秋。
博麗大結界の狭間。
八雲紫の邸宅。
「……」
藍は眉をひそめていた。
「……んーむ」
もぞもぞと後ろの尻尾を動かす。手には、裁縫針が握られている。
もう片方の手には、橙色の帽子があった。針仕事の途中だったのだ。
「……」
やがて、藍はおもむろに腕を上げた。指を合わせ、指を鳴らす。
ぼわん、と近くの空間が燃え上がった。炎が消えると、その中から橙の姿が現れる。
橙はくるっと回って、とんと畳みに降り立った。ととと、と近寄ってきた黒い目が、藍に向けられる。
「はい。お呼びですか、藍様」
言ってくる。
藍は、気まずそうに微笑んだ。
「ああ、ええ。急に呼んですまないわね」
「はあ、とんでもないですけども」
橙は言った。藍は、ややばつが悪そうな顔をした。
「いえ、実はね。ちょっと頼みたいことがあるんだけど……あのね。尻尾の毛繕いをお願いできるかしら? ちょっと、今日は空気が乾いているせいだか、どうにも痒くてね」
「はい。かしこまりました。……というよりか、そういうことならもっと気軽に仰ってくださいよー。私、藍様の式なんですし」
「うん。まあ、そうなんだけどね……」
藍は眉をしかめた。その後ろで、橙がもぞもぞと尻尾にもぐりこんでいく。
橙は特に小柄な方なので、藍の大きな尻尾の間に入ると、姿がすっぽりと埋まってしまった。
飛び出た二本の尻尾だけが、もぞもぞ動く。
「……」
藍は、ちょっと眼を細めた。む、と橙の動きに合わせて、眉がしかめられる。
「……。……うん。おっ。よしよし……」
やがて、口元を緩めて言う。橙が尻尾の中から顔を出して、言う。
「痒いのって、ここらへんですか? 藍様」
「ああ、そこらへんだ。……お。よーしよし。いいぞー。上手いな、橙は」
藍は、口元を緩めた。うっとりした表情で、針仕事を進め出す。
ふと、そうしていると、不意に脇の空間が音を立てた。藍はそちらを見た。
じい、と金物の滑るような音が鳴る。スキマが開いて、紫の姿が現れた。
軽い音を立てて、畳の上に下りる。
藍は気づいて、姿勢を正した。
「ああ、これは紫様。橙」
「あ。はいっ」
橙は畏まった。藍は、橙にも出てくるように促して、姿勢を正す。
が、紫は手を上げて、やんわりとそれを制した。
「ああ、いいですよ。そのまま続けていなさいな」
「はあ。失礼を致します」
藍は一礼して、帽子と針を取った。橙がまた尻尾の中に入っていく。
二人の様子を見て、紫は笑った。
「毛繕いですか? 大変ですね、その尻尾も」
「面目在りません」
藍は律儀に言った。紫は、扇子の影で笑った。
「なに、尻尾なんかに面目も何もありませんよ。ふさふさしていて、私もとても好きですしね。まあ、藍はむやみに人に触られるのがとても嫌いですけれど」
「いえ、そのような……」
藍が言うと、紫は、笑ったまま扇子を動かした。
「何も咎めているわけではありませんよ。あなたは年経た狐なんですから、そのくらいの気位の高さはあってもいいようなものですしね。それに、あんまり人に慣れた妖獣なんて、見ていてつまらないですもの」
「寛大なお言葉、恐れ入りまする」
藍は、畏まって言った。紫は、何気ない足どりで、藍の周りを歩き始めた。
気まぐれな顔で、立ち止まって藍の尻尾を眺める。手をのばして、触れるか触れないかくらいのところで指を這わせている。
毛先の調子を見ているのだろう。どうも、牛馬の毛並みの具合を確かめている牧童のような目つきにも見えるが。
そのすぐ目の前では、もそもそと橙が動いている。先がちょっと白い黒の尻尾が、橙の動きに合わせて揺れている。
紫は橙の尻尾も眺めた。
「ふーむ」
ちょっと唸る。それから藍の尻尾を見た。
それからまた橙の尻尾を見下ろす。なにかを見比べているようだが、何を考えているのかは分からない。
「相変わらず、仲が良いわねえ貴方たち」
「はあ」
「なんだか、とっても仲の良いお祖母ちゃんと孫みたいですね」
「……」
藍は黙りこんだ。
「……」
「……」
なにか微妙な空気が流れる。
「……」
「……」
「……。あれ。藍様ー。この白髪って、抜いちゃって良いんですか?」
ふと、橙が言った。
「あらら」
紫が言う。藍はきっと一瞬眼差しを鋭くし、それから後ろを見た。
「地毛ですよ。橙」
「え? あ。いや、だってこれ根元が……」
「地毛だって言ってるでしょう。いいから放っておいてよ」
「はあ……でも、白髪はちゃんと抜かないと増えますよ藍様。私、昔、おばあちゃんに聞いたことありますもの」
「……」
藍は黙りこんだ。紫は口元を扇子で隠している。
ふと、明後日の方向を見て口を開く。
「……。おやおや、年寄りの意地というのは見苦しいものですのねえ、藍さん」
「私は年寄ってなどおりませんっ!」
「はいはい、そうですねえ、藍さん」
「……! くっ……」
藍は小さくうめいた。目を閉じて、ちょっと気を落ち着ける。
落ち着け……安い挑発に乗るんじゃない、藍……!
ひそかに息を吐いてから口を開く。
「……。第一、紫様に年齢のことでとやかく言われる筋合いはございませんよ。私よりも、紫様の方が少々お年を召しておられるようですしね。私はまだまだ身も心も若輩者の段でございますから、とてもとても」
なるべく冷静に言う。しかし紫はあっさりと流して、扇子を扇いだ。
「だって私は若いですもの。心が若くあれば、六千や七千くらいは気になりませんよ」
「……」
藍はしれっとした眼差しを明後日の方向に向けた。
「……ねーえ? 藍お祖母さまぁ、お小遣い下さいません~?」
「やめてくださいよ」
「でも見なさいな。あなたには、今のような真似があっさりと出来ないでしょう」
「いい歳してやれますか、そんなこと!」
「ほらこれだ。あなたは自分で言いながらも、自分がいい歳だと、自分で年齢を自覚してしまっている。明らかに年寄った動かぬ証拠ですわ。ああ可哀想可哀想」
「そのようなこととは、今のは話が別でしょう。私が言っているのは節度の問題であって、いい歳をして、じゃなくて、ええと」
「ほらほら、そう言う台詞がすでに年寄り臭いって言うんじゃないかしら? 人格的な頭の固さと年齢的な頭の固さというのは違うものなのですよ、藍。」
「くっ! へ、へりくつを……!」
「――あら? ん? ん? なあに? 何か言ったの? ん? ん?」
「――、――くっ、いえ、何でも……!」
藍は顔を背けた。紫は扇子の影でにやにやと笑っている。
なんということだ。ここまで小馬鹿にされるとは。
(ぬうう……おのれ妖怪)
いくら紫様とて許せん。藍はひそかに思った。
妖怪に舌で言い負かされるなど、年経た妖獣の恥である。しかも、立場を笠に着て反論を封じてくるとは、なんという卑劣漢か。
このままでは気が済まない。狐の誇りがむらむらと沸いてくる。
(……)
ふと、藍は思いついた。紫を見て、口を開く。
「――ああ。そうだ。紫様。少々お願いがあるのですが、よろしいですか」
何気ない調子で藍は言った。
「はい。なんでしょう?」
紫が言う。
「はい。申しわけありませんが、少しばかり目を閉じてはいただけませんか?」
「目を? こう?」
「はい。そう」
藍はにっこりと笑った。紫はいぶかしみながらも、大人しく目を閉じている。
「……」
藍はそっと指を上げた。指を合わせる。
親指と中指を合わせて、ちょうど丸を作る感じだ。そのまま、紫の鼻に指を近づける。
「……」
紫は黙って目を閉じている。
びし。
「いた」
紫がうめいた。藍は腕を下ろした。
紫が目を開く。
じろりと藍を見ろしてくる。藍は、すでに畏まって平伏していた。
「何をするの」
紫が言う。
「はい。どうも無礼をいたしました。お許し下さいませ」
藍は落ちついて言った。平伏したまま、続ける。
「どうも、まだまだ未熟なる我が目には、事実というものは、実際の証拠を持ってしないと、見えてこないようなのです。どうぞ、ひらに」
「言い訳は良いのよ、藍。いきなり何をするの?」
紫が言った。藍は、冷静に言った。
「はい。紫様は、やはりまだまだお若くあられるようです」
「なにが」
「いえ。なにせ、お年を召されて、気質の老練な、成熟しました方というのは、まことおおらかな心を持つものでございます。今のように、若輩のわたくしが、鼻をちょっとくじくような悪戯なんかをしても、そのように可愛らしく、顔をしかめて反応したりはいたさぬものでございます」
「……ほおう」
「いや。紫様は、やはりたいそうお若くあられます。なにせ、今のは、とても可愛らしいお顔でしたもの」
藍は笑った。紫は微笑みを浮かべた。
「……あらあら。うふふ。藍ったらとっても口がお上手なのねえ……」
「いいえ。紫様には、とても……まだまだとても及びませんとも……」
「うふふふふふ」
「うふふふふふ」
ほがらかな笑いを響かせて、二匹の大妖は笑い合った。
表で小鳥が一斉に飛び立った。鴉の鳴き声がする。
青ざめた顔でそれを見ていた橙は、こっそり後ずさって、そそくさとその場を逃げ出した。
第丸丸季某月某日付 妖怪之山日報 第一面より
・八雲紫氏邸宅、損壊ス
昨日、午後未明、博麗大結界の境界付近で大規模な妖力の乱れが発生。この乱れは、博麗大結界にも影響を及ぼしたとされ幻想郷内では一時、この異常が原因によるものと思われる変異現象が、各所で多数確認された。
この妖力の乱れの原因は、八雲紫の邸宅における、八雲紫氏(推定二万才)と、その式である八雲藍氏(推定五千才)のあいだで何らかの競り合いが起きたため。この騒動によって、八雲紫氏の邸宅は三分の一ほどが損壊し、またその場に居合わせた藍氏の式である橙さん(推定百才)が全治二日ほどの軽傷を負った。
当事者である二氏は無傷。この騒動について、現在二氏は談話を控えているが騒動を受けて、各所からは苦言を呈する声や苦情が寄せられた。以下抜粋。
「なにやってんのよあいつら」(博麗の巫女氏)
「ああ秋はお饅頭が美味しいわね。え? 昨日? 何かあったの? ええ。知らない」(亡霊の姫氏)
「お二方ともご立派な方だとは思うんですけど、少々落ち着きが足らないのかも知れませんね。やはり私のように日々の心がけが大切なんじゃないかだと思います。ところでそれより良いネタがあるんですけど――」(竹林の白兎氏)
「まったく困ったもんだね。いい歳して喧嘩とか恥ずかしくないのかね。あいつはもうちょっと周りの手本になるよう心がけるべきじゃないかと思うね」(元山の四天王氏)
「同じ年長者として恥ずかしいですな。もう少し自分の立場というものを考えて行動してほしいものです」(山の鴉天狗氏)
本誌では、この件に関しては引き続き追求を行い、責任問題を明確にすべきと――
博麗大結界の狭間。
八雲紫の邸宅。
「……」
藍は眉をひそめていた。
「……んーむ」
もぞもぞと後ろの尻尾を動かす。手には、裁縫針が握られている。
もう片方の手には、橙色の帽子があった。針仕事の途中だったのだ。
「……」
やがて、藍はおもむろに腕を上げた。指を合わせ、指を鳴らす。
ぼわん、と近くの空間が燃え上がった。炎が消えると、その中から橙の姿が現れる。
橙はくるっと回って、とんと畳みに降り立った。ととと、と近寄ってきた黒い目が、藍に向けられる。
「はい。お呼びですか、藍様」
言ってくる。
藍は、気まずそうに微笑んだ。
「ああ、ええ。急に呼んですまないわね」
「はあ、とんでもないですけども」
橙は言った。藍は、ややばつが悪そうな顔をした。
「いえ、実はね。ちょっと頼みたいことがあるんだけど……あのね。尻尾の毛繕いをお願いできるかしら? ちょっと、今日は空気が乾いているせいだか、どうにも痒くてね」
「はい。かしこまりました。……というよりか、そういうことならもっと気軽に仰ってくださいよー。私、藍様の式なんですし」
「うん。まあ、そうなんだけどね……」
藍は眉をしかめた。その後ろで、橙がもぞもぞと尻尾にもぐりこんでいく。
橙は特に小柄な方なので、藍の大きな尻尾の間に入ると、姿がすっぽりと埋まってしまった。
飛び出た二本の尻尾だけが、もぞもぞ動く。
「……」
藍は、ちょっと眼を細めた。む、と橙の動きに合わせて、眉がしかめられる。
「……。……うん。おっ。よしよし……」
やがて、口元を緩めて言う。橙が尻尾の中から顔を出して、言う。
「痒いのって、ここらへんですか? 藍様」
「ああ、そこらへんだ。……お。よーしよし。いいぞー。上手いな、橙は」
藍は、口元を緩めた。うっとりした表情で、針仕事を進め出す。
ふと、そうしていると、不意に脇の空間が音を立てた。藍はそちらを見た。
じい、と金物の滑るような音が鳴る。スキマが開いて、紫の姿が現れた。
軽い音を立てて、畳の上に下りる。
藍は気づいて、姿勢を正した。
「ああ、これは紫様。橙」
「あ。はいっ」
橙は畏まった。藍は、橙にも出てくるように促して、姿勢を正す。
が、紫は手を上げて、やんわりとそれを制した。
「ああ、いいですよ。そのまま続けていなさいな」
「はあ。失礼を致します」
藍は一礼して、帽子と針を取った。橙がまた尻尾の中に入っていく。
二人の様子を見て、紫は笑った。
「毛繕いですか? 大変ですね、その尻尾も」
「面目在りません」
藍は律儀に言った。紫は、扇子の影で笑った。
「なに、尻尾なんかに面目も何もありませんよ。ふさふさしていて、私もとても好きですしね。まあ、藍はむやみに人に触られるのがとても嫌いですけれど」
「いえ、そのような……」
藍が言うと、紫は、笑ったまま扇子を動かした。
「何も咎めているわけではありませんよ。あなたは年経た狐なんですから、そのくらいの気位の高さはあってもいいようなものですしね。それに、あんまり人に慣れた妖獣なんて、見ていてつまらないですもの」
「寛大なお言葉、恐れ入りまする」
藍は、畏まって言った。紫は、何気ない足どりで、藍の周りを歩き始めた。
気まぐれな顔で、立ち止まって藍の尻尾を眺める。手をのばして、触れるか触れないかくらいのところで指を這わせている。
毛先の調子を見ているのだろう。どうも、牛馬の毛並みの具合を確かめている牧童のような目つきにも見えるが。
そのすぐ目の前では、もそもそと橙が動いている。先がちょっと白い黒の尻尾が、橙の動きに合わせて揺れている。
紫は橙の尻尾も眺めた。
「ふーむ」
ちょっと唸る。それから藍の尻尾を見た。
それからまた橙の尻尾を見下ろす。なにかを見比べているようだが、何を考えているのかは分からない。
「相変わらず、仲が良いわねえ貴方たち」
「はあ」
「なんだか、とっても仲の良いお祖母ちゃんと孫みたいですね」
「……」
藍は黙りこんだ。
「……」
「……」
なにか微妙な空気が流れる。
「……」
「……」
「……。あれ。藍様ー。この白髪って、抜いちゃって良いんですか?」
ふと、橙が言った。
「あらら」
紫が言う。藍はきっと一瞬眼差しを鋭くし、それから後ろを見た。
「地毛ですよ。橙」
「え? あ。いや、だってこれ根元が……」
「地毛だって言ってるでしょう。いいから放っておいてよ」
「はあ……でも、白髪はちゃんと抜かないと増えますよ藍様。私、昔、おばあちゃんに聞いたことありますもの」
「……」
藍は黙りこんだ。紫は口元を扇子で隠している。
ふと、明後日の方向を見て口を開く。
「……。おやおや、年寄りの意地というのは見苦しいものですのねえ、藍さん」
「私は年寄ってなどおりませんっ!」
「はいはい、そうですねえ、藍さん」
「……! くっ……」
藍は小さくうめいた。目を閉じて、ちょっと気を落ち着ける。
落ち着け……安い挑発に乗るんじゃない、藍……!
ひそかに息を吐いてから口を開く。
「……。第一、紫様に年齢のことでとやかく言われる筋合いはございませんよ。私よりも、紫様の方が少々お年を召しておられるようですしね。私はまだまだ身も心も若輩者の段でございますから、とてもとても」
なるべく冷静に言う。しかし紫はあっさりと流して、扇子を扇いだ。
「だって私は若いですもの。心が若くあれば、六千や七千くらいは気になりませんよ」
「……」
藍はしれっとした眼差しを明後日の方向に向けた。
「……ねーえ? 藍お祖母さまぁ、お小遣い下さいません~?」
「やめてくださいよ」
「でも見なさいな。あなたには、今のような真似があっさりと出来ないでしょう」
「いい歳してやれますか、そんなこと!」
「ほらこれだ。あなたは自分で言いながらも、自分がいい歳だと、自分で年齢を自覚してしまっている。明らかに年寄った動かぬ証拠ですわ。ああ可哀想可哀想」
「そのようなこととは、今のは話が別でしょう。私が言っているのは節度の問題であって、いい歳をして、じゃなくて、ええと」
「ほらほら、そう言う台詞がすでに年寄り臭いって言うんじゃないかしら? 人格的な頭の固さと年齢的な頭の固さというのは違うものなのですよ、藍。」
「くっ! へ、へりくつを……!」
「――あら? ん? ん? なあに? 何か言ったの? ん? ん?」
「――、――くっ、いえ、何でも……!」
藍は顔を背けた。紫は扇子の影でにやにやと笑っている。
なんということだ。ここまで小馬鹿にされるとは。
(ぬうう……おのれ妖怪)
いくら紫様とて許せん。藍はひそかに思った。
妖怪に舌で言い負かされるなど、年経た妖獣の恥である。しかも、立場を笠に着て反論を封じてくるとは、なんという卑劣漢か。
このままでは気が済まない。狐の誇りがむらむらと沸いてくる。
(……)
ふと、藍は思いついた。紫を見て、口を開く。
「――ああ。そうだ。紫様。少々お願いがあるのですが、よろしいですか」
何気ない調子で藍は言った。
「はい。なんでしょう?」
紫が言う。
「はい。申しわけありませんが、少しばかり目を閉じてはいただけませんか?」
「目を? こう?」
「はい。そう」
藍はにっこりと笑った。紫はいぶかしみながらも、大人しく目を閉じている。
「……」
藍はそっと指を上げた。指を合わせる。
親指と中指を合わせて、ちょうど丸を作る感じだ。そのまま、紫の鼻に指を近づける。
「……」
紫は黙って目を閉じている。
びし。
「いた」
紫がうめいた。藍は腕を下ろした。
紫が目を開く。
じろりと藍を見ろしてくる。藍は、すでに畏まって平伏していた。
「何をするの」
紫が言う。
「はい。どうも無礼をいたしました。お許し下さいませ」
藍は落ちついて言った。平伏したまま、続ける。
「どうも、まだまだ未熟なる我が目には、事実というものは、実際の証拠を持ってしないと、見えてこないようなのです。どうぞ、ひらに」
「言い訳は良いのよ、藍。いきなり何をするの?」
紫が言った。藍は、冷静に言った。
「はい。紫様は、やはりまだまだお若くあられるようです」
「なにが」
「いえ。なにせ、お年を召されて、気質の老練な、成熟しました方というのは、まことおおらかな心を持つものでございます。今のように、若輩のわたくしが、鼻をちょっとくじくような悪戯なんかをしても、そのように可愛らしく、顔をしかめて反応したりはいたさぬものでございます」
「……ほおう」
「いや。紫様は、やはりたいそうお若くあられます。なにせ、今のは、とても可愛らしいお顔でしたもの」
藍は笑った。紫は微笑みを浮かべた。
「……あらあら。うふふ。藍ったらとっても口がお上手なのねえ……」
「いいえ。紫様には、とても……まだまだとても及びませんとも……」
「うふふふふふ」
「うふふふふふ」
ほがらかな笑いを響かせて、二匹の大妖は笑い合った。
表で小鳥が一斉に飛び立った。鴉の鳴き声がする。
青ざめた顔でそれを見ていた橙は、こっそり後ずさって、そそくさとその場を逃げ出した。
第丸丸季某月某日付 妖怪之山日報 第一面より
・八雲紫氏邸宅、損壊ス
昨日、午後未明、博麗大結界の境界付近で大規模な妖力の乱れが発生。この乱れは、博麗大結界にも影響を及ぼしたとされ幻想郷内では一時、この異常が原因によるものと思われる変異現象が、各所で多数確認された。
この妖力の乱れの原因は、八雲紫の邸宅における、八雲紫氏(推定二万才)と、その式である八雲藍氏(推定五千才)のあいだで何らかの競り合いが起きたため。この騒動によって、八雲紫氏の邸宅は三分の一ほどが損壊し、またその場に居合わせた藍氏の式である橙さん(推定百才)が全治二日ほどの軽傷を負った。
当事者である二氏は無傷。この騒動について、現在二氏は談話を控えているが騒動を受けて、各所からは苦言を呈する声や苦情が寄せられた。以下抜粋。
「なにやってんのよあいつら」(博麗の巫女氏)
「ああ秋はお饅頭が美味しいわね。え? 昨日? 何かあったの? ええ。知らない」(亡霊の姫氏)
「お二方ともご立派な方だとは思うんですけど、少々落ち着きが足らないのかも知れませんね。やはり私のように日々の心がけが大切なんじゃないかだと思います。ところでそれより良いネタがあるんですけど――」(竹林の白兎氏)
「まったく困ったもんだね。いい歳して喧嘩とか恥ずかしくないのかね。あいつはもうちょっと周りの手本になるよう心がけるべきじゃないかと思うね」(元山の四天王氏)
「同じ年長者として恥ずかしいですな。もう少し自分の立場というものを考えて行動してほしいものです」(山の鴉天狗氏)
本誌では、この件に関しては引き続き追求を行い、責任問題を明確にすべきと――
ゆかりちゃん う ふ ふ
小話は常識に捕らわれてはいけないのですね!!
いい歳の大人がなにやってんのw