姉のことが好きか嫌いかと問われれば私が「大嫌いだ」と答えることは月が昇ることのように当たり前のことだ。かと言って、実は月を見たことなんてあまりないのだけれど。
「フランは良い匂いがするねぇ」
なんてセリフが上品だと思っているんだろうか、コイツは。
ベッドに腰掛けて只今私は読書中。
一方姉は現在、私を後ろから抱き抱えて読書の邪魔をしてくれやがっている真っ最中だ。
三文字で言うなら“ウザい”。
五文字で言うなら“ころしたい”。
そんな気分である。
「ねぇお姉さま。ウザいわ」
とりあえず三文字の方から言葉にしてみた。遠慮をしたわけじゃない。単純にコイツに対して口を動かすのが億劫なだけだ。世の中はエコの時代。無駄なエネルギーは使わないに限る。
「フランは可愛いわ」
そんな私の世界への配慮に満ちた心を真っ向から無下にするのは流石といったところか。ウザいと言われてなんで声を甘くするの。なんで腰に回した腕をキツくするの。殺してあげようかしら。
右手を本から離して腰に回された腕を掴もうとして、面倒になって再び本に右手を戻す。
そしてページを一枚めくる。
姉は別段ナニをしてくるわけでもない。ただただ抱きついて愛玩に更けるだけだ。
殺すよりも無視をした方がエコなのは明白だろう。
コイツの血でベッドを汚したくないというエゴもあることだし。
さ、無視無視。
読書読書。
「愛してるわ、フラン」
そんな安い言葉で私が本から顔を向けるとでも思っているのだろうか。
そも、コイツが私に向ける愛だなんてものがどれほどに悪寒の走るものなのか、どうして私以外の者に理解されないのかが甚だ分からない。
時折こうして私に触りに来るのはペットと遊ぶのと同様の行為でありそこに双方向に行き交う感情と言うものが存在していない。いや、私がペットだというのも疑わしい。コイツの一人遊びの為の玩具というのが妥当だろうか。されるがままで、時折反応を返すだけの玩具。それはそれでまぁまぁ立派なものなのかもしれない。幾ら金銭を積めば手に入る代物なのだろうか。
あぁ、なんだか凄くムカムカしてきた。
心は冷え切っているのにコイツが密着してくるおかげで身体は無駄に熱い。不愉快極まりない。愛だなんて言葉があまりにもチープ過ぎて拒否反応が生じる。ホラ、右手が震えてきた。
あぁ、もう。
「ねぇ、離れてよ」
「嫌よ?」
満足するまで玩具を離さないのは子供の性なのかどうかなんて知らないけれどコイツはウザい。寒い。熱い。殺したい。
あぁでも、コイツの血の匂いが部屋にブチ撒けられるのはマジで勘弁だなぁ。それを分かった上で私にちょっかいを出してきているのだろうか。いや、コイツにそんな脳みそが有る訳がないな。うん。けれど結果的に私は抵抗の手を封じられているわけで、どうにかしてコイツを舌で以ってして引き離さないといけないわけだ。めんどくさいなぁ。本当に。助けてよ、神様。
「フランは知っているかしら。人と人との間には『引力』があるということを」
いきなりなに言ってんだコイツ。
「だから、私とフランがくっ付き合うのは自然の摂理に則ったことなのよ」
あぁ、はいはい、なるほど。
分かった。
そのセリフを言って私からカッコ良く思われたいが為にコイツは今日こんなことをしに来たのか。
なんとも、くだらないことでありますこと。
そんな塵の如き軽い虚栄心の為に私を抱き締めているのだと分かると私は、途端に冷え切っていた心に熱が戻るのを感じた。
口元が笑みを作るのも自覚できた。
「その言葉は確か、ジェイムズ・ジョイスが著作『ユリシーズ』に記した言葉だったと記憶しているわ?」
サラッと言う私。『ユリシーズ』を読んだことはないけれど、それは私の知識の範囲内のことなのである。
残念ね、お姉さま。多分貴女が私に自慢できることなんて無いのよ。そろそろ自覚してほしいところだわ。
後ろにあって顔は見えないんだけれど、どうせ落胆していることでしょう。
カッコつけるタイミングを逃して狼狽していることでしょう?
あぁ、なんて滑稽なのかしら。
「……ふぅん? フランは勉強熱心なのね。偉いわ」
なんて声が少し高い調子で発せられるものだから私はおかしくて堪らない。
でも笑ってあげるのも癪だから、代わりに私は背から生えてる羽をパタパタと動かしてあげる。
宝石がお姉さまの顔にあたってなんだかとっても楽しい心地。
今なら抱き締められたって殺したいだなんて思わないかもね。
あぁ、でもやっぱりウザいとは思うだろうから、やっぱりお姉さまにはいなくなってほしいかな。
「ねぇお姉さま? お姉さまは『斥力』って知ってるかしら?」
ショートケーキにフォークを突き立てるように発せられた私の言葉にお姉さまは「うーん」と軽く唸って、
「知らないなぁ」
だなんて言うから私は「ふふん」と軽く笑ってしまう。
そうして私は目を瞑り、右手の人差し指をスッと差して、得意になって言の葉を紡ぐ。
「斥力とは引力と反対の性質のもの。同様の特徴を持つ二つのものの間に発生し、その二つのものを互いに遠ざけようとする力のことを言うのよ」
「へぇ」
後ろを振り向かなくても分かる。今のお姉さまはきっと目を丸くしないように必死で澄まし顔を作っている筈だ。なんて愉快なこと。クスクスと、笑い声が私の口から漏れてしまう。でもまぁ、それもそれで良いかな、なんて思ったり。
「お姉さまと私は血を分けた姉妹。ならば、斥力が発生するのは当然じゃなくて?」
ふたりだけの空間に声が響いた。
もちろんそれは私の声であり、終末に鳴るラッパの音でもあった。
ふたりの時間の最後を告げる声なのである。
「まぁ、そういうことにしておいてあげようか」
その声はめでたくお姉さまに受け入れられたようだ。
背に感じる熱が消え、腹部にあった手の感触が消える。
シーツの擦れる音が静かに響き、そして床に置いてあった靴に足を入れるお姉さま。
瞬間、ポン、と頭の上に手が置かれた。
「それじゃまた来るから、それまで良い子にしているのよ?」
そう言った顔が、何にも考えていないと思える程に満足したような笑顔で、それが凄く幸せそうで、
「別に来なくていいんだけどさぁ」
だから私は目を逸らして中途半端な言葉を呟くことしかできなかった。
そしてお姉さまは私の頭から手を離し、こちらを見ることなくドアまでコツコツと音を立てて歩いて行き、そしてやはりこちらを振り返ることなくそのままドアを開けて出て行ってしまった。
二度と来るな、と言えば良かったなぁ。
なんて考えながらベッドに背を落とす。
「いや、言っても無駄かぁ」
なんとなしに言葉に出すも答える声なんて無い。
そもそも答えは私の中に既にあるのだ。
声に出すまでもない事実。
お姉さま。永遠に紅い幼き月、レミリア・スカーレット。
それは本当にどうしようもない生き物で、私を愛する為なら引力も斥力も、そして私の言葉も関係無しに私に近付いて来るに違いないのだ。
あぁもう。
本当に、もう。
一度頭を振って癪な想いを振り払い、そして起き上がる。
中断された読書の続きをしようと思い本に目を向けると、さっきまで開かれていた筈の本はいつの間にか閉じた状態でベッドの上に落ちていた。
勿論しおりなんて挟んでいなかった。
私はドアに向かって本を投げつけた。