薄暗い部屋。
私の、部屋。
その片隅には、いつも大きな鏡台が置かれている。普段は赤い布をかけているけれど、たまにそれを外したくなる。外して、覗き込んで、私の顔を見つめて、殴って、割りたくなる。私ごと、殴ってしまいたくなる。粉々にしてしまいたくなる。それはきっと、私自身の嫌悪感からくるものだ。けれど、その衝動に身を任せてしまいたくもある。私は私を見るのがきらいだ。私という存在が、私にとっての嫌悪の対象なのだ。
心を読む妖怪である私。
それなのに、私自身の心はよく分からない。
それがいやだ。
鏡に映る、不鮮明な私がきらい。不明確な私がきらい。不明瞭な私がきらい。なにもかもが分からなくなる。鏡にかかる布を外すと、私がじっと覗き込んでいる。私と同じ私が、私と同じ視線を私に注いでいる。
それが気持ち悪かった。
そんなに見ないで。
私には私の心が分からないのに、どうして鏡なんて見ることができるのか。私はできない。できれば一生、鏡なんぞを見ずに過ごしたい。私の心なんて見ずに、ペットと楽しくお喋りできればいい。あの子たちの心なら、私は読める。なにも見えない私と違って、はっきりと見ることができる。
でも、でもだ。
私は向き合っていかなくてはならないのだ。
不安で仕方がないからだ。
心の中がいかに不明瞭だろうと、確認しなければ、不安なのだ。
これは、私の心なのだから。
ぎい、と軋んだ音をたてて、鏡台の前に備え付けられた、木製の椅子に座る。
ひと息。
布はかかったまま。
ゆっくりと、私はその布に手をかけた。
「おねーちゃん」
ぴたり、と手を止めた。
後ろから声がした。妹の声。古明地こいしの声。心を読めないサトリの声。
どすんと衝撃。背中に体温が感じられる。冷たい。けれど、温かいような、そんな感じの体温を感じた。だめよ。だめよ、こいし。今のお姉ちゃんに触らないで。触っちゃだめよ。私のこんな姿は見せたくないの。だから離れてよ。お願い離れてよ。でないと私は、どうにかなってしまう。
「こ、いし?」
疑問。一切疑問などなく、分かりきっていることを、わざわざ、口に出した。確認のため。確認のようなもの。曖昧な私が、外の世界に触れているかどうかの確認。曖昧さ加減では、私よりもこいしの方が上だろうが、意味合いが違う。私は内側に対して不鮮明。こいしは外側に対して不鮮明。誰にも悟られずに行動する妹。
「えへへぇ。うん、ただいま」
「……おかえり」
一瞬どもって、返答をした、帰りのあいさつ。
こいしが私の身体に手を回して、抱きついてくる。
頬を私の頬にあて、無邪気に頬ずりをしてくる。こいし、こいし、それは無意識の行動なのかしら? それとも意識してやっているの? 私には分からないわ。教えてよ、ねぇ。
「んー? お姉ちゃん元気ないね? どしたの?」
心配そうな声音。
私の第三の目を指先で弄くりながら。くるり、くるり、と撫でている。ああ、いっそのこと、私の目も閉じてしまいたい。目を閉じて、世界のありとあらゆるものを見ずに過ごしたい。
ああ! けれどそれはだめよ。ペットたちの声が聞こえなくなる。あの子たちへの接し方が分からなくなってしまう。
「なんでもないのよ。大丈夫。大丈夫よ」
私は振り返りもせずに平静のように返事を行う。
視線の先の布はいまだに被せられたまま。
私自身の心の中を見ないと、不安になる。不安に押しつぶされて、死にたくなる。
不鮮明な、きらいな私でも見ていなければならない。私が、私である、ということを見なければならない。たとえそれが、あんまりにも醜くて、思わず暴力的になってしまうようなものだったとしても、だ。
だから早く出てってよ。
私は確認しないといけないの。
私が、今日、このとき、この場にいたことを証明しなければならないのよ。
曖昧な私の、自分自身を覗かなければいけないのよ。
「大丈夫じゃないよ? 汗びっしょり。ねぇ、お姉ちゃん。本当に大丈夫なの?」
その一言一言が私に刺さる。
妹の心配する声。
私には、重い。
こいし、あなたは私に話しかけているのよね?
他の誰でもない、私に。
「ねぇったら」
私の、頬を、こいしが、撫でる。
汗を、なぞるかのように、すぅっと。
私の背中が、ぞくり、と震える。
あなたのそれは、無意識にやっているの?
それとも、意識して、やっているの?
分からないの。私には、分からないの。教えて。誰か教えて、こいしの心を、誰か教えて。
「だい、じょうぶ、だから」
その手に、私の手を這わせる。絡ませる。白くて細い指。ちょっと捻ったら、折れてしまいそうなほどか細い指。滑らかで、温かい、指。指先に、湿った感触。
「ね? 私は大丈夫」
「んー? ん。うん……分かった」
渋々と了承する声。
よかった。分かってくれた。
するり、と温かいものが抜ける感覚。思わず、名残惜しさにか「あ……」と私は小さく漏らした。遠くに行ってしまう。私の手の中から。半ば強制したようなものだが、それでも、名残惜しいと感じるらしい。
きぃ、と扉が開かれる音。
薄っすらと部屋を照らす光。
両開きの扉を支えているらしい、こいしは、
「お姉ちゃん。今日は早く寝ちゃいなよ」
と、言って、消えた。
こいしは、始めからいなかったかのように、影も残さず去っていった。残された扉がゆっくり閉じる。ばたん、と大きな音。
私は、一切振り返ることなしに、目の前の赤い布に手をかけた。
すっと落ちる布。
露わになる鏡。
その向こうから――――
――――無表情の私が覗いてて。
――――それがこいしのように見えた。
鏡の中の私が笑う。
鏡の中のこいしが笑う。
「おねーちゃん」
「こいし……?」
私は、私の中に、こいしを見た。
それは私の内面が無意識ということを指し。
けれどしかし、それに被るように私が見えていた。と、いうことは私は私ではないかもしれない、ということは、私は無意識に行動していたのかもしれない。けれどけれど、それは私じゃない。私は意識的に動いている。目だってちゃんと開いてるはずだ。けれど鏡に映る私の目は閉じていて。
つまり私は――
「――――私は、どっちなの?」
「どっちでもないよ、おねーちゃん」
鏡の中のこいしが、微笑んだ。
[了]
とっても良かったです。
それは本当に隠された、しかし最大の願望なのかもしれない。
しかし現実にはイクオールがない。つらいことだ。