卯月の中程の午後、放浪生活の気紛れにフラリと古巣である白玉楼に立ち戻ってみると、そこにはやはりと言うか、縁側にて幽々子が茶菓子と戯れていた。
「あら、懐かしい顔」
今年の正月には顔を出した筈なので、会うのは精々三ヶ月振り、というところだ。懐かしい等という言い方はないだろう。相も変わらずの人を食ったかのようなその所作に私は千年前から変わらぬ溜息を吐く。
「お前はいつ見ても何かを食っているな。それでは、懐かしさの込み上げてくる隙も無い」
「たったの数百年で変わってしまうほど虚ろな存在ではありませんから。桜餅、貴方も食べる?」
嬢の脇を見れば、そこにあるのは皿に敷き詰められた桃色の菓子。……本当に喰うのを止めない亡霊だ。
「頂こう。西行寺の嬢がまん丸に肥えてしまうのは、元目付け役として忍びない」
「もう。私は変わらないって言ってるでしょう」
陽の射す板敷に腰を置く。
眼に映る楼の庭は自らが庭いじりを行っていた頃と変わらずに壮観であった。白く輝く玉砂利の流れの一歩先には新緑の苔が映えており、それに影を落とすは新芽の混じる桜花の木々。
風に揺れる。
「良い庭だ。妖夢は精進をしているようだな」
「そうね。悪くない体裁を成すようになったわ。剣の腕だって、貴方が居なくなった頃とは比べようもなく上達した」
「流石は俺の孫だ」
「何言ってるのよ。私が愛情を注いだおかげよ?」
「お前はただ、アレで遊んでいるだけだろう」
「可愛がっているのよ」
「ふん」
手元にあった空の湯呑みに、手元にあった茶出しの緑茶を注ぐ。
「ちょっと。それ、来客用の湯呑みなんだけれど」
「俺は客ではないと?」
「当たり前でしょう。貴女は家族の言うことに耳も貸さずに放蕩するお爺ちゃんよ。お爺ちゃん、貴方の家はこっちですよー」
「斬るぞ」
「あら怖い」
湯呑みを傾ける。温い茶の味は亡霊嬢の戯言を春の陽と共に飲み込むような心象を与え、胆を照らす火を収めた。くつくつと笑う幽々子の顔は未だ癪ではあるが。
「今回は、いつまで此処にいるの?」
笑顔のまま、桜餅を食むままに、嬢が問うてくる。
「気紛れで寄っただけだ。桜餅を食べれば、直ぐに発つ」
「ふぅん。妖夢には会っていかないの?」
「ふむ。そういえば、アレは今何をしているのだ?」
「向こうで桜並木の落花を掃いてるわ。この時期は、それだけで一日が終わっちゃうようね」
「そうか。ならば、無理に会うこともあるまい」
「あら、そう」
言いながらモクモクと餅を食む惚けた嬢の表情はどこまでも気が抜けている。死蝶と恐れ伝えられた者とはとても見えないその暢気な笑みに、緊張の無い風が一陣。桜の花びらがひらひらと舞った。追って見れば木々には緑が目立つ。桃色は未だ多勢ではあるが、ポツリポツリと主張する新芽の生命力は無視のしようもない。儚き春の終わり。命育む夏への息吹。
今日も時は流れているようだ。
「もう少し早くに来てくれれば貴方ともお花見ができたのにね。相変わらず、無粋な男」
こちらの桜に向ける視線を追ったのか、幽々子がフッと言う。
その口ぶりにどこか拗ねたような調子を感じて私は思わず苦笑をした。
世を歩けば「西行寺幽々子は掴みどころの無い超然とした女だ」などという風聞を耳にすることも多々あるが、なんということもない。私からすれば、この嬢はただ春が好きなだけの亡霊だ。賢者の声も死の香りも、桜を眺める彼女には不要なものと見える。
「なに笑ってるのよ」
「ふふ、いや、お前は相変わらずだと思っただけのことだ」
「なにそれ」
「なんでもない。気にするな」
「気にするわよ。……まったく、今年の桜は例年以上に良い出来だったのに」
ぶちぶちと呟きながら、ポイポイと桜餅を口に入れる幽々子を見て笑うのを止める。見れば皿に並んでいた菓子の半分が既になくなっていた。相も変わらず抜け目の無い女だ。餅を食ったら発つ、と言った手前、一つとして食べることができなかったのならばそれは少々恥ずかしいこと。餡子を包んだ餅の一つを手の内に確保する。
塩漬けされた葉に包まれた桜色の菓子。陽光に照らされたそれは柔らかく、そして甘美に映る。甘いだけの菓子は得意でない。しかし、緑葉の塩気によりそれは口の中を甘味に蕩けさすこともなく落ち着いて食すことを許してくれる。
一色では味気がない、と常々思う。
見れば、前には新芽を宿した桜の木々があった。
「桜の盛りは過ぎたが、しかし、葉桜も良いものだろう」
そんな私の呟きに、幽々子は丸くした目をこちらに向けた。平生の人を食ったかのような所作の一環ではない。本気で驚いている、といった眼である。
「貴方がそんな風雅を知ったようなことを言うなんてねぇ」
礼の無い奴だ。
「三百年間この庭の体裁を整えていたのは誰だと思っているんだ」
「まぁ、そうだけどねぇ」などと言いつつ幽々子は珍しいモノを見るような目でこちらを見てくる。自分が詞芸に通じている等とは言わない。が、心を持たずして木々に鋏を入れていたわけでもないのだ。見くびるのも大概にしてもらいたいところである。
「葉桜の下で茶を飲む。その心地を解さぬ程、俺は馬鹿ではない」
「そう」
納得したのかしていないのか、嬢は目を瞑って幸せそうに笑った。何を考えているのか読めない表情はいつも通りのものだ。深く追求してもロクなことが起きた試しが無い。このような時はそっとしておくのが一番だ。わざわざ自らこの葉桜の空気に水を差すこともあるまい。
黙る幽々子をそのままに、桜餅に歯をあてる。
塩味を付加させた甘い菓子の風味が口の中に広がる。事前に想像していたよりも、少々餡の甘味が強い。しかし、それもまた一興か。そして、飲み込む。
口内に残る甘い後味を渋い茶で流すと風が吹いた。
それはとても温い風であった。
嬢は喋らず。自らも喋らず。
聞こえる音はただ風のみ。
いつまでも続いて良いと思える沈黙は、幸せだと思う。
それは同時に、いつ破っても良い沈黙でもあるのだから。
気負うことのない空の様なものなのかもしれない。
と、そんなことを考えながら、桜餅をもう一口。
元の大きさの半分となった菓子を見て、追うようにズズと茶を啜る。
行雲と落花に世界を見た。
そして揺れる葉桜。
「葉桜や 人に知られぬ 昼遊び」
気付いた時には、私は一句を詠んでいた。
嬢に無粋と馬鹿にされたからか、世界があまりに静かだったからか。
両方か。
「永井荷風という文人の句だ。……まぁ、お前ならば知っていることだろうがな」
縁側にふたり、茶を飲む。その姿を知っているのは静かな葉桜だ。
悪くはないだろう。
だがしかし、幽々子はといえば、惚けたような驚いたような心を撫でられたような、そんな表情をしていた。瞬きを一つして、視線はこちらの眼の奥に。風だけが聞こえる世界が何秒か、何分かと続いた。そして、ゆっくりと、とてもゆっくりと嬢は笑みを浮かべ、しまいにはフフフと笑いだしてしまった。着物の袖で顔を隠す仕草に私はただただ呆気にとられるばかりである。はて、嬢はいったいなにがそんなに可笑しいのであろうか。
「あぁ、可笑しい。妖忌、貴方とても可笑しいわ」
目の端には涙すら見える。
なんだというのだ。この俳句にはなにか謂れでもあるというのか? 私は純粋に良い句だと思うのだが。
「あぁ、ごめんなさい。うん。私もその句は好きよ。瑞々しさと遊惰さのバランスが見事よね。けれど、貴方は一つ大事なことを知らないわ」
目の端の涙を指で弾きながら、頬を桜の色に染めたまま、言う。
「“昼遊び”って、遊郭の女の子が昼間からお客さんと遊ぶことを意味したりするのよ? つまり、“色恋のソレ”のことね」
そうしてまた幽々子は袖で口元を隠して揺れるように笑った。
私はと言えば頭の中が真っ白である。まるで花瓶で頭を殴られたかのような気分だ。
かつて仕えていた少女にそのような句を送ったからか、いや、この平和な陽の中でそんなことを言ってしまったからか、いやいや、それとも――。
巡り回る私の思考を置き去りに、嬢の抑えきれない笑い声だけが響く
私はひたすら口をぱくぱくとするばかりで、声のひとつも出せなかった。
「その前には“桜餅を食べに来ただけ”なんてことも言ってるし、てっきりそういうつもりなのかと思っちゃったわよ。まぁ、貴方に限ってそんなことはありえないわよねぇ。あぁ、可笑しい」
「――ば、馬鹿者ッ!!」
ようやく発することができたのは単純過ぎる怒号。
自らの発した一撃に葉桜が怯えたように震えた気がした。
けれど、それはおそらく只の温い風のせいで。
「馬鹿は貴方でしょう。女の子とふたりきりの時にあんな句を持ち出すなんて。もし相手が紫だったりしたら一生にネタにされ続けるわよ。……まだまだ修行不足ね、妖忌」
「むぅ……」
「まぁ、荷風は人生を遊び歩いた根っからの放蕩人。幽居した途端にフラフラと旅に出かけた貴方にはお似合いなのかもね」
反論のしようがない。自らの知識の無さがなによりの恥。
穴があったら入りたい心地とはこのようなものか。
「久しぶりに帰ってきたと思ったらいきなりそんなことを言うなんて、妖忌おじいちゃんたら助平ねぇ」
「う、うるさいッ!」
のんびりと笑い続ける嬢から目を逸らし、手にあった桜餅を一口にごくんと飲み込む。そうして湯呑みを勢いよく傾けて茶を流し、意気を入れる。
「なぁに? 喉に餅を詰まらせて死ぬ老人の実演?」
「違う。ただ、もう往くというだけのことだ」
「まったくもう。落ち着きの無いことで」
胸を二度三度と叩き、縁側から立つ。
餅を食ったから発つ。ただそれだけのこと。後ろめたいことなど何も無い。
気紛れに寄っただけなのだ。二度と戻れぬ地であるわけでもない。勝手知ったる楼は古巣。流浪たる我が身が後ろ髪を引かれることも、勿論ない。
春は過ぎて季節は初夏へと。
そう。ただただ、進むだけなのである。
口の中に残るは筋張った桜の葉の塩の味。そしてそれに被さる様な緑茶の苦み。甘味は既に腹の中に。
「次は夏の夜にでも顔を見せなさいな。美味しい冷酒を用意しておきましょう」
言って、くつくつという笑い声が聞こえた。
「……ふん」
応えるのも癪なので、私はただ歩を進めた。
そしてまた一枚、桜の花が風に流れた。
「あら、懐かしい顔」
今年の正月には顔を出した筈なので、会うのは精々三ヶ月振り、というところだ。懐かしい等という言い方はないだろう。相も変わらずの人を食ったかのようなその所作に私は千年前から変わらぬ溜息を吐く。
「お前はいつ見ても何かを食っているな。それでは、懐かしさの込み上げてくる隙も無い」
「たったの数百年で変わってしまうほど虚ろな存在ではありませんから。桜餅、貴方も食べる?」
嬢の脇を見れば、そこにあるのは皿に敷き詰められた桃色の菓子。……本当に喰うのを止めない亡霊だ。
「頂こう。西行寺の嬢がまん丸に肥えてしまうのは、元目付け役として忍びない」
「もう。私は変わらないって言ってるでしょう」
陽の射す板敷に腰を置く。
眼に映る楼の庭は自らが庭いじりを行っていた頃と変わらずに壮観であった。白く輝く玉砂利の流れの一歩先には新緑の苔が映えており、それに影を落とすは新芽の混じる桜花の木々。
風に揺れる。
「良い庭だ。妖夢は精進をしているようだな」
「そうね。悪くない体裁を成すようになったわ。剣の腕だって、貴方が居なくなった頃とは比べようもなく上達した」
「流石は俺の孫だ」
「何言ってるのよ。私が愛情を注いだおかげよ?」
「お前はただ、アレで遊んでいるだけだろう」
「可愛がっているのよ」
「ふん」
手元にあった空の湯呑みに、手元にあった茶出しの緑茶を注ぐ。
「ちょっと。それ、来客用の湯呑みなんだけれど」
「俺は客ではないと?」
「当たり前でしょう。貴女は家族の言うことに耳も貸さずに放蕩するお爺ちゃんよ。お爺ちゃん、貴方の家はこっちですよー」
「斬るぞ」
「あら怖い」
湯呑みを傾ける。温い茶の味は亡霊嬢の戯言を春の陽と共に飲み込むような心象を与え、胆を照らす火を収めた。くつくつと笑う幽々子の顔は未だ癪ではあるが。
「今回は、いつまで此処にいるの?」
笑顔のまま、桜餅を食むままに、嬢が問うてくる。
「気紛れで寄っただけだ。桜餅を食べれば、直ぐに発つ」
「ふぅん。妖夢には会っていかないの?」
「ふむ。そういえば、アレは今何をしているのだ?」
「向こうで桜並木の落花を掃いてるわ。この時期は、それだけで一日が終わっちゃうようね」
「そうか。ならば、無理に会うこともあるまい」
「あら、そう」
言いながらモクモクと餅を食む惚けた嬢の表情はどこまでも気が抜けている。死蝶と恐れ伝えられた者とはとても見えないその暢気な笑みに、緊張の無い風が一陣。桜の花びらがひらひらと舞った。追って見れば木々には緑が目立つ。桃色は未だ多勢ではあるが、ポツリポツリと主張する新芽の生命力は無視のしようもない。儚き春の終わり。命育む夏への息吹。
今日も時は流れているようだ。
「もう少し早くに来てくれれば貴方ともお花見ができたのにね。相変わらず、無粋な男」
こちらの桜に向ける視線を追ったのか、幽々子がフッと言う。
その口ぶりにどこか拗ねたような調子を感じて私は思わず苦笑をした。
世を歩けば「西行寺幽々子は掴みどころの無い超然とした女だ」などという風聞を耳にすることも多々あるが、なんということもない。私からすれば、この嬢はただ春が好きなだけの亡霊だ。賢者の声も死の香りも、桜を眺める彼女には不要なものと見える。
「なに笑ってるのよ」
「ふふ、いや、お前は相変わらずだと思っただけのことだ」
「なにそれ」
「なんでもない。気にするな」
「気にするわよ。……まったく、今年の桜は例年以上に良い出来だったのに」
ぶちぶちと呟きながら、ポイポイと桜餅を口に入れる幽々子を見て笑うのを止める。見れば皿に並んでいた菓子の半分が既になくなっていた。相も変わらず抜け目の無い女だ。餅を食ったら発つ、と言った手前、一つとして食べることができなかったのならばそれは少々恥ずかしいこと。餡子を包んだ餅の一つを手の内に確保する。
塩漬けされた葉に包まれた桜色の菓子。陽光に照らされたそれは柔らかく、そして甘美に映る。甘いだけの菓子は得意でない。しかし、緑葉の塩気によりそれは口の中を甘味に蕩けさすこともなく落ち着いて食すことを許してくれる。
一色では味気がない、と常々思う。
見れば、前には新芽を宿した桜の木々があった。
「桜の盛りは過ぎたが、しかし、葉桜も良いものだろう」
そんな私の呟きに、幽々子は丸くした目をこちらに向けた。平生の人を食ったかのような所作の一環ではない。本気で驚いている、といった眼である。
「貴方がそんな風雅を知ったようなことを言うなんてねぇ」
礼の無い奴だ。
「三百年間この庭の体裁を整えていたのは誰だと思っているんだ」
「まぁ、そうだけどねぇ」などと言いつつ幽々子は珍しいモノを見るような目でこちらを見てくる。自分が詞芸に通じている等とは言わない。が、心を持たずして木々に鋏を入れていたわけでもないのだ。見くびるのも大概にしてもらいたいところである。
「葉桜の下で茶を飲む。その心地を解さぬ程、俺は馬鹿ではない」
「そう」
納得したのかしていないのか、嬢は目を瞑って幸せそうに笑った。何を考えているのか読めない表情はいつも通りのものだ。深く追求してもロクなことが起きた試しが無い。このような時はそっとしておくのが一番だ。わざわざ自らこの葉桜の空気に水を差すこともあるまい。
黙る幽々子をそのままに、桜餅に歯をあてる。
塩味を付加させた甘い菓子の風味が口の中に広がる。事前に想像していたよりも、少々餡の甘味が強い。しかし、それもまた一興か。そして、飲み込む。
口内に残る甘い後味を渋い茶で流すと風が吹いた。
それはとても温い風であった。
嬢は喋らず。自らも喋らず。
聞こえる音はただ風のみ。
いつまでも続いて良いと思える沈黙は、幸せだと思う。
それは同時に、いつ破っても良い沈黙でもあるのだから。
気負うことのない空の様なものなのかもしれない。
と、そんなことを考えながら、桜餅をもう一口。
元の大きさの半分となった菓子を見て、追うようにズズと茶を啜る。
行雲と落花に世界を見た。
そして揺れる葉桜。
「葉桜や 人に知られぬ 昼遊び」
気付いた時には、私は一句を詠んでいた。
嬢に無粋と馬鹿にされたからか、世界があまりに静かだったからか。
両方か。
「永井荷風という文人の句だ。……まぁ、お前ならば知っていることだろうがな」
縁側にふたり、茶を飲む。その姿を知っているのは静かな葉桜だ。
悪くはないだろう。
だがしかし、幽々子はといえば、惚けたような驚いたような心を撫でられたような、そんな表情をしていた。瞬きを一つして、視線はこちらの眼の奥に。風だけが聞こえる世界が何秒か、何分かと続いた。そして、ゆっくりと、とてもゆっくりと嬢は笑みを浮かべ、しまいにはフフフと笑いだしてしまった。着物の袖で顔を隠す仕草に私はただただ呆気にとられるばかりである。はて、嬢はいったいなにがそんなに可笑しいのであろうか。
「あぁ、可笑しい。妖忌、貴方とても可笑しいわ」
目の端には涙すら見える。
なんだというのだ。この俳句にはなにか謂れでもあるというのか? 私は純粋に良い句だと思うのだが。
「あぁ、ごめんなさい。うん。私もその句は好きよ。瑞々しさと遊惰さのバランスが見事よね。けれど、貴方は一つ大事なことを知らないわ」
目の端の涙を指で弾きながら、頬を桜の色に染めたまま、言う。
「“昼遊び”って、遊郭の女の子が昼間からお客さんと遊ぶことを意味したりするのよ? つまり、“色恋のソレ”のことね」
そうしてまた幽々子は袖で口元を隠して揺れるように笑った。
私はと言えば頭の中が真っ白である。まるで花瓶で頭を殴られたかのような気分だ。
かつて仕えていた少女にそのような句を送ったからか、いや、この平和な陽の中でそんなことを言ってしまったからか、いやいや、それとも――。
巡り回る私の思考を置き去りに、嬢の抑えきれない笑い声だけが響く
私はひたすら口をぱくぱくとするばかりで、声のひとつも出せなかった。
「その前には“桜餅を食べに来ただけ”なんてことも言ってるし、てっきりそういうつもりなのかと思っちゃったわよ。まぁ、貴方に限ってそんなことはありえないわよねぇ。あぁ、可笑しい」
「――ば、馬鹿者ッ!!」
ようやく発することができたのは単純過ぎる怒号。
自らの発した一撃に葉桜が怯えたように震えた気がした。
けれど、それはおそらく只の温い風のせいで。
「馬鹿は貴方でしょう。女の子とふたりきりの時にあんな句を持ち出すなんて。もし相手が紫だったりしたら一生にネタにされ続けるわよ。……まだまだ修行不足ね、妖忌」
「むぅ……」
「まぁ、荷風は人生を遊び歩いた根っからの放蕩人。幽居した途端にフラフラと旅に出かけた貴方にはお似合いなのかもね」
反論のしようがない。自らの知識の無さがなによりの恥。
穴があったら入りたい心地とはこのようなものか。
「久しぶりに帰ってきたと思ったらいきなりそんなことを言うなんて、妖忌おじいちゃんたら助平ねぇ」
「う、うるさいッ!」
のんびりと笑い続ける嬢から目を逸らし、手にあった桜餅を一口にごくんと飲み込む。そうして湯呑みを勢いよく傾けて茶を流し、意気を入れる。
「なぁに? 喉に餅を詰まらせて死ぬ老人の実演?」
「違う。ただ、もう往くというだけのことだ」
「まったくもう。落ち着きの無いことで」
胸を二度三度と叩き、縁側から立つ。
餅を食ったから発つ。ただそれだけのこと。後ろめたいことなど何も無い。
気紛れに寄っただけなのだ。二度と戻れぬ地であるわけでもない。勝手知ったる楼は古巣。流浪たる我が身が後ろ髪を引かれることも、勿論ない。
春は過ぎて季節は初夏へと。
そう。ただただ、進むだけなのである。
口の中に残るは筋張った桜の葉の塩の味。そしてそれに被さる様な緑茶の苦み。甘味は既に腹の中に。
「次は夏の夜にでも顔を見せなさいな。美味しい冷酒を用意しておきましょう」
言って、くつくつという笑い声が聞こえた。
「……ふん」
応えるのも癪なので、私はただ歩を進めた。
そしてまた一枚、桜の花が風に流れた。
ほのぼのしました。
会話の雰囲気もお茶目なゆゆ様も渋いけどちょっと抜けてる妖忌も大好きです。
斬新なおじいちゃんでした。
この二人いいなぁ