――これは知ってはいけないものだった。
私はそう直感した。いやそう思わざるを得ない、思わない方がおかしい。
悪戯に我慢できなくて追っかけたまではよかったんだ。逃げるてゐを追っかけて、
私は師匠、『八意 永琳』が入ってはいけないといった場所に足を踏み入れていた。
悪戯好きな相棒の名を呼びながら私は歩を進め、やがてたどり着いたのがこの
部屋だった。いや、私はてゐを探すという名目を盾に、以前から気になっていた
ここに入り込みたかったのだ。後悔という文字が脳内を埋め尽くすと知っていたなら、
そんなことはしなかったのに。
今、私の目の前に広がる光景。それは無数の”私”が浮かぶ、液体の入ったガラス
張りの円筒を聳え立たせた謎の機材が並ぶ部屋。緑の蛍光色で光るその水槽と、
無数の小さなランプ以外に光源のない、暗い暗い部屋。
一つ息を呑んで、その”私”の円筒の林に歩み寄る私――『鈴仙・優曇華院・イナバ』。
思わず、口を突いて出た言葉は。
「……何、コレ……」
「貴女よ」
「!?」
返答があるのを期待したわけではない呟きに、聞き知った声で答えが告げられた。
背後を振り向く。入り口から漏れる逆光で影しか見えないが、紛れもない。師匠だ。
その影が、こちらに一歩、歩を進めた。本能的な恐怖に、思わず私は人差し指を向け、
霊力を集める。
「やめなさい。そんなことをしても意味がないわ」
赤く光りだした私の目を見て、攻撃を制する言葉。
「こ、来ないでください、師匠。そこから一歩でも足を踏み出されたら、わ、私、……何を
しでかすか、わかりません。だから」
言葉がもつれる。けど、こんなことを言っても普段の師匠は動じないはず。しかし、
師匠は次の一歩を踏み出せないままでいる。それを見てとり、私は疑問を叩きつける。
「師匠、これ、何なんですか」
「……見てのとおりよ」
それは分かってる! どうみても私だ! だからこそ、聞いてるのです。
「はぐらかさないでください! 私は、これ……この”私”達を師匠が何のために、
何をするつもりで、こんなことをしてるのかを知りたいんです! 私には知る権利
があるはず! は、ま、まさか、今こうやって師匠と喋ってる私も、ここから……」
思わず想像してしまった絶望的な可能性が口をついて出る。師匠がひとつため息を
ついた。
「安心しなさい、うどんげ。貴女は正真正銘、月から逃亡してきた玉兎よ。……信用
ならない、とあなたは思うかもしれないけれど、この部屋をあなたに隠していたその
罪悪感を以って、全てに真摯に答えるわ」
その言葉の確証は取れないけれど、それしか信じる材料がない。うなずく私を見て、
師匠が口を開く。
「厳密に言うとね、ここにいる全ての存在は、あなたではない」
「え」
「あなたに似て、非なるもの……」
「どういう、ことですか?」
単純なクローンであるならこんな言い方を師匠はしない。困惑が思考を侵食していく。
「そうね。……実際に、見てもらったほうが早いわ」
「え……、っ!?」
逆光に紛れて良くは見えなかったが、師匠の唇が確かに上がった。それが非常に拙い
状況の口火を切ったと分っていても、つい反応が遅れた。刹那、すぐ後ろに誰かの気配。
それに振り向く暇もなく闇に慣れた目が一瞬で灼かれる。部屋の照明がついただけ
なんだろうだが、私にはそれは致命的だ。師匠め、動けないんじゃない、あの位置で照明
のスイッチが押せるから動かなかっただけか! 眩む視界をなだめつつ、激しく誰何する。
「だ、誰!?」
「誰かと問うたわね!? ならその目を開いて眼に焼き付けなさい、名乗る名を未来永劫
記憶しなさい、そう、私は!」
「……なっ!?」
「鈴仙・蕎麦ン華院・イナバ!! 通称そばんげ!」
「た、確かに私より色が黒くて薫り高い!?」
ようやくまともに戻った視界の向こうに、蕎麦の芽色の緑の髪で赤漆色と黒漆色を基調
にした服を着た、蕎麦色の肌の私がいた。ざる蕎麦か!
「それだけじゃないわよ」
「し、師匠、いつの間に!?」
いつのまにかすぐ側から聞こえてきた声。驚いて振り返るといつもの余裕の笑みで
腕組みした師匠の姿。そこに割って入る影。
「なっ……!? なんだか私のようで全体的に縮尺が横に延びてるその私は!?」
「師匠を守るだぎゃー。きしめんげだにー」
「更に!」
「ああっ、髪が白くて細長い!?」
「私、そうめんげよ!」
「この娘もお忘れなくー」
「てゐどこから沸いてき……。ふむ、髪の毛にピンクと緑のひと房が」
「ひやむぎげ、だよっ」
「ねぇみてみてイナバ、海人って書いてあるTシャツ貰っちゃった、この娘に」
「うわぁ、姫様に最も似合わない、そんなものを贈ったのは!?」
「ちゅらさー! うちなーすばげサァー」
続々と姿を現す、私によく似ていてそうでないものたち。と姫とてゐ。彼女たちに
囲まれて、至極嬉しそうな笑顔の師匠。
「し、師匠」
「うどんげ、これで終わりじゃないわよ」
「え!?」
驚く私に、師匠は瞳の奥を燃やしつつ言い放つ。
「あなたは、ワールドワイドな可能性を秘めたものの一つ!! 出でよ、世界中の
仲間たちよ!」
大きく師匠が手を上げると同時に、部屋のあちこちから、現れる……。
「チャイナ服をきた私!?」
「ニーハオ! ワターシ、らーめんげ、アルね!」
「似非中国人ぽさが流石ラーメンってところね」
「師匠……あ、あれもチャイナ服……? いや、なんか違う気も」
「これはアオザイよ。そう、私こそベトナム名産、フォーげ!」
「語呂悪いなぁ」
「姫も辛辣ですね。じゃあ、あっちから歩いてくるあのチマチョゴリの私は」
「パンニハムハサムダ、じゃない。レンミョン(冷麺)げ」
「いろいろあるわねー……あ、鈴仙、上からくるぞ、気をつけろ!」
「やァりやがったなァ?!」
「せっかくだから、私はこのビーフンげをえらぶぜ!」
「あのゲーム照準ずれてる気がするんだけど、まぁいいわ。ねぇイナバ、まだぞろぞろ
イナバが来てるわよ」
「こ、今度はずいぶん毛色が違う、欧米かっ?!」
「ハーイ、スパゲッティげですよセニョリータ。君、可愛いね。冷たくて美味しい
ジェラートをご馳走してあげるからボクの家に来ないかい?」
「鈴仙、なんか私いきなりナンパされてるわー」
「聞いたことがあるわ、イタリア人は幼女から老婆まで、とりあえずナンパするのが
礼儀って思ってるらしいって」
「はい……そうなんですぅ。あ、わたしマカロニげです」
「マカロニげは……もう……穴が、開いてるのよね……」
「し、師匠? なんで顔を赤らめてるんですか?」
「それにしてもいろんなイナバの仲間がいるのねぇ」
感心したように頷く姫。その言葉に師匠は笑みを浮かべて、
「えぇ、そのとおりよ輝夜。もちろんまだまだいるわ、ほら」
「わぁ……!」
指差す先には、培養層から出て次々とその身を整え、集合する私の仲間たち。
「姫様のことじゃない! ほうとうげ!」
「更なる新たな薫りと彩り! 茶そばんげ!」
「色なら負けてられない、栄養素もたっぷり! 翡翠麺げ!」
「我輩に切れぬ麺なし! 刀削麺げ!」
「鍋によしデザートによし! 葛切りげ!」
「だったーん! 韃靼蕎麦げ!」
「ペンネげ!」
「ピッツォケリげ!」
「河粉げ!」
「ラグマンげ!」
「春雨げ!」
「黍麺げ!」
げ! げ! と名乗りながら迫り来る私の仲間の洪水。そのあまりの迫力に私は
数歩後ずさる。
ぽす、背中と後頭部に柔らかい感触。何であるかはすぐに想像はついた。恐る恐る
見上げると、やはり師匠の……笑顔。
「す、すみません、師……」
「ねぇ、うどんげ」
謝罪の言葉を遮って、師匠が嬉しそうな声で語りかけてくる。ろくでもないことを
思いついたときのそれとは少し違うトーンではあるが。
「は、はい」
返事をすると、優しく抱きしめられた。そのせいで師匠の柔らかい二つの丘が首の
後ろに押し付けられ、若干ケミカルではあるが嫌いじゃない師匠の香りがいっそう
感じられる。な、なんだか頬の辺りが急に熱くなってきたぞ、しっかりしろ、私。
「さっきのあなたの質問に完全に答えきっていなかったわね」
そう言われればそうだ。師匠が何故こんなに大量の私の類を創造したのか。でも、
なんとなく分る。今なら分る。そんな気がする。そう思う間に、私は押し倒される。
私の上で馬乗りになる師匠。その微笑から言葉が紡がれる前に、私から切り出す。
「し、師匠は」
「なぁに?」
「……麺類が、大好きなんですね?」
その問いに、今まで見た中で一番麗しく美しい笑顔を見せた師匠。ゆっくりと、
頷いた。あぁそうか、やはり。ならばもう一つ、私には聞くことができた。
「でしたら、師匠。……師匠が一番好きなのは、何、ですか」
「……ふふ。それはもちろん……何も捻らずに、そう……私が一番好きなのは、お饂飩よ」
そう言った師匠の顔が急激に近づいた。そう、師匠は今から饂飩を食べるのだろう。
師匠の柔らかな唇が、師匠の一番好きな麺類(わたし)の唇に、優しく、そっと口付けを……。