天人は汗をかかない。汗をかかないどころか老廃物がまったくでないとかいう、そんなの想像の中にしかいないような生活を地でしてらっしゃる。
だから、頬を舐めても耳を舐めても、いつも桃のよい香りがする。
対する私は天人なんかではなくて、ただの龍宮の遣いでしかない。だから汗もかくし、シャワーも浴びるし風呂も入る。
この安アパートには風呂なのか鍋なのかの判断がいささかつきにくいものしかないから、風呂に入りたいと思うときには銭湯へ行くことになる。
そしてケロヨンの黄色い桶にたっぷりお湯を入れて肩からかけて、湯船に肩まで浸かって100数えて。上がってから扇風機のぬるい風を体に当ててフルーツ牛乳なりを飲む。
これが龍宮の遣い流の最高の贅沢。金額にして五百円ほどで収まることが最大の贅沢になってしまうあたり、私の人生は恵まれている。断言できる。
だって世の中には金も時間も腐るほど余っているのに不幸せな連中がそれこそ溢れているのだから。
つまりは小市民なりにそれなりという言葉を愛しつつ楽しく生きている私は、工業アルコールに添加物を混ぜ込んだ化合物で体を穢しつつも生きているはずだった。
その均衡が崩れたのはいつのことだったか。
「ねぇ退屈」
「そうですかそうですか。じゃあ一人人生ゲームなんてすっごい面白いのでオススメですよ。やべーですよ」
「敬語じゃねえよそれ」
訂正。時間も金も地位も持て余しているような連中に絡まれて生きているから、私は少し不幸かもしれない。
四畳半という人類の叡智が注ぎ込まれた機能的な空間は、二人を収容するということを想定していない。
だから天人少女がこの部屋にいることによって、四畳半の素敵空間(独女ワールド)はぶち壊されてしまうのだ。
ファッキンシット。しかもこの天人、直接じゃないけどとっても偉い人の娘だから無下に扱ったらやばい。首飛ぶ。ファッキンシット。
毎日の労働で疲れ果てた私の心を癒すのは美しき少女ではなく、一にえろいもので二に安酒で、三四がなくて五には酒である。
雲海の中をぶらぶらしたり同僚と麻雀したり花札したりする重労働で心は磨り減るのだ。
満ち足りた空間に余計なものが混ざったら調和が崩れる。黄金比が崩れる。隅のほうで桃でも食ってさっさと帰りなさい桃色ベイベー。
しかしこの少女は私の心を推し量ってはくれない。なんつうことだ。悲劇だ。
「これさ。一人でやっても面白くないよ。せめて一緒にやろう」
「まじですか。私それめっちゃ強いですよ。嫁とか三人ぐらい作って子供十五人ぐらい作りますよ」
「まじで」
「やばいですよ。だからそれやったら、めっためたにひん剥かれてからこの四畳半の隅で人生終えることになりますよ」
「じゃあやってみよう」
「私の話聞いてましたか」
「うん」
混じりっけない笑顔だった。輝かしい笑顔だった。軒下を這う昆虫に如し卑しさの私は眩しくて、溶けてしまいそうだった。
なんてことだ。私の強さを示威することで闘いを防ぐ。偉人ノブナーガ・オダ的手法で乗り切るつもりが余裕のよっちゃんでやることになってしまった。
というかその人生ゲーム。
プレイヤーキャラクターでそれぞれ特殊能力が備わっていてそれが結構理不尽だったりするし、そもそも四人~八人を想定しているゲームバランスだから二人でやっても何も面白くない。
まぁ私、想定人数になるぐらいの友達がそもそもいないんだけど。じゃあなんで置いてあるのって言われても、はっ、そりゃ貰い物だっつの畜生が。
「じゃあやろー。私からね」
無邪気にサイコロを振りはじめる、胸無い天子。不良天人。
ここだけの話ぶっちゃけちゃうと、天人っていうのは基本的にいけすかない連中で、鼻から高級なポン酒とかを垂れ流していそうな連中でもある。
ぶっちゃけ私はああいう連中が大嫌いだ。話してると突然、鼻から合成清酒が噴き出しそうになる。現実には出ないけどね。
いやさ、そりゃたまには高い酒が飲みたいな、と思わないことがないとは言い切れないけれど、それとこれは別の話。
そもそも住んでる格が違うのだから、関わられたら面倒なのだ。棲み分けしよう。関わってると面倒くさすぎて鼻から電気の髭が出そうになる。
でも仕事上はお偉いさんにヘコヘコするときばかりで、表向きはニコニコしてるけど腹の底ではお前のこと大嫌いだから負けてないぞって密かに思ってる。
上司にさとり妖怪いなくて良かった。こんなの考えてるってわかったら、ぜったいクビになるし私。
だからといって、目の前に居る天人が嫌いだとか、そういうことは全然ない。それだけは誓える。
彼女が私の部屋に良く来るようになった契機のようなものとか、なぜここまで懐かれているのかとか、そういった理由は一切合財忘れてしまった。
従順そうな私が、天人の間で問題児とされていたこの子の教育係をしろと言われた。たぶん、こんな感じなんでしょ。
どうでもいいことはすぐ忘れてしまうことにしてる。
けれど初めて出会ったその日のことは網膜に焼きつけられているから、この子の存在は私にとってはどうでもいいことではないんだろうな、とも思う。
この子はまるで捨てられたばかりの仔猫のように無邪気な鳴き声をあげながら、そのくせこれから襤褸屑になっていく運命の段ボールに押し込められていた。
自分の手でそこから這い上がることは、仔猫には許されていない。拾い手がいなければいずれ飢えて死ぬ。寒さで死ぬ。寂しくて死ぬ。
捨てられた仔猫っていうのは概してそういうものだ。正義感に溢れた者が拾い上げる。馬鹿げた賭け事の対象物でしかない。
かといって、別に可哀想だなとも思わなかった。もちろん憎しみがあったわけでもないけれど。私は自分がそこまで優しいとは思っていなかったのだ、当時は。
ただ、ぷるんとした肌は最高級の水蜜桃のようで、食めば、甘い味が口いっぱいに広がるんじゃないかとは思った。
たっぷり垂らされた髪は蒼穹のようで、風を孕んで揺れる様には心の琴線に触れるものがあった。
つぶらな瞳は最高級品のルビィ――ピジョンブラッドのように奥底で微かに光るものに惹かれるものがあった。
見初められたのか、私から手を引いたのか。いつのまにか少女は、私の横に居ることが多くなった。
四畳半というのは二人で居るにはとても窮屈だ。どれぐらい窮屈かといえば、ぴったりと肌を寄せ合っていたほうがまだ自然に思える程度には窮屈だ。
人生ゲームで散々毟られた私は、べそをかきながら布団に潜っていた。隣には天子がいる。ほかにやることもないからそこに居た。
「釣りにいきたい」
「釣り、ですか」
「うん。こないだ鬼と行ってたでしょ。私あの日は、博麗神社に行ってきたの」
「あの日は全然釣れませんでしたね。暇でした」
「私も暇だったよ。昼寝して起きたら、霊夢がどっかに行った」
「そうなんですか」
「うん」
「じゃあ明日、釣りにいきましょうか。もうやべーぐらい釣れるといいですね」
「うん。やべーぐらい釣れるといいね」
明日、やっべ、仕事あるんじゃん。けどこっちを優先しろって言われるだろうし、まぁ、いいか。
どうせ龍宮の遣いの仕事なんて、雲海を死んだ目で彷徨って天候が大きく崩れそうなら伝えに行って――しかも基本的に二人で行動しろと言われるのも、話す相手がいないと退屈で仕方がないという理由からだし。
同僚が文句を言うようなら、代わりに天人の相手をするかと言えばそれだけで黙る。龍宮の遣いで本当に天人が好きな奴なんて、一握りだ。
むしろ砂漠で、一粒を捜すようなものかもしれない。その一粒が偶然、私だったというだけの話だ、
部屋の電燈がチカチカと点滅する。最近はずっとこうなのだ。根性がない。
交換をする根性が、私にもない。変なところで通じ合っているから換えなくても良いという結論に至った。
「衣玖はさ」
「なんですか」
隣の部屋の扉が乱暴に開いた。たぶん酔って帰ってきたんだろう。
「結婚しないの?」
「さあ。相手がいませんね」
仕事に愛着があるわけでもないし、モテないかといえばたぶんそうでもないと自惚れては見るものの、結婚という選択肢を考えたことはなかった。
自分の性別がどっちだっていうのも、もはやどうでもいいことだったし、小さなことにぼんやり幸せを感じているのも悪くはない。
「じゃあ私と結婚しようよ」
「そしたら二人ともぐうたらしてると思いますよ。酷い話ですけどね」
「二人だったら怖くない」
「そしたら四畳半が狭くなりそうです。」
「もっと広いところに住むの?」
「キッチンがついてて、お風呂あって二部屋あったらいいですね。私はそれでいいです」
「衣玖って面白いね。それだけでいいの?」
「あんまし広いとね。隙間を感じるんですよ。隙間」
「隙間?」
「人間、立って半畳寝て一畳。そこに例えば本置いても、私は四畳半でよかったんです」
「ふぅん」
「これが例えば八畳の部屋だったら、隙間が気になってそこを埋める趣味を持ったと思います」
「たとえば?」
「さあ。いろいろですよ。私には本と安酒があればよかった。だから四畳半なんです」
「ふーん……。私も四畳半に住みたかったな」
「広そうですもんね」
「うん」
そこでぷつっと電燈がお亡くなりになった。
寝ましょうと言うと、うん、と小さな返事だけ。
なんとなく、隣に居る少女が愛しくなった。
仔猫に対しての愛情なんだろうけど、あいにくとこの子は仔猫じゃない。
人並みに考える頭があるんだろうし、広い部屋に押し潰される普通のこころも、持ってる。
そっぽを向いて縮こまって寝ている身体をそっと抱き締めた。
脂肪がなくって、女の子にしては痩せっぽちな身体だった。
「衣玖」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
次の日私は、六畳間を借りることにした。
四畳半は少しばかし、狭すぎる。
でも面白かった、けど依玖さんのイメージがww
こんな独女、全力で萌ゆる……
なんだろう、この天子ちゃんすごい可愛い
こんな話も自分も書いてみたいです
あとあとがき話と関係ねぇw
でも幸せそうな二人の前では瑣末なことだった
うーん、一輪さん可愛い
堪能させていただきました。
今回も楽しませてもらいました。