ある日のことです。
縁側近くの部屋で、阿求が筆を動かしておりました。
外はとってもいい陽気でした。豊かな春の庭を、お日様がぽかぽかと照らしていて、とても良い気持ちです。
「うー……ん」
阿求は筆を置いて、のびをしました。こりかたまった背中には、背骨の動きが気持ちよく、目のはしにちょっと涙がにじみます。
眼をしばたいて、阿求は目の前の文面を眺めました。
「……ふーん……」
阿求は、脇に置いていた筆をとりました。毛先を動かして、ちょっと書き直しをします。
「……」
しっくりいかなかったせいか、阿求はちょっと考えこむ顔をしました。筆も止まります。
「うーん」
唸る顔は、今でも、昔の少女のままのものです。眼を閉じて、じっと考えこみます。
と、ふと、部屋に子供が入ってきました。女の子です。
小さい子でした。まだ、四、五歳くらい、といったところでしょうか。
昔の阿求みたいな地味な髪型に、控えめな色の衣を着ています。頭には、小さな花の髪留めを飾っていました。
女の子はととと、と考えこんでいる阿求の後ろから、小さい足を動かして、走り寄ります。えいっ、とそのまま、阿求に可愛らしくしがみつきます。
「――うん?」
後ろから急にしがみつかれて、阿求は、ちょっと一瞬、「おっと」という顔をしました。それから、子供をふりかえって、その眼を見て優しく話しかけてやります。
「うん? なに?」
女の子はどうやら、阿求に甘えてきているようです。眼で抱くことをねだってきていたので、仕方なく、阿求は子供を抱いて、膝の上に乗せてやりました。
筆も少しのあいだ止まります。阿求の膝の上で、女の子はしばらく居座ります。
阿求は、やさしく話しかけたり、身体をゆっくりと揺らしてあげたりします。そうやって、しばらく女の子の相手をしてやります。
やがて、女の子は満足したようです。
阿求の膝から降りると、部屋の外へと、ととと、と走っていきます。小さな足音が、廊下を駆けていきました。
廊下は走ると危ないのですが、子供はまだ小さいので、それが分かりません。阿求も注意しているのですが、子供はなかなか直しません。
阿求は、一つ息を吐きました。また筆を取ります。
しばらくして、すぐ脇の空間が小さな音を立てました。何もないところが、急にスキマになって開きます。
にゅっと出てきたのは、十五、六歳くらいの、金髪の女の子でした。音もなく畳に降り立って、阿求の背中を見ると、ちょっと不気味に笑います。
「こんにちは」
「わっ」
阿求は驚きました。ふり返ると、女の子の姿を眼に入れます。
「ああ、こんにちは……いらっしゃったのですか」
「ええ。ごきげんよろしゅう」
「ごきげんよろしゅうございます。というよりか、お久しぶりでございますね」
「そうですか? たかだか五年かそこいらでしょう。千年ぶりに会ったと言うんでしたら、ともかく」
女の子は言いました。阿求は微笑みました。
「人間の感覚では、十年ほどでも長すぎますよ。千年じゃ、この世から忘れられてしまいます」
「真面目に答えなくても、よろしいですのに」
女の子は、言い、くすくすと可愛らしく笑いました。阿求の傍に寄ってきます。
「せっかくのお誕生日ですからね。先月でしたか?」
「あら、もしかして祝いに来てくださったのですか? お珍しい。でも、ちょっと遅れすぎですね」
「この歳になると、腰が重たいのですよ。思い立ってから、一月二月は、軽く超してしまうのです。御免遊ばせ」
女の子は、胡散臭く笑います。あいかわらず、つかみ所のない笑いでした。
阿求はちょっと笑いました。無言で、動かしていた筆を置き、女の子に身体を向けます。
「どうですか。三〇の峠を越した感想は?」
女の子が、ふと聞いてきます。阿求は、ちょっと考えこみました。
「はあ。……ふふ、いえ。ああ、もうそんな歳かな、とはごく平凡に思いますけど」
「それはよろしゅうございました」
「よろしいんですか?」
「ええ。よろしいのですよ。人間も、妖怪も、年甲斐がないのが一番困りますからね。年を取ったら、へんに騒がず、大人しくしていないといけないのです。そうしないと、周りが迷惑することになってしまいますからね」
女の子は言います。阿求はちょっと眉尻を下げて、困った笑いを浮かべました。
「失礼ですけど。なんだか、貴女様に言われても、あんまり説得力がございませんね」
「あらあらひどい。私だって、年を取ったら少しは憂鬱になりますよ。周りからお年寄り扱いされるのって、けっこう辛いんですのよ? あなたにも、そのうちわかるかもね」
「まあ……」
阿求は、口元に手を当てて笑いました。女の子は、お澄まし顔でしれっとしています。
今の阿求には、その顔がちょっとだけ可愛らしくも見えました。人によっては小憎たらしいとも思う顔でしょう。
もちろん、女の子は恐ろしい妖怪ですから、人としてはちゃんと怖いと思うべきでした。実際に、この女の子の姿をした人は怖い妖怪ですし、今でも外の世界から人間を攫ってきて、楽しみながら食べているような人です。
阿求は、自分がまっとうな人間のつもりでいましたが、こういうところを見ると、やっぱり少し感覚がおかしくなっていたのかもしれない、と思うのでした。そう思うと、阿求はちょっとだけですが、自分を哀しいな、と思いました。
(私もきっと、あんまりまともではないんだ。夫や子供と同じものを見ても、同じようには感じられないんだろうな。そして、こういうところは、これからも直らないんだろうな)
そんなふうに思って哀しくなるのでした。もちろん、口には出しませんでしたが。
「ところで、縁起の方はどうでしょう? 進みましたか?」
そんな阿求の気持ちを余所に、女の子は聞いてきます。阿求は微笑んで答えました。
「ええ。そこそこ順調に進んでいますよ。もともとそれほど量のないものでしたし。歴史書としての役割や考察がなければ、実はさほどの厚さにもならないものでしたから、今は、こんなことを言ったらなんですけれど、ほとんど手すさびのような調子で進めておりますし」
阿求は、少し黙りこみました。
「今さらというのも何ですけれど、本当によろしかったのですか? 縁起の編纂を止めてしまっても」
「ええ。よろしかったですよ。おそらく、もうそれほど、必要ということにはなりませんから」
女の子は言いました。
「もうすでに申しあげたことですけど、この数十年、百数十年の間で、結界は驚くほど急激に安定しました。この郷は、外界から完全に隔絶したのですよ。もう、たとえそう望んだことがあったとしても、この郷が、外の時流に乗れるということは、決してありますまい。結界をとけば、たちまち、急激な時間の流入で、衰弱と滅亡が待つばかりなのです。この郷は、そういったものをあまりに受けいれすぎていますからね。もう、後戻りはできないのです」
「八雲様は、そういったことも計算に入れていたのでは? 外の進歩が、あまりに急すぎた、ということでしょうか」
「ええ。計算はしていたんですけど、予想外でした。まあ、どのみちこの郷の有り様には変わりがありませんが。忘れられた者たちの居場所になるのでしたら、それはそれ。そちらのほうは、予想の範疇ですのでご心配なく」
女の子はちょっと目をふせました。少し改まった口調で言いました。
「お務め、本当にご苦労さまでした。約束どおり、稗田の家は末代に至るまで、手厚く保護をさせていただきますわ。妖怪は、決して義理を忘れたりいたしませんので、ご心配なさらず」
「ええ。どうぞ、こちらこそよろしゅう」
「それではまたいずれ」
「ええ。また、いずれ」
女の子は畳を立ちました。靴下の足が畳の上を音もなく踏みました。
音が聞こえて、何もない空間に、スキマが開きます。女の子は、その中に足を踏み入れて、消えていきました。
部屋の中には、阿求がひとり残されました。
阿求は、ほんのつかの間女の子が消えたところを見ていました。
それから阿求は、ちょっと庭のほうを見ました。
いい日和です。
縁側近くの部屋で、阿求が筆を動かしておりました。
外はとってもいい陽気でした。豊かな春の庭を、お日様がぽかぽかと照らしていて、とても良い気持ちです。
「うー……ん」
阿求は筆を置いて、のびをしました。こりかたまった背中には、背骨の動きが気持ちよく、目のはしにちょっと涙がにじみます。
眼をしばたいて、阿求は目の前の文面を眺めました。
「……ふーん……」
阿求は、脇に置いていた筆をとりました。毛先を動かして、ちょっと書き直しをします。
「……」
しっくりいかなかったせいか、阿求はちょっと考えこむ顔をしました。筆も止まります。
「うーん」
唸る顔は、今でも、昔の少女のままのものです。眼を閉じて、じっと考えこみます。
と、ふと、部屋に子供が入ってきました。女の子です。
小さい子でした。まだ、四、五歳くらい、といったところでしょうか。
昔の阿求みたいな地味な髪型に、控えめな色の衣を着ています。頭には、小さな花の髪留めを飾っていました。
女の子はととと、と考えこんでいる阿求の後ろから、小さい足を動かして、走り寄ります。えいっ、とそのまま、阿求に可愛らしくしがみつきます。
「――うん?」
後ろから急にしがみつかれて、阿求は、ちょっと一瞬、「おっと」という顔をしました。それから、子供をふりかえって、その眼を見て優しく話しかけてやります。
「うん? なに?」
女の子はどうやら、阿求に甘えてきているようです。眼で抱くことをねだってきていたので、仕方なく、阿求は子供を抱いて、膝の上に乗せてやりました。
筆も少しのあいだ止まります。阿求の膝の上で、女の子はしばらく居座ります。
阿求は、やさしく話しかけたり、身体をゆっくりと揺らしてあげたりします。そうやって、しばらく女の子の相手をしてやります。
やがて、女の子は満足したようです。
阿求の膝から降りると、部屋の外へと、ととと、と走っていきます。小さな足音が、廊下を駆けていきました。
廊下は走ると危ないのですが、子供はまだ小さいので、それが分かりません。阿求も注意しているのですが、子供はなかなか直しません。
阿求は、一つ息を吐きました。また筆を取ります。
しばらくして、すぐ脇の空間が小さな音を立てました。何もないところが、急にスキマになって開きます。
にゅっと出てきたのは、十五、六歳くらいの、金髪の女の子でした。音もなく畳に降り立って、阿求の背中を見ると、ちょっと不気味に笑います。
「こんにちは」
「わっ」
阿求は驚きました。ふり返ると、女の子の姿を眼に入れます。
「ああ、こんにちは……いらっしゃったのですか」
「ええ。ごきげんよろしゅう」
「ごきげんよろしゅうございます。というよりか、お久しぶりでございますね」
「そうですか? たかだか五年かそこいらでしょう。千年ぶりに会ったと言うんでしたら、ともかく」
女の子は言いました。阿求は微笑みました。
「人間の感覚では、十年ほどでも長すぎますよ。千年じゃ、この世から忘れられてしまいます」
「真面目に答えなくても、よろしいですのに」
女の子は、言い、くすくすと可愛らしく笑いました。阿求の傍に寄ってきます。
「せっかくのお誕生日ですからね。先月でしたか?」
「あら、もしかして祝いに来てくださったのですか? お珍しい。でも、ちょっと遅れすぎですね」
「この歳になると、腰が重たいのですよ。思い立ってから、一月二月は、軽く超してしまうのです。御免遊ばせ」
女の子は、胡散臭く笑います。あいかわらず、つかみ所のない笑いでした。
阿求はちょっと笑いました。無言で、動かしていた筆を置き、女の子に身体を向けます。
「どうですか。三〇の峠を越した感想は?」
女の子が、ふと聞いてきます。阿求は、ちょっと考えこみました。
「はあ。……ふふ、いえ。ああ、もうそんな歳かな、とはごく平凡に思いますけど」
「それはよろしゅうございました」
「よろしいんですか?」
「ええ。よろしいのですよ。人間も、妖怪も、年甲斐がないのが一番困りますからね。年を取ったら、へんに騒がず、大人しくしていないといけないのです。そうしないと、周りが迷惑することになってしまいますからね」
女の子は言います。阿求はちょっと眉尻を下げて、困った笑いを浮かべました。
「失礼ですけど。なんだか、貴女様に言われても、あんまり説得力がございませんね」
「あらあらひどい。私だって、年を取ったら少しは憂鬱になりますよ。周りからお年寄り扱いされるのって、けっこう辛いんですのよ? あなたにも、そのうちわかるかもね」
「まあ……」
阿求は、口元に手を当てて笑いました。女の子は、お澄まし顔でしれっとしています。
今の阿求には、その顔がちょっとだけ可愛らしくも見えました。人によっては小憎たらしいとも思う顔でしょう。
もちろん、女の子は恐ろしい妖怪ですから、人としてはちゃんと怖いと思うべきでした。実際に、この女の子の姿をした人は怖い妖怪ですし、今でも外の世界から人間を攫ってきて、楽しみながら食べているような人です。
阿求は、自分がまっとうな人間のつもりでいましたが、こういうところを見ると、やっぱり少し感覚がおかしくなっていたのかもしれない、と思うのでした。そう思うと、阿求はちょっとだけですが、自分を哀しいな、と思いました。
(私もきっと、あんまりまともではないんだ。夫や子供と同じものを見ても、同じようには感じられないんだろうな。そして、こういうところは、これからも直らないんだろうな)
そんなふうに思って哀しくなるのでした。もちろん、口には出しませんでしたが。
「ところで、縁起の方はどうでしょう? 進みましたか?」
そんな阿求の気持ちを余所に、女の子は聞いてきます。阿求は微笑んで答えました。
「ええ。そこそこ順調に進んでいますよ。もともとそれほど量のないものでしたし。歴史書としての役割や考察がなければ、実はさほどの厚さにもならないものでしたから、今は、こんなことを言ったらなんですけれど、ほとんど手すさびのような調子で進めておりますし」
阿求は、少し黙りこみました。
「今さらというのも何ですけれど、本当によろしかったのですか? 縁起の編纂を止めてしまっても」
「ええ。よろしかったですよ。おそらく、もうそれほど、必要ということにはなりませんから」
女の子は言いました。
「もうすでに申しあげたことですけど、この数十年、百数十年の間で、結界は驚くほど急激に安定しました。この郷は、外界から完全に隔絶したのですよ。もう、たとえそう望んだことがあったとしても、この郷が、外の時流に乗れるということは、決してありますまい。結界をとけば、たちまち、急激な時間の流入で、衰弱と滅亡が待つばかりなのです。この郷は、そういったものをあまりに受けいれすぎていますからね。もう、後戻りはできないのです」
「八雲様は、そういったことも計算に入れていたのでは? 外の進歩が、あまりに急すぎた、ということでしょうか」
「ええ。計算はしていたんですけど、予想外でした。まあ、どのみちこの郷の有り様には変わりがありませんが。忘れられた者たちの居場所になるのでしたら、それはそれ。そちらのほうは、予想の範疇ですのでご心配なく」
女の子はちょっと目をふせました。少し改まった口調で言いました。
「お務め、本当にご苦労さまでした。約束どおり、稗田の家は末代に至るまで、手厚く保護をさせていただきますわ。妖怪は、決して義理を忘れたりいたしませんので、ご心配なさらず」
「ええ。どうぞ、こちらこそよろしゅう」
「それではまたいずれ」
「ええ。また、いずれ」
女の子は畳を立ちました。靴下の足が畳の上を音もなく踏みました。
音が聞こえて、何もない空間に、スキマが開きます。女の子は、その中に足を踏み入れて、消えていきました。
部屋の中には、阿求がひとり残されました。
阿求は、ほんのつかの間女の子が消えたところを見ていました。
それから阿求は、ちょっと庭のほうを見ました。
いい日和です。
確かにタイトルに偽りの無い内容でしたけど。話の趣旨も有るの無いのか、作者の意図も有るのか無いのか。
それとも何か、『ある』のでしょうか?
何故、『会話』なのかが矢張りよく解らん。
イや、意味など不要なのかも知れませんけど。
言い知れぬ儚さのようなものを感じました。
縁起編纂の仕事から解かれた阿求…彼女の目には何が映るだろうか。