け目が見える。それ自体は彼女にとってごくありふれた異物だが、それが本来地下であるはずの、しかしヴァーチャルによって富士山の形に整えられた風景画の上を走っているのだ。これは一体、どちらに結界の裂け目があると考えるべきなのだろう。
メリーは首を傾げ、そんな彼女を見て不思議そうに小首を傾げる蓮子が先に口を開いた。
「メリー、そんなに頭が痛いの? 二日酔い?」
「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない」
「やっぱり気になるの、それ」
「気になるのよ、あれ」
「いや私は見えないけどさ。富士山は見えるけど」
指を差し、窓ガラス越しに結界の裂け目をなぞる。蓮子曰く、この近辺は富士の真下にあたるという。その霊験あらたかな富士に冥界の入口があるのだとしたら、卯酉新幹線に乗車している全ての人間が知らない間に臨死体験をしているということにもなりかねない。
けれども、やはりその事実は何の意味も持たない。
身体が透けている、霊魂がはみだしていると言うのならともかく、何事も無く乗降できているのだから、それが一時の臨死体験と言えど、彼らにしてみれば一種のヴァーチャルに過ぎないのである。
そんなものは、半パノラマのカレイドスクリーンでとっくに慣らされている。
「よしメリー、この結界の境目に飛び込むわよー」
「うるさい酔っ払い」
蓮子が世迷言を吐くのは、酔っていようがいまいがいつものことだ。慣れている。
結界の裂け目は富士の山麓に貼り付いて、頑として離れようとしない。そのうち消え失せると分かっていても、手の届く位置にあちらへの入口が見えるのは不気味なものだ。富士の地下にもこんな裂け目があるのだとしたら、地上の富士にはどれくらいの裂け目が広がっているのだろう。
或いは、そんなあからさまな歪みは既に矯正されているのか。
どちらにしろ、本物を知らないメリーには計り知れないことだ。
「あ、やっと消えたわ」
「おめでとう。でも、東京にはまだまだほったらかしになってる切れ目境目裂け目に歪み等々が存分に待ち構えてますからね。どうぞお楽しみにー」
「……え、私たち結界修復のボランティアかなんか?」
そういうものは京都の専門家に任せればいいんじゃないかとメリーは思うが、蓮子は不敵に帽子のつばを指で押し上げる。特に意味は無さそうだ。
「破壊と再生はもはや同義なのだよ、マエリベリー・ハーンくん」
「いや意味わかんないし」
そして台詞にも意味は無かった。ろくでもない予測が的中したので、メリーはひとまず無意味に上げられた蓮子の帽子を目深に押し下げる。ぶぎゃ、と奇妙な悲鳴を上げてもがき苦しむ蓮子の横で、遠ざかりつつある富士の姿を視界の端に収める。
セレブが上なら、自分は旧東海道を走る権利があるかもしれない、とメリーはなかば真剣に思う。そうでなくても、一度は本物の富士山とやらを見ておきたい。ヴァーチャルはヴァーチャル、リアルはリアルで経験しておくに越したことはない。そしてきっとそのどちらにも感動するだろう。もし感動できなかったら、その時は蓮子にでも八つあたりしよう。
もうすぐ、東京だ。
富士の姿は小さく霞んでいて、スタッフロールも残りわずかとなってしまった。地下鉄が本来の完全な暗闇に回帰する一歩手前で、メリーの頭にふとどうでもいいことが過ぎった。
「あぁ、そういえば」
「どうしたの。ところで帽子のリボンがほどけちゃったんだけどこれ確実にメリーのせいよね。直して」
「嫌よ。それで蓮子にちょっと聞きたいんだけど」
「お蔵入り?」
「はいはい蓮子は物知りね。その蓮子に聞きたいのは、東京じゃ派手な人たちが勝手にルール作って暮らしている、みたいな話があるじゃない?」
「はいはい」
「で、それって本当なのかしら」
窓の景色は闇に閉ざされ、世界は内部の淡い照明に照らされて朧気に輝いている。
二ヶ所しかない駅の終点に近付き、乗客はおもむろに降りる準備を始めている。大して荷物のない二人はそのままの体勢で、ただ帽子のリボンを巻き直す布擦れの音を聞きながら、他愛も無い会話の最後を締めくくる。
蓮子は、修復した帽子を被り直し、やはり意味も無く指でつばを押し上げて。
「そういえば、東京にはタケノコがいるらしいよ。それも、語尾に族が付くタイプの」