夢。
それは実現しない物であり、実現してしまえばもはや現実である。
現実。
それは夢よりも残酷で卑猥で思わず眼を閉じてしまいそうなほど、非常識な世界である。
つまり、世界滅べ。現実滅べ。
『人喰いメリー』
多めの出費と、それなりの時間をかけて差し出された二人分のタンブラーを受け取り、メリーが確保してる席に戻る。
そこには当然メリーがいるわけだけだが、彼女はなぜか神妙な顔をし、腕を組みウンウン唸っていた。
一体どうしたのだろうか? トイレなら向こうの筈だけど。
「……失礼なこと考えてない?」
「そんな訳ないじゃない。私がメリーに対してそんなこと考えたことあると思う?」
「考えたかどうかはともかく、されたことは沢山あるわね」
指折り数え始めるメリーに、思わず冷や汗が零れる。
一体どれがカウントされていて、どれがカウントされていないのだろう。
「そういうのが我が秘封倶楽部の活動だもん」
「可愛く言うな」
はぐらかすのは無理だった。仕方ない、メリーが相手だもの。
「まあいいじゃない昔のことは。いつかこうだったああだったと語り合うのは、私たちがおばあちゃんになったときにしましょうよ」
「歳は取りたくないわねえ」
……メリー、貴女老けたわね。
「……また随分失礼なことを思われた気がするんだけど?」
「き、気のせいよ気のせい」
しかし、なぜか日を追う事に磨きが掛かるメリーの美しさには、精神的な物はともかく肉体的な老いは微塵も感じさせないのである。色々な意味で。
「と、ところで」
「あ、何か用があるんだっけ?」
「用、ってわけじゃないんだけど」
私は苦し紛れにタンブラーを呷る。
粉々になった氷がコーヒーと共に流れ込み、少しだけ喉を潤した。
「少し、不思議な体験をしたのよ。体験というには、――少し、いや、なんか……」
「?」
「とっ! とにかく、不思議なことがあったのよ、うん」
そんな顔しないでメリー。
「んー、そうなると、今からはいつも通り?」
メリーの表情には、いつも通り駄弁るのか、という楽しげな、それでいて退屈げな表情が窺えた。
確かに、連日こうも話してたら話す話題も尽きるだろう。
それでも楽しげな表情が垣間見えるのは、むしろ喜ぶべき事なのだと思う。
大学のカフェテリアの一角。
今日もそこで、何かが始まるのだろうと心躍らせる。
不思議の始まり、非日常の始まり。
そのスタート地点は、いつも何気ない一言から――まあ大半は私なのだが――物語は始まったほうが楽しいではないか。
「最近ね、変な夢を見るのよ」
始まりは、こんな感じで。
秘封倶楽部の活動を通しての蓮子との日常はもの凄く刺激的だ。
辛いことも痛いことも沢山あったけど、蓮子と一緒にいるだけで常に元気でいられた。
過去の私など忘れて、蓮子と一緒に生きていたいと、心の底から思えた。
だからこそ、蓮子と一緒にいられるよう、私は努力しよう。
――と、思っていたのだけれど。
「最近ね、変な夢を見るの」
蓮子がいつになく顔を赤らめもじもじしている姿を見ると、時々この子が、普通の女の子だと突きつけられる。
「変な夢?」
「うん……その」
既に茹蛸状態な蓮子は、こちらの様子を伺うように顔を覗き込んでいた。
目は潤み、今にも泣き出しそうである。
「どうしたの? そんなに話しづらいことなの?」
思わず少し身を乗り出してしまう。
蓮子のその表情は非常にクル物があったが、このような状況でそれを見せられたらむしろ心配の方が先立つ。
蓮子の身に何かあったら――そう考えると、私は冷静ではいられなくなってしまう。
「いや、確かに、話しづらいこと、ではある、んだけど」
途切れ途切れの言葉を、耳を近づけて聞き取ろうとする。
いつもならこんなこと滅多にしないのだが、生涯に一度あるかないかの蓮子の異変に、できることと言えばこれぐらいだった。
やがて、蚊の鳴くような声が耳に届く。
「メリーに、襲われる夢」
カフェテラスの一角が、急速冷凍される。
「…………え?」
蓮子の言葉に、思わず反応が遅れた。
この子は今、なんと言ったんだ?
「え、えと……も、もう一度言ってもらえる、かしら? ちょっと耳の聞こえが悪かっ――」
「こ、こんなのも、もう一度言える訳……ない、じゃない」
決定的だった。
聞き間違えじゃなかった。
「……なにその夢」
「ちなみに昨日は布団の上で、一昨日は外……」
肘をついて手の甲に顎を乗せて考えた。
他人事、しかも夢だというのに責任感バシバシで、夏だというのに冷や汗掻きまくりな私に浴びせられたのは追い討ちという名の熱湯。なんでこいつはそんなにも冷静なのだ。
――というか。あれ。茹蛸蓮子はどこいった。あれ?
当の本人であるあの初々しい蓮子は別人にでもなったかのように、どこ吹く風でコーヒーを飲んでいた。
……なんてこった。
「……もしかして、全部嘘?」
「夢は本当だけどね。でも態度は嘘。物の見事に引っ掛かったわね、メリー」
やられた。
我が親友にして懸想の人はすこぶる良い笑顔で、しかもにやにやしてる。
「……それを私に伝えて、一体どうしたいのかしら?」
「メリーの反応が見たかったのが大きな理由。まぁ他にも理由はあるけど……それにしても、外は流石に嫌ねぇ。だって、実際にやったら擦れたりして痛そうじゃない?」
「まぁ確かにそうだけ……ど?」
待て。彼女は今なんと言った。『外は流石に嫌ね』?
「……ねぇ」
「なにかしら?」
彼女は相変わらずのにやにや笑いで、聞き返す。
「それ……どういう意味なのかしら?」
「どういう意味、とは?」
「いや、その……外『は』嫌なのよね」
「そうね。人目もあるし」
「と、いうことは……外じゃなきゃいいってこと?」
聞くと、蓮子は頬の筋肉が最高潮に達したらしく、もはや破顔どころではなかった。
「布団の中のメリーは情熱的だったわよ?」
なんてことを言ってくれる。思わず顔が赤面してしまったではないか。
まずい、蓮子に一本取られた。このままでは負ける、負けてしまう。
私は蓮子が好きであり、蓮子とそういう関係になれることは喜ばしいことだ。
だけど、だけど負けるのは拙い。宇佐見蓮子に負けるのは拙すぎる。
「あ、え、そ、そっ」
だが、二の句が出なかった。
「メリーってば初心なのか助平なのかわからないわよね。だって夢の中では嫌がる私を無理やり――」
「ちょ、ちょっ、まっ」
「食べられる、ってあんな感じなのよねえ、きっと。まさに『人喰いメリー』」
蓮子は意地の悪い子供のようなにやけ顔で揶揄した。
「このタイトルで一本書けそうだと思わない?」
「…………な、なにを書くの、かしら?」
問いへの返答は随分開いてしまった。呼吸を落ち着ける。深呼吸をしたいが、それをしてしまえばばれてしまう。
いや、既に色々とばれている気がするがそんな物は端に置いておく。
今は体裁こそが大事なのだ。
――落ち着け、落ち着け、マエリベリー・ハーン。
「何って、レポート?」
「……テーマは?」
「そうねえ……夢と現の積極性の違い、というのはどうかしら。現実の対象物を夢と対比するの。きっと面白いと思わない?」
なんでこう、いつもは却下されるようなレポート内容を好き好んで書くクセに、こういうときだけまともなことを考えるのだ。
バカと天才は紙一重ではなかったのか。
超自然と自然は隣り合わせではなかったのか。
しかも、なぜその被害者が私でなければ読んでみたいと思えるものを考えやがるのだ。
稀に光る蓮子の才能は、まったくもって予想し難く度し難いものなのであった。
「い、いいんじゃないかしら……面白そうね。相対性精神学的にも、うん」
自分でも何を言っているかさっぱりわからない。
「でしょう。なら、メリーも協力してくれるわよね? だって私たち、親友でしょう?」
相変わらずのにやにや顔で、宇佐見蓮子は私に問いかける。
狙ってる。絶対狙ってる。
「どどどどど」
工事中に飛んでくる音が口から漏れた。
「ど?」
「ど、どうやって、協力しろって言うのよ」
「そんなの簡単よ。夢であったことを、現実でもしてみればいいの」
「へっ?」
「つまりは、メリーが私を食べればいいわけね」
「どどどどど」
音がまた口から。
ここはアスファルトの上でも土の上でもない、大学のカフェテラスの一角なのだ。
本来なら、こんな会話してる方がおかしい。
しかし、暴走列車蓮子は止まることを知らず走り続ける。
何度もいうがここは大学であり、当然、人も多くざわめいている。
蓮子はそれをわかって言っているのだろうか?
いや、絶対わかってる筈だ。
なにせさっきから続いてるあのにやにや顔が、これ以上進むことはないと思ってたのに更に進行している。
なんともイヤミな笑顔である。
「じゃあまずは、」
「な、なにかしら?」
「とりあえず、いきましょうか、メリー?」
「い、一体どこへかしら?」
「そんなの決まってるじゃない……ねぇ?」
飲みかけのタンブラーを私の手からひっぺがして、遠慮なく飲み干した。
いや、まあ、これ蓮子のおごりだったから、別にいいんだけど……ってそういう問題じゃない。
「帰るわよ、メリー。今日の活動は私の家ね」
「だからなんでそうなる――」
「そっちの方が、レポートすぐ書ける気がして」
「す、すぐに?」
「えぇ、すぐに。思い立ったが吉日よ」
「一体、なにを思い立ったの?」
「勿論レポートの提出よ。いつ提出なのかは知らないけどね」
「……あ」
思い出す。思い出した。
「れ、蓮子! あなた確か」
そんな講義、とってなかったじゃない!
「さぁ行くわよメリー。思い立ったら善は急げよ!」
「急がば回れという言葉があってね……。というか急げって、どうせ蓮子の家なんでしょ?」
「そうだけど。……あ、そうか。メリーは暗くなってからのほうがいいのね。了解」
「なんでそういうことになるのかしら」
ノートと筆箱と活動日誌をリュックの中に放り込んだ。
太陽が急かされるように下っていく。西へ、西へ。月が顔を出す。
これから、蓮子は何をするのだろう。
そもそも、蓮子は何を期待しているのだろう。
そんな不安ばかりな――だけど、楽しみだと思えるような複雑な感情を抱いて、私は彼女に手を引かれる。
これから向かうは彼女の家。これから一体、私たちはどうなってしまうのだろう?
――いや、まず、ともかく、は。
「その、あれよね。お酒買っていきません?」
「え、なんで」
「なんでってその……」
「ああ、メリーはお酒入ったほうが襲いやすいから、と。させないわよ。レポートの内容は夢と現の積極性の違いなんだから。お酒が入ってたら夢と変わらないでしょ」
「……レポートの内容、マジなのね」
「あら、そんなんじゃない方が良いのかしら、メリーさんは」
蓮子のクスクス笑いが耳に響く。
あぁもう、素面だろうがそうでなかろうが、どうしてこの子はこうなのだろう。
「もういいわ。蓮子のお望み通りに致しましょう」
「そうこなくっちゃ」
そうだ。腹をくくろうじゃないかマエベリー・ハーン。
どうせ家につけばうやむやになる。
大真面目に蓮子が相手するとは思えないし、私も大真面目に向き合うつもりなんてさらさらない。
ただ時の流れるまま、過ぎ行くまま、波に乗ってしまえばいい。
レポート? そんなものくそくらえである。
だから。だから、少し位は。
「ねぇ蓮子」
「なにかしら、メリー?」
「家に着いたら、たっぷりお相手してあげるわ。私も蓮子も、満足するまで、ずっとね」
少し位は、蓮子に報いてみよう。
そんな蓮子の顔は、ほんの少しだけ、赤くなったように見えた、
「太陽」
蓮子は照れ隠しにニカッと笑う。
「というよりは茹蛸。メリーは演技が下手なのだから、私の真似なんてしなくてもいいのよ」
「してないわよばか」
「とりあえず、帰ったらレポートね。タイトルは――」
「「『人喰いメリー』」」
「でしょ? どうせ」
「ばれたか」
「当たり前」
精一杯きめたのに、すぐ返されてしまってはどうしようもない。
されるがまま手を引かれ、されるがままに歩き始めた。
繋いだ手だけ、虹のように、橋のように描かれていた。
期限が既に三日も過ぎているんだが……宇佐見君はまだ休んでいるのかね?
おっと、そういえばハーン君も来ていないらしいn(ry
てなわけで早くレポートをください