「星ちゃん、ちょっといいかしら」
ある朝のこと。
私は心なしか頬をひきつらせて微笑む聖白蓮に呼び出された。
宝塔をなくした覚えはないし、今日は"まだ"皿を割った覚えもなし。
一体なんだろうかと、首を傾げながら、聖に先導されて彼女の書斎に向かうが、何故だか歩を進めるごとに足が重くなっていく。
「あ、あの、聖」
あなたのお部屋の戸から、湿っぽい重みを伴った妖気を感じるのですが。
そう言外に瞳で部屋の主に問う。
返って来たのはとてつもない圧力を感じさせる、しかしそれでいて女神もかくやというほどに素晴らしい笑顔。
「星ちゃん」
そしてどうにかしないと知らないわよ、などと言わんばかりの、無言の怒り。 独特な色合いのグラデーションをした、ふわふわの髪の毛が逆立とうとしているようにも見えるのは気のせいだろうか。
我が師の加護を願いながらゆっくりと、戸を開けば、だんだんと伏魔殿のように思えた室内の、意外な様子が見えてきた。
僧侶にして、魔法使いでもある聖。
彼女が今までに集めて来た経典やら魔導書やらが無造作に積まれた御山がそこかしこに形成されている。 山に占領されていない、貴重な足の踏み場にそれは、いや。
彼女はいた。
「村紗?」
「……星」
昨晩別れたときの寝間着のままのみなみ、じゃない村紗の目は赤かった。
本気を出したとか霊としての格が上がったとか、理由を想像するのは容易いだろうが。
明らかに村紗の目の変化はそういったものでなく。
「えぐっ、星のっ……の~!」
泣き疲れたことによる、充血だと。
ようやく私がそれを理解した瞬間、青い目から大粒の涙が溢れ出した。
「星のバカー!」
「あわ!?」
うわああああああん、と巻き起こったのは比喩でない、局地的な大洪水。
妙に部屋が湿っぽかったのと、聖の機嫌が悪かったのはつまり。
「昨日の夜にこのお部屋に来てね。 ちょっとお話してからずっとこの調子なんだけど、星ちゃんが原因みたいね?」
「そんなこと心当たり……」
ない、とは口が裂けても言えなかった。
聖を封印から解放することに成功した後、初めて"命蓮寺勢"として参加した博麗神社の宴会。
そこで村紗から告白されて、晴れて恋仲ということになったのだけれど、昨晩、初めて喧嘩した。
喧嘩について、責があるのは寅丸星、他の誰でもない私だった。
そのように言ってしまえば、事態は単純。
けれども、その中心である私はいささか複雑なのだ。
言うよりも産むが易し。
謝って、ご機嫌取りでもするべきだろうか。
けれども、私は難産になる理由があるのだ。
ひっひっふーの呼吸法では、既にどうにもなりそうにないほどの。
「星ちゃん?」
産婆の睨みのような笑みを受けながら、吸って、吸って、ゆっくり息を吐いた。
「村紗」
「えぐ……」
「村紗、昨晩は泣かせてすいませんでした」
「……」
あくまでも、村紗は私が彼女の要求を呑むまで機嫌を直す気はないようだ。
こっそりと私の方をうかがっていた青い瞳が、その証拠だった。
期待と、不安。
彼女の海は、清濁の割合が後者の方に圧倒的に傾いている。
また彼女を失望させてしまうことに、抵抗がないわけではない。
だけれど。
「ですけれど、村紗」
だけれど、ごめんなさい。
「やはり、私にとってあなたは村紗なのです」
濁流が、瞳を支配したように思えた。
毘沙門天の不甲斐ない弟子が起こした大嵐に見舞われた船長は、ゆっくりと立ち上がり。
「……意地っ張り!」
「村紗……」
元凶から早足で遠ざかって行った。
足音が完全に聞こえなくなってから、身を屈める。
「すいません、聖。 今片づけます」
狭い範囲で起きた水害の犯人は私ではないが、一応謝っておく。
そして、後始末も私の仕事だろう。
湿気から保護するのに、特殊な加工が施された巻物はともかくとして、畳などを含めた内装品のほとんどは拭いたり干したりしなければならない。
ため息を噛み殺して、今後の予定を立てていく。
「あ、聖は今夜客間で……」
「星ちゃん」
「聖?」
片膝を立てて、別室へ退避させるために巻物を拾い集めようとした私の右手を、聖の両手が包んだ。
そして。
「なに、を、やって、るのかしらっ!?」
「あだだだだだだ!?」
手首を限界ギリギリまで、力一杯ひねられた。
「ひじ、聖、離してくださっ……!」
「もう!」
これ以上手首が回転しないことを感じ取ったのか、パッ、と聖は手を離した。
私の手首が反動で逆方向にねじれて、ゆっくりと戻って行くような感触は、きっと気のせいだ。
残った痛みに悶える私を見ながら、聖は腰に手を当てて、口をへの字にしていた。
「どうして、恋人同士なのに名前で呼べないの?」
寅丸星と、村紗水蜜は千年前から相思相愛だったらしい。
"らしい"というのは、出会ったばかりの頃、私は村紗に嫌われていたとしか思えなかったからだ。
実際、昔の村紗と言えば、私が仲良くなりたくて近寄っても。
『あの』
『うっさいバカ寅、近寄んな』
『あの……』
『ふん、だ!』
そういった具合で、まさか好かれてるなんて思いもしなかった。
私が村紗の告白を受け入れたのを不思議に思う人もいるかもしれない。
そこまで嫌われていたのに。
まあ、なんというか彼女は可愛いのだ。
元気だし、健康そうだし、少なくとも千年前だって私以外には礼儀正しかった。
台詞だけ見れば、私に対して非常につんけんしていたようにも見えるけれど、実際には怖くもなんともなく、ただ強がっている顔がひたすら可愛かったのを覚えている。
姉を取られた年頃の娘のような、とがった意地らしい口。
必死にこちらを睨む目。
そんな彼女の態度がある日、がらりと変わった。
『……』
『なんですか?』
『……し、星』
『え?』
初めて、名前で呼ばれた日だった。
その後、段々と村紗と話す時間が延びていき、色々なことを教えてもらった。
私に嫉妬していたこと。
聖をとても尊敬していたこと。
本当は、私のことも嫌いじゃないこと。
『村紗』
『はい?』
『村紗、って呼び捨てにしても、いいよ』
彼女を呼ぶことも、許された。
名前どころか声を発すれば睨まれていたのが、こうだ。
『村紗』
『何、星?』
『村紗』
『星、今夜の晩御飯何作ろうか!』
村紗。
そう呼べば、彼女は振り向いてくれる。
私に微笑みかけてくれる。
気付いてくれる。
犬が餌付けされて主人を覚えていくように、私の脳内に、村紗という名前は焼きついていった。
「……と、いうわけで、私は村紗という呼び方に愛着があるのですよ」
「そのために恋人を泣かせたと……バカかい?」
「ナズーリンまで……」
聖にも同じことを話したら、頭に大きなたんこぶをもらった。
一輪からは顔の腫れをもらった。
部下には罵倒された。
「全く……ほら、これで冷やしなよ」
「あうっ、な、ナズーリンもっと優しく」
「自業自得だよ」
では続きを待たせてもらおうか。
全力で続きに期待。
二人とも微妙にヘタレなのがいいんだよね、水星は。