大きな葛籠と小さな葛籠の、そのどちらかは爆弾だ。
スペルカードを使わなくても、戯れ程度に分身を生み出すことはできる。
けれども所詮は虚像であり、意志もなければ言葉も持っていない。問い掛けに応えることも、温もりを感じることもない。ましてや触れれば弾けてなくなるだけの虚しい炸薬ならば、そんなものを生み出して一体何をしようというのか。
我が事ながら、嫌気が差す。
「……溜息を吐くのも飽きたわね」
さもしい独り言の相手として、自分の幻影を選ぶのも自己愛が過ぎる。自分が嫌いなのに、すがる相手が自分しかいない。
見慣れた顔、見飽きた体躯、くたびれた服装。
金の髪はまぶたの上から瞳を覆い、適当に纏めた髪から何本もほつれた髪の毛がはみ出ている。何もしていないのに表情が疲れている。生きることに飽いたのか、と下らぬ問答をするのも煩わしい。地底に嵌まり、妖怪に堕ちてしまっては、そう簡単に死ぬこともできないのだし。
真っ赤な橋の上に、向かい合った妖怪がふたり。ひとりなのにふたり。ふたりなのに、ひとり。
いつから此処にいたのか、詳しいことは覚えていない。過去の記憶は無数の人間の憎悪と怨念と後悔と悲哀が入り混じり、どれが自分の記憶なのかすら解らずじまいだ。
橋姫、という妖怪の身であることは、魂に焼き付いている。その成り行きも、誰かの記憶として自分の中に刻み込まれている。
現実味のない記憶が、他人事のような肉体に宿り、人間に似た言葉を漏らす。
滑稽な話だ。笑えないところが、特に。
水橋パルスィは、よせばいいものを、何も語らない自分の人形に、吐き出すためだけの愚痴を吐き付ける。
「あなたは、本当に――――」
「ぱるしー」
気の抜けた声が響く。自分の名が簡略化されて呼ばれたことに些細な違和感を覚え、馬鹿にされているのか愛着を持ってくれているのか、判断に迷う。ただ単に、正しく覚えていないだけなのだと思うが。
そうして無駄に時間を取られているうちに、声の主が橋の入口を踏む。
「ぱるしー」
「パルスィ」
訂正する。不機嫌そうに眉間を寄せ、声を低くしても相手は全く動じる様子もない。
金の髪は色こそ似ているが、彼女の金髪は蚕の繭を染め上げたような繊細さと、切り落とし難いしなやかさがある。それを大きなリボンでひとくくりに纏め、大きな瞳をまっすぐパルスィに向けている。
彼女は、この長い洞穴に棲んでいる土蜘蛛だという。ぼんやりと佇むしか能のなかったパルスィに、最初に声を掛けてきた生き物である。さほど劇的でもないありふれた邂逅から、まだ数日しか経っていない。
そして、彼女以外の生き物も目にしていない。
「あぁ、そうそう。パルスィ、パルスィね。水橋――水橋でいいんだっけ?」
「……名字で呼ぶ機会も無いでしょう。覚えるだけ無駄よ」
「えー、折角だから隣人の名前くらい覚えたいもん。ちなみに、パルスィは私の名前覚えてくれた?」
期待に満ちた視線を送られ、不意に目を逸らす。光の薄い地下にあって、瞳を輝かせる存在のなんと眩しいことか。それが、地上のものと比べて遥かに小さな輝きであれ。
その眩さから逃げるように、パルスィは吐き捨てた。
「忘れた」
「ひどい!」
「正確には、あんまり覚える気もなくて」
「なんでよ」
怒りを強調するように、彼女は腰に手を当てて仁王立ちする。一瞬、何もせずに突っ立っているパルスィの分身に目線が飛んだが、触れると怪我をすると本能的に理解したのか見て見ない振りをした。
その選択は、決して間違ってはいない。
「なんで、と言われてもねえ……。友達になる気もないし、私はきっとあなたに害を与える存在でしょうし。それと、陽気なひとってあんまり好きじゃないの。一緒にいると、ひどく疲れるのよ。別に、あなたが悪いってわけじゃないんだけど」
正直に、己の気持ちを吐露する。彼女は一瞬、驚きに目を見開き、またすぐに目を細めた。
優しい笑みだった。
パルスィが胸に抱えている他愛もない自己嫌悪など、全て見透かしているとでもいうような。
「ふうん。そうか、あなた、橋姫だっけ」
試すような口振りに、少し苛立つ。ごめんごめん、と手を振る不真面目な態度も神経を逆撫でる。
「嫉妬してるんだ」
彼女は、ある重要な確認をしている。
それは、むしろパルスィに深く関係する内容であるように思えた。
「私の陽気さが妬ましいんだ、パルスィは。――自分が陰気だから、自分が持ってない要素を初めから持ってる私に嫉妬して、遠ざけようとしてる。あんまり私を見続けていると、自分が惨めになっちゃうから。自分の暗さが際立つから」
罵られているはずなのに、彼女の台詞は不思議とパルスィの胸に落ちた。
確かに、パルスィは彼女に嫉妬していたのだろう。髪の色は同じなのに、その質には雲泥の差があり、愛嬌は比べようもない。比較すればするほど、自分がどれほど不足しているか思い知らされる。
だから、他人の存在など不要なのだ。
傷付けるための自分さえいれば、他に何も要らなかったのに。
彼女は、誇らしげに自己紹介をする。
「黒谷ヤマメ。私は、病を操る土蜘蛛の類」
今度はちゃんと覚えてね、とヤマメは可愛げのあるウィンクをしてみせる。
パルスィは、なるべく早く忘れてやろうと心に誓った。
「でも、いいよね。嫉妬するのが似合う女っていうのも、貴重だと思うよ。橋姫だからかもしれないけど、やっぱり綺麗なひとは性格が悪くないとね。釣り合わないよね、いろいろと」
ただ立ち尽くしているだけの分身を見て、ヤマメは底意地の悪い笑みを投げかける。パルスィも自らが生み出した分身を一瞥し、寸分の違いもない我が身を分析する。
それを美しいと思うことは自惚れになる。自分の美貌に嫉妬できるほど、パルスィは盲目的ではなかった。
どこまでも嫌われ続けるパルスィの分身。傷付けると同時に傷付けられ、その傷痕を舐めるのも自分自身。世界の輪が完結しているように見えるのは、何のことはない、参加者も、観客も、ただ一人しかいないからだ。
たったひとりしか、いなかったからだ。
「パルスィ」
正確な発音で、ヤマメがパルスィを現実に引きずり出す。
目を覚ましても、洞窟の視界は狭く、目の前の土蜘蛛しか見えないけれど。
自分ひとりしかいない世界より、随分と明るく映った。
「難しいことじゃないさ。自分を相手に愚痴るより、他人に愚痴った方が発散できるってもんだよ。――いやなに、多少の毒なら身のうちで分解できるさ」
自身の胸を叩き、パルスィの苦悶を容易く笑い飛ばす。
つられて笑ってしまえるような健全な精神など、初めから持ち合わせていない。だから、パルスィは静かに目を伏せる。何を言うべきか考える。突っぱねるのは簡単で、いつもやっていることだからとても楽だった。けれども、あまり楽しくはない。水橋パルスィにとって何が楽しいことなのか、それは追々考えることにして。
まずは、この明るい病を振りまく土蜘蛛に、橋姫として気の利いた言葉を。
「ヤマメ」
忘れようと思った名前を、喉の奥から引っ張り上げる。
ヤマメは、期待に満ちた目をパルスィに向けて、次にパルスィの唇から発せられる言葉を待っている。
だが、彼女は気付いていない。
水橋パルスィが橋姫であり、橋姫にとって、全ての言の葉は呪言になり得ることを。
「あなたの名前。覚えたから」
そう言って、低く重たい笑い声を放ち、左手を払ってみずからの分身を粉々に打ち砕く。
分身はもう要らない。呪う相手なら、目の前にいる。
いつか呪いが自分自身を殺すとしても、それが橋姫の本懐ならば、最後の最期まで意地汚く笑っていたい。闇を取り込む金色の髪で、苔の色に似た緑色の瞳で。
「――は。上等だよ」
ヤマメはかすかに息を呑み、またすぐに、口の端を歪めて笑った。
土蜘蛛に似合う、粘つくようなしつこさで。
このやり取りがたまらない。