手詰まりの感は否めなかった。
もう何度「待った」をかけたことだろう。それでも、あくなき闘争心が屈服を拒否していた。
「文さま、ゆっくり思案なすって下さいね」
「むむ……悔しいですがお言葉に甘えましょう」
妖怪の山の、白狼天狗の詰め所。
犬走椛を訪ねて、たまたま非番の彼女がそこにいたのは、まこと射命丸文の幸運と言う他なかった。夜も遅し、けれど退屈を紛らわせやしないかと、たまたま顔を出してみた次第である。
文が来た時、椛は常と変わらず盤面に一人向かってウンウン首を捻っていた。一人で手を詰めて行くのも、彼女程の実力ならば案外面白いのだという。そうは言ってもやはり寂しかろうと、安酒片手に迫るは射命丸文。
では一献、と酌み交わし酌み交わしする内、いつの間にやら話題は一回転して戻って来て。
気づけば二人して盤をはさみ、一献が一局となり、将棋を指しているのであった。
「この、飛車が、ムム?」
無論、文は普通の将棋しか指せない。椛お得意の大将棋にはお休みしてもらい、いま二人は木片の様な駒をピシリピシリやっている。
それでも、始終盤上を支配しているのは、椛であった。文はこれまで何度も窮地に陥り、その度多くの犠牲を払ってどうにかやり過ごしている。それでも手加減されているのは、文とて承知だった。
要するに、椛にすれば、酒の肴みたいなものに過ぎないのだ。適当に指して、時間がたてばそれで良い。
けれど文は、負けたくないのだった。
「そうすると、この桂馬がこうして……よし、こうね」
「ホホウ、ホントにそれでよろしいですか?」
「……アッ、いやいやなし! 今のなし! そうしたらこの、あ、こうすれば……」
「ゆっくりなすって下さいね」
言いながらぐいと、椛は盃をあおった。
詰め所で一杯やるのは珍しいことではない。お役が済んでの時間からなら、割合誰でも好き放題にするのが許されていた。まるで哨戒の方に関係がない文でも出入りの出来る所からも、それは窺えた。
眼の前ではその文が、柄にもなく顔を真っ赤にしてあれこれ思い悩んでいる。負けず嫌いがこんなところに顔を出すとは、普段が飄々としている分、椛には可笑しくてならない。
それはもちろん、酔いのせいでもあるらしかった。
「ム……うん、もう少し……」
「くふふッ」
「あー、笑ったでしょう椛さん! もう、馬鹿にしてますねッ」
飛んできたのは拳ではなく、歩、歩、歩。
文が持ち駒を投げていた。慌てて椛は、それを受けては返し、文を宥める。幸い盤は乱れず、文もすぐ落ち着きを取り戻した。
やはり芯から酔っている、という訳ではない。
夜の闇は冷えて深く、けれどももうじき夜明けが来るのも感じられた。夜通しの将棋は、文の待った待ったで遅々として進まず、けれども椛には心地の良い時間である。初めて来る者の耳をつんざくであろう九天の滝の轟音も、蝉の泣き声より可愛く聞こえる程この空間には慣れている。文はどうなのか気になったが、今のところさして不満もないので、きっと気になってはいないのであろう。
そうこうしているうち、文が一手を終えていた。
自信満々な眼差しが、見下したように椛へ注がれている。
「どうです。この一手なら、この一手なら!」
つけ込む隙はないはずだと、文は言い捨て、どこかへ行ってしまう。
「あのう、どちらへ?」
「そーとー」
「酔いざましですか?」
「そんなに酔っちゃあいませんよ」
文の姿が消えてから、一人ラムプの明かりで盤面に向かう。
文の手は、ああは言ったものの椛から見ればつけ込む隙はおろか、撒き餌かと疑ってしまう程こちらの次の手で追いつめられる。ほんの二、三手進めるだけで、文が詰む様が眼に見えた。それだから文がいないのに一手を指すのが憚られる。
椛は文のあとを追い、外へ出た。
空気は冷たく澄んでいた。
「椛さんホラ、あそこですよ」
頭上から声がした。
文は、木の上にいて、真っ直ぐにどこかを指差している。
慌てて椛も木をよじ登る。詰め所を出てすぐの所にある大木で、空を飛んだり滝の上まで行かない限りは、抜群に高みを突いて伸びている。
文が上から伸ばした手につかまり、ようやくその頂きのてっぺんに頭が出た。
「わァ……」
東の空が赤く赤く焼けている。夜の闇を駆逐して、見事なグラデーションが広がっているのだ。
見慣れたはずのその光景に、椛は目を奪われた。夜通しの酒と将棋で少しは疲れたはずの頭に、染み入ったのかもしれない。
そして、その一瞬だった。
文が疾風のすばやさで詰所の入り口の奥へと消える。ごろりと重たいものが転がり、細かなものが散らばる音がした。
「まさかッ、文さまは!」
戻った頃には両軍盤上を離れ床の上、相乱れての大混戦。
旗色悪しと、盤を蹴り飛ばした足を抱えての、悶絶する文があるばかりだった。
酔ってたんだよ。
つーか文きったねぇwwwwwwwww