「美鈴!」
夏の夜の匂い。紺色の夜空には夏の大三角。昼日中よりは涼しい風が吹く。
夏場に眺めるには少々暑苦しい外観の紅魔館の門前に人民服姿の少女が立っている。
すうすう、と安らかな寝息を立てて、立ったまま眠っている
ひゅっ、と風を切る音。鋭い少女の声。
切れ味のいい銀製のナイフがとすっと軽い音を立てて、煉瓦造りの門に突きささる。
それは美鈴の顔のすぐ横、少しでもコントロールを誤れば、直接突き刺さってしまいそうな位置。正確無比な咲夜のナイフ投げの技能と美鈴の類稀なる回避スキルという互いの実力を信頼し合っているからこその乱暴な目覚ましだ。仮に突き刺さったところで、妖怪の美鈴ならば一日もあれば回復してしまうし。
ナイフを投げた張本人である咲夜は腰に手を当て、眠ったままの門番をじっと見つめている。怒りも呆れもどちらも映し出してない無表情がかえって、彼女の感情をよく表しているように見える。
「んう……」
音か気配か、どちらに反応したのか判別がつかないけれど、眠っていた美鈴の眉がぴくりと動く。
続いて、ふわああ、と間延びした声で口元に手を当てて大欠伸。むにゃむにゃと何事か不明瞭に呟きながら、門番というには細い指先で目尻に滲む涙を拭う。
やがて、寝ぼけていた頭もすっきりとしてきたのか、目の前の咲夜と目を合わせて、三秒。
「さっ、咲夜さんっ」
「また、寝てたのね?」
「ねっ、寝てなんかないですよ! ただ、ちょっと夢の世界を警備してたというかその、あれですよ、ね」
ひやー、と慌てて弁解する美鈴。サボってるわけじゃないですよーとうろたえた声で言いながら、ぶんぶんと首を横に振る。その拍子に三つ編みが揺れ、長い後ろ髪もさらさら揺れる。
言い訳できない状況であるのは分かっている。ぎゅっと目をつぶって、続く言葉を待つ。
脅しはともかく、咲夜がそうそう暴力をふるう性質ではないことは分かっているし、叱られたところで、美鈴の何十分の一も生きていない咲夜に怒鳴られるのはそこまで怖くない。今でこそ咲夜の方が上のような感じになっているけれど、おませな妹みたいなものなのだから。
けれど、お説教されると思うと、ついつい身体が強張る。そうさせる力が咲夜の声にあるのだ、と美鈴はいつも思っている。
この年にもなると、こうして叱られることなどそうそうないため、新鮮だという部分も無きにしもあらずだったりして。
「もう、どうして寝ちゃうのよ。ちゃんと睡眠時間もとれるようにシフト組んでるっていうのに」
「あはは、なんででしょうね」
ゆるい笑顔を見て、はあ、と深いため息をつく咲夜。疲れたようにふいっと顔を背けるとそのまま、門の中へと歩き出す。
いつもならば、このあとまだまだお説教が続くというのに。
普通ならば、叱られなくてラッキーと思うべきなのだろうが、なぜか落ちつかない。
突き動かされる衝動のままに、背筋をぴんと伸ばした背中に声をかける。
「咲夜さん?」
「もう、上がりの時間でしょ?」
「へ?」
目が覚めてから、咲夜ばかり気にしていたけれど、確かにあたりはすっかり暗い。もう夏になって夜の訪れがどんどん遅くなっている今なら、もうとっくに担当時間は過ぎているに違いない。ましてや、紅魔館の中でほぼ唯一時計を使用している咲夜がそういっているのだからそうなのだろう。
「ね、美鈴」
かつかつ、とヒールを鳴らして、瀟洒に歩いていた咲夜は不意に立ち止まり、同じように歩きだした美鈴の方へと振り返った。仕事中にはまず見られない、外見相応のどこかあどけなさを残した笑顔で、少しばかり甘えっ子めいた声で言う。
「夕食の前に一緒にお風呂に入らない?」
「え?」
「ほら、もう夏だし。汗流したいじゃない」
「ああ、そうですね」
美鈴としては全く異存ないし、構わない。というか、あらためて言われなくても、こうして仕事終わりの時間が被った時には、大抵一緒にお風呂に入って、食事をとる。決まりきった流れなのにも関わらず、あえて念押しをする咲夜に首を傾げる。
「今日はパチュリー様が新しい入浴剤を用意してくれたみたいよ」
「そうなんですか?」
「とりあえず、先に入ったメイドたちには大好評だったわ」
「へええ、楽しみですねっ」
けれど。こうして、楽しい話が続けば、あえて追及することもない。
先ほどのふとした疑問など次の瞬間にはすっかり忘れて、すまし顔で微笑む咲夜と言葉を交わし合いながら、大浴場へと向かったのだった。
「これは気持ちいいですねー」
「そうね」
ちゃぷん。
二人並んで、浴槽につかる。新しい入浴剤で透明感のある青に染まった湯はミントかなにかを配合しているのか、すっとするさわやかな香りがする。
暑いこの季節にぴったりの清涼感に、咲夜も美鈴も、その心地よさに目を細めた。べたつく汗を流して、ほっと一息。疲れた身体がほぐれていく。
ちょうど上がる時間だったメイドも多いのだろう。洗い場でも浴槽でも何人もの妖精がそれぞれに入浴タイムを楽しんでいる。きゃいきゃいと笑う声や楽しげに談笑しあう声は賑やか。時には静かに入浴したいと思うこともあるけれど、これはこれで好ましいものだ。
長い髪を頭の上で簡単に結いあげた美鈴は浴槽のへりに寄りかかって、ごくらくごくらく、弛緩しきった表情。その左隣、いわゆる女の子座りをした咲夜は手ぬぐいで顔を拭っている。
「ねえ、美鈴」
不意に、咲夜が呟く。美鈴の方を見るでもなく、視線はそのあたりではしゃいでいる妖精たちに固定されたままなのだけれど。
ぽつりとした声音は、どこかあどけなくて、ずっと小さな頃、子供の頃のよう。
その意図が読めずに、きょとんとする美鈴。
声を出さずとも、その丸くなった瞳だけで、言いたいことを判断したのか、咲夜は一つため息をつくと、やはり、子供のように問いかける。
「どうして仕事中に寝るの?」
「うーんと、や、やっぱり怒ってます?」
「……別にそういうことじゃ、ないけど」
ぶくぶくぶく。行儀が悪いことは承知の上で、顔を湯船に沈める咲夜。つまらなさそうな瞳で、気恥ずかしいのか、美鈴の方を見ることはしない。
まるで拗ねているかのような咲夜に、困ったように笑みを浮かべる美鈴は、うーん、と幾度か唸る。そうして、やがて、観念したように静かに口を開く。
「いや、やろうと思えば起きていられますよ。妖怪ですもん」
「は?」
「そりゃ、パチュリー様みたいに寝なくても全然平気とは言いませんけど。それなりには」
「だったらなんで寝るのよ」
「ひゃ、ひゃう、ほっへをひっひゃらないでくださいよー」
白く細い腕を伸ばして、ふにょん、と美鈴の頬を引っ張る。普段ならいざ知らず、今は入浴タイム。いつもよりも、距離が近いからこそできる芸当だ。
力を入れて引っ張るというよりは、ただただ、よこに伸ばしてみる。健康的に張りのある美鈴の頬のさわり心地はたまらない。
できることなら放したくはなかったけれど、それではどうにも話が進まない。
しぶしぶと指を離すと、痛かったわけではないのだろうが、美鈴は両手を頬に当てる
「うう……。まあ、確かに門番ですから。起きてなきゃいけないのは分かりますけど」
「美鈴?」
「でも、ほら。いっつもこうきりっと怖い妖怪が門番してたら、幻想郷っぽくないじゃないですか」
「幻想郷っぽい?」
不思議そうな咲夜の言葉に、ぽりぽりと人差し指で頬をかく美鈴は、宙に視線を迷わせる。そして、いつもはきはきと喋る彼女らしくもなく、逡巡しつつ、言葉を選ぶようにしながら、言い訳がましく言葉を紡ぐ。
「そりゃ、威厳も大切ですけど。それはお嬢様のカリスマで必要な時に補えればいいかなって」
「あのねえ」
いつの間にか座り方を変え、膝を抱えていた咲夜が半眼で美鈴を見上げる。ひざの上に顎を乗せているために、どうしても顔の位置は美鈴より下になる。
不満げなその様子に、ほやんとした笑顔で答えて、さらに言葉を続けていく。
「私は幻想郷が好きなんです」
「そう言ってたわね」
「あ、ほら、あの紅霧異変からもう随分経ちますけど、この紅魔館もずいぶん変わりましたよね?」
いつも笑顔が多い彼女ではあるけれど、いつものそれよりももっともっと柔らかい笑顔で美鈴は語る。愛おしい子供たちを思う母親のような、そういう笑顔。
大切な宝物をそっと、眺めているような優しいその表情を、咲夜は猫のような瞳でじっと見つめている。
「お嬢様は前よりいい意味で子どもっぽくなったというか、毎日あっちこっち楽しそうですし、フランドール様も大分落ち着かれて庭先までは好きに出歩けるようになりました」
「そうね」
「大図書館もずいぶんにぎやかになりましたし、この門の前だって、チルノだのルーミアだのが遊びに来るようになったんですよ」
「それはあなたが構うからじゃない」
「あ、あはは。いざという時にはご近所づきあいって言うのも大切じゃないですか」
呆れたようなじと目。その威圧感に冷や汗をかいた美鈴は、誤魔化すように視線を反らす。すぐにこほん、と咳ばらいをして、それ以上突っ込まれる前に、話を続ける。
「……咲夜さんもですよ? あの頃よりも随分優しくなったというか、余裕ができたというか。人間らしくって言った方がいいですかね。正直、前はちょっと咲夜さんのこと、怖かったですし」
「……あ、あれは。その、なんというか、そういう年頃だっただけでしょ」
今度は咲夜が美鈴の言葉に決まりが悪くなって、そっぽを向く。耳が赤くなっているのは決して、湯の温かさのせいだけではないのだろう。
このところ、あの頃の話をすると咲夜は恥じらう。美鈴としてはあの頃はあの頃で格好良かったと思っているのだけれど、咲夜本人はこう、突っ張っていた頃がやたらと恥ずかしいらしい。
そこを突っ込んでみてもいいのだけれど、話をそうそう脇道に反らすのも本意ではない。
美鈴は咲夜のそんな様子に一度目を細めると、まるで気にしていないように話を続ける。
「ええと、つまりですね。こう、幻想郷っていいところじゃないですか」
たとえば。神社に行けばいつでも誰かがいて、宴会をしたり、お茶を飲んだり。
一日に一度はどこかで誰かが派手な弾幕ごっこを繰り広げて、空にきれいな花火があがる。
やたら強い人間の少女たちと、種族の違いもなんのその酒を酌み交わす。
妖精たちが、いたずらをしたり、そのあたりではしゃぎ回って、あまり力の強くない幼い妖怪も一緒になって遊びまわる。
冥界では、食いしん坊の亡霊に、生真面目な従者が振り回され、竹林の奥では臆病兎が飼い主や師匠に振り回される。
大図書館の奥では、魔女たちが集って何やらかましく研究を繰り返し。
天狗達の配る眉唾ものの号外を読んだり、信仰拡大を目指す山の巫女の話を聞いたり。
地底でもお寺でも風変わりな妖怪たちが、にぎやかに暮らしていて。
時折、誰かが異変を起こすのはゆるんだ日常へのいいスパイス。
巫女だの魔法使いだのが飛びまわる。時には関係のない妖怪たちまで首を突っ込む大騒ぎ。
くだらないことで怒ったり、笑ったり。毎日毎日ばか騒ぎ。
そういう、適度に暢気で、適度に危険な幻想郷。
「ふふ、毎日がお祭りみたいっていうか」
レミリアの思いつきやわがままに四方八方へ駆けまわって。
加減を知らないフランドールとの弾幕ごっこできゅう、と伸びたり。
まわりも巻き込む妙なパチュリーの実験に戸惑ったり。
押し入り強盗の魔理沙と毎日戦うけど、勝てなくて、ぼろぼろにされて。
仕事終わりには同じような立場の小悪魔と愚痴を言い合ったり。
「それから、咲夜さんに怒られたり、こうして一緒にお風呂入ったり、ご飯食べたりするのも、そうですよね」
咲夜の顔を覗き込んだ美鈴は照れたように笑う。けれどその瞳はまっすぐで、心からそう思っているのがよく分かる。だからこそ、顔をあげた咲夜も微笑む。
口には出さないけれど、同じような思いはある。
「こんな毎日がずっと続けばいいなって、思うんです」
「美鈴……」
馬鹿らしくて、眩しい日々。いつか終わってしまうことは分かっている。だけど、なぜだか、そんな日々がいつまでも続いていくような気がして。
きらきらとした瞳で美鈴が語る幻想郷の姿に、咲夜も自然と心が沸き立つ。
「あ、それで、話は戻るんですけど。そういう幻想郷に、あんまりぴしっとした門番は逆に空気読めてない感じするじゃないですか」
「はい?」
「こう居眠りして、咲夜さんのナイフが飛んできたり、チルノ達にいたずらされる間が抜けた門番の方が幻想郷には似合いますって」
まぁ、それでも私があんまり強くないことには変わりないんですけど。はにかむように笑う美鈴の顔を咲夜がまじまじと見つめる。
あまりにも予想外のその言葉に、どんな返事を返していいか分からない。
なぜか自信ありげに胸をはる美鈴は、言いたいことを言えてすっきりしたのか、爽やかな笑顔を浮かべている。
「美鈴」
「はいっ、て、あ、あの咲夜さん?」
やがて、咲夜は花が咲くような、それはそれはきれいな笑顔を浮かべる。
もともと整った顔立ちをしているだけあって、そうして笑っていれば、まるで天使のように愛くるしい。しかし、そういう笑顔の咲夜はそうそう見られるものではない。
思わずぽうっと見とれる美鈴に、ひんやりとした声がいう。
「命蓮寺の門番も、地霊殿のペット達も、永遠亭の兎も、みんなまじめに門を守っているけど、幻想郷らしさは損なわれていないわよ」
「ひっ」
「ふふ。だから、美鈴」
「さ、咲夜さん?」
「心おきなく、しっかり門番をしてちょうだいね」
「……あう」
先ほどまでの笑顔はどこへやら、情けない顔でうなだれる美鈴に、咲夜は思わずふき出してしまう。
声を立てて笑う咲夜につられて、やがて美鈴もふっと微笑んで。
楽しそうな二人を見たメイドたちが、浴槽の中を泳ぐようにして何があったのかと好奇心たっぷりにわきあいあいと寄ってくる。
かといって説明できるようなことでもなく。笑う咲夜とブーイングをするメイドたち。
そんな仲のよさそうな姿もまた、なかなかどうして楽しくて。
美鈴が呟くのはたった一言。
「楽しいですね、咲夜さん」
夏の夜の匂い。紺色の夜空には夏の大三角。昼日中よりは涼しい風が吹く。
夏場に眺めるには少々暑苦しい外観の紅魔館の門前に人民服姿の少女が立っている。
すうすう、と安らかな寝息を立てて、立ったまま眠っている
ひゅっ、と風を切る音。鋭い少女の声。
切れ味のいい銀製のナイフがとすっと軽い音を立てて、煉瓦造りの門に突きささる。
それは美鈴の顔のすぐ横、少しでもコントロールを誤れば、直接突き刺さってしまいそうな位置。正確無比な咲夜のナイフ投げの技能と美鈴の類稀なる回避スキルという互いの実力を信頼し合っているからこその乱暴な目覚ましだ。仮に突き刺さったところで、妖怪の美鈴ならば一日もあれば回復してしまうし。
ナイフを投げた張本人である咲夜は腰に手を当て、眠ったままの門番をじっと見つめている。怒りも呆れもどちらも映し出してない無表情がかえって、彼女の感情をよく表しているように見える。
「んう……」
音か気配か、どちらに反応したのか判別がつかないけれど、眠っていた美鈴の眉がぴくりと動く。
続いて、ふわああ、と間延びした声で口元に手を当てて大欠伸。むにゃむにゃと何事か不明瞭に呟きながら、門番というには細い指先で目尻に滲む涙を拭う。
やがて、寝ぼけていた頭もすっきりとしてきたのか、目の前の咲夜と目を合わせて、三秒。
「さっ、咲夜さんっ」
「また、寝てたのね?」
「ねっ、寝てなんかないですよ! ただ、ちょっと夢の世界を警備してたというかその、あれですよ、ね」
ひやー、と慌てて弁解する美鈴。サボってるわけじゃないですよーとうろたえた声で言いながら、ぶんぶんと首を横に振る。その拍子に三つ編みが揺れ、長い後ろ髪もさらさら揺れる。
言い訳できない状況であるのは分かっている。ぎゅっと目をつぶって、続く言葉を待つ。
脅しはともかく、咲夜がそうそう暴力をふるう性質ではないことは分かっているし、叱られたところで、美鈴の何十分の一も生きていない咲夜に怒鳴られるのはそこまで怖くない。今でこそ咲夜の方が上のような感じになっているけれど、おませな妹みたいなものなのだから。
けれど、お説教されると思うと、ついつい身体が強張る。そうさせる力が咲夜の声にあるのだ、と美鈴はいつも思っている。
この年にもなると、こうして叱られることなどそうそうないため、新鮮だという部分も無きにしもあらずだったりして。
「もう、どうして寝ちゃうのよ。ちゃんと睡眠時間もとれるようにシフト組んでるっていうのに」
「あはは、なんででしょうね」
ゆるい笑顔を見て、はあ、と深いため息をつく咲夜。疲れたようにふいっと顔を背けるとそのまま、門の中へと歩き出す。
いつもならば、このあとまだまだお説教が続くというのに。
普通ならば、叱られなくてラッキーと思うべきなのだろうが、なぜか落ちつかない。
突き動かされる衝動のままに、背筋をぴんと伸ばした背中に声をかける。
「咲夜さん?」
「もう、上がりの時間でしょ?」
「へ?」
目が覚めてから、咲夜ばかり気にしていたけれど、確かにあたりはすっかり暗い。もう夏になって夜の訪れがどんどん遅くなっている今なら、もうとっくに担当時間は過ぎているに違いない。ましてや、紅魔館の中でほぼ唯一時計を使用している咲夜がそういっているのだからそうなのだろう。
「ね、美鈴」
かつかつ、とヒールを鳴らして、瀟洒に歩いていた咲夜は不意に立ち止まり、同じように歩きだした美鈴の方へと振り返った。仕事中にはまず見られない、外見相応のどこかあどけなさを残した笑顔で、少しばかり甘えっ子めいた声で言う。
「夕食の前に一緒にお風呂に入らない?」
「え?」
「ほら、もう夏だし。汗流したいじゃない」
「ああ、そうですね」
美鈴としては全く異存ないし、構わない。というか、あらためて言われなくても、こうして仕事終わりの時間が被った時には、大抵一緒にお風呂に入って、食事をとる。決まりきった流れなのにも関わらず、あえて念押しをする咲夜に首を傾げる。
「今日はパチュリー様が新しい入浴剤を用意してくれたみたいよ」
「そうなんですか?」
「とりあえず、先に入ったメイドたちには大好評だったわ」
「へええ、楽しみですねっ」
けれど。こうして、楽しい話が続けば、あえて追及することもない。
先ほどのふとした疑問など次の瞬間にはすっかり忘れて、すまし顔で微笑む咲夜と言葉を交わし合いながら、大浴場へと向かったのだった。
「これは気持ちいいですねー」
「そうね」
ちゃぷん。
二人並んで、浴槽につかる。新しい入浴剤で透明感のある青に染まった湯はミントかなにかを配合しているのか、すっとするさわやかな香りがする。
暑いこの季節にぴったりの清涼感に、咲夜も美鈴も、その心地よさに目を細めた。べたつく汗を流して、ほっと一息。疲れた身体がほぐれていく。
ちょうど上がる時間だったメイドも多いのだろう。洗い場でも浴槽でも何人もの妖精がそれぞれに入浴タイムを楽しんでいる。きゃいきゃいと笑う声や楽しげに談笑しあう声は賑やか。時には静かに入浴したいと思うこともあるけれど、これはこれで好ましいものだ。
長い髪を頭の上で簡単に結いあげた美鈴は浴槽のへりに寄りかかって、ごくらくごくらく、弛緩しきった表情。その左隣、いわゆる女の子座りをした咲夜は手ぬぐいで顔を拭っている。
「ねえ、美鈴」
不意に、咲夜が呟く。美鈴の方を見るでもなく、視線はそのあたりではしゃいでいる妖精たちに固定されたままなのだけれど。
ぽつりとした声音は、どこかあどけなくて、ずっと小さな頃、子供の頃のよう。
その意図が読めずに、きょとんとする美鈴。
声を出さずとも、その丸くなった瞳だけで、言いたいことを判断したのか、咲夜は一つため息をつくと、やはり、子供のように問いかける。
「どうして仕事中に寝るの?」
「うーんと、や、やっぱり怒ってます?」
「……別にそういうことじゃ、ないけど」
ぶくぶくぶく。行儀が悪いことは承知の上で、顔を湯船に沈める咲夜。つまらなさそうな瞳で、気恥ずかしいのか、美鈴の方を見ることはしない。
まるで拗ねているかのような咲夜に、困ったように笑みを浮かべる美鈴は、うーん、と幾度か唸る。そうして、やがて、観念したように静かに口を開く。
「いや、やろうと思えば起きていられますよ。妖怪ですもん」
「は?」
「そりゃ、パチュリー様みたいに寝なくても全然平気とは言いませんけど。それなりには」
「だったらなんで寝るのよ」
「ひゃ、ひゃう、ほっへをひっひゃらないでくださいよー」
白く細い腕を伸ばして、ふにょん、と美鈴の頬を引っ張る。普段ならいざ知らず、今は入浴タイム。いつもよりも、距離が近いからこそできる芸当だ。
力を入れて引っ張るというよりは、ただただ、よこに伸ばしてみる。健康的に張りのある美鈴の頬のさわり心地はたまらない。
できることなら放したくはなかったけれど、それではどうにも話が進まない。
しぶしぶと指を離すと、痛かったわけではないのだろうが、美鈴は両手を頬に当てる
「うう……。まあ、確かに門番ですから。起きてなきゃいけないのは分かりますけど」
「美鈴?」
「でも、ほら。いっつもこうきりっと怖い妖怪が門番してたら、幻想郷っぽくないじゃないですか」
「幻想郷っぽい?」
不思議そうな咲夜の言葉に、ぽりぽりと人差し指で頬をかく美鈴は、宙に視線を迷わせる。そして、いつもはきはきと喋る彼女らしくもなく、逡巡しつつ、言葉を選ぶようにしながら、言い訳がましく言葉を紡ぐ。
「そりゃ、威厳も大切ですけど。それはお嬢様のカリスマで必要な時に補えればいいかなって」
「あのねえ」
いつの間にか座り方を変え、膝を抱えていた咲夜が半眼で美鈴を見上げる。ひざの上に顎を乗せているために、どうしても顔の位置は美鈴より下になる。
不満げなその様子に、ほやんとした笑顔で答えて、さらに言葉を続けていく。
「私は幻想郷が好きなんです」
「そう言ってたわね」
「あ、ほら、あの紅霧異変からもう随分経ちますけど、この紅魔館もずいぶん変わりましたよね?」
いつも笑顔が多い彼女ではあるけれど、いつものそれよりももっともっと柔らかい笑顔で美鈴は語る。愛おしい子供たちを思う母親のような、そういう笑顔。
大切な宝物をそっと、眺めているような優しいその表情を、咲夜は猫のような瞳でじっと見つめている。
「お嬢様は前よりいい意味で子どもっぽくなったというか、毎日あっちこっち楽しそうですし、フランドール様も大分落ち着かれて庭先までは好きに出歩けるようになりました」
「そうね」
「大図書館もずいぶんにぎやかになりましたし、この門の前だって、チルノだのルーミアだのが遊びに来るようになったんですよ」
「それはあなたが構うからじゃない」
「あ、あはは。いざという時にはご近所づきあいって言うのも大切じゃないですか」
呆れたようなじと目。その威圧感に冷や汗をかいた美鈴は、誤魔化すように視線を反らす。すぐにこほん、と咳ばらいをして、それ以上突っ込まれる前に、話を続ける。
「……咲夜さんもですよ? あの頃よりも随分優しくなったというか、余裕ができたというか。人間らしくって言った方がいいですかね。正直、前はちょっと咲夜さんのこと、怖かったですし」
「……あ、あれは。その、なんというか、そういう年頃だっただけでしょ」
今度は咲夜が美鈴の言葉に決まりが悪くなって、そっぽを向く。耳が赤くなっているのは決して、湯の温かさのせいだけではないのだろう。
このところ、あの頃の話をすると咲夜は恥じらう。美鈴としてはあの頃はあの頃で格好良かったと思っているのだけれど、咲夜本人はこう、突っ張っていた頃がやたらと恥ずかしいらしい。
そこを突っ込んでみてもいいのだけれど、話をそうそう脇道に反らすのも本意ではない。
美鈴は咲夜のそんな様子に一度目を細めると、まるで気にしていないように話を続ける。
「ええと、つまりですね。こう、幻想郷っていいところじゃないですか」
たとえば。神社に行けばいつでも誰かがいて、宴会をしたり、お茶を飲んだり。
一日に一度はどこかで誰かが派手な弾幕ごっこを繰り広げて、空にきれいな花火があがる。
やたら強い人間の少女たちと、種族の違いもなんのその酒を酌み交わす。
妖精たちが、いたずらをしたり、そのあたりではしゃぎ回って、あまり力の強くない幼い妖怪も一緒になって遊びまわる。
冥界では、食いしん坊の亡霊に、生真面目な従者が振り回され、竹林の奥では臆病兎が飼い主や師匠に振り回される。
大図書館の奥では、魔女たちが集って何やらかましく研究を繰り返し。
天狗達の配る眉唾ものの号外を読んだり、信仰拡大を目指す山の巫女の話を聞いたり。
地底でもお寺でも風変わりな妖怪たちが、にぎやかに暮らしていて。
時折、誰かが異変を起こすのはゆるんだ日常へのいいスパイス。
巫女だの魔法使いだのが飛びまわる。時には関係のない妖怪たちまで首を突っ込む大騒ぎ。
くだらないことで怒ったり、笑ったり。毎日毎日ばか騒ぎ。
そういう、適度に暢気で、適度に危険な幻想郷。
「ふふ、毎日がお祭りみたいっていうか」
レミリアの思いつきやわがままに四方八方へ駆けまわって。
加減を知らないフランドールとの弾幕ごっこできゅう、と伸びたり。
まわりも巻き込む妙なパチュリーの実験に戸惑ったり。
押し入り強盗の魔理沙と毎日戦うけど、勝てなくて、ぼろぼろにされて。
仕事終わりには同じような立場の小悪魔と愚痴を言い合ったり。
「それから、咲夜さんに怒られたり、こうして一緒にお風呂入ったり、ご飯食べたりするのも、そうですよね」
咲夜の顔を覗き込んだ美鈴は照れたように笑う。けれどその瞳はまっすぐで、心からそう思っているのがよく分かる。だからこそ、顔をあげた咲夜も微笑む。
口には出さないけれど、同じような思いはある。
「こんな毎日がずっと続けばいいなって、思うんです」
「美鈴……」
馬鹿らしくて、眩しい日々。いつか終わってしまうことは分かっている。だけど、なぜだか、そんな日々がいつまでも続いていくような気がして。
きらきらとした瞳で美鈴が語る幻想郷の姿に、咲夜も自然と心が沸き立つ。
「あ、それで、話は戻るんですけど。そういう幻想郷に、あんまりぴしっとした門番は逆に空気読めてない感じするじゃないですか」
「はい?」
「こう居眠りして、咲夜さんのナイフが飛んできたり、チルノ達にいたずらされる間が抜けた門番の方が幻想郷には似合いますって」
まぁ、それでも私があんまり強くないことには変わりないんですけど。はにかむように笑う美鈴の顔を咲夜がまじまじと見つめる。
あまりにも予想外のその言葉に、どんな返事を返していいか分からない。
なぜか自信ありげに胸をはる美鈴は、言いたいことを言えてすっきりしたのか、爽やかな笑顔を浮かべている。
「美鈴」
「はいっ、て、あ、あの咲夜さん?」
やがて、咲夜は花が咲くような、それはそれはきれいな笑顔を浮かべる。
もともと整った顔立ちをしているだけあって、そうして笑っていれば、まるで天使のように愛くるしい。しかし、そういう笑顔の咲夜はそうそう見られるものではない。
思わずぽうっと見とれる美鈴に、ひんやりとした声がいう。
「命蓮寺の門番も、地霊殿のペット達も、永遠亭の兎も、みんなまじめに門を守っているけど、幻想郷らしさは損なわれていないわよ」
「ひっ」
「ふふ。だから、美鈴」
「さ、咲夜さん?」
「心おきなく、しっかり門番をしてちょうだいね」
「……あう」
先ほどまでの笑顔はどこへやら、情けない顔でうなだれる美鈴に、咲夜は思わずふき出してしまう。
声を立てて笑う咲夜につられて、やがて美鈴もふっと微笑んで。
楽しそうな二人を見たメイドたちが、浴槽の中を泳ぐようにして何があったのかと好奇心たっぷりにわきあいあいと寄ってくる。
かといって説明できるようなことでもなく。笑う咲夜とブーイングをするメイドたち。
そんな仲のよさそうな姿もまた、なかなかどうして楽しくて。
美鈴が呟くのはたった一言。
「楽しいですね、咲夜さん」
何時までもこんな日々が続きますように!
ほんわか紅魔館いいですね!
やっぱこれこそが幻想郷
心がほんわかと、和みました。