夕陽に佇む、橙の姿があった。
何時からそうしているのか見当もつかないが、ずっとそこ居た──いや、在ったかの様にひっそりとした公園にそっと溶け込んでいた。
まるで一体のオブジェの様に……。
暫くして自分が見惚れていた事に気付いた私は、彼女の背中に向かってそっと声を掛けた。
「……橙?」
「あっ。藍しゃま。」
私の声に反応して、ゆっくりとこちらに振り返る橙。
そんな橙に、どうして公園に一人で残っていたのか聞いてみる事にした。
「どうか……したのかい?」
「えっと……藍しゃまを待ってて、それで夕陽がキレイだなって……。」
そうか。橙は夕陽に見惚れていたのか。
返ってきた橙の答えに一応は納得したものの、また一つ疑問が生まれた。
「私を待っていたって……私が此処を通ると知っていたのかい?」
そうでなければ待っている筈など無いのだが、予想外にも私の質問に橙は首を横に振った。
「きっと……藍しゃまなら来てくれると思ってました。」
これには私も目を丸くした。
今朝から橙が友達と遊びに出掛けたのは知っていた。
だから私が買い物帰りにここを通ったのも、まだ橙が居たらと思っての事だ。
私が橙の行動を読んでいたつもりだったが……まさか逆に行動を読まれていたとは思わなかった。
「参ったな。私の行動は橙にはお見通しだったかな?」
冗談めかして私がそう言うと、再び橙は静かに首を横に振るのだった。
「そんなんじゃないです。ただ何となく、です。」
ただの何となくで、一体いつから橙は此処に居たのだろう……?
ひょっとしたら、私が此処を通らなかった可能性だって有ったのに……そう思うと、少し、ぞっとした。
「あのぉ……藍しゃま?」
「ん? 何だい、橙?」
いけない。考え過ぎて橙から意識を外していた……私としたことが。
今はこうして橙に会えた事を喜ぶとしよう。
「わたしの名前って……どうして“橙”なのかなって……。」
橙の質問に、私はちょっと驚いた。名前の理由など、ついぞ考えた事が無かったからだ。
因みに名前を付けたのは紫様だ。だからその答えは紫様しか知らない。
「名前の意味……か。」
あの紫様の事だ。きっと何かあるのだろう…………まさか自分が“むらさき”だから色で統一したとか、そんな安直な理由ではあるまい。
いや……実はそれが一番有力だと私は思っている。
何故なら、名前など便宜上付けられるだけであって、物の本質には全く関係ないのだから。
しかしそれでは橙はおろか、紫様も納得はしないだろう。
『だから貴女は式神の域を脱していないと言っているのよ。』
紫様の声が聞こえた気がした。
「わたしの名前……ひょっとしたら夕陽からきているんじゃないでしょうか……?」
オレンジ色の空を見上げながら橙は言った。
成る程。色と言っても物によって印象が異なるものだ。
私は目から鱗といった感じだったのが、しかし当の橙はどこか自嘲気味だった。
「どうして……そう思うんだい?」
「それは……夕陽を見てたら、何となく、そうかなって……。」
夕陽は綺麗だが、どこか寂しい。別れの時間だと言う事もあるのだろう。仲の良い友達も、みんな我が家へと帰ってしまうから……。
こんなにも橙が寂しい顔をするのも当然のように思えてくる。
もし橙の考えるとおりだったとしたら、それは残酷なことのように思えてきた。
「きっと藍しゃまは青空ですね。」
「私が……青空?」
思い掛けない橙の言葉に、驚きを隠せず私は目を瞬かせた。
「はいっ! 藍しゃまは優しくて、大きくて、わたしや紫様……周りにいるみんなを元気にしてくれます! だからお天気な日の青空です!…………そして、夕陽と一緒には居られないんです……。」
消え入りそうな橙の最後の言葉に、それは違うと思わず私は叫びそうになった。
なったが……出来なかった。
私は知らない。自分の名前の由来さえも。そんな私が一体どんな根拠でそれを否定できると言うのか?
「わたしは…………きっと──」
──駄目だ! それ以上、橙に言わせては……!
橙はきっと、否定して欲しいと思っている筈だ。他の誰でもない、この私に……!
橙は私に何て言ってくれた?
元気にしてくれるって……私を青空のようだと言ってくれたんだ。
嬉しくない筈が無かった。私自身、そうであって欲しいと思った程に。
だったら私が考えてやれば良い……!
橙の、その名の意味を……!
「私は違うと思うな……。」
「えっ……?」
瞬きすら忘れて私を見上げる橙。
今ここで言わないと、私はきっと後悔するだろう。
だから私は思い付きのでまかせを、本当だと信じて言うことにした。
「天気の良い日に縁側でよく橙は日向ぼっこをするだろう?」
「はい……。」
「その時橙の目には何が映る?」
「えっと……目を閉じてるから真っ暗じゃないでしょうか?」
「本当にそうかい? 瞼を閉じた時、橙の視界は暗かったかい?」
「……? あっ……!」
陽だまりは、瞼を閉じていても感じられる。
どうやら私の言いたかった事に橙は気付いたようだ。
「お日様みたいに、いつも元気いっぱいで、私の心を暖かくしてくれる……夕焼け空よりお日様の光の方が橙には似合っていると私は思う。それに──」
橙は瞳を見開かせて、私の事を真っ直ぐ見つめていた──大丈夫……私の気持ち、橙にはちゃんと伝わっている筈。
もう一息だと、私は躊躇う心を無理やり押し込めた。
「それに──私には橙が必要なんだ。青空にはいつもお日様が連れ添うみたいに、ね?」
「藍しゃまっ……! はいっ! 橙はずっと藍しゃまと一緒です!」
この時の橙の笑顔はお日様に負けないくらい眩しかった。
「今日の橙は随分とご機嫌だったようね。」
夜──晩御飯も済ませ、何時もなら嫌がるお風呂も、今日の橙は大人しく入ってくれて……今晩はマヨヒガに泊まっていった橙だった。
そんな彼女が先程入っていった寝室の襖に目を向けながら、紫様はそんなことを言ったのだった。
「はい……。」
何と言って答えれば良いか分からず、私は頷くだけに留めた。
どうやら紫様は、私から大した答えが返ってくるとは始めから考えてはいられなかったようで。
にやりと顔を歪ませると、私に座るようにと目で指示された。
何かあるなと思いつつも私は指示通り、ちゃぶ台の前に座る紫様と向かい合うようにして座った。
「何かあったんでしょう?」
「……紫様ならご存知なのではないですか?」
質問に質問で返すのは愚行だと思うのだが、紫様ならきっとお見通しだろう。私達の会話の一部始終を。
「藍。私は話しなさいと言っているのよ?」
決して怒っているのではなく、どこか拗ねた様子の紫様に、私は仕方なく話す事に。
まあ私も聞きたい事が有ったのだから好都合なのだが。
「橙に聞かれました……“橙”という名前の意味を。」
「それで、貴女は何と答えたのかしら?」
「最初は……答えられませんでした。私は、私の“藍”という名前の意味さえ知りませんでしたから。いえ……考えた事すら無かったのですから、答えようもありませんでした。」
正直、自分が恥ずかしかった。紫様に付けて頂いた大切な名前を、私はこれまで蔑ろにしてきたのだから。
そんな私を紫様は責めようとはしなかった。
それどころか、包み込むように優しく微笑んでくれてさえいる。
「貴女は考えが合理的過ぎるのよ。だから気にならなかった……そうよね?」
「…………仰る通りです。」
思わず頭を下げる私に、顔をお上げなさいと紫様は言ってくださった。
「でも橙は気が付いた。気になって貴女に聞いた。」
「はい……あの子は私よりずっと感受性が豊かですから。」
「誤解しないで、藍。貴女にだって感情はあるのだから。さっきも言ったけど、考え方が合理的過ぎるだけ……これを機に貴女ももう少し遊び心を学びなさいな。」
そう言って私に向かってウィンクをする紫様……正直この方には一生敵わないと思わずにはいられなかった。
「それに、貴女は答えを導き出せたじゃない。」
「それなんですが……私の答えは合っていたのでしょうか?」
ずっとそれだけが気掛かりだった。私なんかが紫様の考えに届くとは到底思えない。
「どうして? あの子は喜んでくれたのでしょう? 今日は何時も以上にベッタリだったものねぇ。ちょっと妬いてしまいましたわ。」
全然そんな様子を窺わせず、のほほんと言ってみせる紫様。
「紫様……どうか教え頂けませんか? 私達の名前の意味を……。」
紫様が名を考えたという事は、そこには私達に望まれた意味が有るはずだ……私はそれが知りたい。
今の私が紫様の望んだ式神足り得ているのかどうかを……。
「意味なんて、私は考えなかったわ。」
「……え?」
何の躊躇いも無く告げられた真実に、私は愕然とした。──そんな……私達は所詮使い捨ての駒という事だろうか。
「こらこら。何かってに絶望に打ちひしがれているの。話は最後まで聞きなさい。」
「し、しかし紫様──?」
「良いから聞きなさいな。私はね……貴女達に、自分らしさを持って欲しかったのよ。」
「それは一体……?」
どういう事だろうか? 私には紫様の仰ってる言葉の意味が到底理解出来なかった。
「ねえ……藍? もし私が貴女の名前に意味を付けて、そうして貴女がその意味を知ったらどうするかしら?」
「そんなの決まってます。この身は紫様の式。紫様が望むのなら私は何者にでも成って見せます。」
「それよ、それ。それじゃあ結局、貴女は私の想像内の貴女でしかない。そんなの、お人形遊びと一緒よ。
私はもっと貴女達に自分というものを持って欲しかった。だから敢えて意味は考えなかった。
それは何時か貴女達自身で見つけて欲しかったから。その名を誇れるような意味を、貴女達自身の意思で、ね。」
優しく微笑まれる紫様の言葉に私は胸がすく想いだった。
ああ……やはり紫様は最高の主であると、改めて思ったからだ。
「あっ! だけど勘違いしないでちょうだいね? その分愛情はこもってるんだから! それはもう溢れんばかりの──藍?」
だけど同時に目頭が熱くなるのも感じた……どうしてだろう?
「ゆかり、さま……。」
主の前で、見っとも無く零れそうになる涙を堪える私。
そんな私を何の前触れもなく、何かが優しく包み込んだ。
忘れもしない……あたたかな温もり……。
それは……その温もりは、疑いようも無く紫様がもたらしてくれるもので、私は何だか懐かしい気持ちと一緒に、情けない気持ちにもなった。
──私はどうしようも無く愚か者だ……! 一瞬でも紫様を疑うなんて……紫様の式、失格だ……!
だけど紫様は、そんな私でさえも許してくれているようだった。
背中に回されたその手が、どうしようもなく優しかった。
「不安に……させてしまったかしら?」
「ゆかり……さま。」
私は怖かったのかも知れない。要らないと言われてしまう事が心のどこかで……。
「もう。馬鹿ね……例えどんな貴女になっていようと、私が貴女を見捨てる筈無いでしょう?」
そんな自分自身でさえ見落としていた不安を、紫様は容易く見つけ出し、こうして癒やしてくれる……ああ、まだまだ私はこの人に守られているのか。
「紫様……もう、大丈夫です。すいません、取り乱しました。」
だけどこれ以上、恥の上塗りはできない。そう思い、紫様に離れて頂くよう私からお願いした。
「そう? 私としては当分このままでも良かったんだけど。」
「ゆ、紫様……っ! お戯れが過ぎますっ!」
そう何時までも甘えてなど居られないのだから……。
すっと身を引いてくれた紫様……だけど正直、名残惜しい気持ちが無かった訳じゃない。
だけどもう一つだけ、確認して置かなければいけないことがあった。
「紫様……あの……橙の事なんですが……。」
「まだ何か気にしてるのかしら?」
「あれで……良かったんでしょうか?」
言わずもがな、名前の事だ。あの時私は橙を不憫に思い、咄嗟に浮かんだ事を口に出しただけなのだ。
紫様の言葉どおりなら、私は橙の意思を曲げてしまった事になる。
「あの子が貴女の言葉に答えを見出せたのなら、それで結構。それに橙は満足してくれたのでしょう?」
「はい……。」
ちゃんと納得できた訳ではないのだが……紫様がそうおっしゃるのだ。それで良いということにしよう。
「それじゃあ一つだけ、私からも聞いていいかしら?」
「はい? なんでしょう?」
「貴女の持つ“藍”という名前には一体どんな意味が込められてるのかしら?」
いつものように意味深な笑みを浮かべる紫様。
私は試されている気がした。
「私は……私の名前は……」
だけど答えはあっさりと見つかった。
いや、これ以外には有り得ないとすら思う。
「“藍”は青空の色。私は周りにいるみんなを元気に出来る存在で有りたい……と思っています。」
今の私は決してそんな大それた存在では無い。
だけど何時かきっとそんな自分に成れるように──そんな自分を誇れるようになりたい。
そして何より私は大切にしていきたい。
紫様が付けてくださって、橙が意味を見つけてくれたこの名前を──
「そう……それはそれは素敵な名前ね。」
目を細めて微笑む紫様に釣られて私も笑った。
「はい──!」
でもやっぱりめんどくさかったからという線が捨てきれないのはなぜだろうwww
名前は一生のものです。つける側のエゴだけではなくちゃんと愛情を込めて付けてあげないといけませんね。
最近は男の子でも生まれたときが可愛かったから『キララ』とか付けたりしてバカじゃねぇの。
40過ぎて頭の薄くなってきたオッサンがキララとか書いた名刺出したりするのは自殺もんだぞ。
……今更だけど俺もちょっと早まったかも知れないwww
子供にイイ名前をつけられるんだろうな。
面白かった。