天才は万人から人類の花と認められながら、いたるところに苦難と混乱を惹起する。
天才は常に孤立して生まれ、孤独の運命を持つ。
◆へルマン・ヘッセ「ゲーテとベッティーナ」
瞳に映す世界が違う相手と、どう言葉を交わせばいいのだろうか。
その問いは495年の長きに渡って続けられていたが、未だに答えは出ずにいた。
レミリア・スカーレットは妹が生まれてからは毎日欠かさず、その顔を見るために部屋を訪れていた。
「入るぞ」
返事はない。いつものことだった。
扉を開けると部屋中にはクレヨンで紋様が描かれている。その意味を読み取ろうとしたことは幾度となくあったけれども、ついにレミリアはそれを放棄した。最後に読み取ろうとしたときからもう、随分時が流れてしまったことをふと思い出して苦笑する。
「聞こえないのか?」
「うん」
「ずっと聞こえないふりをしていると、いつか本当に聞こえなくなるぞ」
「最初から聞こえないんだから、別に困らないわ?」
「そうかい」
妹はレミリアを無視して、延々とクレヨンで落書きをしていた。あるときは原稿用紙に何かを書き殴ってインクと羽ペンを何千個とダメにしたし、またあるときはガラスのコップを砕くのに夢中になっていた。奇行は今に始まったことではないのだけれども、その度求められるたびに買い与えている身としては疲れや呆れを通り越して、諦観の先にある無常を感じ始めていた。妹はこういうものなのだ。理解が及ばない者なのだ。無駄、無駄、理解しようとするのがまず間違いなのだ。気が触れている。
けれども。
「絵を描くのは好き?」
「ううん」
「じゃあなんで書くのさ」
「この世は全て、私のキャンパスだから」
「外には興味はないの?」
「私の世界はここよ」
「そうかい。でも私の世界はここの地下室の外にもあるんだ」
「興味がないわ」
「私にも?」
「そう言われると返事に困るのだけれど」
妹はようやく手を止めて、レミリアへと振り返った。
「だって、お姉さまが傷つくでしょう?」
フランドール・スカーレットは何もかもが規格外の吸血鬼だった。姉であるレミリアが吸血鬼らしい吸血鬼であるのに対して、フランドールはミュータントだった。吸血鬼から見ても、化け物だった。よって父親の方針で彼女は世間に出されることはなく、長くスカーレット家は一人娘であり、もう一人の子が流産してしまった、ということになっていた。
いっそのこと殺してしまえば良いのだろうが、妖怪の力が弱まり始めたご時世である。その力をいざとなれば利用しようと考えていたのだろう。フランドールは牢獄に放り込まれていた。まるで、犬畜生のように扱われていた。
レミリアはそんな妹のことを溺愛しており、父親の目を盗んでは会いに行っては所望された物を渡していた。それは一冊の本から始まり、木炭の一本となり、地下室の一室であった。
「これだけあれば十分なの」
妹の薄く笑う顔を、レミリアは生涯忘れないだろう。
幾何学模様の中で妹は待ち続けていた。
空間が裂けた。
「時間通り?」
「ここには時計が無いから、わからないのよ」
「あらあら」
隙間の妖怪はクレヨンを拾って、壁に紋様を付け加えた。
「外には出ないのかしら?」
「ええ」
「残念ね。あなたのほうがレミリアよりもずっと有能ではなくって?」
「どこを持って有能とするかで変わると思うわ。それに、お姉さまは私よりもあらゆるところで優れているし」
「妹へのコンプレックスで自分の軸すらブレているのに?」
「でも足掻いているわ。そして毎日変化をしていく。妖怪というのは力を持って歳を経れば凝り固まるものでしょう? 苦悩して、積み重ねていくお姉さまを誰が愚かと断じられるのかしら」
「あなたは馬鹿なのね」
隙間の妖怪は金色の目を細めて、扇を口元へと当てる。
「そうね、それじゃああなたの思い通りになったら最高級の日本酒を百本届けてあげる」「それって、負けない自信があるってことかしら?」
「そう取ってもらって構いませんことよ。来たばかりですけど失礼致しますわ。待ち人は私ではなかったみたいのようですし」
「そうして頂戴」
空間をぺりぺりと瘡蓋のように引き剥がして、隙間の妖怪は去っていった。
そしてトントン、と小さく扉が叩かれる。
「フラン、入るわよ」
妹は一度だけ扉を一瞥して、クレヨンで壁に絵を描いた。
レミリアは"普段通りに扉を開けて"、こちらを見ようとしない妹に小さなため息を吐いてベッドへと腰掛けた。
「フラン?」
「何かしら」
しわがれた、低い声だった。疲れきっているそんな声だった。
「私。ずっと考えてきたわ。どうやったらフランの考えていることがわかるんだろうって。そう努力してきたの」
「ふぅん?」
妹の書く手は止まらなかった。レミリアの声もまた止まらない。
「だからフランのことを理解することは諦めたわ」
レミリアは口元だけで微笑んだ。妹は黙々と壁に絵を描いた。
「でもね聞いてフラン。私は貴女が生まれてから今日まで、変わらず貴女のことを愛しているわ。それだけは本当よ。天地神明に誓ってなんて吸血鬼が言うのは馬鹿らしいけれど、愛しているのよ」
妹の手が止まった。
「ああその言葉を何百年待ち焦がれたことかしら。私もよお姉さま」
「フラン……」
「だってお姉さまは私の気持ちに気づいてくれないんですもの。せっかく一冊の本から新しい言語体系を作り出して、お姉さまだけに読んでもらえるようにラブレターを書き連ねていたのに全くそれに気づいてくれないだなんて。仕方がないから次は数式からお姉さまの愛を証明すべく努力したけれどそれでも気づいてくれないのね。だから次は私は新しい物質を作り出してそれにレミリアお姉さまって名付けたの。素敵でしょう? まぁそれは私の自己満足に過ぎないから今度はレミリアお姉さまと私の愛のストーリーを小説にすることに決めたわ。でもダメね、連載二百年間ずっとベッドで愛しあっていたから流石に干からびるかと思って終わらせてしまったもの。だから今度は絵画で表現することに決めたわ。でも直接的すぎると乙女として失格でしょう? だから抽象的にお姉さまへの愛を表現することにしたの。最近凝っていたのはクレヨンね。これで石材に書くことによって」
「ちょっちょっちょ!」
「どうしたのお姉さまそんなに顔を真っ青にして」
「あなたすごくかっこよさげなこと言ってたじゃない! すっごい台無しよ!?」
「この世の全ては私のキャンバス。この世は地下室。地下室のお姉さまは私のキャンバス。つまりお姉さまの柔肌は私が好きにしてもよい」
「なにをいきなり言い出した!」
「問答無用ああ愛しているわお姉さま! 二百年間ベッドで過ごすことで世界に愛の素晴らしさを広げましょう!」
「ジョン・レ○ンに謝ってこいよォ!?」
「私は夢想する。この世から姉妹愛以外は消えてなくなることを」
「やめろ気持ち悪い!」
飛びついてきた妹をメキシコ殺法コルバタで大理石のマットに沈めたレミリアは、パンツ丸出しでピクピク痙攣しているのを確認して肩で息を吐いた。
495年の苦悩とは一体なんだったのか。
妹との接し方を考えなかった日は一日たりともなかった。けれども妹はただの変態だった。明日からどう、過ごせばいいのだろう。
「お姉さま」
「なっ!」
「それは、残像(フォーオブ・アカインド)よッ」
天井で息を殺していた本体からの強襲。羽交い絞めにされたレミリアは引き剥がそうと暴れるのだが――――
「このときを」
「495年待ちわびた!」
ベッドから這い出てきた妹と、クローゼットから飛び出した妹を視認して、レミリアは泡を吹いて失神した。
翌日、紅魔館には日本酒が百本とビデオテープが届いたとかなんとか。
早速妹は、レミリアへとビデオデッキとテレビを所望したが、妹のおねだりは初めて却下されたとかなんとか。
流石ふらんちゃんである。
この世から姉妹愛以外は消えてなくなっても私は何も困らない。
つまりもっとやれ。
あるいは脳だけ取り出してフリーフォールにかけられる感じ。
でも面白いから文句はないです。
愛以外に何があろうか。