※甘いようなそんな感じ。
+ + + +
彼女は沈黙を守っていた。
文字通り守るのだ。ここは彼女の部屋、戸を一枚隔てた廊下では彼女のペット達の話し声、歩く音、生活の響きがあったけれど、彼女はそのすべてを聞かずに、おしだまっている。
瞬きひとつせず(それは目をつぶっているから)、折角入れた紅茶も飲まず、口を噤んで只管、壁にかけた暦に対面し、静かにしている。象牙色のソファは彼女の全身を受けて尚殆ど歪むことがないが、その事実と布地の柔らかさは矛盾しなかった、唯一彼女の軽さ故に。風が吹けば捲れてしまいそうな儚い防備、しかしそれなりに――正確には、四日と四時間ほどは、静けさを守りきっていた。
「今日は何日でしょうか」
唐突に投げかけられた言葉に、唐突に沈黙は過去へと置き去りにされ、仕方なく彼女は守りを解いた。薄目を開き、その紫色がとらえたのは、暦を背にして笑っている女の子。彼女の妹だった。妹は名をこいしと言い、彼女はさとりと呼ばれていた。
「四月六日です」
「四月一日ですか」
「四月六日です」
暦とさとりとの間には、彼女の足で五歩半ほどの距離があった。その間に収まった妹との距離は、五歩ほどだった。彼女の声は決して大きいほうではなく、こいしはそれが聞き取れなかったのかもしれなかった。だから、彼女は二度答えた。
「エイプリルフールだからって嘘つかなくていいのに」
「本当に四月六日です」
「またまた、わかってるんだから」
歩を進めながらも、心の歩みよりは見られなかった。短いやり取りで、きっとこの妹は、自身の言うことなど聞きはしないだろうと、早々に察する。
「じゃあ四月一日です」
「やっぱり四月一日なんじゃない」
「嘘だとは思わないんですか?」
「本当のことに少し嘘を混ぜるから、世の中は複雑になるんじゃない」
「世の中の話をしていましたか」
「これからします」
「そうですか」
「嘘です」
「…………。ところで、何の用ですか」
「あらすげない」
「私は忙しいんです」
卓上に投げ出されていた本を手にとって、煤けた羊皮紙を忙しなく撫でさする。しかし、開きはしなかった。読むためというよりも、手癖のため。そんな姉の様子を嬉しそうに眺めながら、こいしは一歩近づく。歩むほどに、こいしはさとりを見下ろし、しかしさとりは、こいしと目を合わせることもない。猫を抱くように、膝に本を置いて、ぷいとわざとらしく顔を背けた。
「何かしているようには見えないけど、心をなくしてそうにはみえるね」
「あなたに言われたくありません」
「あらせつない」
「そしてあなたこそ、日めくりをなくしたのでしょう。部屋の」
「なんでわかるの?」
「捨てましたから」
「あらはかない」
「四ヶ月使えば十分です」
言いながら、落ち着きを取り戻す為の手癖が、より強い焦りを生みかねないことに気付いた。しかも、見ているはずのこいしがそのことに全く触れてこないことが、余計気恥ずかしさを煽る。仕方なく、本を元の場所に戻す。どことなく気まずい。けれど、こいしにはそんなさとりの所作など、まるで見えていないようだった。
「じゃあやっぱり四月一日?」
「五日は誤差の範囲内です。ゴなだけに」
「今の発言は忘れるね。エイプリルフールだもの」
「四月一日では決してありませんがそうしてくださると助かります」
しかめ面を取り繕いながら、どうしても頬にさした赤みだけはごまかせないことを悟る。ニヤニヤと笑む妹から逃れるように、さとりは脚をたたみ、背もたれに向かって正座した。行儀が悪い事はわかっている。いつもは彼女こそ妹に指摘していた。でも、いいのだ。何がいいかなんてわからないけど。心の中で独りごちる、聴く者がいないから、彼女には独り言が許される。
こいしは、またも一歩近づきながらも、しかしそれを追いかけるでもなく、僅かに強張っている姉の背中に向かって言った。
「お姉ちゃん好きよ?」
「どういう意味ですか。私は嫌いです」
「お姉ちゃんは素直だから、嘘をつく日には嘘しかつけないのね」
「何度も言うように今日は四月六日で私の言葉は全て真実です」
「はいはい、信じてます信じてます」
そして、最後の一歩。扉側を向いて、背もたれにしがみついているさとりの隣に、ぽんと腰掛ける。袖が触れ合って、第三の瞳だけが向き合う。閉じた瞳を見つめる瞳、そっぽを向く顔と、それを楽しげに眺める顔。どうしたって互いに素直なままであることに、さとりも気付かないわけにはいかなかった。
「……私が本当のことを言っている、とあなたに認めてもらえても、それこそが本当かどうかがわからないのは、難点ね」
観念したように、さとりは身体を横に向けた。脚を崩し、はぁと息をつく。意地を張るのに、無意識に呼吸を制限していたのかもしれない。苦しさからか、自身への呆れのためか、ようやく妹に向いてやった姉は、けれど些か苦味を含んだ笑いを浮かべていた。
「ねー?」
しかし、そんなことは瑣末事である。待ち望んださとりの顔を覗き込むようにして、こいしは可愛らしさを装って、小首をかしげた。
「で、やっぱり四月一日なのよね」
「いいえ、本当の本当に、今日は四月一日じゃないですよ」
「そうなの?」
壁にかかったままの暦を指差す。示す日付は、四月六日。はじめ、さとりが答えたそのままの月日だった。
それじゃあもしかして本当に嘘でもないのだろうか、と悩み始めた妹に、姉は優しく、諭すように告げた。
「四月一日、あなたは帰ってこなかったから」
「そうだっけ」
「だから暦を捨てたんですよ。あなたが帰ってきた日を四月一日にしてやりたくて」
「あはは、さみしんぼ」
「おもいっきり、大嫌いって言ってやろうかと」
「嘘にしないと口にもできないの? かわいいひと」
四日と四時間、ついぞ聞かれなかった穏やかな声が、二人きりの部屋にぽつり、ぽつりと落とされていく。
そして、くすくすと笑いが交わされて、また沈黙が取り戻された頃、ふいにこいしがさとりの髪に指を通した。くすぐったそうに身をよじらせながら、さとりが問う。
「そういえば――こいしこそ、どうして今日が四月一日だと頑なに? 『無意識』以外の返答でお願いします」
「お姉ちゃんがね、嘘をついてそうな顔してたから」
「嘘ぐらいつくでしょう、いつだって」
「つかないよ、私には」
「そうだっけ」
「そうだよ。だからわかったのよ」
「ふーん……」
「あ、なんか企んでる」
ぴん、と指にひっかかった髪の毛を引く。くいくい、痛くない程度の強さで、気を引くように、髪を引く。しかし姉は、そんな悪戯を気にもとめず、言葉を継いだ。
「さみしかったのよ」
「うそ」
「こいしかった」
「I'm a winner.」
「そういう意味じゃない」
「わかってるよ?」
「それに、どっちも嘘じゃない」
「嘘よ。お姉ちゃんはひとりが平気な人だもの」
くす、と笑う妹の目の色に、幾許かの寂寥を見つけてしまった。そしてやっと、こいしはさとりの肌自体には、触れそうで触れない距離を保っているのだということにも気付く。
小さな声を二度繰り返した時のように、何某かの伝える努力をしなければならない。少し考えて、言った。
「確かに平気と言っても嘘にはならないわ」
「でしょう?」
「でも、さみしいのだってこいしいのだって、嘘ではないわ」
「ふーん」
「あらすげない」
「がんばって嘘ついたもの」
「それ、嘘って言うのかしら……?」
「口に虚しいと書くじゃない」
「よくわからないけど」
「それじゃぁまあ、口の虚(うつろ)を埋めましょう」
あっさりと、柔らかい髪の感触を手放して、肩に手をかけるこいしの指は、思った以上に熱かった。引き寄せて、そして近づいて、息がかかるほどの距離から見える碧い目には、もう喜色以外滲んではいない。
出した許しに気付いてもらえたことに、内心で安堵しつつ、さとりは悪戯っぽく笑いながら、尋ねた。
「人より余計に舌があって、それで尚口寂しいの?」
「一枚しかないよ。嘘をつくのは今日だけだもん」
「本当かしら」
「確かめてみる?」
「またそんなオヤジみたいなことを」
「親父じゃなくて妹よ?」
「ああいえばこういう」
「そういうところも好きなのよね?」
「どういう発想なの」
呆れた顔に、満面の笑みが近づいた。近い距離から、更に隔たりを縮めて、それは限りなく零に近づく。
二人分の重みに、ソファが歪み、数秒の沈黙が訪れた。
「ん。伝わるかなー?」
「……もうしらない」
「あらあどない」
「あられもない、よ」
少し離れて、にしし、と笑う妹の口を、憎らしそうに眺めるついで。
睨んだつもりの己の目が、もしかしたら何かをねだっているように感じられてしまって、さとりは小さくため息をついた。
もう知らない、もう知らない、心はざわめいて、全く静かじゃない。誰も聞かなくても、自身で聞いてしまう告白が、沈黙を遠く遠くに追いやってしまった。
ああどうも、あられもない。
おえないほどに、しかたがない。
+ + + +
彼女は沈黙を守っていた。
文字通り守るのだ。ここは彼女の部屋、戸を一枚隔てた廊下では彼女のペット達の話し声、歩く音、生活の響きがあったけれど、彼女はそのすべてを聞かずに、おしだまっている。
瞬きひとつせず(それは目をつぶっているから)、折角入れた紅茶も飲まず、口を噤んで只管、壁にかけた暦に対面し、静かにしている。象牙色のソファは彼女の全身を受けて尚殆ど歪むことがないが、その事実と布地の柔らかさは矛盾しなかった、唯一彼女の軽さ故に。風が吹けば捲れてしまいそうな儚い防備、しかしそれなりに――正確には、四日と四時間ほどは、静けさを守りきっていた。
「今日は何日でしょうか」
唐突に投げかけられた言葉に、唐突に沈黙は過去へと置き去りにされ、仕方なく彼女は守りを解いた。薄目を開き、その紫色がとらえたのは、暦を背にして笑っている女の子。彼女の妹だった。妹は名をこいしと言い、彼女はさとりと呼ばれていた。
「四月六日です」
「四月一日ですか」
「四月六日です」
暦とさとりとの間には、彼女の足で五歩半ほどの距離があった。その間に収まった妹との距離は、五歩ほどだった。彼女の声は決して大きいほうではなく、こいしはそれが聞き取れなかったのかもしれなかった。だから、彼女は二度答えた。
「エイプリルフールだからって嘘つかなくていいのに」
「本当に四月六日です」
「またまた、わかってるんだから」
歩を進めながらも、心の歩みよりは見られなかった。短いやり取りで、きっとこの妹は、自身の言うことなど聞きはしないだろうと、早々に察する。
「じゃあ四月一日です」
「やっぱり四月一日なんじゃない」
「嘘だとは思わないんですか?」
「本当のことに少し嘘を混ぜるから、世の中は複雑になるんじゃない」
「世の中の話をしていましたか」
「これからします」
「そうですか」
「嘘です」
「…………。ところで、何の用ですか」
「あらすげない」
「私は忙しいんです」
卓上に投げ出されていた本を手にとって、煤けた羊皮紙を忙しなく撫でさする。しかし、開きはしなかった。読むためというよりも、手癖のため。そんな姉の様子を嬉しそうに眺めながら、こいしは一歩近づく。歩むほどに、こいしはさとりを見下ろし、しかしさとりは、こいしと目を合わせることもない。猫を抱くように、膝に本を置いて、ぷいとわざとらしく顔を背けた。
「何かしているようには見えないけど、心をなくしてそうにはみえるね」
「あなたに言われたくありません」
「あらせつない」
「そしてあなたこそ、日めくりをなくしたのでしょう。部屋の」
「なんでわかるの?」
「捨てましたから」
「あらはかない」
「四ヶ月使えば十分です」
言いながら、落ち着きを取り戻す為の手癖が、より強い焦りを生みかねないことに気付いた。しかも、見ているはずのこいしがそのことに全く触れてこないことが、余計気恥ずかしさを煽る。仕方なく、本を元の場所に戻す。どことなく気まずい。けれど、こいしにはそんなさとりの所作など、まるで見えていないようだった。
「じゃあやっぱり四月一日?」
「五日は誤差の範囲内です。ゴなだけに」
「今の発言は忘れるね。エイプリルフールだもの」
「四月一日では決してありませんがそうしてくださると助かります」
しかめ面を取り繕いながら、どうしても頬にさした赤みだけはごまかせないことを悟る。ニヤニヤと笑む妹から逃れるように、さとりは脚をたたみ、背もたれに向かって正座した。行儀が悪い事はわかっている。いつもは彼女こそ妹に指摘していた。でも、いいのだ。何がいいかなんてわからないけど。心の中で独りごちる、聴く者がいないから、彼女には独り言が許される。
こいしは、またも一歩近づきながらも、しかしそれを追いかけるでもなく、僅かに強張っている姉の背中に向かって言った。
「お姉ちゃん好きよ?」
「どういう意味ですか。私は嫌いです」
「お姉ちゃんは素直だから、嘘をつく日には嘘しかつけないのね」
「何度も言うように今日は四月六日で私の言葉は全て真実です」
「はいはい、信じてます信じてます」
そして、最後の一歩。扉側を向いて、背もたれにしがみついているさとりの隣に、ぽんと腰掛ける。袖が触れ合って、第三の瞳だけが向き合う。閉じた瞳を見つめる瞳、そっぽを向く顔と、それを楽しげに眺める顔。どうしたって互いに素直なままであることに、さとりも気付かないわけにはいかなかった。
「……私が本当のことを言っている、とあなたに認めてもらえても、それこそが本当かどうかがわからないのは、難点ね」
観念したように、さとりは身体を横に向けた。脚を崩し、はぁと息をつく。意地を張るのに、無意識に呼吸を制限していたのかもしれない。苦しさからか、自身への呆れのためか、ようやく妹に向いてやった姉は、けれど些か苦味を含んだ笑いを浮かべていた。
「ねー?」
しかし、そんなことは瑣末事である。待ち望んださとりの顔を覗き込むようにして、こいしは可愛らしさを装って、小首をかしげた。
「で、やっぱり四月一日なのよね」
「いいえ、本当の本当に、今日は四月一日じゃないですよ」
「そうなの?」
壁にかかったままの暦を指差す。示す日付は、四月六日。はじめ、さとりが答えたそのままの月日だった。
それじゃあもしかして本当に嘘でもないのだろうか、と悩み始めた妹に、姉は優しく、諭すように告げた。
「四月一日、あなたは帰ってこなかったから」
「そうだっけ」
「だから暦を捨てたんですよ。あなたが帰ってきた日を四月一日にしてやりたくて」
「あはは、さみしんぼ」
「おもいっきり、大嫌いって言ってやろうかと」
「嘘にしないと口にもできないの? かわいいひと」
四日と四時間、ついぞ聞かれなかった穏やかな声が、二人きりの部屋にぽつり、ぽつりと落とされていく。
そして、くすくすと笑いが交わされて、また沈黙が取り戻された頃、ふいにこいしがさとりの髪に指を通した。くすぐったそうに身をよじらせながら、さとりが問う。
「そういえば――こいしこそ、どうして今日が四月一日だと頑なに? 『無意識』以外の返答でお願いします」
「お姉ちゃんがね、嘘をついてそうな顔してたから」
「嘘ぐらいつくでしょう、いつだって」
「つかないよ、私には」
「そうだっけ」
「そうだよ。だからわかったのよ」
「ふーん……」
「あ、なんか企んでる」
ぴん、と指にひっかかった髪の毛を引く。くいくい、痛くない程度の強さで、気を引くように、髪を引く。しかし姉は、そんな悪戯を気にもとめず、言葉を継いだ。
「さみしかったのよ」
「うそ」
「こいしかった」
「I'm a winner.」
「そういう意味じゃない」
「わかってるよ?」
「それに、どっちも嘘じゃない」
「嘘よ。お姉ちゃんはひとりが平気な人だもの」
くす、と笑う妹の目の色に、幾許かの寂寥を見つけてしまった。そしてやっと、こいしはさとりの肌自体には、触れそうで触れない距離を保っているのだということにも気付く。
小さな声を二度繰り返した時のように、何某かの伝える努力をしなければならない。少し考えて、言った。
「確かに平気と言っても嘘にはならないわ」
「でしょう?」
「でも、さみしいのだってこいしいのだって、嘘ではないわ」
「ふーん」
「あらすげない」
「がんばって嘘ついたもの」
「それ、嘘って言うのかしら……?」
「口に虚しいと書くじゃない」
「よくわからないけど」
「それじゃぁまあ、口の虚(うつろ)を埋めましょう」
あっさりと、柔らかい髪の感触を手放して、肩に手をかけるこいしの指は、思った以上に熱かった。引き寄せて、そして近づいて、息がかかるほどの距離から見える碧い目には、もう喜色以外滲んではいない。
出した許しに気付いてもらえたことに、内心で安堵しつつ、さとりは悪戯っぽく笑いながら、尋ねた。
「人より余計に舌があって、それで尚口寂しいの?」
「一枚しかないよ。嘘をつくのは今日だけだもん」
「本当かしら」
「確かめてみる?」
「またそんなオヤジみたいなことを」
「親父じゃなくて妹よ?」
「ああいえばこういう」
「そういうところも好きなのよね?」
「どういう発想なの」
呆れた顔に、満面の笑みが近づいた。近い距離から、更に隔たりを縮めて、それは限りなく零に近づく。
二人分の重みに、ソファが歪み、数秒の沈黙が訪れた。
「ん。伝わるかなー?」
「……もうしらない」
「あらあどない」
「あられもない、よ」
少し離れて、にしし、と笑う妹の口を、憎らしそうに眺めるついで。
睨んだつもりの己の目が、もしかしたら何かをねだっているように感じられてしまって、さとりは小さくため息をついた。
もう知らない、もう知らない、心はざわめいて、全く静かじゃない。誰も聞かなくても、自身で聞いてしまう告白が、沈黙を遠く遠くに追いやってしまった。
ああどうも、あられもない。
おえないほどに、しかたがない。
言葉の妙、と言うべきですね。堪能しました。