注:今回はデュエルしません。
―――白玉楼。
現世と境界で隔たれた幽世。生ある者が死に別れ、肉体から乖離した魂の行く末は閻魔大王の采配に委ねられる。幾層に分けられた冥界、その一部を人は地獄と呼び、あるいは天国と呼ぶ。
その冥界の中でいて一際異彩を放つ、日本建築の髄を尽くしたここ白玉楼は、しばしば〝桃源郷〟と比喩される。
隅々まで手入れの行き届いた芝、苗木。春には春眠より目覚めし千本の桜が雅と咲き乱れ、夏には遣水のせせらぎ傍ら曲水の宴が催され、秋は紅葉が鮮烈なまでの色彩を放ち、冬は雪時雨そそぐ縁の淵で望月を尊ぶ。
顕著であるこの中庭は、古式日本庭園に基づいた伝統的空間構成に落ち着いている。池泉を中心に築山を築き、そこに庭石や草木を配して山紫水明を表現している。自然が人間と対立し克服すべき対象となるのではなく、自然の中に溶け込み、また自然に従うという作庭家のこだわりが、随所に先駆的表現として光っている。建築と庭とを一体化させることで、場面や奥行きを生じさせ、日本の美意識に通じる空間構成に至っている。
……そう、確かに美しい。ここが天国と呼ばれるべきかどうか……それは些細な問題であろう。
しかし、もし自分にそう問われたら、告げる答えは否に違いない。
西行寺家現当主の西行寺幽々子は、しな垂れかかるように縁側の柱に肩を寄せていた。
この白玉楼は直上から見て、ちょうどアルファベットのH字の構造をしている。二つの棒を繋ぐこの廊下の縁側からは、広大な枯山水の中庭が見渡せていた。
「はぁ……」
ぽつり、と一つの溜め息。
宵の口の置き土産か、ときどきつむじ風が起こって、落ち葉を虚空へ舞い上げようとしている。この庭は未熟だが努力家の庭師のおかげで、どこもかしこもやたら手入れが行き届いている。だからきっと、落ち葉ではなくどこかから飛ばされてきた葉だろう。今の溜め息も、踊る気流に掬われ、すでにはるか遠方の彼方で四散してしまっているのだろうか。
で……中庭の真ん中では、その専属の庭師が突っ立っていた。
厳密に言うと、ただ突っ立っているのではなかった。目を閉じ、そしてやや腰を落とし、腰に納まった刀に右手かけて静止している。いわゆる抜刀術の構えだが、剣術がわからない―――というよりさして興味が無い―――幽々子には、やはりただ突っ立っているようにしか見えなかった。
またふいに突風が走り、地面の木の葉が宙へ巻き上がる。かっと目を見開き、その庭師は刀を走らせた。軌跡の通った閃きに、真っ二つに裂かれた葉が舞った。
で、再び鞘に刀身を戻す。目を閉じる。腰を落とす。さっきからこの繰り返しだった。幽々子にとってしてみれば、その光景はこの秋百回目のことで、下手をしたら百回では済まないぐらい見せられていた。確かに素人目にはそこそこの芸かもしれないが、こうも何度となく見せられては、まるで池の鯉でも眺めている心地だった。
この庭師は未熟だが、一応幽々子の剣の指南役でもあるので、週に一度ほどこうして稽古をつけられる。しかし稽古というと立派だが、当の幽々子にさっぱりやる気が無かった。だいたい、どうして自分が剣術など覚えなければならないのか。なにせ自分は亡霊、とっくの昔に死んでいる。死んでいるから、護身術など糞の役にも立たない。そもそも護る身自体が無いのだから当然である。となれば幽々子にとってそれは、妖夢がいくら熱心に指導してみせたところで、ただ刃物を振り回している子供にしか見えないのだった。鯉を眺める心地にもなるというものだ。
ところで……あんな枯れ葉がそこらに舞っているということは、もう冬も間近だった。なにしろもう十二月だ。十二月にもなれば、冥界にも寒気が満ちる。寒気が満ちれば、動物は冬眠する。冬眠といえば……あと何があるだろうか。
あった。紫だ。八雲紫は冬の間際、異次元のどこかに隠れて冬眠する。時期でいえばそろそろだろう。
そろそろ、ということはつまり、〝今この時点〟では、まだあいつは冬眠に入ってはいないということだ。にもかかわらず、最近あのすきま妖怪はさっぱり姿を見せない。布団が恋しくなって外に出られないのか、それともいい加減幽々子の性格に愛想をつかしたのか……。どちらも十分に考えられるのだが、今回に至っては、他に真っ先に考えられる理由がある。
その理由とは、数ヶ月前に発生したとある事件に端を発する。簡単に言えば、紫はその事件の首謀者だった。そしてその目論見を阻止されたあいつは―――阻止されることまでが紫の目論見でもあったわけだが―――、その際持てる力を使い果たし、しばしの眠りに就くことを余儀なくされた。冬眠ならぬ秋眠である。きっと今も異次元に布団を敷いて、中にくるまって亀みたいになっていることだろう。いつ首を出すかまでは、幽々子は知らない。
「一万年かかったりしてね。亀だけに」
庭師の魂魄妖夢は、もの凄いしかめ面をして止まった。
「なんです?」
「なんでもないわ。亀だけに」
「わけわからんこと言ってないで、今、ちゃんと見てました?」
「何を?」
「……見てなかったんですね?」
「見てたわよ、ちゃんと」
「じゃあ、何をです?」
「強いて言えば、池の鯉かしら」
しばらくジト目をくれていた妖夢だったが、やがて付き合うだけ無駄だと思ったらしい。妖夢はひょいと肩をすくめ、ストンと落とした。
「仕方ないですね。もう一度初めから教えます。幽々子様に、ちゃんと聞く気があればですけど」
「無いからしなくていいわよ」幽々子は端的に言ってやった。
「わかりました。じゃああとは私が一人で鍛錬させてもらいますから、邪魔しないでくださいね」
幽々子は軽く手を振って了解の意を示したが、すでに妖夢はあさっての方向に素振りを始めていた。こちらに顔を合わせないようにしているようだが、あれは別に怒っているわけではない。ちょっとばかし拗ねているだけだ。こいつは子供なので、いつものことだった。魂魄家の指南役は血筋なのか代々口うるさい奴が多いが、妖夢の事はかわいいので好きだった。
「ねえちょっと」仏頂面の横に呼びかける。若干小首を傾げて訊ねるのは、茶化す時の癖だった。「最近遊戯王してる?」
「なんです?」言いつつ、妖夢は見向きもしなかった。
「遊戯王」
「遊戯王?」
「誰かとデュエルしたかって訊いてるのよ」
「んな暇ありませんよ。だいたい、いつも一緒にいるんだからわかるでしょう?」
「最近また流行ってきたらしいの」
「そうですか」
「第二次ブームってところね」
「そりゃ、一度流行れば二度流行っても不思議じゃないでしょうね」
「……本当にそう思う? そもそも、前のブームはあの鬼の能力で引き起こしたのよ」
「なら今回もそうなんでしょう」
「あんた最近萃香に会った?」
「あんな人に会いに行く暇があるなら、山に山菜でも摘みに行きますね」妖夢は明らかに話に乗り気でなかった。
「わたしね、この前その辺の幽霊を使いにやったの」
ピタリと、妖夢は振る腕を止めた。幽々子に目をやり、「どこに?」
「萃香のとこ」
「なんでそんな勝手なことしたんです?」
「気になるじゃない」幽々子はにっこり笑ってやった。「で、あの鬼はなんて言ったと思う?」
すでに妖夢は素振りを再開していた。「さあ」
「こうよ。『知らない』」
「知らない」妖夢は刀を振りながら無感動に繰り返した。
「今、巷でおこっている流行はあいつの仕業じゃなかったのよ。とすれば、別の誰かがよからぬことを考えているのかもしれないわ」
「考えすぎでしょ。ただ普通に流行ってるだけかもしれないじゃないですか。あるいは、あの鬼が嘘をついてるのかもしれません」
「嘘をつく理由がないじゃない」
「流行りにも理由なんてないもんですよ」
そうどうでもよさそうに告げる妖夢だったが、ふと手を休めると、妙に深刻な調子で呼んだ。
「ねえ、幽々子様」
「あによ」
「デュエルモンスターズはやめましょうよ。前に紫様がえらい目に遭ったのを忘れたんですか」
幽々子はわざとわからない振りをした。「えらい目?」
「ボロボロになって死にかけた目に遭ったことですっ」
「ああ、あれね」ひょいと幽々子は肩をすくめた。「別にいいじゃない。むしろあいつがあそこまでコテンパンにやられるなんて、貴重な経験でしょ。というか、自業自得だし」
「あれには幽々子様も一枚噛んでたんでしょ? 最初から全部知ってたらしいじゃないですか」
「噛んでたというなら、一枚じゃ足りないくらい噛んでたけどね」
「いいですか、幽々子様」ウン、と一拍咳払いを打つ。そのもったいぶった口調には、さあ聞きなさいというニュアンスがあった。「一歩間違えればああなってたのはわたし達だったかもしれないんですよ? とても危険な事なんです。あなたもそれはおわかりでしょう?」
幽々子はそっぽを向きながら、「まあね」
「幻想郷ごと無くなってたかもしれないんですよ?」
「かもね」
「あそこで霊夢達が止めなければ、紫様の暴走が求める矛先は外の世界へと向いたでしょう。そうなれば最悪、人類は未曾有の危機に瀕していたかもしれません」
「人類とはまた話がデカいわね」
「デカくて結構なんです。幻想郷がこの世界の全てだなんて、狭量な考えではいけません。博麗大結界の向こうある外界は、我々の知る以上に遥か広大なのです。だいたいもとはといえば、デュエルモンスターズだって外の世界の産物じゃないですか。自分はとっくに死んでるから関係無いわなんて、おちゃらけた考えじゃいられないんですよ。いいですか、それというのも、かくかくしかじか……」
いささか辛辣な物言いだが、要は心配しているらしかった。妖夢がこういう反応を示すのは予想通りだったので、幽々子は耳の穴を小指でいじりながら聞き流していた。
しかしまあ……この娘が神経質になるのも無理ないことだ。未曾有の危機というのは、あながち誇張すぎる表現ではない。
八雲紫という妖怪は、ただの妖怪にしてはあまりに規格外な力の持ち主だった。純粋に底が知れぬほどの妖力がありながら、万物の境界を自在に操るという神にも等しい能力を持つ。その能力は、正しく使えば幻想郷という一つの世界すら創造することもできるが、間違って使えばその世界を容易に破滅へと導いてしまう。
これまで紫は、その力を正しく使っていた。紫は幻想郷が幻想郷として外の世界より分かたれた、その瞬間に立ち会った数少ない創始者の一人である。そして影ながらではあるものの、博麗の血族とともに、博麗大結界を守護する存在として掌理する立場にあり、助力を惜しまなかった。時が経ち博麗の血統も薄れ、今やその使命すらも希薄になりつつあるが、それでも紫だけは尽力を続けてきた。
そのことについて、紫は幽々子には何も言わず、ただそれが自分の天命であるかのように振舞っていた。自分のためにではなく、幻想郷のため。ひいては、それが自分のため。例えるならば紫の幻想郷に対する姿勢は、母と愛する子といっても過言ではない。少なくとも、幽々子の瞳にはそう映っていた。
しかし、その過剰なまでの献身が、紫自身に無理を与えているのは明らかだった。妖怪だから体力は放っておいても回復するが、精神力はそうもいなかい。大結界を維持するために、紫は寝ている間にも妖力を消費し続けている。そもそもあいつの睡眠時間が過剰なまでに多いのは、それだけ自分を酷使しているからに過ぎない。
精神の疲労は時が経てば自然に薄れるが、逆に言えば、時間が無ければ決して癒えはしない。にもかかわらず、紫の心には、癒える間もなく積み重なっていく一方だった。紫にもその自覚はあったようだが、どうすることもできないことだった。紫は自分の心の底に澱む滓を、〝闇〟と呼んだ―――ちなみに、今風にいうとストレスともいう―――。
〝闇〟は紫を侵食し、精神を完全に支配した時、次は外に溢れ出ようとする。数百年に一度起こる、妖気の暴走だ。―――今風にいうと、ストレスの発散、あるいはガス抜き―――。
紫に限らず、精神を持つ者ならば例外なく必要な行為ではあるが、規模を間違えればそれは無差別大量破壊に成り代わる。紫があの規格外の能力を余すことなく解放したら、人類どころか世界の理からどうにかなってしまうだろう。
幽々子が知る限り、この〝暴走〟は前回の件を除けば過去に二度あったが、幽々子はその場には立ち会っていなかった―――一度目はちょうど温泉に湯治に出かけていたし、二度目は気づいたら寝過ごしていた―――。しかしその後の現場の様子を見る限り、被害は散々たるものだった。家屋は吹き飛び、地盤はめくれ上がり……台風が三度通ったとしてもこうはいかないという有様だった。
だが後に紫が言うには、それでもまだ抑えられた方だという。だが、その声は重かった。紫は続けた。自分の中の〝闇〟は次第に勢力を増している。もし次に〝暴走〟が起こった時は、止められないかもしれない、と。確かに幽々子の目から見ても、一度目より二度目の時の方が、現場の被害は大きかったように感じられた。
かくして、その〝次〟はやってきた。失敗すれば、幻想郷は壊滅に陥る。究極の選択、紫はその絶大な〝闇〟の力を解放する手段として前回、デュエルモンスターズを選んだ。
〝闇〟にとらわれた自分を、完璧に打ち負かすこと。紫が言うには、そうすればもう二度と〝闇〟が生まれることは無くなるという。方法は何でもいい。ただ、自分を倒す可能性が幾ばくかでもあるのなら。
そんな中、紫が唯一選んだのが、デュエルモンスターズだった。
デュエルモンスターズとは、外の世界で一世を風靡したというカードゲームだ。数ヶ月前、博麗神社にて幻想郷全土を舞台にした大会が執り行われた。その大会を利用して、目的の達成―――すなわちガス抜き―――を目論んだのだ。
で、最終的にどうなったか……。選ばれた資質を持つ五人のデュエリストと世界を秤にかけた死闘を演じ、紫の無意識に眠る〝闇〟は消滅した―――あるいは、ストレスが解消された―――。
ちなみに、なぜ世界の命運をただの紙切れなんぞに託して戦ったのかは、一応ちゃんとした理由がある。とどのつまり、止むに止まれぬ事情があったということだ。
とにかく、今あいつは一度に力を解放しすぎた反動で、先に述べたように休眠を余儀なくされている。大会の数日後、博麗神社にて紫のための慰労会が催されたのだが、結局あいつは姿を見せなかった。まさかと不安がよぎったが、代わりに式である八雲藍が、わざわざ説明のためにやってきてくれた。彼女によると、決して命に関わるような状態ではないという。妖力を使い果たした反動が、思いのほか激しかったらしい。紫ほどの妖怪が全ての妖力を解放するとなると、その反発も想像を絶するのだろう。
しかし協力者として―――そして唯一の友人として―――付き添ってきた幽々子から見れば、紫を苛んでいたのは肉体的な要因だけでなく、精神的な部分も大きかったように感じられた。幻想郷を最も愛する自分が、その手で幻想郷を破壊してしまうかもしれないという恐怖。紫一人の肩にはあまりに重過ぎる重責。そのうえで下さなければならない苦渋の決断。それらの苦しみの輪廻を延々を巡り続けていた紫に、真の意味での解放が訪れた。あの事件を経て、初めて紫は安心して心を休めることができたのだろう。張り詰め続けて細い弦にようになった神経が、ようやく緊張から解放されたのだ。紫の身を案ずるならば、今一時だけでも、気が済むまで眠り続けていてほしい。そう思うべきだろう。
いったいいつになったら目覚めるのか、あれから紫には会っていない……
説教を続ける妖夢に気づかれないように、幽々子は小さくつぶやいた。
「……ため息もつきたくなるわ」
加えて、幽々子は退屈だった。
今妖夢に話した、再び巷でデュエルモンスターズが流行りだしたという件……実は、全て本当のことだった。聞くところによると、ブームの火は大地の垣根を飛び越え、地底にも及んでいるらしい。日の光すら届かない地の底で、黙々とカードゲームに勤しむ妖怪達。まるで馬鹿みたいな光景だが、ブームというものはすべからく、只中にいる間はその馬鹿さ加減には気づかないものだ。
できるなら、自分も自らから渦中に飛び込みたい。馬鹿になってしまいたい。その方が楽しいならそうする。このくだらない退屈となら、秤にかけるまでもない。寿命が無い幽々子が享楽主義に傾倒するのは必然的だった。
しかしながら、幽々子にはそう安易に飽楽に浸ることのできない理由があった。先の大会でもたびたび問題になったのだが、幽々子は興奮すると我知らず能力を使ってしまうのである。
幽々子の能力は生者を死に至らしめる能力で、人間だろうが妖怪だろうが問答無用であの世に送る。相手がどんな屈強な豪傑だろうが関係無い。幽々子の意思一つあれば、まさに花を摘むよりも容易に生命が刈り取られる―――いわゆるソウルスティールというやつである―――。
ちなみにこのシャレにならない能力は、かつて人間だった幽々子が亡霊となってから得た力だ。幽々子が望むと望まざると、転生して気づいたらこんなけったいな力が備わっていた。迷惑千万である。
しかし、幽々子は生き物に死を与えることはできても、生を与えることはできない。ただ一方的に黄泉へと誘い、帰りの切符を切ることはできない。自身の力の重さを重々に理解している幽々子は、安易にデュエルすらさせてもらえない。楽しくなった頃には、相手が知らぬ間に昇天しているからである。生きている者とは遊ぶことができないのだ。
かといって普通の幽霊や亡霊は、実体が無いのでカードを扱うことすらできない。なので、幽々子とデュエルできるのは、能力の効かない紫か、この妖夢くらいしかいないのだった―――妖夢は半霊なので、半分の時間くらいなら我慢できる―――。
「はぁ……」
……何か、面白いことは無いかしら。
幽々子は退屈だった。自分もデュエルをしたいが相手がいない。唯一友人と呼べる紫は異次元に引きこもっているし、妖夢はこの通り堅物で口を縦に振らない―――こいつは絶対B型だと思う。半分幽霊に血が流れていればの話だが―――。
どこかへ出かけようか。だが幽々子は閻魔大王から冥界の幽霊を管理する責務を負わされているため、軽々しく白玉楼を離れるわけにはいかない。責務というと忙しそうに聞こえるが、霊は基本的に静かなので実際はまるで手はかからない。ということはつまり、幽々子はほとんど仕事らしい仕事をしていなかった。だが一応仕事をしているという名目は必要なため、ポーズとしてここにいなければならないのだ。結局幽々子のすることといったら、日がな未熟な庭師ををからかう―――なじるともいうが―――ぐらいしかないのだった。
ところで、その庭師のくだらない高説はまだ続いていた。
「……まるまるうまうま。ということです。おわかりいただいてます? いいですか、古来より剣道とは耐え忍ぶを仁とし……」
もう何十分喋りとおしているだろう。にもかかわらず、未だ終わる気配は毛ほども無いようだ。この半人半霊は半人前だけに、二言目には鍛錬鍛錬と口さがない。だいたい自身を鍛えるにも、効率というものがあるだろうに。こいつときたら闇雲に刀を振り回すか、出会い頭に辻斬りするのを鍛錬と勘違いしているらしい。
幽々子の見る限り、妖夢に足りていないのは、技術ではなく精神的なものだった。なにせこの娘、見た目は子供だが、中身も子供である。思慮が浅いわけではないのだが、子供らしく純真で、行動も短絡的かつ直線的だ。また、先代の魂魄妖忌からの教えらしいが、なんでもとりあえず斬ってしまえば解決すると思っている。とんだ教えもあったものである。
そういったメンタル面を鍛える意味でも、デュエルモンスターズは最適なのに……。それを妖夢はわかっていない。幽々子はひょっこら肩をすくめた。
「……故に理業兼備の修行、日夜怠慢なければ、十年の修行は五年にて終わり……って、聞いてます?」
すくめた肩が気に障ったらしい。妖夢は咎めるようなジト目をくれていた。
「何が?」
「何がって……」
いいかけたところで、一際強い突風が吹き荒れた。妖夢はスカートを抑えたり、枯れ葉がほっぺに直撃したりで大変だった。会話が打ち切られたのでこれ幸いと、幽々子は身を翻して踵を返した。
「お、お待ちください」
慌てて妖夢が声をかけてくる。幽々子はくるりと首を向けて、「じゃあ、デュエルしてくれる?」
妖夢はたっぷり二秒ほどため息を吐いた。
「だからダメですってば……」
「ケチね」
「いいですよ、ケチで」と、ここまでぶっきらぼうに告げたところで、妖夢の声は気色悪い猫なで声に豹変した。「……ねえお願いしますよぉ。わたしはしがない庭師なんです。お勤めを欠かしたらクビだし、ほったらかしてカードゲームなんてしててもクビなんですよ。それに一応わたしは幽々子様の警護役なんですから、主人をホイホイ危険にさらすわけにはいかないんです。幽々子様の身に万一のことがあったら、先代の方々にも会わせる顔が無いんですよ。ね? ですから大人しくしてていただけませんか。せめてそのブームだかが終わるまでで結構ですから」
妖夢は眉を情けないハの字にして上目遣いしてきた―――この娘はどこでこんな総会屋みたいな泣き落とし方を覚えたのだろう―――。
「ああもうハイハイ、わかったわよ」幽々子は鬱陶しげに妖夢の能書きを追い払った。「デュエルもしないで、人形みたいに大人しく家にいろっていうんでしょ。それで満足?」
「満足です」
満足らしい。幽々子はこの呆れるような現金さがうらやましかった。あんまりうらやましかったので、ははと鼻笑いしながら、呆れるように首を振ってやった。オフサイドの旗でもあげられてるみたいだった。
「さ、わかってくださったなら、鍛錬です鍛錬」
かまわず妖夢は幽々子の体をひっくり返して、背中を押しにかかった。
そこで幽々子は空間に固着させていた肉体を、概念的に切り離してやった。つまり一時的に、体を物理的に透明にして干渉できなくした。結果、妖夢は幽々子の体をするりと抜け、顔面から砂利の上に突っ込んでしまった。
「前から思ってたんだけど、なんでわたしが剣なんか覚えなきゃいけないのよ?」
顔を上げた妖夢は、涙目になって鼻頭をおさえていた。「わたしゃ知りませんよ」
「知らないで今まで教えてたの?」幽々子はカッと痛快げに笑った。
「先代からは指南というお勤めと警護の任を引き継いだだけで、それ以外の事は何も聞かされてないし命じられてもないんですっ。どうしても知りたければ先代に訊いたらいいんですっ」
「あのじじいどっか逃げちゃったわよ」
「なら諦めるしかないですね。さ、ぐだぐだ文句垂れずに稽古の続きをしましょう」
「だいたい、あんたわたしより弱いじゃない」
「仕方ないでしょうよっ」禁句だったらしい。妖夢はついに悲鳴をあげた。「弱かろうがわたしはそう命じられた以上はやるしかないんですっ。すでに主人が故人だろうが亡霊だろうが、警護しろと言われりゃしなきゃいけないんですっ。だから幽々子様も、おとなしく警護なり指南なりされててくださいっ」
台詞の尻に唾でも飛ばすような勢いだった。幽々子は途中から目を閉じて顔をしかめていた。
「警護されてろなんて言い分があるかしら」
「無くてもいいんですっ」
だんだん面倒くさくなってきた。ということは、このやりとりももう、この秋百回目なのだった。妖夢はクビがかかると意外と強情になるので―――誰でもそうかもしれないが―――、こうなると適当なところで幽々子は折れてやることにしていた。
「わかったわよ。気の済むまで警護でもなんでもすればいいわ」
「これからするのは稽古の方ですけどね」
……ほんと、退屈。何か唐突に、面白い閃きでも頭に降って来ないものやら。
「あーあ、明日の夕食は鯉料理にでもしようかしら」
*
―――白玉楼。
荘厳に鎮まりながらも幻想的なこの建築物は、あらゆる美辞麗句を並べ立てられても言葉の遜色が無い。いつしかこの屋敷は、人知れぬ魂達の間でしばしば〝桃源郷〟と字名されるようになった。
だが、冥界にも雪は降る。あの世だろうがどの世だろうが、四季は存在するのだ。
ここ白玉楼も例外ではない。となれば、桃源郷だろうがなんだろうが、降雪に伴う対処はしなければならない。具体的に言えば、衣替え、雪かき、雪囲い、エトセトラ……
ふいに感じた微風に含む冷たさ。その肌寒さにそう遠くない季節の到来を予感した魂魄妖夢は、一人うんざり、ため息を放った。
もう十二月か……。
振り返ると、なかなか忙しない一年だった。今年もいろいろあった。異変には事欠かない幻想郷だが、先だって発生した事件は、少々事情が違った。いつもなら大概の事はスペルカードで解決するのだが、どういうわけかカード違いだった。突如巻き起こったデュエルモンスターズブーム、その流行の荒波に、幻想郷の妖怪達は乗りに乗った。その勢いはまさに留まることを知らず、月面出身の姫、蓬莱山輝夜の手によって、ついに大会まで開催された。その果てに幻想郷をまるごと消滅させかねない未曾有の危機に発展してしまったのだが、その危機は妖夢がしどろもどろしているうちに解決されてしまったらしい。
とはいえ、規模が規模だっただけにさすがに各々反省はしているようで、あれ以来なにか騒動を起こそうとする不遜な輩は現れていない。デュエルモンスターズの方も、隆盛を極めていた当時と比べて、今では道端でデュエルしている光景も見られなくなっていた。
……と、妖夢は思っていたのだが、今日幽々子が漏らした戯言によると、最近また妖怪達の間でやられるようになってきたらしい。
これはまたしても、誰かの陰謀か、はたまた……
……なんてことは、妖夢はちっとも思っていなかった。流行? 大いに結構じゃないか。何事も全部カードゲームでカタがつくなら、それに越したことは無い。だいたい、萃香の能力が無ければ、恣意的な流行を作り出すことは不可能なのだ。
前回、なんで幻想郷のような異郷の地でカードゲームが流行ったのか。どうやって流行らせることができたのか、というと、それは伊吹萃香の萃と疎と操る力によってだ。彼女の事象を集め、分散する能力は、何も物質的なものに限らない。人の気質、すなわち精神の浮き沈みまでその気になれば思うが侭だ。彼女はその能力で、一大ムーブメントともいうべき流行を引き起こしたのだ。幽々子はああいうが、他に簡単にブームをつくり出す方法などありえないと断言できる。その萃香が違うと言っているならば、自然に起こった以外に無いではないか。
それよりも、と妖夢は思った。またデュエルモンスターズブームが起きたとして、問題はそれを利用する輩がいるやもしれぬということだ。特にカードゲームのようなものの場合、その性質上悪用されやすい。賭け事にも発展しやすいし、トラブルの温床となり得る。不穏な輩が便乗するのは簡単だ。
いざとなれば……まあいつものとおり紅白やら白黒やらがでしゃばってなんとかするのだろう。こちら側には関係無い。だが、もし幽々子様に危害が加わるようなことがあれば……
…………。
なんてね。
ここまで一人考えて、妖夢はひょっこら肩をすくめた。まあ、真剣に悩むほどこちらも暇ではない。しょせんたかがカードゲーム、遊びの範疇だ。遊びをいちいち真面目に捉えてなんかいられない。そんなことより、今日明日の夕飯の献立をどうするか。そちらの方がよっぽど頭を悩ませる。
ところで……妖夢にはもうひとつ気がかりなことがあった。他でもない、主である西行寺幽々子のことである。
最近の幽々子は、どういうわけかひどく腑抜けていた―――もともとそうだったかもしれないが―――。青空を見上げながらため息などついたりして、まるで恋でもしてしまったかのような有様である。まさか本当に想い人ができたということはないだろうが、とにかくどこかおかしいのだ。ぽんやりしているのはいつもの事ではあるが、どこか物思いにふけっているようで、たまにこちらの相手をしても生産性の無い毒を吐くだけで、あとはヘラヘラ笑っている。時折目を閉じて首がちぎれそうなほど傾いているが、考え事をしているのか、ただ居眠りをしているのか判断がつきかねた。どうやら我が主は、季節遅れの五月病か、閉所恐怖症にでも患ってしまったらしい。
まあ……気の病なら放っておけばいずれは治るだろう。鬱病の治療には根気と長い時間が必要だが、すでに寿命の概念すらない幽々子にとっては、時間なんて掃いて捨てるほどある。少し気にはなるが、結局こちらもたいした問題ではないのだ。そうに違いない。
さて、今日の夕飯は何にしようかしらと、妖夢は一人かわいく首を傾けた。
「あら、妖夢。おはよう~♪」
そんなふうに思っていた翌朝のことだった。妖夢は朝食の支度をした後、いつものように主を起こしに寝室に訪れた。しかし幽々子は一晩会わないうちに、薄気味が悪いほど機嫌がよくなっていた。
「おはようございます、幽々子様」
我が主にて、この白玉楼の家主。西行寺幽々子は寝巻き姿のままだったが、その声には寝起きを感じさせない陽気さがあった。まあ、普段からやたら陽気な御人ではあるのだが―――亡霊のくせに―――。
「起きておられたのですね。何をされていたのですか?」
「何をしていたように見える?」
「何もしてなかったように見えます」
くすくす、と幽々子は口許を服の袖で押さえる。
「面白い冗談ね」
真面目に答えたつもりだったのだが笑われてしまった。不本意だが、まあいつものことだった。
「今日は珍しくお早いのですね。何かあったのですか?」
「知りたい?」
いや、別に。なんて答えたらせっかくの上機嫌を損ねることぐらいはわかっていたのだが、あんまり長く無駄話に関わると、せっかく作った朝食が冷めてしまう。よって、妖夢はこう答えた。
「いや、別に」
「夢を見てたのよ。久方ぶりに」
勝手に話し始めてしまった。それもなんだか無駄に長くなりそうじゃないか。
「そりゃ布団の中の話でしょう。もう朝食できてるんですから、早くお召し物に着替えてきてください」
「メニューは何?」
「メニュー? 朝食のことですか? 別に、いつもどおりですけど。海苔の佃煮に浅漬け、あさりの味噌汁……」
「実はね、とっても寒い夢をみたのよ」
「…………」
会話が噛み合っていない。というより、向こうに噛み合わせる気がないらしい。こうなると面倒なので、少々強引にでも話を持っていくことにした。
「その件については、お食事をしながら聞かせてもらいますので。先にお茶の間の方にお願いします」
肩に手を置いて立ち上がるように促すと、幽々子は捨てられた猫みたいな媚びる視線をくれてきた。
「本当に寒いのに……」
うぐ、と妖夢はたじろいだ。この姫様はたまに、やけに子供っぽくなることがある。この姿で拗ねられると、これはこれでなかなかに破壊力があるのだ―――しかし幽々子ほどの年長者が上手に拗ねるとなれば、それはそれで少々奇っ怪な気もするが―――。
「寒いからなんだって言うんです。ほら、立ってください」
ぐいと袖口を引っ張る。幽々子は渋々腰を上げた。
「なんだか騒々しいわね、今日の妖夢は。まるで虫みたいよ。騒々虫」
「虫でもいいですから。食事が冷めてしまいます」
くすくす。やたら機嫌良さそうに微笑みながら、幽々子はのそのそ着替えを始めた。
「本当、寒いのは嫌よね。寒いのは」
「いただきます」
妖夢は慇懃に手を合わせて発声した。食事の際は背筋を伸ばし、きちんとした正座でないと落ち着かない。幼い頃からの習慣ゆえ、威儀を正す行為はまったく苦ではない。
対して我が主の方はというと……どういうわけか、ぐったりとコタツに伏せていた。
「あのう……幽々子様?」
「ん~?」
ちらと幽々子は流し目をくれた。それも、なんだか妙に悩ましげな。
「さっきから、というか、今日はどうしたんです? 具合でも悪いのですか?」
「何言ってるの。霊に具合も何もないでしょ」
……たまに正論を言うから困る。
口調からして機嫌がいいのはわかるのだが、それにしてもなんだか様子がおかしい。具体的にどこがどうおかしいのかというと、あの大食漢の幽々子が、ほとんど食事に手をつけていないのだ。箸を二、三口に運んだだけで、あとはぐったり伏せてしまった。昨晩内緒で何か変なものでも食べたか、さもなくば、やっぱり恋でもしてしまったらしい。背骨がすっぽり抜けてしまったようにコタツに伏せる様は、さながらボートにしがみつく漂流者だった。
「じゃあ、ご飯がお口に合いませんでしたか?」
「合わないわねぇ。いつものことだけど」
「……さいですか。じゃあどうしたっていうんです?」
「実はね、とっても寒い夢をみたのよ」
聞き覚えがあるとおもったら、つい十数分前に聞いたセリフだった。なんだか嫌な予感を感じた妖夢は、話題をそっちに運ばせないようにした。
「そりゃ夢というか、ただ単に体を冷やしただけじゃないですかね」
「今日の妖夢はおかしいわね。亡霊が寒さを感じるわけがないでしょう」
「……ああ、はい。そうでした。そうでしたね」
「でね、とっても悪い……じゃなかった。寒い夢を見たの」
「悪い?」
「いいえ、こっちの話」
初めからずっとそっちの話のような気もするが……。まあとにかく、どうしてもそのことを話したいようだ。それに付き合うのもいつものことといえばいつものことなので、妖夢はようやく観念した。
「それで、その寒い夢っていうのはどんな夢だったんです?」
「それがねぇ、あんまり覚えてないのよ」
「……はあ?」
「夢ってそういうものでしょ? 起きた後は覚えてるけど、しばらくするとすぐ忘れるじゃない」
まあ、言われてみればそうかもしれない。見た夢の印象によるだろうけど、夢の内容なんて目が覚めると、すぐにどうでもよくなって頭から消え去ってしまうものだ。
「うーん、確かにおぼろげなのは仕方ないかもしれませんね。というか、覚えてもない夢をなんでそんなに話したがるんですか」
「覚えてないから逆に気になるのよ」
よくわからない。というより、妖夢にはさっきから主の口は屁理屈を並べ立てているようにしか聞こえなかった。だいたい、本人も知らない事を推し量る術など無いではないか。
しかしいずれにせよ、主がその夢の内容をすごく気になっている、らしいことは間違いない。なにせ、食事を前にして途中で箸を止めるなど―――それがたとえ口に合わない料理だとしても―――、この方にしてあってはならないことなのだ。これは何気によっぽど深刻なことなのではないかと、妖夢は直感した。ならば西行寺家専属庭師兼西行寺幽々子警護役を任するわたしは、主人の悩みを解消すべく―――それがどんなくだらなくて瑣末な用件だとしても―――尽力しなければならない。妖夢はちゃぶ台に軽く身を乗り上げて訊ねた。
「あんまり、と仰いましたよね。ということは、まるっきり全部記憶が無いわけじゃないんですね? 途中までとか、あるいはぼんやりとでいいから、一部だけでも覚えてはいないんですか? ヒントになるかもしれません」
ほう、と幽々子は悩ましげな吐息を放った。
「思えば、あの夢は生前の記憶だったのかもしれないわね。白玉楼じゃないどこかの民家、そこの戸を開けると、庭には雪が降ってた。なんてことない雪景色だったんだけど、とにかく、わたしは寒くて寒くてどうしようもなかったの。霊体は普通、寒さなんて感じている〝つもり〟にしかなれないから、きっとその感覚自体が新鮮だったのね。寒いのが楽しくて仕方なくて、寝巻きのまま雪の上をごろごろ転がりまわってたわ。ごろごろ」
なんじゃそれは、と思わず合いの手を入れたくなるが、まあ夢の内容にどうこうつっこんでもしょうがない。ましてやそれが幽々子のものであれば。
「それでね? あれこれ遊んでいるうちに本格的に冷えてきたから、家の中に入ったの。そしたら、鍋が用意されてあったのよ」
「鍋?」
「そう、鍋」
「食べたいんですか?」
「もう食べたの。夢の中で」
ひょい、と肩をすくめられたので、妖夢もすくめかえした。
「まあ、そりゃ食べたでしょうね。その流れだと」
「でもね……その鍋が問題なのよ」
少しだけ、トーンが低くなる。妖夢はすくめた肩をとりあえず戻した。
「というと?」
「どういう味かはまるで思い出せないんだけど、とてつもなく美味しかったのは覚えているわ。この世の……もとい、あの世のものとは思えないほど」
「いやいや。美味しいならそれでいいじゃないですか。何が問題なんです」
「実はね……」
「実は?」
「実は……〝その鍋の具が、まったく思い出せないのよ!〟」
「…………」
どうやら今のが話のクライマックスだったらしい。妖夢はひたすら固まっていた。
「やっぱり決め手は香辛料なのかしら」
幽々子はうんうん唸りながら首を捻くりまわしている。妖夢にはその姿が、新聞のクロスワードパズルを前に苦悶する老人か何かに見えた。
「鍋に香辛料は入らんでしょう。それとも、カレー鍋か何かですか?」
「なにそれ? カレーなの? 鍋なの? それとも、カレーの鍋なの?」
「……いえ、なんでもないです」
「まあ、おいしそうだけどたぶんそれじゃあないわ。普通の、寄せ鍋よ」
「はあ。なら、きっと普通の寄せ鍋の具が入っていたんじゃないでしょうかね」
くすり、と幽々子は口許に袖を当てた。
「半分正解、半分外れね。具の種類は普通なれど、質は凡にあらず。普通だけど、最高の寄せ鍋だったのよ」
「回りくどいですが……ようするに高級な鍋ってことでいいんですよね」
「本当に、そう思う?」
今日はやけに持って回った言い方をしてくる。その韜晦するような微笑は、殊更に本心をはかりかねた。
「そうじゃないんですか?」
「決まりね」
急に幽々子は、選手宣誓でもするみたいにすっと立ち上がった。すると、強くまなじりを決して、
「妖夢。あなたに命じましょう。今すぐ幻想郷中から、コレと思う鍋の具を集めてきなさい。そして、あなたの思う究極の寄せ鍋を、わたしの前に再現するのよ。わたしが夢にまで見たものにどれほど近づけるか……あなたのこれまでの修行の成果を見せて御覧なさい」
「…………」
さっきから半ば呆れかけていた妖夢だったが、ここにきてついに開いた口が塞がらなくなった。このお嬢様、急に立ち上がってどんな啖呵を切ってくれるかと思いきや……。ずいぶんくだらないことを―――それも堂々と―――言ってくれるじゃないか。
「今日の夜までにね」
妖夢がア然としているうちに、幽々子はこちらに背を向けて、部屋へ帰ってしまいそうな気配すら見せた。ここで逃がせば、今の命令が問答無用で正当化されてしまう。ここは妖夢も必死になった。
「ま、待ってくださいよ。なんでそういうことになるんです」
「久しぶりに鍋食べたいのよ」
鍋食べたい。今まで長々と能書きを続けてきたが、要はその一言に集約されるらしい。しかし妖夢の方も、はいわかりましたと首を振れない理由があった。
「待ってくださいってば。鍋は鍋でいいんですけど……その、今はちょっと……」
ああんと幽々子は振り返った。「なんでよ?」
「材料を買いに行けないんですよ。ちょっと前から、里に出禁になっちゃいまして……」
「あら。あなた何かしたの? 人でも斬った?」
「斬ってません。いや、特にわたしが何をしたってわけじゃないんですが。前々からわたしが行くと冷たかったんですけどね。なんでも、お迎えが来るみたいで嫌だとかで」
ハハハと幽々子は笑い飛ばした。「傑作じゃないの」
「ともかくですね。その傑作のおかげで、今はおちおち買い物もできないんです。鍋なんて特に材料の種類が多いし、今日の夜まで全部買いそろえるなんて無理ですよ」
「あのね、妖夢。わたしは何も里で買い物してこいなんて言ってないわ。だいたい、市販の材料だけで最高の鍋なんてできるわけないじゃない」
「じゃあどうしろと……」
「簡単よぉ」ピン、と幽々子は人差し指を上に立てた。「幻想郷中の妖怪連中に勝負を挑めばいいの。勝負に勝てば、正々堂々そいつの持ってるものをいただけるって寸法よ」
寸法……。妖夢はすでにうんざりしていた。「まさか、その勝負の方法っていうのは……」
「そ。デュエルモンスターズ」
幽々子は胸を張って言い放った。要は幻想郷をデュエルしてまわって、食材を集めて来いということらしい。よっぽど画期的なアイデアだと思っているのか、その張り出した胸はどんなもんだいと膨らんでいた。数秒前からこうなることが予想できていた妖夢は、呆れてその場にへたり込むことこそなかったものの、馬鹿馬鹿しくて一瞬ふらりと頭がくらんだ。
「今また遊戯王が流行ってるのよ。この前言ったでしょ。わたしはおとなしく留守番しててあげるから、あなた行ってきなさい。その辺の妖怪に今デュエルを挑めば、誰でも喜んで受けてくれるわ」
「いや、でもだからって。いつものようにスペルカードルールでいいじゃないですか。あなたなんで毎回そんなくだらないこと、堂々と思いつくんです?」
「わたしはそんな自分が結構気に入ってるのよ」
「ちなみに今日はわたくし、北東側の庭木を手入れする予定があるのですが……」
ふむ、と幽々子は顎に手を当てて考える素振りをした。今の台詞を頭で咀嚼しているらしい。そして数秒経ってから、
「明日にしなさい」
ところでここまでくると、いよいよ妖夢にも諦めが来る頃だった。このひとがそこまで言うなら、別に構わないんじゃないのか。実際に動くのは自分だし、この方はここに残るというのだから、万が一にでも危害が及ぶことはない。本人は鍋が食べたいだけらしいし、それぐらいの頼みなら聞いてやっても罰は当たらないんじゃないのか。ほとんどどうでもよくなってきた妖夢は、この主はいっそ完成した鍋で腹を壊してしまえばいいとすら思った。
「はぁ。わかりましたよ。今日の夕方まで間に合わせればいいんですね」
半ばうなだれながら告げると、幽々子はいっそう笑顔をきらきらさせた。よほどこちらの返答がお気に召したか、あるいはこちらのうなだれた姿がよほどお気に召したらしい―――幽々子は基本サディストなのだ―――。
「いいこと、妖夢。今回のこの巡業はあなたのためでもあるの。デュエルモンスターズを通して連戦を重ねる荒行は、あなたの精神的に足りない部分を模索し、見極めるための一助となるでしょう。あなたが敬愛する師に近づき、いずれ超えるためには、デュエルモンスターズによる試練は避けては通れぬものなのよ」
幽々子の口調はほとんど悦に入った調子だったが、その長ったらしい能書きの間妖夢は延々しかめっ面で聞いていた。相槌がわりに、あさっての方向に生返事してやった。
「はあ」
「もちろん、ただ雑魚をとっつかまえてデュエルしてもダメよ。あなたが集める食材は、最高の鍋の条件を満たすための最高の素材でなければならない。当然、いいものほど強い奴から勝たないと手に入らないわ」
「なんですかそのRPGみたいな発想は」
「さて。そんなわけで、そろそろ行ってきなさい。いい加減早く動かないと、夕方までには間に合わなくてよ。大丈夫、夕食まで、ちゃあんとお腹は減らしておくから」
そう言い残すと、幽々子はすたすた戸口から出て行った。ぴしゃりと障子戸が閉められる。添える言葉も無い、ぶっきらぼうな別れ方だった。
あんぐりと口を開けて戸口を見つめていた妖夢だったが、やがて渋々意を決した。
不本意ながら、どうやら賽は投げられてしまったらしい。ならば仕方ない。デュエルでもなんでもして、幽々子の舌を唸らせるほどの鍋を用意してやろうじゃないか。生真面目な妖夢は―――単純ともいうが―――、どんな時でも切り替えだけは早かった。
そう、今こそ師の教えを実戦する時だ。師も言っていたじゃないか。〝女の機嫌は胃袋でなおる〟と。
・・・・・・To be continued
―――白玉楼。
現世と境界で隔たれた幽世。生ある者が死に別れ、肉体から乖離した魂の行く末は閻魔大王の采配に委ねられる。幾層に分けられた冥界、その一部を人は地獄と呼び、あるいは天国と呼ぶ。
その冥界の中でいて一際異彩を放つ、日本建築の髄を尽くしたここ白玉楼は、しばしば〝桃源郷〟と比喩される。
隅々まで手入れの行き届いた芝、苗木。春には春眠より目覚めし千本の桜が雅と咲き乱れ、夏には遣水のせせらぎ傍ら曲水の宴が催され、秋は紅葉が鮮烈なまでの色彩を放ち、冬は雪時雨そそぐ縁の淵で望月を尊ぶ。
顕著であるこの中庭は、古式日本庭園に基づいた伝統的空間構成に落ち着いている。池泉を中心に築山を築き、そこに庭石や草木を配して山紫水明を表現している。自然が人間と対立し克服すべき対象となるのではなく、自然の中に溶け込み、また自然に従うという作庭家のこだわりが、随所に先駆的表現として光っている。建築と庭とを一体化させることで、場面や奥行きを生じさせ、日本の美意識に通じる空間構成に至っている。
……そう、確かに美しい。ここが天国と呼ばれるべきかどうか……それは些細な問題であろう。
しかし、もし自分にそう問われたら、告げる答えは否に違いない。
西行寺家現当主の西行寺幽々子は、しな垂れかかるように縁側の柱に肩を寄せていた。
この白玉楼は直上から見て、ちょうどアルファベットのH字の構造をしている。二つの棒を繋ぐこの廊下の縁側からは、広大な枯山水の中庭が見渡せていた。
「はぁ……」
ぽつり、と一つの溜め息。
宵の口の置き土産か、ときどきつむじ風が起こって、落ち葉を虚空へ舞い上げようとしている。この庭は未熟だが努力家の庭師のおかげで、どこもかしこもやたら手入れが行き届いている。だからきっと、落ち葉ではなくどこかから飛ばされてきた葉だろう。今の溜め息も、踊る気流に掬われ、すでにはるか遠方の彼方で四散してしまっているのだろうか。
で……中庭の真ん中では、その専属の庭師が突っ立っていた。
厳密に言うと、ただ突っ立っているのではなかった。目を閉じ、そしてやや腰を落とし、腰に納まった刀に右手かけて静止している。いわゆる抜刀術の構えだが、剣術がわからない―――というよりさして興味が無い―――幽々子には、やはりただ突っ立っているようにしか見えなかった。
またふいに突風が走り、地面の木の葉が宙へ巻き上がる。かっと目を見開き、その庭師は刀を走らせた。軌跡の通った閃きに、真っ二つに裂かれた葉が舞った。
で、再び鞘に刀身を戻す。目を閉じる。腰を落とす。さっきからこの繰り返しだった。幽々子にとってしてみれば、その光景はこの秋百回目のことで、下手をしたら百回では済まないぐらい見せられていた。確かに素人目にはそこそこの芸かもしれないが、こうも何度となく見せられては、まるで池の鯉でも眺めている心地だった。
この庭師は未熟だが、一応幽々子の剣の指南役でもあるので、週に一度ほどこうして稽古をつけられる。しかし稽古というと立派だが、当の幽々子にさっぱりやる気が無かった。だいたい、どうして自分が剣術など覚えなければならないのか。なにせ自分は亡霊、とっくの昔に死んでいる。死んでいるから、護身術など糞の役にも立たない。そもそも護る身自体が無いのだから当然である。となれば幽々子にとってそれは、妖夢がいくら熱心に指導してみせたところで、ただ刃物を振り回している子供にしか見えないのだった。鯉を眺める心地にもなるというものだ。
ところで……あんな枯れ葉がそこらに舞っているということは、もう冬も間近だった。なにしろもう十二月だ。十二月にもなれば、冥界にも寒気が満ちる。寒気が満ちれば、動物は冬眠する。冬眠といえば……あと何があるだろうか。
あった。紫だ。八雲紫は冬の間際、異次元のどこかに隠れて冬眠する。時期でいえばそろそろだろう。
そろそろ、ということはつまり、〝今この時点〟では、まだあいつは冬眠に入ってはいないということだ。にもかかわらず、最近あのすきま妖怪はさっぱり姿を見せない。布団が恋しくなって外に出られないのか、それともいい加減幽々子の性格に愛想をつかしたのか……。どちらも十分に考えられるのだが、今回に至っては、他に真っ先に考えられる理由がある。
その理由とは、数ヶ月前に発生したとある事件に端を発する。簡単に言えば、紫はその事件の首謀者だった。そしてその目論見を阻止されたあいつは―――阻止されることまでが紫の目論見でもあったわけだが―――、その際持てる力を使い果たし、しばしの眠りに就くことを余儀なくされた。冬眠ならぬ秋眠である。きっと今も異次元に布団を敷いて、中にくるまって亀みたいになっていることだろう。いつ首を出すかまでは、幽々子は知らない。
「一万年かかったりしてね。亀だけに」
庭師の魂魄妖夢は、もの凄いしかめ面をして止まった。
「なんです?」
「なんでもないわ。亀だけに」
「わけわからんこと言ってないで、今、ちゃんと見てました?」
「何を?」
「……見てなかったんですね?」
「見てたわよ、ちゃんと」
「じゃあ、何をです?」
「強いて言えば、池の鯉かしら」
しばらくジト目をくれていた妖夢だったが、やがて付き合うだけ無駄だと思ったらしい。妖夢はひょいと肩をすくめ、ストンと落とした。
「仕方ないですね。もう一度初めから教えます。幽々子様に、ちゃんと聞く気があればですけど」
「無いからしなくていいわよ」幽々子は端的に言ってやった。
「わかりました。じゃああとは私が一人で鍛錬させてもらいますから、邪魔しないでくださいね」
幽々子は軽く手を振って了解の意を示したが、すでに妖夢はあさっての方向に素振りを始めていた。こちらに顔を合わせないようにしているようだが、あれは別に怒っているわけではない。ちょっとばかし拗ねているだけだ。こいつは子供なので、いつものことだった。魂魄家の指南役は血筋なのか代々口うるさい奴が多いが、妖夢の事はかわいいので好きだった。
「ねえちょっと」仏頂面の横に呼びかける。若干小首を傾げて訊ねるのは、茶化す時の癖だった。「最近遊戯王してる?」
「なんです?」言いつつ、妖夢は見向きもしなかった。
「遊戯王」
「遊戯王?」
「誰かとデュエルしたかって訊いてるのよ」
「んな暇ありませんよ。だいたい、いつも一緒にいるんだからわかるでしょう?」
「最近また流行ってきたらしいの」
「そうですか」
「第二次ブームってところね」
「そりゃ、一度流行れば二度流行っても不思議じゃないでしょうね」
「……本当にそう思う? そもそも、前のブームはあの鬼の能力で引き起こしたのよ」
「なら今回もそうなんでしょう」
「あんた最近萃香に会った?」
「あんな人に会いに行く暇があるなら、山に山菜でも摘みに行きますね」妖夢は明らかに話に乗り気でなかった。
「わたしね、この前その辺の幽霊を使いにやったの」
ピタリと、妖夢は振る腕を止めた。幽々子に目をやり、「どこに?」
「萃香のとこ」
「なんでそんな勝手なことしたんです?」
「気になるじゃない」幽々子はにっこり笑ってやった。「で、あの鬼はなんて言ったと思う?」
すでに妖夢は素振りを再開していた。「さあ」
「こうよ。『知らない』」
「知らない」妖夢は刀を振りながら無感動に繰り返した。
「今、巷でおこっている流行はあいつの仕業じゃなかったのよ。とすれば、別の誰かがよからぬことを考えているのかもしれないわ」
「考えすぎでしょ。ただ普通に流行ってるだけかもしれないじゃないですか。あるいは、あの鬼が嘘をついてるのかもしれません」
「嘘をつく理由がないじゃない」
「流行りにも理由なんてないもんですよ」
そうどうでもよさそうに告げる妖夢だったが、ふと手を休めると、妙に深刻な調子で呼んだ。
「ねえ、幽々子様」
「あによ」
「デュエルモンスターズはやめましょうよ。前に紫様がえらい目に遭ったのを忘れたんですか」
幽々子はわざとわからない振りをした。「えらい目?」
「ボロボロになって死にかけた目に遭ったことですっ」
「ああ、あれね」ひょいと幽々子は肩をすくめた。「別にいいじゃない。むしろあいつがあそこまでコテンパンにやられるなんて、貴重な経験でしょ。というか、自業自得だし」
「あれには幽々子様も一枚噛んでたんでしょ? 最初から全部知ってたらしいじゃないですか」
「噛んでたというなら、一枚じゃ足りないくらい噛んでたけどね」
「いいですか、幽々子様」ウン、と一拍咳払いを打つ。そのもったいぶった口調には、さあ聞きなさいというニュアンスがあった。「一歩間違えればああなってたのはわたし達だったかもしれないんですよ? とても危険な事なんです。あなたもそれはおわかりでしょう?」
幽々子はそっぽを向きながら、「まあね」
「幻想郷ごと無くなってたかもしれないんですよ?」
「かもね」
「あそこで霊夢達が止めなければ、紫様の暴走が求める矛先は外の世界へと向いたでしょう。そうなれば最悪、人類は未曾有の危機に瀕していたかもしれません」
「人類とはまた話がデカいわね」
「デカくて結構なんです。幻想郷がこの世界の全てだなんて、狭量な考えではいけません。博麗大結界の向こうある外界は、我々の知る以上に遥か広大なのです。だいたいもとはといえば、デュエルモンスターズだって外の世界の産物じゃないですか。自分はとっくに死んでるから関係無いわなんて、おちゃらけた考えじゃいられないんですよ。いいですか、それというのも、かくかくしかじか……」
いささか辛辣な物言いだが、要は心配しているらしかった。妖夢がこういう反応を示すのは予想通りだったので、幽々子は耳の穴を小指でいじりながら聞き流していた。
しかしまあ……この娘が神経質になるのも無理ないことだ。未曾有の危機というのは、あながち誇張すぎる表現ではない。
八雲紫という妖怪は、ただの妖怪にしてはあまりに規格外な力の持ち主だった。純粋に底が知れぬほどの妖力がありながら、万物の境界を自在に操るという神にも等しい能力を持つ。その能力は、正しく使えば幻想郷という一つの世界すら創造することもできるが、間違って使えばその世界を容易に破滅へと導いてしまう。
これまで紫は、その力を正しく使っていた。紫は幻想郷が幻想郷として外の世界より分かたれた、その瞬間に立ち会った数少ない創始者の一人である。そして影ながらではあるものの、博麗の血族とともに、博麗大結界を守護する存在として掌理する立場にあり、助力を惜しまなかった。時が経ち博麗の血統も薄れ、今やその使命すらも希薄になりつつあるが、それでも紫だけは尽力を続けてきた。
そのことについて、紫は幽々子には何も言わず、ただそれが自分の天命であるかのように振舞っていた。自分のためにではなく、幻想郷のため。ひいては、それが自分のため。例えるならば紫の幻想郷に対する姿勢は、母と愛する子といっても過言ではない。少なくとも、幽々子の瞳にはそう映っていた。
しかし、その過剰なまでの献身が、紫自身に無理を与えているのは明らかだった。妖怪だから体力は放っておいても回復するが、精神力はそうもいなかい。大結界を維持するために、紫は寝ている間にも妖力を消費し続けている。そもそもあいつの睡眠時間が過剰なまでに多いのは、それだけ自分を酷使しているからに過ぎない。
精神の疲労は時が経てば自然に薄れるが、逆に言えば、時間が無ければ決して癒えはしない。にもかかわらず、紫の心には、癒える間もなく積み重なっていく一方だった。紫にもその自覚はあったようだが、どうすることもできないことだった。紫は自分の心の底に澱む滓を、〝闇〟と呼んだ―――ちなみに、今風にいうとストレスともいう―――。
〝闇〟は紫を侵食し、精神を完全に支配した時、次は外に溢れ出ようとする。数百年に一度起こる、妖気の暴走だ。―――今風にいうと、ストレスの発散、あるいはガス抜き―――。
紫に限らず、精神を持つ者ならば例外なく必要な行為ではあるが、規模を間違えればそれは無差別大量破壊に成り代わる。紫があの規格外の能力を余すことなく解放したら、人類どころか世界の理からどうにかなってしまうだろう。
幽々子が知る限り、この〝暴走〟は前回の件を除けば過去に二度あったが、幽々子はその場には立ち会っていなかった―――一度目はちょうど温泉に湯治に出かけていたし、二度目は気づいたら寝過ごしていた―――。しかしその後の現場の様子を見る限り、被害は散々たるものだった。家屋は吹き飛び、地盤はめくれ上がり……台風が三度通ったとしてもこうはいかないという有様だった。
だが後に紫が言うには、それでもまだ抑えられた方だという。だが、その声は重かった。紫は続けた。自分の中の〝闇〟は次第に勢力を増している。もし次に〝暴走〟が起こった時は、止められないかもしれない、と。確かに幽々子の目から見ても、一度目より二度目の時の方が、現場の被害は大きかったように感じられた。
かくして、その〝次〟はやってきた。失敗すれば、幻想郷は壊滅に陥る。究極の選択、紫はその絶大な〝闇〟の力を解放する手段として前回、デュエルモンスターズを選んだ。
〝闇〟にとらわれた自分を、完璧に打ち負かすこと。紫が言うには、そうすればもう二度と〝闇〟が生まれることは無くなるという。方法は何でもいい。ただ、自分を倒す可能性が幾ばくかでもあるのなら。
そんな中、紫が唯一選んだのが、デュエルモンスターズだった。
デュエルモンスターズとは、外の世界で一世を風靡したというカードゲームだ。数ヶ月前、博麗神社にて幻想郷全土を舞台にした大会が執り行われた。その大会を利用して、目的の達成―――すなわちガス抜き―――を目論んだのだ。
で、最終的にどうなったか……。選ばれた資質を持つ五人のデュエリストと世界を秤にかけた死闘を演じ、紫の無意識に眠る〝闇〟は消滅した―――あるいは、ストレスが解消された―――。
ちなみに、なぜ世界の命運をただの紙切れなんぞに託して戦ったのかは、一応ちゃんとした理由がある。とどのつまり、止むに止まれぬ事情があったということだ。
とにかく、今あいつは一度に力を解放しすぎた反動で、先に述べたように休眠を余儀なくされている。大会の数日後、博麗神社にて紫のための慰労会が催されたのだが、結局あいつは姿を見せなかった。まさかと不安がよぎったが、代わりに式である八雲藍が、わざわざ説明のためにやってきてくれた。彼女によると、決して命に関わるような状態ではないという。妖力を使い果たした反動が、思いのほか激しかったらしい。紫ほどの妖怪が全ての妖力を解放するとなると、その反発も想像を絶するのだろう。
しかし協力者として―――そして唯一の友人として―――付き添ってきた幽々子から見れば、紫を苛んでいたのは肉体的な要因だけでなく、精神的な部分も大きかったように感じられた。幻想郷を最も愛する自分が、その手で幻想郷を破壊してしまうかもしれないという恐怖。紫一人の肩にはあまりに重過ぎる重責。そのうえで下さなければならない苦渋の決断。それらの苦しみの輪廻を延々を巡り続けていた紫に、真の意味での解放が訪れた。あの事件を経て、初めて紫は安心して心を休めることができたのだろう。張り詰め続けて細い弦にようになった神経が、ようやく緊張から解放されたのだ。紫の身を案ずるならば、今一時だけでも、気が済むまで眠り続けていてほしい。そう思うべきだろう。
いったいいつになったら目覚めるのか、あれから紫には会っていない……
説教を続ける妖夢に気づかれないように、幽々子は小さくつぶやいた。
「……ため息もつきたくなるわ」
加えて、幽々子は退屈だった。
今妖夢に話した、再び巷でデュエルモンスターズが流行りだしたという件……実は、全て本当のことだった。聞くところによると、ブームの火は大地の垣根を飛び越え、地底にも及んでいるらしい。日の光すら届かない地の底で、黙々とカードゲームに勤しむ妖怪達。まるで馬鹿みたいな光景だが、ブームというものはすべからく、只中にいる間はその馬鹿さ加減には気づかないものだ。
できるなら、自分も自らから渦中に飛び込みたい。馬鹿になってしまいたい。その方が楽しいならそうする。このくだらない退屈となら、秤にかけるまでもない。寿命が無い幽々子が享楽主義に傾倒するのは必然的だった。
しかしながら、幽々子にはそう安易に飽楽に浸ることのできない理由があった。先の大会でもたびたび問題になったのだが、幽々子は興奮すると我知らず能力を使ってしまうのである。
幽々子の能力は生者を死に至らしめる能力で、人間だろうが妖怪だろうが問答無用であの世に送る。相手がどんな屈強な豪傑だろうが関係無い。幽々子の意思一つあれば、まさに花を摘むよりも容易に生命が刈り取られる―――いわゆるソウルスティールというやつである―――。
ちなみにこのシャレにならない能力は、かつて人間だった幽々子が亡霊となってから得た力だ。幽々子が望むと望まざると、転生して気づいたらこんなけったいな力が備わっていた。迷惑千万である。
しかし、幽々子は生き物に死を与えることはできても、生を与えることはできない。ただ一方的に黄泉へと誘い、帰りの切符を切ることはできない。自身の力の重さを重々に理解している幽々子は、安易にデュエルすらさせてもらえない。楽しくなった頃には、相手が知らぬ間に昇天しているからである。生きている者とは遊ぶことができないのだ。
かといって普通の幽霊や亡霊は、実体が無いのでカードを扱うことすらできない。なので、幽々子とデュエルできるのは、能力の効かない紫か、この妖夢くらいしかいないのだった―――妖夢は半霊なので、半分の時間くらいなら我慢できる―――。
「はぁ……」
……何か、面白いことは無いかしら。
幽々子は退屈だった。自分もデュエルをしたいが相手がいない。唯一友人と呼べる紫は異次元に引きこもっているし、妖夢はこの通り堅物で口を縦に振らない―――こいつは絶対B型だと思う。半分幽霊に血が流れていればの話だが―――。
どこかへ出かけようか。だが幽々子は閻魔大王から冥界の幽霊を管理する責務を負わされているため、軽々しく白玉楼を離れるわけにはいかない。責務というと忙しそうに聞こえるが、霊は基本的に静かなので実際はまるで手はかからない。ということはつまり、幽々子はほとんど仕事らしい仕事をしていなかった。だが一応仕事をしているという名目は必要なため、ポーズとしてここにいなければならないのだ。結局幽々子のすることといったら、日がな未熟な庭師ををからかう―――なじるともいうが―――ぐらいしかないのだった。
ところで、その庭師のくだらない高説はまだ続いていた。
「……まるまるうまうま。ということです。おわかりいただいてます? いいですか、古来より剣道とは耐え忍ぶを仁とし……」
もう何十分喋りとおしているだろう。にもかかわらず、未だ終わる気配は毛ほども無いようだ。この半人半霊は半人前だけに、二言目には鍛錬鍛錬と口さがない。だいたい自身を鍛えるにも、効率というものがあるだろうに。こいつときたら闇雲に刀を振り回すか、出会い頭に辻斬りするのを鍛錬と勘違いしているらしい。
幽々子の見る限り、妖夢に足りていないのは、技術ではなく精神的なものだった。なにせこの娘、見た目は子供だが、中身も子供である。思慮が浅いわけではないのだが、子供らしく純真で、行動も短絡的かつ直線的だ。また、先代の魂魄妖忌からの教えらしいが、なんでもとりあえず斬ってしまえば解決すると思っている。とんだ教えもあったものである。
そういったメンタル面を鍛える意味でも、デュエルモンスターズは最適なのに……。それを妖夢はわかっていない。幽々子はひょっこら肩をすくめた。
「……故に理業兼備の修行、日夜怠慢なければ、十年の修行は五年にて終わり……って、聞いてます?」
すくめた肩が気に障ったらしい。妖夢は咎めるようなジト目をくれていた。
「何が?」
「何がって……」
いいかけたところで、一際強い突風が吹き荒れた。妖夢はスカートを抑えたり、枯れ葉がほっぺに直撃したりで大変だった。会話が打ち切られたのでこれ幸いと、幽々子は身を翻して踵を返した。
「お、お待ちください」
慌てて妖夢が声をかけてくる。幽々子はくるりと首を向けて、「じゃあ、デュエルしてくれる?」
妖夢はたっぷり二秒ほどため息を吐いた。
「だからダメですってば……」
「ケチね」
「いいですよ、ケチで」と、ここまでぶっきらぼうに告げたところで、妖夢の声は気色悪い猫なで声に豹変した。「……ねえお願いしますよぉ。わたしはしがない庭師なんです。お勤めを欠かしたらクビだし、ほったらかしてカードゲームなんてしててもクビなんですよ。それに一応わたしは幽々子様の警護役なんですから、主人をホイホイ危険にさらすわけにはいかないんです。幽々子様の身に万一のことがあったら、先代の方々にも会わせる顔が無いんですよ。ね? ですから大人しくしてていただけませんか。せめてそのブームだかが終わるまでで結構ですから」
妖夢は眉を情けないハの字にして上目遣いしてきた―――この娘はどこでこんな総会屋みたいな泣き落とし方を覚えたのだろう―――。
「ああもうハイハイ、わかったわよ」幽々子は鬱陶しげに妖夢の能書きを追い払った。「デュエルもしないで、人形みたいに大人しく家にいろっていうんでしょ。それで満足?」
「満足です」
満足らしい。幽々子はこの呆れるような現金さがうらやましかった。あんまりうらやましかったので、ははと鼻笑いしながら、呆れるように首を振ってやった。オフサイドの旗でもあげられてるみたいだった。
「さ、わかってくださったなら、鍛錬です鍛錬」
かまわず妖夢は幽々子の体をひっくり返して、背中を押しにかかった。
そこで幽々子は空間に固着させていた肉体を、概念的に切り離してやった。つまり一時的に、体を物理的に透明にして干渉できなくした。結果、妖夢は幽々子の体をするりと抜け、顔面から砂利の上に突っ込んでしまった。
「前から思ってたんだけど、なんでわたしが剣なんか覚えなきゃいけないのよ?」
顔を上げた妖夢は、涙目になって鼻頭をおさえていた。「わたしゃ知りませんよ」
「知らないで今まで教えてたの?」幽々子はカッと痛快げに笑った。
「先代からは指南というお勤めと警護の任を引き継いだだけで、それ以外の事は何も聞かされてないし命じられてもないんですっ。どうしても知りたければ先代に訊いたらいいんですっ」
「あのじじいどっか逃げちゃったわよ」
「なら諦めるしかないですね。さ、ぐだぐだ文句垂れずに稽古の続きをしましょう」
「だいたい、あんたわたしより弱いじゃない」
「仕方ないでしょうよっ」禁句だったらしい。妖夢はついに悲鳴をあげた。「弱かろうがわたしはそう命じられた以上はやるしかないんですっ。すでに主人が故人だろうが亡霊だろうが、警護しろと言われりゃしなきゃいけないんですっ。だから幽々子様も、おとなしく警護なり指南なりされててくださいっ」
台詞の尻に唾でも飛ばすような勢いだった。幽々子は途中から目を閉じて顔をしかめていた。
「警護されてろなんて言い分があるかしら」
「無くてもいいんですっ」
だんだん面倒くさくなってきた。ということは、このやりとりももう、この秋百回目なのだった。妖夢はクビがかかると意外と強情になるので―――誰でもそうかもしれないが―――、こうなると適当なところで幽々子は折れてやることにしていた。
「わかったわよ。気の済むまで警護でもなんでもすればいいわ」
「これからするのは稽古の方ですけどね」
……ほんと、退屈。何か唐突に、面白い閃きでも頭に降って来ないものやら。
「あーあ、明日の夕食は鯉料理にでもしようかしら」
*
―――白玉楼。
荘厳に鎮まりながらも幻想的なこの建築物は、あらゆる美辞麗句を並べ立てられても言葉の遜色が無い。いつしかこの屋敷は、人知れぬ魂達の間でしばしば〝桃源郷〟と字名されるようになった。
だが、冥界にも雪は降る。あの世だろうがどの世だろうが、四季は存在するのだ。
ここ白玉楼も例外ではない。となれば、桃源郷だろうがなんだろうが、降雪に伴う対処はしなければならない。具体的に言えば、衣替え、雪かき、雪囲い、エトセトラ……
ふいに感じた微風に含む冷たさ。その肌寒さにそう遠くない季節の到来を予感した魂魄妖夢は、一人うんざり、ため息を放った。
もう十二月か……。
振り返ると、なかなか忙しない一年だった。今年もいろいろあった。異変には事欠かない幻想郷だが、先だって発生した事件は、少々事情が違った。いつもなら大概の事はスペルカードで解決するのだが、どういうわけかカード違いだった。突如巻き起こったデュエルモンスターズブーム、その流行の荒波に、幻想郷の妖怪達は乗りに乗った。その勢いはまさに留まることを知らず、月面出身の姫、蓬莱山輝夜の手によって、ついに大会まで開催された。その果てに幻想郷をまるごと消滅させかねない未曾有の危機に発展してしまったのだが、その危機は妖夢がしどろもどろしているうちに解決されてしまったらしい。
とはいえ、規模が規模だっただけにさすがに各々反省はしているようで、あれ以来なにか騒動を起こそうとする不遜な輩は現れていない。デュエルモンスターズの方も、隆盛を極めていた当時と比べて、今では道端でデュエルしている光景も見られなくなっていた。
……と、妖夢は思っていたのだが、今日幽々子が漏らした戯言によると、最近また妖怪達の間でやられるようになってきたらしい。
これはまたしても、誰かの陰謀か、はたまた……
……なんてことは、妖夢はちっとも思っていなかった。流行? 大いに結構じゃないか。何事も全部カードゲームでカタがつくなら、それに越したことは無い。だいたい、萃香の能力が無ければ、恣意的な流行を作り出すことは不可能なのだ。
前回、なんで幻想郷のような異郷の地でカードゲームが流行ったのか。どうやって流行らせることができたのか、というと、それは伊吹萃香の萃と疎と操る力によってだ。彼女の事象を集め、分散する能力は、何も物質的なものに限らない。人の気質、すなわち精神の浮き沈みまでその気になれば思うが侭だ。彼女はその能力で、一大ムーブメントともいうべき流行を引き起こしたのだ。幽々子はああいうが、他に簡単にブームをつくり出す方法などありえないと断言できる。その萃香が違うと言っているならば、自然に起こった以外に無いではないか。
それよりも、と妖夢は思った。またデュエルモンスターズブームが起きたとして、問題はそれを利用する輩がいるやもしれぬということだ。特にカードゲームのようなものの場合、その性質上悪用されやすい。賭け事にも発展しやすいし、トラブルの温床となり得る。不穏な輩が便乗するのは簡単だ。
いざとなれば……まあいつものとおり紅白やら白黒やらがでしゃばってなんとかするのだろう。こちら側には関係無い。だが、もし幽々子様に危害が加わるようなことがあれば……
…………。
なんてね。
ここまで一人考えて、妖夢はひょっこら肩をすくめた。まあ、真剣に悩むほどこちらも暇ではない。しょせんたかがカードゲーム、遊びの範疇だ。遊びをいちいち真面目に捉えてなんかいられない。そんなことより、今日明日の夕飯の献立をどうするか。そちらの方がよっぽど頭を悩ませる。
ところで……妖夢にはもうひとつ気がかりなことがあった。他でもない、主である西行寺幽々子のことである。
最近の幽々子は、どういうわけかひどく腑抜けていた―――もともとそうだったかもしれないが―――。青空を見上げながらため息などついたりして、まるで恋でもしてしまったかのような有様である。まさか本当に想い人ができたということはないだろうが、とにかくどこかおかしいのだ。ぽんやりしているのはいつもの事ではあるが、どこか物思いにふけっているようで、たまにこちらの相手をしても生産性の無い毒を吐くだけで、あとはヘラヘラ笑っている。時折目を閉じて首がちぎれそうなほど傾いているが、考え事をしているのか、ただ居眠りをしているのか判断がつきかねた。どうやら我が主は、季節遅れの五月病か、閉所恐怖症にでも患ってしまったらしい。
まあ……気の病なら放っておけばいずれは治るだろう。鬱病の治療には根気と長い時間が必要だが、すでに寿命の概念すらない幽々子にとっては、時間なんて掃いて捨てるほどある。少し気にはなるが、結局こちらもたいした問題ではないのだ。そうに違いない。
さて、今日の夕飯は何にしようかしらと、妖夢は一人かわいく首を傾けた。
「あら、妖夢。おはよう~♪」
そんなふうに思っていた翌朝のことだった。妖夢は朝食の支度をした後、いつものように主を起こしに寝室に訪れた。しかし幽々子は一晩会わないうちに、薄気味が悪いほど機嫌がよくなっていた。
「おはようございます、幽々子様」
我が主にて、この白玉楼の家主。西行寺幽々子は寝巻き姿のままだったが、その声には寝起きを感じさせない陽気さがあった。まあ、普段からやたら陽気な御人ではあるのだが―――亡霊のくせに―――。
「起きておられたのですね。何をされていたのですか?」
「何をしていたように見える?」
「何もしてなかったように見えます」
くすくす、と幽々子は口許を服の袖で押さえる。
「面白い冗談ね」
真面目に答えたつもりだったのだが笑われてしまった。不本意だが、まあいつものことだった。
「今日は珍しくお早いのですね。何かあったのですか?」
「知りたい?」
いや、別に。なんて答えたらせっかくの上機嫌を損ねることぐらいはわかっていたのだが、あんまり長く無駄話に関わると、せっかく作った朝食が冷めてしまう。よって、妖夢はこう答えた。
「いや、別に」
「夢を見てたのよ。久方ぶりに」
勝手に話し始めてしまった。それもなんだか無駄に長くなりそうじゃないか。
「そりゃ布団の中の話でしょう。もう朝食できてるんですから、早くお召し物に着替えてきてください」
「メニューは何?」
「メニュー? 朝食のことですか? 別に、いつもどおりですけど。海苔の佃煮に浅漬け、あさりの味噌汁……」
「実はね、とっても寒い夢をみたのよ」
「…………」
会話が噛み合っていない。というより、向こうに噛み合わせる気がないらしい。こうなると面倒なので、少々強引にでも話を持っていくことにした。
「その件については、お食事をしながら聞かせてもらいますので。先にお茶の間の方にお願いします」
肩に手を置いて立ち上がるように促すと、幽々子は捨てられた猫みたいな媚びる視線をくれてきた。
「本当に寒いのに……」
うぐ、と妖夢はたじろいだ。この姫様はたまに、やけに子供っぽくなることがある。この姿で拗ねられると、これはこれでなかなかに破壊力があるのだ―――しかし幽々子ほどの年長者が上手に拗ねるとなれば、それはそれで少々奇っ怪な気もするが―――。
「寒いからなんだって言うんです。ほら、立ってください」
ぐいと袖口を引っ張る。幽々子は渋々腰を上げた。
「なんだか騒々しいわね、今日の妖夢は。まるで虫みたいよ。騒々虫」
「虫でもいいですから。食事が冷めてしまいます」
くすくす。やたら機嫌良さそうに微笑みながら、幽々子はのそのそ着替えを始めた。
「本当、寒いのは嫌よね。寒いのは」
「いただきます」
妖夢は慇懃に手を合わせて発声した。食事の際は背筋を伸ばし、きちんとした正座でないと落ち着かない。幼い頃からの習慣ゆえ、威儀を正す行為はまったく苦ではない。
対して我が主の方はというと……どういうわけか、ぐったりとコタツに伏せていた。
「あのう……幽々子様?」
「ん~?」
ちらと幽々子は流し目をくれた。それも、なんだか妙に悩ましげな。
「さっきから、というか、今日はどうしたんです? 具合でも悪いのですか?」
「何言ってるの。霊に具合も何もないでしょ」
……たまに正論を言うから困る。
口調からして機嫌がいいのはわかるのだが、それにしてもなんだか様子がおかしい。具体的にどこがどうおかしいのかというと、あの大食漢の幽々子が、ほとんど食事に手をつけていないのだ。箸を二、三口に運んだだけで、あとはぐったり伏せてしまった。昨晩内緒で何か変なものでも食べたか、さもなくば、やっぱり恋でもしてしまったらしい。背骨がすっぽり抜けてしまったようにコタツに伏せる様は、さながらボートにしがみつく漂流者だった。
「じゃあ、ご飯がお口に合いませんでしたか?」
「合わないわねぇ。いつものことだけど」
「……さいですか。じゃあどうしたっていうんです?」
「実はね、とっても寒い夢をみたのよ」
聞き覚えがあるとおもったら、つい十数分前に聞いたセリフだった。なんだか嫌な予感を感じた妖夢は、話題をそっちに運ばせないようにした。
「そりゃ夢というか、ただ単に体を冷やしただけじゃないですかね」
「今日の妖夢はおかしいわね。亡霊が寒さを感じるわけがないでしょう」
「……ああ、はい。そうでした。そうでしたね」
「でね、とっても悪い……じゃなかった。寒い夢を見たの」
「悪い?」
「いいえ、こっちの話」
初めからずっとそっちの話のような気もするが……。まあとにかく、どうしてもそのことを話したいようだ。それに付き合うのもいつものことといえばいつものことなので、妖夢はようやく観念した。
「それで、その寒い夢っていうのはどんな夢だったんです?」
「それがねぇ、あんまり覚えてないのよ」
「……はあ?」
「夢ってそういうものでしょ? 起きた後は覚えてるけど、しばらくするとすぐ忘れるじゃない」
まあ、言われてみればそうかもしれない。見た夢の印象によるだろうけど、夢の内容なんて目が覚めると、すぐにどうでもよくなって頭から消え去ってしまうものだ。
「うーん、確かにおぼろげなのは仕方ないかもしれませんね。というか、覚えてもない夢をなんでそんなに話したがるんですか」
「覚えてないから逆に気になるのよ」
よくわからない。というより、妖夢にはさっきから主の口は屁理屈を並べ立てているようにしか聞こえなかった。だいたい、本人も知らない事を推し量る術など無いではないか。
しかしいずれにせよ、主がその夢の内容をすごく気になっている、らしいことは間違いない。なにせ、食事を前にして途中で箸を止めるなど―――それがたとえ口に合わない料理だとしても―――、この方にしてあってはならないことなのだ。これは何気によっぽど深刻なことなのではないかと、妖夢は直感した。ならば西行寺家専属庭師兼西行寺幽々子警護役を任するわたしは、主人の悩みを解消すべく―――それがどんなくだらなくて瑣末な用件だとしても―――尽力しなければならない。妖夢はちゃぶ台に軽く身を乗り上げて訊ねた。
「あんまり、と仰いましたよね。ということは、まるっきり全部記憶が無いわけじゃないんですね? 途中までとか、あるいはぼんやりとでいいから、一部だけでも覚えてはいないんですか? ヒントになるかもしれません」
ほう、と幽々子は悩ましげな吐息を放った。
「思えば、あの夢は生前の記憶だったのかもしれないわね。白玉楼じゃないどこかの民家、そこの戸を開けると、庭には雪が降ってた。なんてことない雪景色だったんだけど、とにかく、わたしは寒くて寒くてどうしようもなかったの。霊体は普通、寒さなんて感じている〝つもり〟にしかなれないから、きっとその感覚自体が新鮮だったのね。寒いのが楽しくて仕方なくて、寝巻きのまま雪の上をごろごろ転がりまわってたわ。ごろごろ」
なんじゃそれは、と思わず合いの手を入れたくなるが、まあ夢の内容にどうこうつっこんでもしょうがない。ましてやそれが幽々子のものであれば。
「それでね? あれこれ遊んでいるうちに本格的に冷えてきたから、家の中に入ったの。そしたら、鍋が用意されてあったのよ」
「鍋?」
「そう、鍋」
「食べたいんですか?」
「もう食べたの。夢の中で」
ひょい、と肩をすくめられたので、妖夢もすくめかえした。
「まあ、そりゃ食べたでしょうね。その流れだと」
「でもね……その鍋が問題なのよ」
少しだけ、トーンが低くなる。妖夢はすくめた肩をとりあえず戻した。
「というと?」
「どういう味かはまるで思い出せないんだけど、とてつもなく美味しかったのは覚えているわ。この世の……もとい、あの世のものとは思えないほど」
「いやいや。美味しいならそれでいいじゃないですか。何が問題なんです」
「実はね……」
「実は?」
「実は……〝その鍋の具が、まったく思い出せないのよ!〟」
「…………」
どうやら今のが話のクライマックスだったらしい。妖夢はひたすら固まっていた。
「やっぱり決め手は香辛料なのかしら」
幽々子はうんうん唸りながら首を捻くりまわしている。妖夢にはその姿が、新聞のクロスワードパズルを前に苦悶する老人か何かに見えた。
「鍋に香辛料は入らんでしょう。それとも、カレー鍋か何かですか?」
「なにそれ? カレーなの? 鍋なの? それとも、カレーの鍋なの?」
「……いえ、なんでもないです」
「まあ、おいしそうだけどたぶんそれじゃあないわ。普通の、寄せ鍋よ」
「はあ。なら、きっと普通の寄せ鍋の具が入っていたんじゃないでしょうかね」
くすり、と幽々子は口許に袖を当てた。
「半分正解、半分外れね。具の種類は普通なれど、質は凡にあらず。普通だけど、最高の寄せ鍋だったのよ」
「回りくどいですが……ようするに高級な鍋ってことでいいんですよね」
「本当に、そう思う?」
今日はやけに持って回った言い方をしてくる。その韜晦するような微笑は、殊更に本心をはかりかねた。
「そうじゃないんですか?」
「決まりね」
急に幽々子は、選手宣誓でもするみたいにすっと立ち上がった。すると、強くまなじりを決して、
「妖夢。あなたに命じましょう。今すぐ幻想郷中から、コレと思う鍋の具を集めてきなさい。そして、あなたの思う究極の寄せ鍋を、わたしの前に再現するのよ。わたしが夢にまで見たものにどれほど近づけるか……あなたのこれまでの修行の成果を見せて御覧なさい」
「…………」
さっきから半ば呆れかけていた妖夢だったが、ここにきてついに開いた口が塞がらなくなった。このお嬢様、急に立ち上がってどんな啖呵を切ってくれるかと思いきや……。ずいぶんくだらないことを―――それも堂々と―――言ってくれるじゃないか。
「今日の夜までにね」
妖夢がア然としているうちに、幽々子はこちらに背を向けて、部屋へ帰ってしまいそうな気配すら見せた。ここで逃がせば、今の命令が問答無用で正当化されてしまう。ここは妖夢も必死になった。
「ま、待ってくださいよ。なんでそういうことになるんです」
「久しぶりに鍋食べたいのよ」
鍋食べたい。今まで長々と能書きを続けてきたが、要はその一言に集約されるらしい。しかし妖夢の方も、はいわかりましたと首を振れない理由があった。
「待ってくださいってば。鍋は鍋でいいんですけど……その、今はちょっと……」
ああんと幽々子は振り返った。「なんでよ?」
「材料を買いに行けないんですよ。ちょっと前から、里に出禁になっちゃいまして……」
「あら。あなた何かしたの? 人でも斬った?」
「斬ってません。いや、特にわたしが何をしたってわけじゃないんですが。前々からわたしが行くと冷たかったんですけどね。なんでも、お迎えが来るみたいで嫌だとかで」
ハハハと幽々子は笑い飛ばした。「傑作じゃないの」
「ともかくですね。その傑作のおかげで、今はおちおち買い物もできないんです。鍋なんて特に材料の種類が多いし、今日の夜まで全部買いそろえるなんて無理ですよ」
「あのね、妖夢。わたしは何も里で買い物してこいなんて言ってないわ。だいたい、市販の材料だけで最高の鍋なんてできるわけないじゃない」
「じゃあどうしろと……」
「簡単よぉ」ピン、と幽々子は人差し指を上に立てた。「幻想郷中の妖怪連中に勝負を挑めばいいの。勝負に勝てば、正々堂々そいつの持ってるものをいただけるって寸法よ」
寸法……。妖夢はすでにうんざりしていた。「まさか、その勝負の方法っていうのは……」
「そ。デュエルモンスターズ」
幽々子は胸を張って言い放った。要は幻想郷をデュエルしてまわって、食材を集めて来いということらしい。よっぽど画期的なアイデアだと思っているのか、その張り出した胸はどんなもんだいと膨らんでいた。数秒前からこうなることが予想できていた妖夢は、呆れてその場にへたり込むことこそなかったものの、馬鹿馬鹿しくて一瞬ふらりと頭がくらんだ。
「今また遊戯王が流行ってるのよ。この前言ったでしょ。わたしはおとなしく留守番しててあげるから、あなた行ってきなさい。その辺の妖怪に今デュエルを挑めば、誰でも喜んで受けてくれるわ」
「いや、でもだからって。いつものようにスペルカードルールでいいじゃないですか。あなたなんで毎回そんなくだらないこと、堂々と思いつくんです?」
「わたしはそんな自分が結構気に入ってるのよ」
「ちなみに今日はわたくし、北東側の庭木を手入れする予定があるのですが……」
ふむ、と幽々子は顎に手を当てて考える素振りをした。今の台詞を頭で咀嚼しているらしい。そして数秒経ってから、
「明日にしなさい」
ところでここまでくると、いよいよ妖夢にも諦めが来る頃だった。このひとがそこまで言うなら、別に構わないんじゃないのか。実際に動くのは自分だし、この方はここに残るというのだから、万が一にでも危害が及ぶことはない。本人は鍋が食べたいだけらしいし、それぐらいの頼みなら聞いてやっても罰は当たらないんじゃないのか。ほとんどどうでもよくなってきた妖夢は、この主はいっそ完成した鍋で腹を壊してしまえばいいとすら思った。
「はぁ。わかりましたよ。今日の夕方まで間に合わせればいいんですね」
半ばうなだれながら告げると、幽々子はいっそう笑顔をきらきらさせた。よほどこちらの返答がお気に召したか、あるいはこちらのうなだれた姿がよほどお気に召したらしい―――幽々子は基本サディストなのだ―――。
「いいこと、妖夢。今回のこの巡業はあなたのためでもあるの。デュエルモンスターズを通して連戦を重ねる荒行は、あなたの精神的に足りない部分を模索し、見極めるための一助となるでしょう。あなたが敬愛する師に近づき、いずれ超えるためには、デュエルモンスターズによる試練は避けては通れぬものなのよ」
幽々子の口調はほとんど悦に入った調子だったが、その長ったらしい能書きの間妖夢は延々しかめっ面で聞いていた。相槌がわりに、あさっての方向に生返事してやった。
「はあ」
「もちろん、ただ雑魚をとっつかまえてデュエルしてもダメよ。あなたが集める食材は、最高の鍋の条件を満たすための最高の素材でなければならない。当然、いいものほど強い奴から勝たないと手に入らないわ」
「なんですかそのRPGみたいな発想は」
「さて。そんなわけで、そろそろ行ってきなさい。いい加減早く動かないと、夕方までには間に合わなくてよ。大丈夫、夕食まで、ちゃあんとお腹は減らしておくから」
そう言い残すと、幽々子はすたすた戸口から出て行った。ぴしゃりと障子戸が閉められる。添える言葉も無い、ぶっきらぼうな別れ方だった。
あんぐりと口を開けて戸口を見つめていた妖夢だったが、やがて渋々意を決した。
不本意ながら、どうやら賽は投げられてしまったらしい。ならば仕方ない。デュエルでもなんでもして、幽々子の舌を唸らせるほどの鍋を用意してやろうじゃないか。生真面目な妖夢は―――単純ともいうが―――、どんな時でも切り替えだけは早かった。
そう、今こそ師の教えを実戦する時だ。師も言っていたじゃないか。〝女の機嫌は胃袋でなおる〟と。
・・・・・・To be continued
ありがとうございます!
本当に久しぶりなんですが、覚えていてくださって嬉しいですw
しばらく遊戯王からは離れ気味だったので、執筆に至らぬ点もあるかもしれませんがよろしくお願いします。
今回も楽しく読ませて貰いますので是非とも頑張って下さい♪
新章開始とは、また楽しみにお待ちしています。
取り合えず今回も突っ込み役はやらせていただきますがwww。
こういったカードゲームの話はどうしても間違いはあるので協力させていただきますよ。
とりあえず輝夜がまた出番あるといいなあ。
新作が来てる……だと……
期待して待っているので
今回もいけてるバトルをお願いしますよ!
あとがきではああ書きましたがそこそこ長い話にはなりそうですので、とても励みになります!
期待にそえられるように尽力させていただきますm(_ _)m