地上に出たいと思うときは、限って晴れた日の夜だった。
星が綺麗なのだ。空に散らばる星。黒塗りされた世界の中で、私が地上に降り立つと、監視されている気分になった。
すっと首を上げて今日も星を見る。ああ、なんて可愛そうな。そこでしか存在することが許されない。落ちて、堕ちていくだけの星。息つく暇もなく太陽に焼き殺される。
だから、私が地上にいるときだけは見ていればいいと思った。無意識の中でしか存在しない。私に気づくひとなんていない。取り残された世界の中で、星だけは相変わらず私をみていてくれている。
それが好きで。大好きで。
こんなときだけ助けてくれる星の存在が、ずるいとも、思った。
『こいしたい』
お姉ちゃんの幸せとはつまるところ、私の幸せでもあるのだ。
「お姉ちゃん。星が綺麗だよ。凄く綺麗なの。あのね、あのね、キラキラって輝いてるの。――笑えるよね。どうせ落ちていくだけなのに。無様だよね。どうせ堕ちていくだけなのに」
地霊殿に帰って、私がリビングへと広がる扉を開けると、お姉ちゃんは気持ちよさそうに舟をこいでいた。
でもたくさん、たくさん話したいことがあったから。たくさん、たくさん話しをするのだ。
お姉ちゃんを起こさないように、でも気づいて欲しいから普段と変わらない音量で言葉を紡いだ。
「どうしようかなぁ。ねえ、お姉ちゃん。私どうすればいいと思う? このまま、お星様に恋しちゃうのかなぁ。そうだったら、凄く素敵だ、って言ってくれる? おめでとう、って言ってくれる? ねえ、ねえ。お姉ちゃん。私恋しちゃうよ。お姉ちゃんが寝てる間に――ほら、もう、すぐ」
「……それはそれは。おめでとう、こいし」
「あれ、起きてたの?」
「誰かさんが、無意識のうちに私を起こしてくれていたみたいだからね」
私の体から伸びた二つの肉の塊が、いつの間にか、お姉ちゃんを揺り動かしていたようだ。
いらないことをしてくれる。
「それで、構ってくれない私の代わりに、お星様にホの字なわけですか。こいしは」
それは古いと思う。
「私はペットだから、お姉ちゃんに構われないぐらいへのかっぱよ」
「おやおや。随分な言い草ですね。この世で私の妹は貴女だけですよ。――ああ、愛しい愛しい我が妹。一体どれほどの愛をつぎ込めば、貴女は私の気持ちに答えをくれるのでしょう」
「ばっかみたい」
私が一蹴すると、お姉ちゃんは苦笑いしてそばにあった紅茶を飲んだ。多分、寝る前まで飲んでいた飲みかけだろう。
お姉ちゃんはたまによくわからないことを言う。その度に、私のこころにはいつも揺れた紅茶のようにさざなみが湧くのだ。
「少なくとも、今の言葉は嘘ではないので。……そうですか。空に行ってしまうのですか。悲しいですね。寂しいですね」
「めんどくさいなぁ。そういう感情いらないって言ってるじゃない。ぐちゃぐちゃにして、ぶちぶちに千切って踏んづければいいの」
「しません。それすらも惜しいもの」
「変なお姉ちゃん」
寂しい、なんて。
私が言ったときは、構ってくれなかったクセに。
「お姉ちゃんはワガママなんだから、私だってたまにはワガママしてもいいじゃない? そう思わない? 思うよね」
「欲しいものがあるなら揃えます。食べたいものがあるなら作らせます。だけど、いなくなってしまうのは悲しいじゃないですか」
「いいんじゃないの? 元々拾ってきたんだから、もう一度捨てに行くようなものじゃない」
「それは閻魔に怒られるから嫌」
「存在が火種なだけじゃん」
「火種を捨てたら火事になる」
お姉ちゃんはそう言って、諭すように私の瞳を見つめた。ただじっと、淡々と、刻々と過ぎていく私の時間を捉えるかのように。
無意識などに翻弄されない眼。それがお姉ちゃんには最初から備わっていた。
私になくて、お姉ちゃんにあるもの。特別な二つの眼があるのに、お姉ちゃんはなお私を捉えようとする。
だからそれが苛々するって言ってるでしょ。
「行ってしまえば会うことが日に日に少なくなってしまうでしょう。晴れの日も、雨の日も、曇りでも雪でも、空にいる貴女には、私たちが見えないでしょう。逆に、私たちも貴女の姿を見ることはできないでしょう。それが私には――私にとっては、嫌なのよ。こいし……。こいし。恋の瞳。写すのは私じゃないのね」
「なら……最初から『行くな』って言えばいいじゃんか」
「そうとは言わないわ。決めるのはこいしだから」
「そんなこと言ってー言うのが怖いだけなんでしょー」
「そうね……」
言い訳を探すかのように、お姉ちゃんは私の白髪を愛おしそうに指でいじくる。
今更だ。
愛を注ぐ行為なんて、今更だった。
――ばいばい――
私が眠りにつくとき、お姉ちゃんはいつも自分の手をアイマスク代わりに私の目を覆って、「ばいばい」と言った。
それは「さようなら」という意味だったのか、それとも「おやすみなさい」の意味だったのか。幼稚な私にはわからないことだったが、今となって考えれば、それは今日のことを想定していたのではないかと思った。
さようなら、という5文字は、私たちにとっては軽すぎた。別れの言葉なんて何度言っても足りない。二人の間にある今までの生活を埋めるためには、そんな一言、1㎜も埋まらない。
だからお姉ちゃんは今までずっと、「ばいばい」と言っていたのだ。数え切れないほどの別れの言葉を、今までずっと、ずっと――紡いでいたのだろう。
今日まで。
このときまで。
何度、お姉ちゃんは私に別れを告げていたのだろう。
「むぅ……」
「眠たいの?」
「そのようです。どうしてでしょう。妹の一大事なのに、大切なときなのに」
「多分私が望んだからだよ。瞳は脳と連鎖する。私が思ったからだよ、お姉ちゃんに寝て欲しいって、思ったからだよ」
「なん、で……」
「さようならはお姉ちゃんから言ってくれたもの」
「……?」
「ばいばい、って、言ってくれたからだよ」
地霊殿にある大した役割を果たさない時計が、夜を告げた。
嗚呼、会いに、いかなくちゃ。
私はお姉ちゃんがいつもしてくれたように、右手で眼を覆った。
「だから今度は、私が言うの」
「こい……し」
「ばいばいって言うのよ」
「こいしっ……!」
ざんばらになった言葉が、震える声に乗せられて、私の耳に流れてきた。
「さっきまでずっと……考えて、いました。『行かないで』という言葉以外に、どうしたら貴女を引き止められるのだろうか……と。……でも、駄目でした。貴女には伝わらなかった。……それはきっと――いいえ、絶対に私が悪いのでしょう」
「お姉ちゃん……?」
「こいし……。こいし、こいし、こいし。可愛い可愛い、私の妹。――嗚呼、それならいっそ、私は星屑になればよかった。貴女のその瞳に、私を写すことができればそれだけでよかった」
「――ッ!」
掌が湿潤とする。お姉ちゃんの眼からは涙が溢れていた。
ポタリ、と床に雫が零れ落ちる。
私の頬を誰かが濡らした。
なんで、どうして。
枯れたはずなのに。涙が止まらない。
「星屑になって、こいしを見下ろすことができたら、よかったのかも、しれません」
「……そんなこと、しなくていいよ」
何回も何回も夢にみていた。
たまに本当なんじゃないかと疑ったりもした。
星が私を見守ってくれているのではなく、お姉ちゃんが見守っていたのではないかと。
お姉ちゃんは、私にとっての星なんじゃないか、と。
「そんなことしなくていい! お姉ちゃんはお姉ちゃんでいいの! お姉ちゃんだからいいの! 星とか、星屑とか、もう、いいから……っ!」
それだったらどんなによかったことだろう。
星に恋する私は、お姉ちゃんに恋していたのだから。
お姉ちゃんの幸せは、私の幸せでもあるのだから。
「だからお姉ちゃんはここにいて、浮気性な私を、時々叱ってくれればいいの」
「そう、ですか……」
無機質な表情が、一瞬、ふんわりと和らいだ。
「それはよかった……愛しているわ、私の星、こいし……」
私の腕を掴んでいた右手が、すぅっと力を失っていく。
せきを切ったように、言いたかったことが、知らせたかったことが、残しておきたかったことが、全て涙と嗚咽になって溢れ出した。
愛している。と言ってくれた。
それだけ、踏み潰さずに、心に刻んだ。
涙をぬぐって、だけど溢れ出す雫を垂れ流しにしたまま、私は無理に笑顔を作る。
「……お姉ちゃんは、私の星になって。そしたら、私お姉ちゃんに恋しちゃうの。素敵だなぁ。嬉しいなぁ」
涙で前が見えなくて、寝顔さえ見えないけど。
私にワガママ言わせて。
――ねえ、お姉ちゃん。
恋を知らない私に、こいさせてよ。
素敵なお話でした
ぐっときた
二人一緒に幸せになって欲しい
二人が幸せでありますように
こしいたいってww