「歯ぁ食い縛れぇっ!!!」
射命丸文は右頬に予期せぬ衝撃を受けて大きくのけぞった。
河童から天狗に殴りかかるのは前代未聞のことであった。
傷害事件発生である。
犯行現場は妖怪の山の河原、時刻は昼過ぎ。加害者は河城にとり、被害者は射命丸文。
面白くないなと射命丸は思った。
まず傷害事件というだけで字面がよろしくない。しかも場所は白昼の河原でセンセーショナルさの欠片もない。
おまけに被害者が自分というのも面白くなさの極みであろう。
自分が関係なければ面白おかしく書き立ててやったというのに。
さて、と射命丸の反射神経以外が動き出す。
殴られた。まず第一の事実がそこにある。
射命丸文を殴ったのだ。
性能的に圧倒的に格下であるはずの河童が、しかも極めて温厚な個体であると認識していたはずのにとりがである。
『どうもー! またカメラの調子を見てもらいに来ましたー!』
『おう、よく来たね。繁盛してるかい』
『おかげ様で』
殴られたのだから理由があるはずだ。
にとりの拳が振り抜かれるまでにコンマ4秒ほど猶予がある。その間に、最初から会話を思い返す。
少なくとも挨拶に不備はなかったように思う。
『最近また新顔が増えてきましたからね。ひととおり撮りに行くだけで大忙しですよ』
『大変そうだね。カメラはなるべく頑丈に作ったつもりだけど、フレームにガタとか来てないかい?』
『来てたら真っ先に文句言ってますよ』
『そいつは良かった』
屈託のない笑顔を見せるにとり。
そう、ここまでは機嫌が良かった。
『新型カメラはいいですね。かなり望遠がやりやすくなりました』
『そりゃ良かった。新型は追針式を導入してみたんだ。絞りがあわせやすくなったろう?』
『何言ってんのよ』
射命丸は笑った。
『シャッタースピード最速だから、絞りなんて開きっぱなしにきまってるじゃない』
『……アンタ、露出って意味わかってる?』
『これが一張羅ですけど何か?』
にとりの笑顔が引きつった。
『あのさ、追針式ってのは相当簡単なものだから覚えて欲しいんだが。これはファインダーを覗くとだね』
『いや、そもそもファインダーとか覗きませんし』
『…………』
『むしろ軽量化のために外さない? やっぱレンズ二本も担いでると重いんですよ。ちょっとは軽量化しないと』
『二本!?』
『うん、広角と望遠』
『十センチの接写ができるマクロレンズは……?』
確かにレンズは三本セットで納品された。
『そもそも持ってかないわよ。花撮りに行くんじゃないんだから』
『…………』
にとりは河童の中でも温厚である。
ピキピキ言い始めたこめかみを押さえながら、客への態度をとり続ける。
『ああ、うん……。他に何か不満点はないかな。善処したいけど』
『不満ねえ』
射命丸は少し考え、ぽんと掌を打った。
『シャッター開きっぱなしで飛ぶとすぐ感光しちゃって困るんだけど、どうにかならない?』
ぷちん。
このだぁぼが! ISO800のフィルム作るために何匹の河童が犠牲になったか分かってるのか!
ボタン押せば撮れる道具だと思いやがって!
そんなに写るのがイヤだったらISO10のフィルムくらい速攻で作ってやるからそれ持って消え失せろっ!
……という顔を一瞬だけ浮かべるにとり。
だが抑えた。
『あとフィルムの巻き取りが遅すぎるのよね。性能低いんじゃないの』
『そ、そうかな』
『連射機能とかいいじゃない。はたてが使ってるようなやつ』
期待を込めて、射命丸は片目でにとりを見た。
この人なつこい河童から表情が消えていた。
『ああいうのがうらやましいのか?』
固い声で尋ねる。
射命丸はうんうんと頷いた。
『正直、羨ましい』
『歯ぁ食いしばれぇ!!』
うん、これが原因だ。
カメラの注文について、はたての持ってるようなやつがいいと言ったのが逆鱗だったらしい。
納得した射命丸の左頬にもう一発重い衝撃。
ぐっと踏みとどまったが、足下の砂利がめくれ黒土まで踏み抜いた。
本気の一発だ。もし射命丸が人間だったら多分直視できない状態になっている。
「あの量産品の! 光学ズームもできないシロモノが羨ましいか。あんなもんと比べるな!」
更に振りかぶってもう一撃。
ごっ! と音が響く。
「っ!!?」
にとりの拳を掌で受け、射命丸が踏み込みざまに頭突きを見舞ったのだ。
二つの石頭を打ち合わせるいい音が響いた。
「このっ!」
激高したにとりは射命丸の手を払いのけ、更にパンチを見舞う。
軸線を大きく外した拳は左肩に当たった。
射命丸は打ち上げるように右の拳。にとりの顎に直撃する。
当然、この位置に食らったら人間なら気絶する。
だが幸にも不幸にも妖怪同士である。脳を揺さぶられようがテンプル直撃だろうが戦意は萎えない。
互いに足を止めて二打三打と拳の応酬が始まる。
「その『あんなもの』に連射性能で劣ってるじゃない。連射できれば撮れてた写真は山ほどあるのよ!」
天狗と河童の能力差を考えれば、射命丸が一方的ににとりを叩き伏せる展開になると当然予想できた。
だが意外なことに射命丸はにとりに与えたのとほぼ同数の拳を顔面に頂いていた。
川辺で河童と殴り合いする機会がなかったからこその失態である。
河童は川辺や湿地帯において極めて『景色に溶け込みやすい』性質を持っている。
ちゃんと視線で追っていたはずなのに、やもすると景色に紛れて見えなくなってしまうような感覚。それが距離感を狂わせる。
「だからって! あんな魂のないカメラがいいのか!」
無様な殴り合いだ。しかも怒らせたのはこちらの言葉だ。
大人しく謝って場を収めればいい。
「誰がそう言った!」
謝ればいい。だから彼女は場を収めることを放棄した。
射命丸はプライドの高い天狗である。
河童ごときに殴られて、殴り返さずにいられる性格ではないのだ。
「魂込めてあの性能にしろって言ってんのよ!」
喉に肘をえぐり込みながら言う台詞でもあるまい。
「あんた機械屋でしょうが」
「ああ! 機械屋だよ! 魔法使いじゃない。できる事とできない事がある!」
「できるって信頼してるのよ!」
「されても困る!」
三日三晩、精も根も込め尽くして引いた設計図に上位の巻き上げ機を詰め込む隙間などないし、そもそも重量がとんでもない事になる。
機械は『機能』を付け加えれば大きく重くなる。付け加えることよりも、不要なものを削ることのほうが機械を良く変える。
射命丸のカメラには、にとりなりの最適解が込められているのだ。
無論、そんなのは作り手側の理屈だ。
使い手側には別の理屈がある。
だから互いが本気になれば、言葉は平行線。体はひたすら痛い事になる。
殴り合いはどれほど続いただろうか。
おそらく小一時間は経っていないだろう、くらいか。
妙にパンチを食らうと思ったら、河童の腕が伸びる事を失念していたと射命丸が気付いた頃、視界の隅にひとつの影が現れた。
河原から一里ほど先の杉の木の上。
そこに立っているのは一匹の天狗である。
犬走椛。
哨戒天狗がこうしてあからさまに姿をさらす理由などひとつしかない。
山の中で天狗と河童が殴り合いなど前代未聞。
争いは命名決闘にて対処すべし。
もし道理に背くならば大天狗に報告する。
その警告であろう。
忌々しい山狗が、と射命丸は毒づく。
「あん? 椛?」
射命丸の目線を追って、にとりも椛に気付いたらしい。
「観客がいるとなると、喧嘩もここまでですか」
皮肉っぽく射命丸は笑った。
「どうもスペル宣言した方がいいみたいですよ」
「別に構いやしないけどね」
互いに肩をすくめ、二人は同時に宣言する。
天狗『右ストレート』
河童『ボディブロー』
ひときわ重い一撃が互いの体に突き刺さる。
河童『アッパー』
天狗『膝蹴り』
とうとう蹴りまで飛び出した。高下駄の踏み蹴りをしないのはせめてもの理性である。
河童『噛みつき』
天狗『踏み蹴り』
鼻頭にくっきりと歯形を残される射命丸。
理性も三秒で潰えた。
天狗『殴る』
河童『ただ殴る』
いつの間にか椛は姿を消していた。
大天狗に報告に行ったのか、それとも呆れて立ち去っただけなのかは分からない。
そんなのは些末な事だ。
今は目の前の相手を地面に沈める方が百倍も重要だ。
射命丸は大きく左の拳を振りかぶる。にとりが右の拳を合わせる。
「エンジニアァァーーー!!!!」
「パパラッチィィーーー!!!」
射命丸の拳がにとりの顔に、にとりの拳が射命丸の顔に突き刺さる。
いわゆるクロスカウンターである。
「人間の世界では、これをやると友情が芽生えるらしいですよ」
「そうかい。あんまり仲良くなりたい気分にならないけどね」
ぜいと息を吐いて、二人は互いに離れた。
流石に小一時間もやれば、妖怪とて疲れもする。
互いにファイティングポーズで向き合って、だが殴り合いを再開する決定的な気力は失せていた。
どちらともなく握りこぶしを下ろす。
いつの間にか殴り合いを始めた理由さえ霞んでしまって、なんとも言えない表情でお互いを見つめる。
妖怪はこの程度の怪我なら半日で治るだろうが、それでも全身が痛い。
にとりは射命丸に手を突き出した。掌が上を向いている。
「カメラ出しな」
「…………」
射命丸はカメラを突き出した。
にとりはその場にどっかりと座り込むとカメラを診始めた。
射命丸はただぼうとその背中を眺めていた。
無言で時が過ぎる。
射命丸に背中を向けながら、にとりは微笑んでいた。
このカメラは彼女にとって子も同然である。我が子を抱いて微笑まぬ母親が居るだろうか。
この前も手入れしてやったはずなのに、十年も使い込んだように見えるカメラ。
いったいどんな使い方をすればこうなるのか。
もし射命丸が人間だったら、こいつは憑喪神になってたかもしれない。
フィルム巻き上げ機を重点的に診る。
詰まったカスを取り除き、歯車にグリスを塗り込む。
思いつく限りのメンテナンス。十年カメラが、八年物くらいに若返っていく。
ぱちんと裏蓋を閉じたとき、カメラはあるべき姿になった。
過不足がない。よし、とにとりは呟く。
振り返って、そこに立ちつくしていた射命丸にカメラを差し出す。
「これでちょっとはまともに撮れるだろ」
「……最高の記事を作ってお返ししますよ」
「よく言うよ。三流ゴシップ誌のくせに」
カメラを受け取って射命丸はにかっと笑った。
「読んでくれる人がいますからね」
そうして射命丸は飛び去っていく。
河童はその背中を見送ると、痛ててと呟きながら川の底に沈んで行った。
幻想郷最速の天狗はあっという間に小さくなって、地平線に消えた。
そうして彼女はまた弾幕の中へ飛び込んでいくのだ。
世界でただひとつの相棒、河童の造ったカメラと共に。
<了>
それは決してスペカではない。
いい話で終わったのはいいことだ。
だが、それは決してスペカではない。
スペカに突っ込もうとしたら1番さんが突っ込んでたw
河童『アッパー』が河童『カッパー』に見えて勝手にウケてた。作者の意図しないところで申し訳ない。
スペカ宣言したら全部避けられるだろww
確かに携帯のカメラと比べられるっていうのは
しかしにとり師匠はアナログ派でいらっしゃるご様子
光学ズーム付きのデジカメ使っている私は殴られてしまう?