今日も彼女は生きている。
「おはようございます」
朝、窓から降り注ぐきらきらとした陽の光を受けて、彼女は目を覚ます。
よく晴れた空と同じ色をした瞳がうつすのは、いつもと変わらない見慣れた天井。雲のようにふわふわと柔らかい布団から、体を起こす。
もう随分長いこと生きているせいで、これだけの動作をするだけでも重いと感じるようになった。最近では、ちょっとしたことで軋むような音を立てるようになった体。
それでも、まだ手足は動く。耳だって聞こえるし、目だって見える。
ただ、少しばかりぎこちなくて、以前よりも世界が曖昧でぼんやりとしたものに感じられるだけだ。
少々の不便を感じるにしても、活動していくことに支障はない。
生まれたばかりの頃から変わらない習慣。朝はおはようございます、と挨拶をすること。
この家に一人きり、返事をしてくれる人などいなくても、身についた習慣は早々変わるものではない。
彼女にそれを教えた人は、そういうことを大切にしていた。たとえば、礼儀作法であったり、規則正しい生活であったり。共に暮らしていた頃、彼女も徹底的にそう躾けられたために、もはやそれが意味を持たないとしても、続けなければならないと感じている。
「ん?」
そういえば、あの人はどこへ行ってしまったのだったか。
不意に浮かんだ疑問に彼女は首を傾げる。どうも最近は忘れっぽくていけない。
彼女は奇跡のように整った顔立ちを苦笑へと変える。
「困ったな」
そう呟くけれど、答える声はなく。彼女自身、口ではそう言ってみたものの、本当に危機感を覚えているわけではない。
長らく一人きりの暮らしを続けていると、こうなってしまうのも仕方がないのかもしれない、と呑気に思う。
出会ったばかりの頃、生まれたての妖怪であった同じような身の上の友人もそうだ。ただただ無邪気に人間を敵視していたあの子も今では、のんびりと花に囲まれて暮らしている。あの子が慕っていた大妖の跡を継ぐかのように、穏やかな笑顔で日傘をさして。
強い気持ちを抱くことが少なくなった。摩耗していくのだ、心も、身体も。
とりとめもなく思考を続けながら、ベッドを出た彼女は身だしなみを整える。
背中の中ごろまであるやわらかな金髪を赤いリボンで結い、深い青のドレスを身にまとう。白いケープも忘れてはいけない。
『私とお揃いね』
遠い昔に、あの人がそう言って与えてくれたそれを彼女は気に入っている。もうかなり古びていて、あちこちにつぎはぎはあるし、色あせている部分もある。
けれど、彼女はこの服以外を着ようとは考えない。服ならば、クローゼットの中に溢れかえっているというのに。これよりも上等なドレスも、何を思って作ったのか分からないようなものも、なんだってあるというのに。
「ま、いっか」
どうせこの魔法の森を訪ねてくる者などいないのだから。
かつてから、障気が立ちこめていたが、あの人やその友人がいなくなって、より寂れてしまったように思う。無茶な実験が行われるという負担がなくなった分、鬱蒼と覆い茂る木々は勢力を増し、誰も近づけないような場所になってしまった。
味気のない朝食をとりながら、最後に人里に向かったのはいつだっただろうと考える。
生きていくためには、さまざまなものが必要になる。それは糸だったり、布だったり、食糧だったり、さまざまだ。自給自足では賄いきれない。
けれど、チーズのように穴だらけの記憶はその答えを与えてはくれない。
結局、彼女はストックしてある分と今日やらなければいけない仕事とを比較衡量して、まだ行かなくても大丈夫だ、と結論づける。年をとると、どうも外出が億劫になっていけない。
そうして、彼女はいつものように仕事場へと向かう。動きの悪くなった左足を引き摺るようにしながら、ゆっくりと歩く。
針と糸。それが彼女の仕事道具だ。
家の中に並べられた膨大な量のそれの手入れをすることが、彼女の役目である。
どうして、なんのために、そうしているのかもう覚えていない。人に売るわけでもなく、眺めるのも彼女一人きり。誰もこんなところにそれがあるなんて知らないだろうに。
それでも、彼女の恒常的な手入れによって、まるで新品のような状態を保っている。
最近、何もしていなくても僅かに震える指先は細かい作業に適さなくなった。厚手の手袋を何枚もはいているかのように思いどおりにならない指をもどかしく思いながら、ぎこちなく動かす。
どうしても不揃いになってしまう縫い目に、苛立ちの混じったため息をついた。
指先だけではない。少し前まで軽々と持ち上げることの出来たそれが重く感じてしまう。かすむ目はこすったところで焦点を合わせることが出来ず、桜色と桃色の区別がつかない。
それでも、彼女は仕事を続ける。何のためにこんなことを続けているのか、思い出せはしないけれど、鈍った心が、身体が、教えてくれる。彼女はそのために生まれてきたのだと。
確たる記憶があるわけではない。それでも、思考ではなく、半ば本能のような何かがそう告げている。
かつてよりもひとつひとつにかかる時間が長くなった。
けれど、彼女はかつてあの人が彼女にそうしていたように、できる限り丁寧に、時折声をかけながら、手入れをしていく。人間にたとえるならば、彼女にとってそれらは妹のような存在なのだから。
作業に没頭していると、あっという間に時間がすぎる。窓から差し込む陽の光が赤くなり、やがて、暗くなった時が終了の合図だ。日が沈んだら、休む。それがルールだった。
ろうそくの火なんかを使えば、いつまででも作業を続けることはできるけれど、それらは火に弱い。不要なリスクは避けるべきである。あの人に昔言いつけられたことを今でも守っている。
――はて、と彼女は思う。
“あの人”とは、一体誰だっただろうか。
今朝方まで覚えていたはずのそれが思い出せない。否、あの人が存在していたことはきちんと分かっている。
けれど、あの人の顔も、名前も、どんな存在だったのかを思い出すことができない。
あの人の言葉が、あの人の思いが、今この時も彼女を動かしているはずなのに。
「あ、ああ」
不意にぞくりとした寒気を感じて、彼女は嫌な音を立てる腕で自分を抱きしめるように回して、その場に膝をつく。
つきん、つきん、と胸が痛んだ。
そこに大きな穴が空いてしまったかのような空虚な感覚。自分の中身が零れていくような。
「し……」
彼女の口から力なく、意味を持たない音が漏れる。
どうして忘れてしまったのだろう。彼女のすべてはあの人でできているというのに。
思い出せない。一人きりになってからも、あの人のために生きてきたというのに。
「こわい」
盤石だったはずの足場が崩れていくような恐怖に、彼女は蹲ったまま、うち震える。
どんなに考えても考えても考えても、思い出せない。
頭の中にもやがかかったかのよう。
抱きしめてくれた手はあたたかだったはずだ。撫でてくれた手は優しかったはずだ。
けれど、それを彼女は思い出せない。
おぼれかけた人が藁にとりすがろうとするかのように、彼女は考え続ける。
必ず、思い出せるはずなのだ。あんなに大切だと思っていたはずのものを忘れてしまうなんて、あり得ない。
考えすぎて、熱を持ち始めた頭部を気にすることもなく、彼女はただただ記憶をひっくり返す。がむしゃらに、闇の中で手を伸ばすかのように。
いろいろなことを思い出した。
にぎやかな神社での宴会、しーんと静かな大図書館、それからそれから。
懐かしい顔ぶれが頭をよぎる。黒白鼠に、悪魔の狗、臆病兎。吸血蝙蝠の姉妹。
なのに、彼女をそこに連れて行ってくれたあの人のことだけが思い出せない。
思い出した景色の中、彼女の隣にいてくれたのは、あの人?
絶対、思い出さなければならない。
もう他のことを考えることもできなくなって、朦朧とする意識の中、ひたすら考える。
日が昇り、日が沈み、月が輝き、そして再び日が昇る。
もう何度それが繰り返されたか分からない。
長い時間が過ぎていくうちに、彼女が掃除を欠かさなかった室内はずいぶんと埃と蜘蛛の巣にまみれていた。きれいだった彼女の金髪の上にも、ひとしく埃は降り積もっている。
けれど、彼女は気にも留めない。考えることができない。
あの人。あの人。あの人。
彼女の頭の中にはそればかり。ガラス玉のような瞳はもう何もうつしていない。動かさなくなって久しい手足は、もう動かない。
ただ、人形のように座ったきり。
あの人。あの人。あの人。
最早、彼女にとっては無意味となった時が静かに流れていく。
破裂音。
不意に、ひどく大きな音が響く。太陽よりも眩い光が見えないはずの彼女の視界を真っ白に染め上げた。
「あ……」
ウェーブがかった絹糸のような金髪。
人形のように整った、どこか冷たい印象のある相貌。
青い服、赤いリボン、白いケープ。
柔らかく微笑んだあたたかい笑顔。
どんなに考えても思い出すことのできなかった彼女の姿が、髪の毛の一本一本まで鮮明に思い出せる。
誰よりも、彼女のことを愛してくれたあの人のことを。
彼女をこの世に生み出してくれたあの人のことを。
「ありす……」
どうして忘れていたのだろう。
彼女はあんなにも、アリスのことを大好きだったのに。
思い出すことのできた今となっては、それが不思議でたまらない。
「……馬鹿じゃねーの」
かつて口癖だった言葉を呟きながら、彼女は口の端をあげる。それは、自分への嘲笑と、安堵感。
アリスは、よく女の子なんだから、とこういう乱暴な物言いをたしなめたものだった。
ああ、思い出せる。
『上海』
明るく微笑むアリスが、彼女を呼ぶ声が聞こえる。
それがどこから聞こえてきたなど、どうでもいいことだ。
それだけで、彼女もとい上海人形は満たされることができるのだから。
心に空いた穴はきれいにふさがって、空っぽになったはずの思いが今度はあふれ出してしまいそうなほど。
『上海』
「シャンハーイ」
ようやく安堵できたためか、急激な睡魔に襲われる。そんな薄れゆく意識の中、アリスの声に答える。まだ、上海人形が自律人形ではなかった頃のように。
それでも、アリスならば分かってくれるはずだった。
何も見えない。何も聞こえない。もう動けない。
自律人形からただの人形へと戻った上海人形は、ただ、満ち足りていた。
お疲れ様、上海。
いつも楽しみにしてます。GJ
見送り残される側の輝夜達がやさしすぎてさらに涙が…
自律人形……自ら考え、行動するという存在となってもなおアリスを慕い続けたその健気さに心を打たれました。
もっといろんなことが出来ただろうに。
何はともあれ、お疲れ様。