誰も来ない日曜日の朝

『誰も来ない日曜日の朝』



　誰も来ない日曜日。
　耳鳴りが「静かで快適だ」と嘯いた日曜日の朝。

　霖之助は、座っていた。座って、本を読んでいた。
　哲学の本だ。三年前に拾って以来、ずっと気に入って読んでいる。
　霖之助は特に鼠のくだりが気に入っていた。

　カサリと紙の動く音がして、そちらを見たが何もいない。
　そうしてまた本を読み始めた。



　誰も来ない日曜日。
　珍しく昼餉が食べたくなった日曜日の朝。

　別な本を読んでいた霖之助はふと思い出した。
　昨晩来た狐の事だ。ティッシュペーパーをあるだけ買っていった。
　その疲れた表情が不意に挿絵と重なった。

「オイルショックでもあったのかな」
　呟いて、霖之助は教科書を閉じた。



　誰も来ない日曜日。
　大概読書にも飽きてきた日曜日の朝。
　
　別な本を読んでいると、部屋の片隅で何かが鳴った。
　聞いた事の無い音だ。外の道具から聞こえる。名前は確か携帯電話。
　
　鳴るのは初めてだが、どうすればいいかは取説を読んだから多少知っている。
「確かこうだ」とおっかなびっくりボタンを押すと、女の絶叫が耳に飛び込んだ。
　すわ緊急時かとも思ったが、よくよく聞くとどうやら痴情の縺れらしい。
　別れたくないだの……貴方がそうなら私にも考えがあるだの……。
　見知らぬ女はそうやって散々言いたい事を言った後叩きつける様に電話を切った。
　やり場のない怒りと耳鳴りが、後に残った。

　やはり恋愛小説は趣味じゃない。
　開きっぱなしだった本を閉じると、時計の針が十時を指した。



　その後も携帯電話は鳴り止まず、奇妙な電話ばかりが届いた。
　息の荒い男の猥褻な電話。孫に掛けたと勘違いしている老人の電話。日本語なのかも疑わしい女の電話。

　『まるでベビーシッター！？増える携帯依存症』
　机の上、ゴシップの見出しがニヤリと笑った。



　誰も来ない日曜日。
　大概電話番にも飽きてきた日曜日の朝。

　電話が再び鳴った。

　無視すればいいとも思ったが、電話のベルは鳴りっぱなし。止む気配がない。
　いい加減辟易してボタンを押すと、受話器から聞き慣れた声が聞こえてきた。
　女の声だ。

「蓮子？ゴメン、ちょっと風邪ひいちゃって……午後の授業代筆しといて」
「紫？」

　鼻を摘まんだ様な声。少し彼女の声に似ている。
　ハッと息を呑む声の後、声の主が返答を寄こすにはやや間があった。

「……すいません間違えました。その……貴方も人違いをしていると思います」
「え？ああ。それはすまない」
「はい……それじゃあ、切りますね」

　酷く咳き込む音が受話器越しに聞こえる。
　痰を吐く音と、ティッシュペーパーを抜き取る音が続いて聞こえた。
　だから

「お大事に」と、その声は自然に出た。

　電話は切れた。
　けれど切れる寸前、電話の向こうの口元が微かに笑った。そんな気がした。

　気付けば電話をする前とは打って変わって、気分は幾分か晴れやいでいた。
　少し弾んだ気持ちで家庭の医学書を開くと、時計の針が正午を指した。



　誰も来ない日曜日。
　携帯電話の鳴り止まない日曜日の朝。

　香霖堂は、今日も賑やかだ。

新川和江さんの「記事にならない事件」という作品を読んでてふと思いついた話です。
この後メリー？さんが再び霖之助に電話をかけてくるっていう続きがあったらいいなあ。