トンネルを抜けると廃道だった。
アスファルト舗装の道路が、トンネルを抜けた途端に雑草生い茂る廃道へと変貌した。
私は慌てて車のブレーキを踏み、フロントガラス越しにその荒涼とした景色を呆然と見つめていた。
今日は友人と登山に行く約束で、朝早くから車を走らせて隣県の集合場所まで向かっていた。
どうしても眠かったので数十分の仮眠でもとろうかと思ったが、予定より遅れていたのでそのまま車を飛ばした。
それがどうも判断力を鈍らせ、道を間違えるという災難を引き起こしたらしい。
「チッ……これならちゃんと仮眠しておくんだった」
私は舌打ちして誰とも聞かせない愚痴を独りこぼしながら、Uターンすべく車のアクセルを踏んだ。
だが、いくらアクセルを踏んでも車はちっとも動かない。ふと気付けば、車のエンジンが止まっていたのだ。
「あれ? いつの間にエンジン切ってたんだろう……?」
私は首を傾げながらもキーを摘まんでエンジンの回転をスタートさせようとした。
きゅるきゅるきゅるるるるるるる…………
ガソリンは満タンで警告ランプは一切点いていないにも関わらず、何故かエンジンがかかる気配は一向になかった。
「くそぉ、こんなところで故障なんてシャレにならんぞ!?」
私は睡眠不足も祟ってかなり苛立ちながらハンドルを殴った。
パァァァァァァァン!!!
クラクションの甲高い音がけたたましく鳴り響き、私はビクッと身体を竦ませて冷静さを取り戻した。
そうだ、こんなところでイライラしても仕方ない。私は時刻を確認して今後の行動を考えようとした。
「……えっ?」
ところが、車内の時計は午前4時44分で止まっていたのだ。順調に動いていた筈なのに、今は完全にフリーズしている。
私は腕時計や携帯電話も見たが、ことごとく『4:44』の表示で止まっていた。
それどころか携帯電話に至っては自宅や友人にかけても呼び出し音すら聞こえてこない。他の機能も停止していた。
私の車にはカーナビは搭載していなかったから、地図帳を見ても此処が何処なのかも知る術がない。
「……どうなってるんだよ」
私の脳内は苛立ちよりも戸惑いの方がじわじわと強くなっていった。とにかく、車に籠っていても事態は動かない。
車を降りて後部座席から登山用具を取り出すと、安全靴に履き替え登山用の装備を整える。
私は最初、トンネルを引き返して幹線道路まで行くつもりだった。そこから助けを求めればいいのだと。
しかし、振り返ってトンネルを見た時、私は背筋に氷を這わせられたような冷たい薄気味悪さを感じた。
ナトリウムネオンのオレンジ色の灯りが点っていた筈のトンネルは常闇に包まれ、出口の光は燐として見えない。
まるでブラックホールのような冷たい闇が、私を呑みこんでやろうと虎視眈々と口を開けているように見えた。
『首吊峠隧道』と銘打たれたトンネルは、一度足を踏み入れてしまえば二度と戻れないと私の本能が告げていた。
「何なんだよ此処は………」
その不気味さに追い立てられるように私は廃道の方へ視線を移した。
コンクリートを割って雑草が伸び、側溝が埋もれるくらいの藪が私の背丈ほどまで生長している。
轍が微妙に残っている分だけ獣道よりは歩き易い廃道が、霧で霞む遠い山までどうやら続いているようだった。
幸い登山の装備をしているので、この程度の道は苦にならない。私はひとつ深呼吸したあと、意を決して進み始めた。
◇ ◇ ◇
どれくらい歩いただろうか。濃霧と曇天で更に薄暗い藪の中を、私はもがくように掻き分けながら進んでいった。
汗だくになって足が鉛のように重くなり始めた頃、それは唐突と目の前に現れた。
「……何だ此処は?」
露に濡れた閉塞的な藪から一転、視界が開けた場所には今まで見たことのない光景が広がっていた。
地平線まで遮る物は何もない草原に、毒々しい鮮やかな緋色の彼岸花が咲き誇っている。
人ひとりが通れるだけの細い畦道が、草原を縫うように彼方まで続いている。
「ウソだろ……今は春だぞ? 彼岸花なんて咲くわけがない……」
私の知る限り、彼岸花は秋に咲く花である。しかし、今の季節は春だ。つい先日に同僚と花見をしたのをはっきりと覚えている。
私は眼前に広がる花景色に目を疑いながら、恐る恐る畦道を進んでいった。
田んぼのような場所に、立錐の余地なく鮮血のような彼岸花が乱立している。それはまるで、世界すら染めようと勢いづく「紅」だった。
地形は緩やかなすり鉢状の渓谷になっているらしく、周りは鬱蒼とした森に囲まれている。
濃緑に色づいた広葉樹の木々が、私を監視しているように思えて変なプレッシャーを感じる。
よく見ると、彼岸花の畑にはところどころ不可思議な物体が苔むして鎮座していた。
それは巨大なコンクリート片であったり、赤く錆びた鉄骨やクレーンであったり、前衛的なモニュメントだったりと千差万別だった。
見たことのない道路標識や廃車、果てには小さな民家までもが彼岸花の紅い海原に顔を覗かせているのは異様な光景だった。
まるで墓場のようだと思ったが、あまりに雰囲気が似合い過ぎているので慌ててその考えを打ち消す。
しばらく歩くと、一本の橋が見えてきた。近代的なレンガ造りの橋だったが、木製の欄干は朽ち果て橋桁も蔦に侵食されている。
橋の前には黒と黄色のゼブラ模様のゲートが何故か取り付けられていた。自動車の高さを制限する為に設けられるゲートである。
『三○○川 このさき2km』と記された案内標識がゲートに設置されているが、錆びていてほとんど読めない。
ゲートの脇には大きな桃の木が生えていて、見事な花を咲かせている。屋久杉のような図太い幹を湛えた巨木だった。
風に舞い散る淡いピンクの花びらが彼岸花の紅と相まって、この地の不思議さが強調されていた。
橋の向こうにもまだ道は続いているようだった。私は少し躊躇ったが、他に道は見当たらなかったので先に進むことにした。
「………………」
「えっ?」
ゲートを通過しようとした瞬間、私は誰かに後ろから声をかけられた気がして立ち止まった。
だが、私が歩いてきた畦道はおろか、森や畑にも人影はどこにも見当たらない。
「……空耳?」
私はキョロキョロと辺りを見渡しながら、再び歩を進めようとした。風が心なしか強く吹き始めているように感じた。
「…………ぉ~ぃ」
「!?」
二度目の「声」は、さっきよりはっきりと私の耳に届いた。私はギョッとしてその場で立ち尽くす。
「……おぉ~い」
風の音だとでも思いたかったが、それよりもっと異質な「声」……若い女性の声だった。
私はいよいよ神経をすり減らすような恐怖を足元から感じ始めていた。鋭敏になった神経が、木々のざわめきすら身体を強張らせる。
「だ、誰だ?!」
完全に上ずった声で私は叫んだ。鼠色の空では分厚い雲が足早に流れて行く。世界は息を潜めたかのように静まり返っていた。
私の身体が異常な警戒態勢となり、緊張と恐怖でじっとりとした脂汗が滲み出てくる。喉はガラガラで、心臓は非道く早鐘を打っていた。
「誰だ……ど、何処にいる!?」
「お~い、此処だよ此処……」
その返事はあまりに唐突に発せられた。私は油を差し忘れたロボットアームのようなぎこちない動きで声のした方を振り向いた。
声は『桃の木』の中から聞こえてきたのだ。その事に気付いた時、私の精神はますます焦燥に駆られてゆく。
ガチャンッ、ギィィィィ……
幹の一部がまるでドアのように開き、中からひとりの女性が姿を現した。
「うっ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」
いきなり目の前に人が現れ、私は思わず悲鳴を上げてその場に座り込んでしまった。失禁こそしていないものの、腰に力が入らない。
藍色の和装に古い銭の帯留め、何故か下は豪奢なスカートを穿いてソックスに下駄という井出達の女性。
茜色の髪を頭の両端でおさげに結い、手には電話帳のような書類の束を抱えている。
「ああ、驚かして御免よ……え~っと、××郡××町大字△△在住の、**さん?」
「えっ? ええ……」
台帳を捲りながらその女性は私の住所と名前を確認するように尋ねてきた。私は地べたに座り込んだまま、こくこくと頷く。
私は彼女が警察官ではないかと思ったが、奇抜な和装を見てそれは有り得ない。
第一、それでは桃の木から出てきた事を説明できない。それに、彼女の捲る台帳はガリ版刷りの古めかしいわら半紙だった。
「いやぁ、間に合ってよかった。この橋を渡っちゃうと戻れなくなるからさぁ……」
頭の中が混乱する私をよそに、彼女はホッと安堵の表情を浮かべると私に手を差し出した。起き上がらせてくれるのだろう。
本来なら懐疑的になるべき状況で、あまりにも奇怪な出来事に私の脳内は機能停止状態に陥っていた。
素直に彼女の手を取って立ち上がる。彼女の手はじんわりと温かくて、私の混乱を幾分か落ち着かせてくれた。
「おまえさんはまだあっちの世界に行く資格はないから。あたいが帰り道を案内するよ……」
そう言って彼女は私の手を牽いて桃の木の方へ歩き出す。私は彼女の手の温もりに安心していて、何の疑いもなく彼女に追随して行った。
◇ ◇ ◇
桃の木のドアを抜けると、そこは何故かバス停だった。濃霧で真っ白な空間に、ポツンとバス停の看板が案山子のように佇んでいる。
「あの……此処は?」
「いいかい、此処から17個目の『カエル池』ってバス停で降りると小さな池があるから、そこのカエルに話しかけるんだ。後はそのカエルが何とかしてくれる。カエルにはあたいの名刺を見せればいいよ。乗車賃はこれで足りるから……」
私の疑問を無視して彼女は足早に説明すると、懐から2種類の紙を取り出して私に握らせた。それは彼女の名刺とバスの回数券だった。
小野塚 小町 KOMACHI ONOZUKA
簡素なゴシックで記されているのは彼女の名前なのだろう。裏面には「四季」や「小野塚」といった幾つかの実印が押されていた。
「あ、あの……」
私はやっとお礼を言うべきだと気付き、慌てて名刺を眺めていた顔をあげたが、彼女…小野塚さんは忽然と消えていた。
濃霧の中、私の言いかけた言葉だけが真っ白な空間の中へ吸い込まれてゆく。バス停には『桃の下』と記されていた。
ぶぉぉぉぉぉぉぉぉん……
その時、遠くからエンジンの音が聞こえてきた。重厚なディーゼルエンジンの駆動音である。
やがて濃霧を切り裂くようにして眩しいヘッドライトが見え、『となりのト○ロ』に描かれていたような古いバスが停まった。
自動でドアが開け放たれ、私は戦々恐々としてバスに乗り込む。私以外に数人の客がぼんやりと座っていた。
「お待たせしました。このバスは冥海交通、『中有の道』経由『無縁塚』行きです。次は『弔ヶ丘団地』……」
バスは私を乗せてゆっくりと発車し、砂利道を走るかのようにガタガタ揺れながら真っ白な空間を走る。
車窓から眺める景色は濁った白一色だったが、何か空を長いものが浮遊している影が時折見えた。
私は手に名刺と回数券を握ったまま、ただジッと前を見据えて教えられたバス停の名前が告げられるのを待った。
その間、乗客は次々と乗り降りし、8個目の『白玉楼大階段前』と言うバス停で私以外の乗客は全員降りた。
降りた客の中に、緑色の服を着て2つの日本刀を腰に差していた銀髪の女の子がいたのが印象に残っている。
路面が悪いのか車体が古いのか、バスは相変わらずガタガタ揺れながら真っ白な道なき道を行く。
「お待たせしました。次は『カエル池』です。お降りの方は……」
そして、運転手が私の目的地であるバス停の名前を告げた。私は慌てて側にあったボタンを押して降車を知らせる。
私の心理とは裏腹に、「ピンポーン」という軽快な音を奏でて降車ボタンのランプが点灯した。
「はい、次停まります……」
運転手がそう言ってから数分後、バスは『カエル池』に停まった。荷物を抱え、小野塚さんからもらった回数券で運賃を支払う。
「ここがカエル池……?」
カエルの顔を象ったバス停には確かに『カエル池』と記されていて、すぐ前には大きな池が滾々と真水を湛えていた。
掘立小屋が池の渕に建てられているものの、肝心のカエルは何処にも見当たらない。
取り敢えず私は掘立小屋に誰かいないか窓を覗いて見てみた。
「あのぉ……うわぁ?!」
私は再び素っ頓狂な奇声を発してしまった。そこに居たのは、スーツを着たカエルだった。
一見するとカエルのマスクを被った人間に見えたが、皮膚のぬめり具合もリアルでペンを握る手もカエルだ。
「……何か御用ですか?」
事務机で書類整理をしていたカエルがのっそりと立ち上がって私を見つめている。
「あ、あの……小野塚さんから、此処にくれば帰れると……」
私は震える手をなんとか押さえつつ、ポケットから小野塚さんの名刺を差し出した。
「小野塚……? ああ、四季裁判官とこの……ちょっと拝見、べろん!」
カエル男はそう言うと、いきなり長い舌を鞭のように伸ばして私から名刺を取り上げた。
もはや、私は声を上げることなく茫然とその様子を見ていた。人間の「慣れ」という逞しさを、私はこの時実感したのだ。
まじまじと名刺を見ていたカエル男は、机に置いてあった古めかしい黒電話で何処かに電話を掛けていた。
「えぇ~、カエル池から是非曲直庁執行局へ。長官・執行局長・担当裁判官・担当死神の実印を確認。開門を許可されたし」
その後、いくつか電話の相手と話していたカエル男は、電話を切ると小屋から出てきた。2m近くある大男だった。
「どうも失礼。それではこれから送致しますので、池の渕に立って下さい」
意外にも礼儀正しい口調でカエル男は私を池のところまで誘導した。池は澄んでいるが、水底は深くてよく見えない。
わずかに波立つ水面に、私の不安げな表情が映し出されている。水面に映る自分と目が合った、その時だった。
ドガッ!!
「うぐぅ?!」
急に頸椎の根元を強打され、私の意識が吹っ飛んだ。その感触がカエル男の手刀であったと、私は薄れる意識の中で気付いた。
意識を失った私の身体は、吸い込まれるようにして池に落ちる。水の轟音を耳にしながら、私はゆっくりと池に沈んでいった。
◇ ◇ ◇
私が目を覚ますと、そこには心配そうに私の顔を覗きこんでいる家族や友人の姿があった。
「おぉ! 目が覚めたぞ!!」
友人が嬉々として叫び、家族は号泣して私の胸元に縋りついている。私は一時状況が掴めずに困惑していた。
だが、その困惑はすぐに氷解した。私の腕や足にはギプスが巻かれ、首もコルセットで固定されている。身体のあちこちに鈍い痛みが走る。
何よりも、白衣を着た壮年の男性が私に語りかけてきた事で私は全てを理解した。此処は病院なのだと。
壮年の医師からの説明によれば、私は居眠り運転でガードレールに激突してこの病院に運ばれてきたらしい。
それが3日前の出来事で、以来私はずっと意識不明の重体だったというのだ。事故はちょうどトンネルを出た急カーブで起こしたらしい。
「あぁ……そうか」
私は一通りの説明を受けた後、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
カエル池、すなわち『帰る池』。なるほど、あの女性は私があの世へ行くのを阻止してくれたようだ。
夢を見ていたようで彼女の顔はぼんやりとした思い起こせないが、とにかく彼女が私をこの世まで連れ戻してくれた。
バス停では言えなかった「ありがとう」を、私は更なる謝恩の念を込めて心の中で呟いた。
まこと、不思議な体験をしたものである。
後日、私の財布の中から「小野塚さん」の名刺が見つかるのだが、それはまた別のお話………
ああ、これは死後の世界だと気づいてからはだんだん雰囲気に引き込まれていきました。
事務手続きとかがすごい『らしく』て好きです。
話の内容的に非常に『合』っていますね~
これが幻想郷の人間だとここまでは出来ないでしょうし…
読んでて物語にのめり込んでました。いい御話をありがとうございます
とっても良かったです!
こういうのいいなぁ
時計全部4:44で止まってるとかね、ベタに思えるけどだからこそもう勘弁してくれってなりますよね。不吉な予感しかしない。
何よりもこの主人公と同じ立場を体感できるのがグッと来ました。