「ムラサ、率直に聞くのだけれど、お風呂は好きかしら?」
「嫌いだけど……どうしてそんな怖い顔してるわけ? 一輪」
仁王立ちで腰に手を当てる彼女に、気落とされてつい、不用意に本音を言ってしまったのがいけなかった。
次の瞬間には一輪に手を引かれ浴室に押し込まれ、目を白黒している間に服を脱がされ、抵抗を思い出した時には、すでに全身を溺れそうなぐらいの泡で覆われて、大嫌いな湯船に放り込まれた。
どぼんと。
お風呂で溺れかけて、必死に手足を動かして掴んだのは、一輪の柔らかな肢体。
そのまま背中から抱きしめられて、肩に顎を置かれて、細い声で百まで数え終える。
そんな、私にとって混乱だらけの数十分の苦行の後。
彼女とお風呂に入るのが日課になった。
「今思うとさぁ、一輪、私の事を犬か何かだと勘違いしてなかった?」
「……そんな事はないけれど、それと同等のものかもしれない、と疑ったわね」
ついさっき。
ぴかぴかに、足の指から髪の毛の先まで洗われて、じっとりとした警戒の目を一輪に向けながら不貞腐れて聞けば、予想通りの言葉が返ってきた。
今日も今日とて、最初の頃と同じぐらい、強引な手段で洗われて、始終悲鳴を上げっぱなしで喉がひりひりした。……幽霊だけど。
「……大体、死んでるんだから垢とか出ないよ」
「垢は出なくとも、貴方は臭いが付き易いの。それが良い香りならいいけれど、魚を捌いた後なんて、酷いわよ?」
「……ぐぅ」
悔しくも、元が無臭なだけに、外の香りがつきやすいのは本当らしい。
桜並木を歩いた帰りなんかは、皆が「桜の香りね」なんて反応するし、買い食いなんてすると「お土産はないの?」なんて聞かれる。
私自身には分からないけれど、しょうがない事だと諦めてもいる。
「前に、腐りかけた雀の死体を埋めて帰ったら、星やナズに何かあったのかと、心配そうに声をかけられましたよ」
「本当に、人間でも少し鼻が効けば、ムラサが一日どこにいたのか突き止められそうよね」
「……それは勘弁です」
肩をすくめて、そんなにも香りというのは纏わりつきやすいのかと、戯れに一輪に四つん這いで近づいて、その首筋に鼻を埋めてみる。
「……くすぐったいわ」
「一輪は、うーん。……いつも通りに良い香りだけど、やっぱりお風呂上りじゃ、いつもと変わらないか」
「当たり前よ」
くんくんと、寝巻きの中も嗅いでみるけど、今は私と同じ石鹸の香りしかしない。
でも、それはそれで悔しいので、何かないかとしつこく鼻を動かしていくと、逆に一輪が鼻先を私の首筋に押し付けてきた。
「……ムラサは」
「うん?」
「……今日は、里の守護者さんと会ったわよね?」
「げっ」
海について聞きたいと、ぶらぶらと散歩している時に声をかけられた。
そのまま少しだけお茶をして、当たり障りのない解答で逃げたけれど、私が海についてあまり話したがらないのを見て取り、すぐに解放してくれた。
最後に、何故かぎゅっと抱きしめられた。
『いつか、話せる様になったら教えて欲しい』
と、不思議な台詞を最後に、彼女はさっぱりと背中を向けてしまったのだけど。
……やっぱり、抱きしめられた時についた残り香だろうか?
呆れを通り越して感心していると、更にすんっと鼻がなる音がする。
「……それに、姐さん、ぬえ、星、ナズーリン。いつも通りの面々ね」
「ふぅむ」
正解。
今日はその守護者さんとしか、外の人と接触はしていない。
一輪の鼻は、正確に香りを辿れるらしい。
「……それから、その中で密着したのが、姐さんとぬえね」
「げぇ」
「ちょっと、変な声を出さないの。……それから、一番濃いのが」
「も、いいよ。……お風呂に入ったのに、そこまで分かるんだね」
これ以上聞くのは耐え切れず、私のプライバシーが侵害されまくっているとげんなりしながら遮った。
一輪はあっさりと首を戻して、私の肩を押し返す。
「だから、前々から言っているでしょう? ムラサは元が無臭だからか、他より異常に移り易いのよ」
「分かったよ。もう」
「大体、女なら他の人の香りには気を配るものよ」
「……私は女である前に船長なので、そういう難しいのはちょっと」
というか、私の鼻は鈍感なのだ。まあ、何となく皆の香りの違いは分かるけれど、それは日常生活を共にしてる慣れから来るもので、外の人妖たちは、もうさっぱり。
一輪は「でしょうね」と、私の性格と力以外はほとんど人と変わらない私を知っているので、素直に頷く。
「ムラサは鈍感ですもの」
「ちょっと?」
「私が香りを変えても、気付かないでしょう?」
「こらこら」
流石にそれは侮辱すぎると、私はまだしっとりとしている髪を掻く。
「一輪が香りを変えたら、流石に分かるってば」
「そう?」
「っていうか、一輪は香りを変える時は、私も一緒に変えるじゃない。流石に気付くって。口にしなかっただけで」
「…………」
「ほら、最初は柑橘系で、次は甘くて、さらに次は、こう、爽やかな感じで、色々と変えていくから、私としても楽しかったし」
「…………」
嘘じゃないとばかりに、胸を張れば、一輪はおかしな顔になって「……あー」とそっぽを向く。
「参ったわね」
「でしょう?」
「そこに気付いているのに、気付かないなんて、酷い鈍感だわ」
「ちょい待て」
がくっと頭が傾ぐ。
感心されると思ったら、何故か嘆かれている。
えぇ、何その反応? ……少しは褒めても良くないかな?
「……あのね、ムラサ」
「うむ?」
「……貴方と私は、いつも同じ香りよね?」
「そりゃあ、一輪とお風呂に入るのは日課だしね」
「それは、貴方が私と一緒じゃないといつまでも入らないからでって、そうじゃないの!」
びしっと人差し指と中指が、おでこを突く。
頭が揺らいで、僅かの痛みに額を擦ると、一輪が頭を抱えて言葉に窮していた。
「えぇと」
「どうかしたの?」
「まあ、その」
先程まで、私をお風呂で好き勝手に洗いまくっていた一輪が、今は指で指を捏ねながら、姿勢の良い背中を曲げて、顔を赤らめていた。
はて、風邪だろうかと疑いかけるけれど、この流れでそれはないだろう。
「…………マーキング?」
「は?」
「犬、みたいに」
「む?」
「同じ香りを、纏う事で、その。……他を牽制するというか」
「……はぁ、まあ、犬はそういう縄張り争いするよね?」
頭の中で、わんっと鳴く柴犬が浮かんで、それが一輪と重なって。尻尾をふりふりして私を洗う姿を用意に想像できた。耳もぴんぴんとご機嫌そうである。
「……で、それがどうかしたの?」
「…………はぁ」
一輪が、それは重い溜息をついて、私は拗ねた様に見つめる。
私はとりあえず、いい加減四つん這いにも疲れたので腰を下ろし、ぴっちりと正座する一輪の前で膝をたてながら、顎に指を当てて考える。
「……えーと」
香りはマーキングで、他を牽制していて。私と一輪は常に一緒の香りをしている。
私は他の臭いが移り易いので、一輪はそれが良い香りでも悪い香りでも、さっさと洗い流して元に戻す。
一輪からは、私の香りがする。
だから、私から一番に香るのは、一輪の匂いで。
……うん。だから、それがどうかしたの?
「ごめん。分からない」
「……でしょうね。期待してないから、大丈夫よ」
「いや、ごめん」
「……でもね、ムラサ」
拗ねた目つきが、全体に広がって。整った顔立ちが全部、拗ねていく。
子供みたいな可愛い顔。
「いい加減にしないと、私だって待ってあげないわよ」
「?」
「……嘘。待ってあげる」
ぽふんっ、と。柔らかい感触。
一輪が、私の身体を寄せてくる。さらさらとした髪が頬をくすぐって、口の中に入りそうになり、特に躊躇せずに、あむっと髪を噛んだ。
「あのさ、一輪」
もぐもぐすると「噛むな」と足の肉を抓られる。でも無視して、私は一輪の髪の香りを嗅ぎながら、味を確かめる。
「私と一輪が同じ香りって、当たり前の事じゃない? ってことは、さっきのってもしかして、一輪は私のモノって事?」
もぐもぐもぐ。
一切の動きを止めてしまう一輪の髪を、傷つけない程度に味わいながら。私はこてんと首を傾げる。ちょっと髪が引っ張られて、一輪が身じろぎした。
「マーキングでしょう? じゃあ、私は一輪ので、一輪は私のか。成る程ねぇ。そう考えると、大嫌いなお風呂も少しは楽しくなるかもね。だから、一輪は指の間とか耳の中とか、細かく洗ってたわけだ。うんうん」
長年の疑惑がとけて。軽快に頷けば。一輪が顔をあげた。
疑惑がふんだんに詰まって、まるで私がちゃんと意味を分かっているのか理解していないとばかりの。とんでもなく失礼な表情。
「ムラサ?」
「いや、何その顔?」
「……それ、意味分かってるの?」
「は?」
頬を乱暴にむぎゅっと押さえられて、唇が少し尖る。
意味? 意味って、どれだけ私は馬鹿に見られているのかと、肩をすくめた。
「あのね、一輪。私を馬鹿にするのも大概にしてよ」
「え……ごめ、ん?」
「だって一輪。私の事が好きじゃない?」
「――――は?」
「私も一輪が好きで、マーキングって聞けば、そりゃあ、答えを出すのに時間はかかるけれど、正解は見えていて」
「待て、待って!」
混乱しきった一輪が、失礼にも私の服を掴んでがくぶると揺らして、「えっ? えっ?」と私に乗りかかってくる。
耐え切れずに「むぎゅ」っと声をだしつつ押し倒されると、目が怖い一輪がそこにいた。
「好きって、えっ? 何で?!」
「……は? 一輪って私の事が好きじゃないの?」
「好きよ! ――――い、いえ、だけどそうじゃなくて?!」
「? 私はずっと前から、一輪の事が好きだけど、もしかして、意味合いが違ったかな?」
「――――――?!」
ぱくぱく、と。口が金魚みたいになる一輪に、私は首を傾げる。
おかしいな。これでも毎日の様に、一輪に「好きだよ」って言ってるんだけど、もしかしてちゃんと通じてなかった?
一輪が、私を好きだって目で一杯に伝えてくれるから、お返しに、私も毎日飽きる事も出来ないで、心を籠めて伝えていたのに。
「………うん。じゃあ、一輪」
「はっ、ふっ、ぎゅっ」
「? ええと、改めてちゃんと伝えるね。好きだよ、ちゃんとそういう意味で」
「そっ。―――そういう意味って! どういう意味でッ?! と、友達ッ?! 恋人ッ?!」
「ッびっくりした?! き、急に怒鳴らないでよ。えぇと。勿論、恋人の方なんだけど? あれ、何で伝わらないかな」
こんなに愛を籠めて好きと伝えたのに、一輪はいまだに信じられないものを見る目で、私を見下ろしている。
おかしいな。もしかして、一輪って鈍感さん?
というか、今更そんな事を言い合わなくても、私と一輪って、とっくの昔から付き合ってるんじゃないのかな?
不安になったのだろうか?
それとも、言葉が足りなくて、何かを勘違いさせているとか?
「……む、ムラサ?」
「はいはい?」
「……その、それって、今、その」
「うん」
「……き、キスしても、怒らないって、こと?」
「? 怒らないよ。むしろしたいのに」
ずっと前からしたかったけれど。一輪がしたがってくれなくて、我慢していたのだ。
なのに、どうして怒るだなんて思うのだろう? 私としては、キスという行為を早くやってみたいぐらいなのに。
「……………ぅ」
「へ?」
「…………あ、れ、……ちが、ぅの。べ、べつに…っ、泣きたい、わけ、じゃあ……っ!」
「あ、あの、え?」
ぼろぼろと。大きな粒を零して、一輪がの胸を、ぽこぽこ叩く。
……ショックで、でも、可愛くて、困る。
えぇと。
恋人を泣かした事が無いのが、密かな自慢だった私は、困惑したまま、一輪に「ごめん、好きだよ?」って何度も何度も伝える。
嗚咽が激しくなっていくけれど、一輪は頷いてくれる。
ひっく、ひっくと。
子供みたいに泣き喚かずに、声を押し殺すから苦しそうで。見ていて辛くて。ぽたぽたと暖かな水を浴びながら、一輪の泣き顔を、それが、あまりに綺麗で目が逸らせなくて。
抱きしめながら、ちょっと酷い事を考えた。
こんなに泣く可哀想な一輪が、綺麗で、口付けたいなんて。そんな事を思ってしまう自分に。
自重しろって、一輪に縋られながら、緊張に身体を強くしながら強く思った。
後日。
「む、ムラサ。あの、もう、唇が、ふやけちゃうんだけど」
「え? 駄目?」
「…………いいです」
「ずっと我慢してたから、歯止めが効かない。……うーん。キスって凄いね!」
「む、無邪気ね。こっちは、それ所じゃないのに……」
「? ああ、あのさ一輪」
「どうしたの?」
「舌って、入れてみてもいい?」
「し」
「駄目……?」
「…………いいです」
あれ以来。
一輪から欲しいものを素直に口にだす様になった、無邪気な船長と。
幸せで死にそうで溺れそうで、今度は別の欲求を押し込めて、そろそろ船長を押し倒しそうで、必死に自戒する尼さん。
一輪の目には、柴犬みたいな耳と尻尾で、うれしそうに自身の香りを奪い取ろうとする、わんこの姿が見える。
ぶくぶくと、自分が溺れる音を聞いて、恥ずかしそうに目を閉じた。
ああもう、2人とも可愛いなあ。
282828282828282
ニヤニヤニヤニヤ……
まさかのムラいちに驚きまくりですwww一輪さんが報われたぞwww
今回ばかりは船長が鈍感と決めつけた一輪さんが悪いなwww
良いです
悶え死ねるッ!
貴方のムラいちは最高ですわ。
ごちそうさまでしたとしかいえない。
船長ついに一線を越えてしまったなw
もっと書いてください。
キュン死にさせてくださいw
こっちが恥ずかしいわ!!!もっとやれ!!!
いいぼ、もっとやってください
もう……ね、最高だよ
ありがとうありがとう
ニヤニヤが止まらないわぁ……
まったくどうしてくれるんだ。
罰としてもっとムラいちを書くんだ!!
いや、もう船長も一輪も余りに可愛すぎて顔のニヤケが止まりませんでした!
これまでの夏星さんが書いてきた船長を読んできてるからこそ、これだけ悶えられるんだろうなぁと思いました。