思い出は記憶の雑踏の中にひっそりと佇んでいる。日に日に増えていくノイズがその姿を隠そうとも、その気配はしっかりと感じることが出来るだろう。
ティーカップを置いて、レミリア・スカーレットは短い溜息を吐く。ベランダから見上げた月は大きく丸い。銀色に輝き蒼白い光を地上に降らしている。
ふと背後に気配を感じた。しかし振り返らずにいると、やがて気配の主は傍らに姿を表した。
「門番の仕事はどうしたのかしら?」
そう訊ねながらも、彼女がここにやってきた理由をしっかりと理解していた。
「もうすぐですから」
紅美鈴はそう答えて、どこかやるせなそうにはにかんだ。
いつまでそんな表情をしているんだ、と叱ってやりたかったが、あんまり人のことは言えないなぁ、とレミリアは心中で苦笑し、月を見上げた。
月にはいろんな思い出がある。家族をなくし、妹と二人きりになったのも、満月の輝く冬の夜だった。寒い寒い1月の夜で、孤独の中で二人で身を寄せ合いながらやり過ごしていた。
やがて時が経ち、逃げ延びる為に訪れた島国の森の中で、友となる魔女と出会い、楽園を求めた通過点の大陸の東端で、屈強な門番と出会った。それもすべて、月の輝く夜だった。
感傷的な思いに浸りながら、紅茶をすする。
「えらく気が早いのね、二人とも」
背後で声がした。
振り向くと、ベランダの入り口のところに、パチュリー・ノーレッジがワインボトルを片手に立っていた。その背後には、フランドールの姿があった。パチュリーの肩に隠れて、こちらの様子を恐る恐る覗き込んでいる。さらにその奥には、ワイングラスを乗せたトレイを持った小悪魔の姿も見える。
「そういう自分こそ、あんまり大差ないんじゃない?」とレミリアが言ってやると、「そうね」とパチュリーは肩を竦めた。
彼女は、レミリアの方へ歩いて行って、テーブルの上にワインボトルを置いた。今日のために取っておいたワインだ。ラベルに刻まれた製造年月を見て、レミリアはふと天を仰いだ。
パチュリーはレミリアの左斜め前の席に陣取ると、小悪魔を読んだ。
はい、と返事をして小悪魔はこちらにやってきて、テーブルの上にワイングラスを並べていく。
「じゃあ、私が注ぎます」
ワインボトルに手を伸ばそうとした美鈴をレミリアは手で制した。
「今日は、私がやるわ」
主の突然の行動に、一瞬戸惑いながらも、「判りました」と美鈴は答え、彼女も席に着いた。座る席を迷っているフランドールに、レミリアは自分の右斜め前の席を勧めて、ワインボトルに手を伸ばした。
コルクの栓を抜くと、熟成したワインの甘酸っぱい芳醇な香りと、アルコールの匂いが一緒になって鼻腔をくすぐった。
全員のグラスに、ワインを注いでいく。血のように赤いワインの色は、月光によく映える。
すべてのグラスに注ぎ終わると、レミリアは一同の顔を見渡した。
「レミィ」パチュリーが言った。可笑しそうに彼女は笑っている。「あなた少し泣きそうよ」
「そんな風に見えたかしら?」
「ええ、とっても」と肩を竦める。
「今宵の月の所為じゃないかしらね」とレミリアは答える。「月光は、月の涙だもの」
「そうね。でも直に泣き止むわよ」
「だからこうして用意をしているんじゃない」
自分の席に戻ったレミリアは、じっとワイングラスを見つめていた。赤い水面に映った、まんまるいその月影は、徐々に歪さを帯び始め、完璧な真円はやがて楕円へと姿を変えていく。
ちょうどその時であった。
いままさに月齢の切り替わったばかりの月に、杯を向けるのだった。それに合わせて他の者達もワイングラスを高く掲げる。
「乾杯!」
笑みを浮かべ、まるであの、夜空に煌々と輝く十六夜の月に届けと言わんばかりの大声で、レミリアは言った。「乾杯!」「乾杯!」と声が続く。
そして一気にワインを口の中に流し込んだ。
熱い液体を飲み干すと、思い出につきまとう雑踏が、まるで朝霧が朝日に散らされるがごとく消えてゆく。
もう何十年も前のこと。暗い目をした少女に出会った。彼女はやがて、従者となり、レミリアがこれまで生きてきた時間のなかの、最も輝かしい時期を彩った。最も優秀で、レミリアが誰よりも愛した従者。
「咲夜――」
――あなたはいま、どうしているのかしらね。私たちのことを、見ていてくれているかしら。
そう呟いた声は、突如として吹いた強風に流され、夜空に彼方へと飛ばされていった。
咲夜が、少し困った表情でこちらを叱っているような気がした。
――そうね、湿っぽいのは似合わない。
そういってレミリアは微笑むと、新たにグラスにワインを注ぎ、それをそっと前に差しだした。
一人、また一人と、惜しむようにベランダを去っていく。
最後に取り残されたレミリアは、夜が明けるまでずっと、愛おしげに月を眺め続けるのだった。
乾杯!
前向きに生きている紅魔館が多くてイイですね。
乾杯!