「月が恋しい?」
鈴仙が地上で暮らし始めたばかりの頃のことだ。
戦争を恐れて、月を脱走して。何の因果か永遠亭で暮らすことになって。未だに色々なことに戸惑い、おびえていた頃のことだ。
はじめの一週間は、布団から起き上がることができなかった。
月からの使者と勘違いした永琳による攻撃の傷と、かなり無理やりに地上へ降りてきたことによる疲労。それに、初めて肌身に感じた地上の穢れを身体が受け付けなかったことが祟ったのか、何も考えずに、臥せっていた。ただ仲間を見捨てた罪悪感、戦争の恐怖にうなされて。
次の二週間は地上の暮らしに慣れるので精一杯だった。
進んだ科学技術を持つ月とはあまりにも、地上での暮らしは異なっていた。たとえば、襖は自動的には開かないとか、水は井戸から汲んでこなければいけないだとか。地上では当たり前に行われているそれらすべてが鈴仙にとっては初体験だった。まるで原始時代に逆戻りしたかのような、不便さに辟易したのを覚えている。
また、当時の鈴仙には、輝夜を始めとして、永琳、てゐが何を考えているのが分からず、恐怖を抱いていた。息を潜めて、注意深くあたりを窺って、常に警戒を解くことができなかった。ただでさえ、人見知りで臆病な兎なのだから。
たったひとりの月の兎。頼れるあてもなく、一日中緊張で身体が強張っていた。
そうして、次の一週間の始まりの日。鈴仙はようやくひと心地つくことができた。
てゐをただの悪戯兎であると判断することができ、輝夜にさえ危害を与えなければ永琳は温厚な薬師だということが分かった。そして、一番よく分からない輝夜は、豊姫と同じようなものだと思えば、恐怖も薄らいだ。
もっとも、鈴仙をとても可愛がってくれたけれど、何を考えているのか分からない彼女のことを鈴仙は苦手としていたのだけれど。押しては返す波のように、つかみどころがない、そんなところがよく似ている。
とにかく、鈴仙はその日、ようやく過剰なほどの警戒を解くことができた。
けれど、そんな時には大抵、心が弱るもので。頭の中に余裕ができた分、余計なことまで考えてしまう。
鈴仙もその例にもれず、湯上がりにふと、縁側に腰かけて眺めた月に、郷愁を誘われた。
「かえりたい」
薄暗い夜空を弱々しく照らす半分の月を見上げていると、月での暮らしが思い出された。
いつも一緒に訓練をしたり、遊んでいた仲間たち。
厳しくも温かかった綿月姉妹。
便利だった月の施設も、一人で訪れるのが少し怖かった静かの海も、おいしい桃が生っていた庭も。まだ、地上へ降りてから、一月も経っていないのに、随分懐かしく感じられた。
これまでそれをまったく意識したことなどなかったのに、こうして離れて見れば、それらはどんなに愛しいものだったのだろう、と思う。
自分から、鈴仙は裏切ったのだ。仲間の信頼も、姉妹の期待も。すべてすべて、裏切ったのだ。故郷を懐かしむ資格などない。
けれど、鈴仙は月が憎かったわけではないのだ。ただ、臆病で、平穏だけを望んで、現実から逃げ出しただけ。意気地なし。
「かえりたいな」
それは望郷。二度と戻れないことを分かっているからこそ、そう思う。
実際に帰るわけにはいかないし、帰るかと問われれば間違いなく首を横に振る。帰りたいのは、月ではなく、楽しかった日々、なのだから。
地上から眺める月はあまりにも遠くて。どんなに手を伸ばしても、決して届きはしない。
けれど、センチメンタルな、ノスタルジックな衝動に突き動かされて、鈴仙は月に向かって、右手を伸ばしていた。
その時の鈴仙に声をかけたのが、輝夜だった。
「月が恋しいの?」
気配もなく鈴仙の目の前に現れた輝夜は、両手を胸の前で合わせた仕草で、そう問いかけてきた。
突然の出来事にびくり、と身体を震わせた鈴仙は、とっさに声を出すことも叶わない。ただ、縦でも横でもなく、曖昧に首を振る。肯定とも否定ともとれる中途半端な返答だった。
けれど、輝夜は、はっきりしなさい、とそれを咎めることもなく、柔らかく微笑んだ。三日月のように密やかな笑顔で、首を傾げる。
「それなら、ねえ、イナバ」
「あ、あの……」
流れるような優雅な手つきで、輝夜は鈴仙の右手、月をつかもうとしたその手をそっと両手で包み込んだ。兎よりも体温の低いひんやりとして、すべすべと柔らかな感触に鈴仙は戸惑う。
詳しいことを聞いたわけではないけれど。鈴仙が生まれるよりもずっと昔、大罪を犯して、地上に堕とされた月の姫は。
穢れに満ちていながらも、決してその輝きを失うことのない、輝夜は、にっこりと極上の微笑みで、鈴仙に告げる。
「私を月だと思えばいいわ」
「ねえ、てゐ。最近、姫様元気なくない?」
いつものように例月祭の支度で、台所に立った鈴仙はてゐに問いかける。
兎達のついた餅を、時折つまみ食いしながら丸めていたてゐはその声に顔を上げる。
「ふぉう?」
餅を頬張っているせいで、栗鼠のように膨らんだ頬をしたてゐの言葉は不明瞭だ。本当ならば、たしなめなければならないつまみ食いも、満月の夜は例外。食べきるのが辛いほどに、たくさんの餅をつくのだから、ひとつやふたつつまみ食いしたところで、何も問題はないのだから。
みたらし団子のたれが焦げ付かないように、注意深く鍋の様子を窺いながら、鈴仙は言葉を続ける。最近、妖夢に教えてもらったとっておきのたれだ。一月前の例月祭で輝夜や永琳に絶賛され、今回も作るように頼まれたのである。絶対失敗するわけにはいかない。
「どこがってわけじゃないんだけど。なんとなく、……うん。うまく言えないんだけど、こう寂しそうって言うか」
普段の輝夜の笑顔が晴れた夜空の満月だとしたら、時折雲がかかって、朧月になってしまうというか。
些細なニュアンスの違いをうまく言葉にすることが出来ず、鈴仙は眉を寄せる。こんな時、永琳ならば、適切な言葉を選べる、輝夜ならばうまいたとえを見つけてくるだろうに。まだまだ、未熟な鈴仙にはまだできない。それがもどかしくて悔しい。
「気のせいじゃない? 私にはいつも通りに見えるけどねえ」
「むー……。そうかなあ。でもさー」
ごっくんと団子を飲みこんだてゐが、あっさりと首を横に振る。唇の端についた白い粉を拭いながら、新たに餅を丸めながら、こともなげに肩を竦めた。
けれど、鈴仙は確かに感じている違和感を払拭する事ができず、言い募ろうとする。けれど、やはりうまい言い回しが思いつかない。
鈴仙よりも年長で、輝夜との付き合いも長いてゐがそういうのならば、考えすぎであることも十分あり得る。どちらかと言えば、自分が慎重で余計なことまで考えてしまう性質であることも十分理解している。
唇を微かに尖らせて、けれど、眉尻の下がった鈴仙の困った顔を眺めるてゐは、にやりとした何かをたくらんだ表情になる。
てゐは鈴仙のことを気に入っている。プライドばかり高くて、そのわりに臆病で、不器用な月の兎。もともと世話焼きなところのあるてゐとしては、どうも放っておけない。
「ねえ、鈴仙」
「てゐ?」
うーん、なんていうかなあ、えーと……、などと、難しい顔をして、未だに言葉を探している最中の鈴仙は、不意に呼びかけられた声に、きょとんとする。へにょりとした耳がぴくり、と動く。
「そんなに気になるなら、姫様に直接聞けばいいじゃん、私じゃなくてさ」
「え?」
丸め終えた団子をトレイに乗せて、これで終わり、と呟いたてゐは、腕を後ろで組みながら、鈴仙の後まで歩いてくる。どこかひょうきんさを感じさせるその歩き方は、おもちゃのようで、けれどいかにも彼女らしい。
「鈴仙はもっと積極的になった方がいいと思うけど?」
「てゐ?」
「飼い主が悩んでたら、それを慰めるのもペットの役目ってね」
「あ」
「私はなんにも気付いてないけど、鈴仙は気付いたんでしょ?」
なら、やることは一つじゃないの?、と頬に人差し指を当てて、てゐは笑う。不敵な視線は鈴仙をまっすぐに見上げている。
その何かを含むところのある瞳に、たじろいだ様子の鈴仙は、うまく返事をすることができない。けれど、口元をきゅっと引き締めると、一度だけしっかりと頷いた。
それを見たてゐは満足げに親指を立てて、にっと、歯を見せて笑う。鈴仙もそれに返事をするように、微笑み返した。
「ところで、鈴仙」
「え?」
「みたらし、焦げてるけどいいの?」
「へ? あっ、あー!!」
「うー……」
結局、今日はみたらし団子を作ることはできなかった。いつも通りのお団子を永琳のもとへ運んで、どちらかと言えばそういうことをあまり表情に出さない永琳が、珍しくもがっかりしていたことに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
今は、縁側で月を眺めているという輝夜に団子を届けに向かっている最中だ。今度は輝夜をがっかりさせてしまうかと思うと、気が重い。
輝夜に元気がないのを心配していて、喜ばせることのできるみたらし団子作りを失敗するとは本末転倒も甚だしい。
永琳の部屋からさほど離れているというわけでもないため、うまい話のきっかけを思いつく間もなく、縁側に辿りついてしまう。
縁側に腰を下ろし、明るい月の光に照らされる輝夜の姿はやはり、美しい。
ひとりでいるためか、いつものような柔和な笑顔はなく、ただ月を眺める表情は凛としていて、どこか気高さを感じさせる。また、ひんやりと透き通るような姿は、そのまま光の中に溶けていってしまいそうな儚さを孕んでいて。
今まで見たことのない、そんな輝夜の表情に鈴仙はなぜか不安を覚える。半ば衝動的に、言葉を発する。
「月がきれいですね」
鈴仙は、いきなりそんなことを言ってどうするんだ、とその時点で後悔する。
こんな時にもっとうまいことを言えればいいのに。確かに月はきれいだけれど、そんなことを話しかけてどうしようというのか。
頭の中はもう大混乱を起こしていて、かろうじてそれを顔に出さないでいようと、鈴仙は表情を引き締める。
「あら、イナバ」
鈴仙の声に月から視線を移動させた輝夜は、いつも通りの笑顔になる。けれど、やはりその笑顔はどこかぼんやりと陰っているように、鈴仙には感じられた。
「お団子、お持ちしました」
「ありがとう、今日はきなこなのね」
「すいません、みたらしのたれ、失敗しちゃって……」
耳がへにょりと垂れ下がり、申し訳なさそうに身体を縮める鈴仙に、輝夜は笑みを深める。
「いいわ。きなこも好きだもの」
「そう、ですか?」
「それに今日は甘いのが食べたい気分だったからちょうどいいわ」
ふふ、と笑う輝夜は鈴仙に気を遣っているのか、あるいは本気で言っているのか、表情からは判断がつかない。姫らしくもなく、ぽいっと、口に団子を放り込んで、美味しい、と微笑まれれば、もうどちらでもいいような気分になってくる。
鈴仙は輝夜の隣に腰を下ろし、自分も団子を口に運ぶ。
砂糖ときなこのバランスは鈴仙には少し甘すぎるような気がするけれど、甘党の輝夜にはこれぐらいがもっとも好まれる。一応、好みでかけられるようにと持ってきた黒蜜も輝夜はたっぷりかけている。
「ね、イナバ」
「はい?」
輝夜が五つ目を、鈴仙が三つ目を食べ終えた頃、輝夜は鈴仙に話しかける。夜の静けさの中に溶けてしまいそうな声。
「こうしていると、あの時を思い出すわね」
「あの時、ですか?」
「イナバがここに来たばっかりの頃のこと、よ」
二人きりで縁側に腰かけておしゃべりしたの、忘れちゃった?
いたずらっぽくくすくすと笑う輝夜は、そのことを鈴仙が覚えていることを確信しているかのよう。鈴仙にとって、地上に降りてきてから最初に印象に残った出来事があれだったのだから、覚えていないはずもない。
むしろ、輝夜がそれを覚えていたことに驚いて、鈴仙は大きく一度頷いた。
「結局、あの時の言葉って、どういう意味だったんですか?」
『私を月だと思えばいいわ』
そう言われて、意味が分からなかったのを覚えている。どういう意味ですか、と問いかけても輝夜はただただ微笑むだけで、答えをくれなかったことも。
あの時はともかく。今ならば答えをもらえるかもしれない、と鈴仙は神妙な顔で問いかけた。
「ああ、あれはね」
懐かしげに目を細めた輝夜はふふと笑いながら、とても大切な秘密を告白するかのように、鈴仙の近くに顔を寄せて囁く。幼いような、それでいて大人びているような不思議な響きを持つ声は、どこかくすぐったくて心地がいい。
「月はイナバの傍にないけど、代わりに私がそばにいてあげる。だから、寂しいことなんてなんにもないのよって、言いたかったの」
そういうと、流石に少し照れくさかったのか、輝夜は少しだけはにかんでみせる。いつものように胸の前で両手を合わせて、小さく首を傾げる仕草。
「姫様……」
「私たちはおんなじだから。イナバの気持ちが分かるの」
この幻想郷にたったふたりの月生まれ。
地上での暮らしを輝夜は気に入っている。月にいた頃よりもずっと、刺激的で楽しい毎日。優しい養父母との思い出、たくさんの友人を得た今の暮らし。
かけがえのない宝物のように思っている。
それでも、月で暮らしていた日々をすべて否定する気にはならない。
輝夜のわがままで不幸になってしまった人々への罪悪感もないわけではない。
月に対する複雑な感情は、ある意味、鈴仙以上に感じているとも言える。
決して帰ろうとは思わないけれど。
昔々、と里の子供たちに語り聞かせている時のような調子で、輝夜は語る。
月を眺めているようで、どこか違う遠くを見つめているかのような輝夜の姿に鈴仙は、まただ、と思う。
微笑んでいるのにも関わらず、その瞳は寂しげで、切なさのようなものが滲んでいるように感じられた。それを見ていると、胸の奥がざわついて落ち着かなくなる。普段が能天気な笑顔ばかり見ているせいか、余計にそれが重々しい。
「あ、あのっ、あの、姫様!」
「イナバ?」
居ても経ってもいられない気分になった鈴仙はとっさに輝夜を呼ぶ。何を言えばいいのかなんて分からない。どうしていいのかも分からない。
けれど。このまま輝夜に悲しい顔をしていてほしくなかった。
夕方、てゐに言われたことを思い出す。ペットの役目は、飼い主の寂しさを埋めること。
臆病な自分でも、輝夜の支えになれるのならば。
「姫様が、寂しいのなら。月が恋しいのなら」
「イナバ」
「私が姫様の月になります、私を月だと思ってください」
何を言っているんだ、と自分でも思う。けれど言わずにはいられなかったのだ。
衝動的な言葉にどきどきと心臓の音がうるさい。顔に血が昇るのが分かる。緊張で震える手は汗ばんでいる。
驚いたように鈴仙の方を見た輝夜は目を丸くして、じっと鈴仙を見つめている。
何も言葉を発することもなく、ただ、鈴仙をまっすぐに見つめている。
「あ、あの、すいません。私の方が先に死んじゃうし、それに姫様には師匠がいるから、私なんかいなくてもいいかもしれないんですけど、でも、その、一人でも多く傍にいた方が寂しくないんじゃないかっていうか」
焦った鈴仙はしどろもどろになりながら、つっかえつっかえ思いを告げる。
黙ったままの輝夜の顔を見ていられなくなって、顔を伏せる。
早くも後悔してしまいそうだった。出過ぎたことを言ってしまっただろうか。
「……イナバ」
「はっ、はい!」
「顔をあげて?」
ややあって。どこか呆けたような輝夜の声が鈴仙を呼ぶ。どこか甘えるような響きを持ったお願いに、鈴仙は火照った頬を冷ますように両頬に手を当てながら、顔を上げる。
そうして視線の先に見つけたのは、ほのかに色づいた頬で、月を眺めている輝夜だった。
「姫様……?」
「ねえ、イナバ」
「あの」
鈴仙の方へ向き直った輝夜は、微笑んでいた。
甘やかで、月の光のようにすべてを包み込むような温かい笑顔。幸せでたまらないという感情が、見ているだけで伝わってくるような、そんな笑顔だった。
「月がきれいね」
「え?」
「ふふっ」
思わず輝夜の笑顔に見とれていた鈴仙に、輝夜は金平糖よりも甘い声で囁きかけた。
その意図が読めずに困惑して、おろおろしてしまう。
とりあえず、輝夜は怒っていない。鈴仙の思いが届いた。
それだけは分かったから十分なのだけれど。
わけが分からないままに、あれ、だのえ、だの繰り返して、眉をハの字にしている鈴仙にそっと手を差し伸べて、ぎゅうっとやわらかな体を抱きしめる。
驚いて、みっ、と声をあげ、体を震わせる鈴仙に輝夜は悪戯っぽく微笑んだ。
「大好きよ、鈴仙。ずっと傍にいてちょうだい」
この二人のお話は本当に良いなぁ
静謐な雰囲気で、ラブも見えつつ・・・。
良いものを読ませていただきました。
御見事です。鈴仙は意味を知って赤面するといいと思うよ!
あなたの永遠亭は本当に優しくて愛しいよ…
ペットでもあるけど同じ月の仲間でもあり家族でもあって、きっと友達でもあると思う。
そんな二人をもっと見てみたいね。
俺も誰かに言いたいな。
このようなお話がもっともっと読みたいです。
こびり付いた疲れをそぎ落としてくれるものがあるなあ…
寝る前に読むと落ち着きます
作者様のファンになりました。
あと、がっかりした永琳が地味に可愛かったです