この胸いっぱいの

　十六夜咲夜は完全で勝者な従者である。


　物心のついたときには既に、彼女に両親という存在はいなかった。
　他人に呼ばれることがないから、名前も持っていなかった。
　身に纏うのはボロばかり、両目を覆い隠すほどに伸びた髪は老人のような灰色だ。
　能力のおかげでなんとか食いつなげていたものの、その分人々には疎まれ蔑まれる。
　異端の辿る運命はおおよそ二つに分けられる。

　高みへ昇るか、それとも地に這いつくばるか。
　彼女が後者に属するのは自明のことに思われた。
　やがて時が経ち、名もない少女のことを、人々は忘れ去った。


　それが今ではどうだ。


　彼女には今、十六夜咲夜という美しい名がある。

　怜悧な名に恥じないその立ち姿。乳白色の肌の華奢な体は確かな柔らかさを帯びており、清潔な青いエプロンドレスが身を包む。
　肩までに切り添えられた髪は月の銀色。整った顔立ちの中でも際立つのは、ビードロのように透き通る碧眼だ。
　十人中十人が美しいと誉めそやす完璧な容姿。

　彼女が支えるのは緋色の吸血鬼。
　彼女を支えるのは強くしなやかな従者たち。
　かつて孤独だった彼女の周りには今、数多くの人がいる。
　里を歩くときでさえ、彼女を蔑む者はいないのだ。恋文を渡す者でさえ、男女を問わず存在する。

　しかし彼女は決して驕った態度を取らない。
　凛と主人の傍らに控え、過去のことなど感じさせない穏やかな微笑を浮かべるのみだ。


　さて、十六夜咲夜が完全で勝者な従者であることをご理解頂けただろうか。


　しかし。
　たった一つだけ……彼女の勝者への道を妨げるものがあったのである。






――――そんなある日のこと。






　彼女の仕事は非常にハードである。だから普段は一度眠れば起床の時間まで起きることなど決してない。寝過ごすこともないのは流石であるのだが。
　しかしその日、咲夜は妙な違和感を感じて、深い眠りの底から浮上した。苦しい。
気だるい体を起こし、うんと伸びをしたところで―――咲夜は凍りついた。
頭の中に居座っていた睡魔が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。


「何、これ」


咲夜は心当たりを探すように、左胸に手のひらをあてた。

むにゅり。

普段の彼女ならば、この場合の正しい擬音は「ふにゃり」がせいぜいである。

十六夜咲夜、十ウン歳。

慎ましやかであったはずの胸が、まるでエロゲの巨乳キャラのように大きく膨らんでいた。

咲夜はベッドに落ちている小さなボタンと、自らのパジャマの第二ボタンの位置をまじまじと見比べる。


「……ばんなそかな」


　絶句した。






「さて、どうしたものかしら」

　とりあえず予備のメイド服を拝借した咲夜は、一つため息を落とした。
膨らんだ胸はやはりそのままであり、下を向けば咲夜の視界を塞いでしまう。
原因は遅れてきた二次成長。というわけもなく、咲夜には一つ心当たりがあるのだった。


（間違いなく、昨日のパチュリー様の飲み物だわ。）


にやにやと薄く笑いながら、「飲みなさい……飲むのよ！」と喉の奥に流し込まれた半液体の何か。
　嫌な味以外特に変わったことがなかったから放っておいたが、こういうことだったのか。

咲夜は鏡の中の自分を見つめる。
膝上で揺れるスカートに、まあるく盛り上がったきつそうな胸元。我ながらなんだか卑猥である。
正直言って、咲夜は困惑はしているものの迷惑はしていなかった。
本来の咲夜の胸は、小さくはないが決して大きいとはいえないもの。
メイドたるもの控えめなくらいがちょうど良い、というのが咲夜の持論であったが、ある事件を境に彼女の自信は大きく揺らいでいた。
　とある異変の後の文々。新聞曰わく。


“十六夜咲夜、PAD疑惑”


次の日のレミリアの、複雑そうな面もちは一生忘れられそうにない。
博麗神社に行ったときのために、お嬢様の靴下が冷えないように胸元に詰めていたんです。
今更そんなことを言ったところで誰が信じてくれるだろうか。


―――そう。


　胸の大きさ。
　それが、咲夜の唯一の引け目であった。
その悩みさえ無くなった今、彼女を脅かすものはもう何もない。 咲夜は鏡の中の自分をじっと見つめる。
昔から一度言ってみたかった台詞。
躊躇うように視線をそらしたが、やがておずおずと口を開いた。


「む、胸が重くて肩が凝るわー……」


　……うむ。
想像以上に恥ずかしいが、なかなかどうして、悪くない。
思わず顔を緩めた咲夜の両胸を、唐突に後ろから伸びてきた手ががしりと鷲掴んだ。
　声も出せずに固まった咲夜に構わず、手の主はふむふむと暢気に胸を撫でさすっている。


「うーん、気を通してますけど、そんなに凝ってないみたいですよ。
あれ、でも咲夜さんってこんなに胸大きかったですか？」


　カチリ。

　時を止めた咲夜は三度深呼吸を繰り返した。
鏡を見れば、自分よりも頭一つ分背の高い紅色の妖怪の顔。
美鈴が笑顔で立っている。
もう一度深呼吸。
このまま逃げてしまおうかと思ったが、美鈴の両手はがっちりと咲夜の胸をホールドしている。流石に手首から切り落としてしまうのはあんまりだろう。
　瀟洒。瀟洒に振る舞うのよ咲夜。
オーケイ、完全で瀟洒な従者はこれしきのことで動揺なんてしない。しないはず！

腹を括ってカチリと音を鳴らせば、再び時計は時を刻み始める。


「あら美鈴、ごきげんよう。元気そうで何よりだわ」


　にこりと笑うその姿はまさしく完璧である。
　返して笑うのは紅美鈴。朗らかなその笑顔もまた、たまらなく素敵なものだ。


「元気も元気、絶好調です。さっき休憩に入ったばかりなんですよ。シフト見たら咲夜さんも空いてるみたいだったので、お昼一緒にどうかなって」

「そうなの。じゃあそうさせてもらおうかしら」

「本当ですか！へへ、嬉しいです」

「大げさね。……で、美鈴」

「はい」

「…………」

「…………？」

「……そろそろ手を離してくれないかしら」

「ああ、そういえば。すいません触り心地良くて、つい」


　そう言いつつも未だ両手は胸の上だ。
勿論そちらも気になるのだが。
あたっている。
美鈴の胸が背中に押し付けられ、撓んでいるのをひしひしと実感する。
あのばいーんとした胸のことだ、さぞかし豪快にひしゃげているのだろう。ああ恨めしい。決して羨ましくはない。断じて。
……そうだ、今までならともかく、今の咲夜だって立派なスイカップだ。これならば、或いは。


「わ、ちょ、さっ咲夜さん！？」


べりっと美鈴を引き剥がした咲夜は、ぼふりと美鈴の谷間に顔を埋めた。
フロントを固めた上で、両サイドからぐわしと胸を掴む。
ふむ。この弾力と大きさ。鍛えて引き締まった体とのバランスもちょうど良い。見たとおりの至高の胸である。

しかし。


「勝ったわ……」


その差はほんのわずか。されど、勝ちは勝ち。
咲夜の碧眼にはうっすらと涙が滲んでいた。
未だ拭いきれない過去の汚名。 しかし、これでようやく―――前に進める気がする。
　両手は胸から離したものの、咲夜の顔は美鈴にくっついたままだ。
　身長差的に自然な姿勢なのでとても楽だ。何より気持ちがいい。
　美鈴は咲夜の珍しい様子に小さく首を傾げる。


「咲夜さん咲夜さん、お昼ご飯はどうしましょう」

「そうね……」

「もう、咲夜さんってば」


状況が理解できないながらも、背中をぽんぽんと軽く叩く美鈴の胸の中。
今だけはこのままでいたいと、咲夜は目を閉じて微笑むのであった。




　十六夜咲夜は完全で勝者な従者である。
しかし大切な友人との間に本当は勝ち負けなんて関係ないのも、また事実なのであった。

「…っていう夢を見させる薬をね、飲ませたのよ。咲夜に」

「ひゃあ、パチュリー様ったら悪ですねえ。ふふふ」



これ書いてる途中に同作品集内のSSに「足りないのはMUNE」ってコメント頂いてビックリしました。
貴様…見ていたな！
辛口なアドバイスも大歓迎です。