凝然とした満月が空から落ちてこないように、湖の水が天に落ちないように、世の中には絶対に揺るがない事がある。
私にとって師匠とはそういう類の存在であり、例えが何が起きようとも物事に決して動じないと思っていた。
なのに、師匠が仕事以外、部屋から出なくなってもう一週間が経つ。
まさか、あの八意永琳が落ち込むなんてこと誰が想像できただろうか。少なくとも、私には信じられなかった。
確かに、山の天狗が書いた診療所の不手際について反省すべき点は多大にある。直接の原因が私にあったとはいえ、立場を考えると師匠にも責任追及がいくことは否定できないし、お互いにそれは納得している。
ただ。
私が気落ちして自信を無くす事は現実的に起こり得るし、想像に難くない。
実際、しばらくは家事にしろ仕事にしろ心ここに在らずだった。何をしていても自分のミスが頭の中で延々と再生されるし、事故に遭われた患者の顔が焼きついて離れない。大分落ちついたものの、今でもハッとして動悸がすることもある。
でも。私はやっぱり、自身が気を落とす事と師匠のそれとではまるで別次元の話に思えてならない。
いつでも穏やかに微笑んでいる師匠。時には厳しく指導を受ける事もあったが、それは決して理不尽ではなく必ず道理に適った言葉だったのだ。
理不尽。今の師匠は理不尽だ。
「師匠。ご飯をお持ちしました」
障子の前には全く手をつけた様子の無い料理。私はそれをどかして新しいものと取り替える。
師匠が篭りきりになってから、空の食器を見た記憶が無い。
…………。
……。
…。
2週間が経った。
まるで思い出したかのように、診療所へ患者が訪れるようになった。
人間、妖怪の区別なくやってきた患者は口々に謝罪の言葉を述べ、これからもよろしくお願いしますと挨拶をしていった。
師匠はそんな言葉をどういう気持ちで聞いているのだろうか。私には分からなかった。
薄い笑みを浮かべて患者に答える師匠の顔には何が張り付いているのだろうか。それが単純な疲労だったらと思うと、思わず目頭が熱くなる。
結局、私は師匠に頼ってばかりで何も理解していなかったのだ。
師匠が完璧超人である、と勝手に思い込んでいただけ。ひょっとしたら、八意永琳はかくあれかし、と月の民と同じような事を考えて神聖視していたのかもしれない。家族、などとは微塵も。
ゾッとした。月を捨てた時以上の自己嫌悪が爪先から脳天までを駆け抜けた。
全ての診察を終え、待合室のソファに腰を下ろしていると師匠が目の前を通り過ぎた。
「お疲れ様。私はこのまま休みます。後のこと、よろしくね」
「あ、あの、師匠」
目の前にいるのはかつて師事した恩人であり大切な家族のはずなのに、まるで幽霊を相手にしているような錯覚を覚える。
一体、どれだけの心労を抱えているのだろうか。たった一度のミスというものは、月の頭脳にとってそれほど耐え難いものなのか。一兎に過ぎない私には及びも付かない。
頬が熱かった。
気がつけば私は暗くなった待合室で狂ったように嗚咽を漏らし、うな垂れる様にして涙を流していた。
私にはあの人を救えない。慰めにもならない。
だって、私の中には優しくていつでも頼りになる師匠しかいないのだから。あの生気の抜けた無表情で永遠亭に閉じこもる麗人は、そう、見知らぬ他人なのだ。
どうやったって、過ごしてきた時間が違う。心を閉ざした知らない人の心など、未熟者の私にこじ開けられるはずも無い。
私は輝夜さまの部屋の前に立っていた。
何度来て思いとどまったか分からない座敷の前に立っている。
「……輝夜さま」
返事はなかった。襖の向こうに人の気配は無い。
思い切って開けてみると、誰もいなかった。もぬけの殻という風情で、少なからず数日の間は誰の出入りも無いかのような。
そういえば、師匠の事で気を取られていたが、ここ数日、てゐ以外の人と食事を共にしていない。当然、姫とも顔を合わせていない。
何処に行ったのだろう。あの方が身を寄せる場所などここ以外思いつかないのだが。
いや――それも私の思い違いなのかもしれない。月の姫として腫れ物を扱うような態度で接していたのがそもそも間違いで、あの方なりの生活が、私の気がつかないところに存在していたのだ。師匠との関係も、ただの主従関係。
従者があんな様子だから、場所を変えただけ。そう考える。
酷い人だと思った。でも、それを頼りにここにやってきた私はもっと惨めだと思う。
「……はは」
何を考えているのか分からなくなってきた。師匠のことも輝夜さまのことも、何もかもが砂上の楼閣に思えてきた。
泣き腫らした目から乾いた液体が溢れてくる。もうそんなもの要らないのです、と誰にともなく呟いてみて、更にとめどなく零れ落ちた。
しばらくして、私の声を聞いて心配したのか、てゐがやってきた。
「どうしたの、鈴仙」
「わかんない、わかんないよぉ……もう、ししょうも、かぐやさまのことも、もぅ……」
てゐが私をそっと抱き寄せてくれた。言われるより先に、まるで子供だなと思った。
「だいじょぶだよ、そんな心配しなくても」
大丈夫、大丈夫、と不思議な呪文のように私を宥めてくれるてゐ。背中をさすってくれる手が温かくて、私は更に枯れた涙腺を刺激するのだった。
その後は何を言ったのかよく覚えていない。薬を飲んだ後のような朦朧とした思考だけが残っている。
きっと私がお願いしたのだろう。てゐの部屋で一緒の布団で寝た。床についても幼子のように泣いて弱音を零す私を、てゐはいつまでも慰めてくれた。
…………。
……。
…。
そして、3週間が経った。
誰もついこの前、医療事故が起きた事などまるで覚えていないのか、病気にかかった者、怪我をした者が診療所に通うようになった。
診察後は恭しくお礼を口にする患者を見ていると、本当に歴史からその事実が消えたかのような奇妙な心持ちになった。
ただ、師匠の様子は相変わらずであったから、私はそれが紛れも無い事実だということを皮肉な形で記憶から消せずにいる。
そんなある日のことだった。
いつものように師匠の食事を部屋の前に置きに行った時、障子の向こうから何やら物をせわしなく動かす音を耳にした。
紙をクシャクシャと丸める音やら、金属質な耳障りな音、果ては硝子を割ったような騒々しいものまで聞こえてくる。
正直、障子を開けて師匠の様子を確かめたい気持ちもあったのだが、私にはそれができなかった。
師匠が心を病んだのかもしれない。あるいはどこかへの旅支度を始めたのかも。
だけど、私にはどうする事もできないし、それを実行する気力ももう残っていない。漫然としたてゐとの暮らしで、すっかり鈴仙は弱ってしまったのです、と。
私はぼんやりとする視界で食事を取替え、足早に部屋を後にした。
「お師匠様、今夜辺りここを出て行くかもね」
「そうかもしれないわね」
「あれ、知ってたの? 鈴仙にも話したんだ……」
「ううん。さっき、部屋を片しているような音を聞いたの」
味気ない夕餉を口にしながら、私は溜息をつく。てゐの話によれば、師匠は今夜発つらしい。
「鈴仙はそれでいいの?」
「師匠がそうしたいなら、私は別に。それに、どうせ私には師匠を説得する事なんてできないよ」
「そっか」
話はそれっきりとなった。
現実の問題として、明日から診療所はやっていけなくなる。今の私の技量では、師匠がこなしていた診察や治療を全うする事は出来そうにもない。仮に勉強でカバーできる事であっても、会得するのに何ヶ月もかかってしまうだろう
姫もいないことだし、てゐと自給自足の生活を始めるのもいいかもしれない。野菜を栽培して、自分たちの食料をまかなうのだ。野菜が取れない間は小遣い稼ぎ程度に薬を調合して里に売りにいけばいい。
楽しそうだ。少なくとも、今の生活よりは充実している。
「……せめて、見送りくらいはしなよ」
涙で塩気を増した味噌汁を見つめる私に、てゐは相変わらず優しかった。
偶然なのか空には大きな満月が浮かんでいる。
月明かりに浮かぶ師匠の顔は今まで見た中で一番儚げで美しかった。師匠、ではなく永琳さまとお呼びしたいくらいだった。
「もう行かれるんですか」
「ええ。迷惑をかけたわね。診療所のこと、よろしくね」
私は手向けの言葉など用意していない。
最期くらいはと気力を振り絞っても、精神の疲れは想像以上に厄介なものらしい。
「私、師匠みたいにはなれませんよ。正直……今は、診療所を継ぐつもりもありません」
「そう……それは残念だわ。私が見込んだくらいだから、きっと上手くやれると思ったのだけれど」
「……」
今、私の目の前にいる師匠はどの師匠なのだろう。
あの事故を起こす前の、完璧月人八意永琳、なのか。私の全く知らない八意永琳その人なのか。それとも、もはや八意永琳でもないのか。
月明かりが透けるほどの白い肌の女性は力なく笑った。とても儚げに、そして寂しそうに。
もう二度と会えない予感は、きっと間違いないだろう。このお方はもうここには戻らない。
「あの、最期に一つ聞いてもいいですか?」
「なあに?」
「師匠は……永琳さまは、やっぱりあの事故の事を気に病んでおられたのですか? たった、一度の間違いを、そのミスのせいで今日まで――」
言いかけて後悔したが、それよりも早く師匠が首を振ってそれを否定した。
「自分がね、わからなくなったのよ」
どこか遠くを見て力なく微笑む師匠。
「あの事故はただのきっかけ。でも、それ以来私は自分という存在が何なのかわからなくなった。
天才という自負はあったし、それが時には失敗する事も理解していた。病気や怪我で苦しむ人々を救いたいという気持ちもあった」
けれど、と師匠は口をつぐむ。
「それが果たして私自身の意志によるものなのか、証明できないのよ。姫への罪滅ぼしも、そう。八意永琳という存在は、今までそうやって心を持って生きてきたのか。
今、私が抱いているものは、気が遠くなるような年月の中で突然降って沸いた心なんじゃないかって。そう思うようになってしまった」
貴方にはわからないでしょう? という眼差しを向けられ、鼻腔の奥が熱くなった。
事実、師匠の言葉の半分、いや、十分の一も理解できなかった。
「……正直に言うとね、事故を悔やんで落ち込む貴方が羨ましくも思ったのよ。ふふ」
ほんの少しだけ涙を覚悟していた分、以外にもあっけない別れとなった事に私は安堵した。
竹林の奥へ消えゆく師匠の背中を――八意永琳の姿を見つめながら、私は、やはり月は空から落ちてくる事は絶対ない、という事が確かだという事も絶対ない、と思った。
…………。
……。
…。
翌朝、朝餉の支度をしていると後ろに人の気配を感じた。てゐがつまみ食いにでも来たのだろうと思っていた私は、その予想が外れた事にとても驚いて、うっかり包丁を床に落としてしまった。
「あら、物騒ね。包丁を持つ時は気を抜いてはダメよ」
「か、輝夜さまっ!? い、今まで一体どちらにいらしたのですか?」
「人里。あと、はい、これ」
混乱する頭を整理する間もなく、輝夜さまから一枚の封筒を差し出された。受け取ると意外にずっしりとした重さがあった。
炊事で濡れた手で上手く開けられなかったが、ようやく中を確認すると、そこには
「前に妹紅に仕事の人手が足りないって言われた事があってね。手伝いを申し込んだら二つ返事で了承を得たわ」
「こ、こんな大金……それじゃあ、今までずっと住み込みで働いていたのですか?」
「住み込みっていうか、妹紅の家に泊めてもらったのよ」
言葉が出なかった。
いい匂いね、と作りかけの料理を物珍しそうに眺める輝夜さまに、私は何と言ったらよいのかわからなかった。
そして、この大金を私に渡す道理も見えない。
「永琳、出て行ったんだってね」
視界が緩む。
「そのお金で何日くらいもつかしら。私の金銭感覚じゃ、いまいち当てにならないけど……そうね、一月はもつかしらね」
兎の目が赤い理由を記した昔話は数あるけれど、私は単純に、涙もろいからじゃないかと本気で思う。
「さっき永琳の部屋覗いたけど、なんか医療関係のメモ書きがびっしり積んであったわ」
「……あ、あの……わたし……」
「一ヶ月か。まあ、屋敷の時を、今日の診察開始まで一月延ばすくらいは楽勝ね」
軽やかな輝夜さまの声に、私の涙腺は完全に崩壊した。
「鈴仙ー、ご飯まだー……って、おわっ!? 姫さまじゃないか!」
「あ、ちょうど良いところに。あんた、このお金でありったけの食料買ってきてちょうだい」
「えー、なんでわたしが。鈴仙に行かせればいいじゃない」
「こんなクシャクシャな顔じゃ、値切れる物も値切れない。だから、あんた代わりに行ってきなさい」
「姫さまとは思えぬ所帯じみた言葉だ……」
「うるさいな。ほら、あんたもいつまでも泣いてないでさっさとご飯作るのよ。その後は地獄のような勉強漬けの一月が待ってるんだから」
涙交じりの感謝の言葉が延々と口をついて出た。言葉になっていたのかどうかわからないほど、ボロボロに泣いた。
Fin
オリジナルの作品ならまだしも、二次創作である以上は、既存のキャラクターあっての物種です。
単に面白おかしく破天荒なことをやらせりゃそれでいいってもんじゃないと思いますよ。
過去作のコメントで何度か「実験的な内容」だとおっしゃっていましたが、実験を行う前に必要なことをきちんと培ってこられたのか、少し疑問に思いました。
差し出がましい物言いで申し訳ございません。
なぜ新規投稿なさらなかったのですか?
今までのコメントが意味不明になっちゃうんですけど。
内容は当初のものよりもずっと良くなっていると思いますよ。
次回作も期待しています。
かなり良かったです!!