「永琳はどうして輝夜のことを輝夜って呼んでいるの?」
いつものように胡蝶夢丸の処方を求めて訪れたアリス・マーガトロイドが呟く。
患者用のベッドに腰を下ろした彼女は両手で包み込むようにして湯呑を持ち、ふうふうと息を吹きかけている。
これまでは、薬を出した後は速やかに帰って行ったアリスだが、最近ではこうしてお茶だのお菓子だのをつまみながら、雑談をしていくようになった。輝夜とアリスが親しくなったことや、共通の知人が増えたことなどがその理由なのだろうか。
元よりそれほど忙しいというわけでもない。そんな雑談に興じるのも悪いものではなかった。
そして今日もまた、何ということもない、とりとめのない雑談の最中のことだった。アリス自身、何か特別なことを聞いたという風ではない。単なる好奇心、いや、世間話の延長線に過ぎなかったのだろうけれど。
しかし私にとって、それは不意打ちで、一瞬反応に困ってしまう。
アリスは精巧に作られた人形のような相貌を崩すことなく、深い海のような蒼い瞳で言葉に詰まった私を不思議そうに見つめている。
「どうして?」
胸の奥から湧き上がる思いに蓋をして、一瞬の隙をなかったかのように聞き返す。
必要以上に優しげな声音になってしまったように思う。不審に思われていないか、背中に冷や汗が滲むのを感じた。
「だって、ほら。永琳って、わざわざ力をセーブしてまで輝夜を立てているらしいじゃない」
「そんなことないわよ」
確かに、それは事実であるが。当然のようにそう言われてしまうと何のために力をセーブしているのか分からなくなってしまう。まあ、あの子が自分でそう語っている節もあるので何とも言えないが。
あの子がこの永遠亭の主であり、私がその従者である以上、当然の努力だ。外に向けては、常に主を立てることこそが、模範的な従者の在り方だ。
そして、この幻想郷において、平穏に暮らしていくためには過ぎた力は害悪にすらなりうる。それを避けるためにも、力をセーブする必要があった。その上で輝夜はいいメルクマールだった。
もっとも、輝夜自身も水準ぎりぎりという節もあるが。だからこそ、使い勝手が悪いことを差し引いても、スペルカード戦で能力を使わないのだろうけど。
「そんなにまでして気にしてるのに、名前は呼び捨てって不思議な気がして」
私の答えを聞いて、僅かに苦笑しながらアリスは語る。
この幻想郷の主従は、対外的にも、主本人に対しても敬語、様づけがスタンダードだ。
咲夜のお嬢様、妖夢の幽々子様、早苗の八坂様。地霊殿のペット達もさとりを様づけで呼んでいるし。 最近現れた命連寺では聖と呼んでいるらしいが、それは尊称である。
主に対して呼び捨てということはまずない。いや、それは基本的にどこも同じか。
私だってあの日までは、輝夜などと呼び捨てにはせず、姫、とだけ呼んでいた。
「ああ、もうつきあいも長いからね。そんなこともあるでしょう?」
「ええ?」
「いつからそう呼んでいたかも覚えてないしね」
肩をすくめて、そんなことには関心がないわ、と動作で示す。気のない素振りにふーん、と口の中で呟く彼女は、もう興味を失ったのか、くい、と湯呑を傾ける。
私はそれを眺めながら、ふと時計を見て気付いたというふりをして、微笑みかけた。
「そろそろ行かなくていいの?今日も図書館に行くんでしょ?」
「そうね。そうさせてもらうわ」
壁時計を眺めたアリスは小さく頷いて、すっと無駄のない動作で立ち上がる。
空になった湯呑をお盆の上に置いて、座っていたことで乱れたスカートの皺をさりげなく直す。そういった仕草は少女らしく、育ちの良さを感じさせた。どこか、輝夜を思い起こさせる。あの子も昔から姫らしくそういうところはそつなくこなしていた。
「今日はいろいろありがとう、輝夜によろしくね」
「ええ、伝えておくわ」
洗練された余裕を感じさせる歩き方で、去っていく金髪の少女の背中を見送って。その気配が完全に消えたのを、確かめる。そうして、私は思考の波にとらわれていった。
あれは、この竹林に隠れ住むようになって何百年過ぎた頃だっただろうか。
地上での不便な逃亡生活にも慣れ、退屈で平坦な毎日を過ごしていた。どこからともなく現れたてゐが、うさぎ達を引き連れて永遠亭に住みついたばかりの頃。
あの頃の私と姫は少し関係がぎくしゃくしていたのを覚えている。
てゐやうさぎ達に心を許すことなく警戒する私に、彼女らを可愛がっていた姫は不満そうだった。もちろん、普段おっとりしているけれど聡いところのある子だから、私がそうせざるを得ないのも分かっていたのだろうけど。
だから、あえて不満を口に出すようなことはしなかった。けれど、言葉の端々や、極めて事務的にてゐと接する私に向ける視線は明確にそれを訴えていた。
私は、その視線から逃げるように研究室で薬の研究開発に勤しんでいた。うさぎ達に家事全般を任せるようになってから、日々やらなければいけないことがなくなり、退屈しのぎに実験を繰り返すようになったのである。姫には薬は必要ないし、患者がいるわけでもない。単なる手遊びのようなものだった。まあ、今となっては、あの頃開発した薬がとても役に立っているから、結果オーライだけれど。
姫はそれを後ろで眺めていることもあれば、その時間に別の部屋でうさぎ達と遊んでいることもあった。時には、手伝いをしたがったこともある。
あの日は、そう。庭で、姫は、人型をとれるようになったばかりのうさぎと仲良く遊んでいた。楽しそうに笑いながら、けんけんぱやら、まりつきをしていている姿はあどけない。
本心はともかく、立場上、警戒を解くわけにもいかず、ちょっとした疎外感を感じた私は、いつものように研究室で一人、実験を繰り返していた。
本当は混ざりたかったとか、一緒に遊びたかったとか、そういうことはない。断じてない。
きゃっきゃ、とはしゃいだ声は壁の厚い研究室までは届かない。雑音のほとんどない静かな部屋の中で、薬草を煎じたり、混ぜ合わせたり。私は時間も忘れて、それらの作業に没頭していった。
「永琳」
硝子製の風鈴の音のように澄んだ、しかし、どこか温かさを感じさせる声が私を呼ぶ。
あまりにも急にかけられた声に、思わず試験管を取り落としそうになったのも仕方がない。我を忘れるほど集中していたとはいえ、この私に気取られることなく、背後に立つことが出来たのは、姫が能力を使ったためか。
概念的に時間を操ることのできる姫の能力は、こんなふうに、気配もなく姿を現すこともできる。本人が言うところによれば、時間と時間の隙間を移動してきた、と言うことだが。
理屈は分かれど、時間の流れに寄り添って生きることしかできない生き物には、それを知覚することはできない。当然、この私もそうだ。
私が動揺するのがおもしろいのか、時折姫はこうやって能力を使って現れた。毎回続けては、驚きが減ることもよく分かっているようで、本当に時折だけれど。
「もう、驚かせないでください、姫」
間一髪、落とすことのなかった試験管を試験管立てに戻して、息をつく。
回転式の椅子をぐるりと回して、姫に向き直る。きっと、いつも通り、いたずらっ子のように得意げな笑顔を浮かべているのだろうと思いながら。
しかし、私の予想は外れてしまう。
私が目にしたのは、力なく俯いた姫の姿だった。活発に走り回っていたせいでやや乱れた長い髪のせいで、表情を窺い知ることはできない。
私は、身体が強張っていくのを感じた。
やはり、あのうさぎ達は敵だったのだろうか。もっと、警戒すべきだった。
逃げることなどせずに、そばで見守り続けるべきだったのかもしれない。
私の浅慮が姫を傷つけてしまったかと思うと、冷静ではいられない。ここに住むようになってから、いつもそばに置いている弓矢を手に取る。
「永琳、違う、違うのよ」
臨戦態勢に入った私の気配に気付いたのだろうか。目線を上げないまま、慌てた様子で首を横に振る。しかし、上ずった声には普段の落ち着きや、のんびりとした調子は感じられない。様子がおかしいのは確かだった。
いったい何があったというのだろう。一つ息をついて、姫を落ち着かせるべく、僅かに警戒を緩めて歩み寄る。
「なにがあったんです?」
今の自分にできる最大限の優しい声を出して、問いかけた。女性としては背の高い部類に入る私よりも頭一つ分背の低い姫に視線を合わせるために、腰を屈める。まるで小さな子どもにするみたいに。
顔の位置が近づいたことで、髪の毛という御簾越しではあるものの、姫の表情を確認することに成功した。
泣いているわけではない。絶望しているわけでもない。
ただ、広い世界にたった一人置き去りにされた子どものように、途方にくれている。そんな表情。寄る辺もなく揺れる黒目がちの瞳は頼りなげで、私まで惑わされてしまいそうだった。
「永琳、えいりん、えーりん」
噛みしめるように幾度も私の名前を呼ぶ。あまりに繰り返すせいで、次第に舌ったらずになってしまう。
「姫?」
「ねえ、永琳。お願いがあるの」
それは姫がよくおねだりをするときに言う言葉。少しだけ首を傾げて、両手を胸の前で合わせる仕草をして、ちょっといつもよりトーンの高い甘えた声で言う言葉。
しかし、今は違う。俯いたまま、白魚のような両手をぎゅっと握りしめて。押し殺した低い声は震えている。
どうしよう。
頭の中ではそればかり、浮かんでいる。こんなに姫が弱々しい姿を見せるのは初めてで、嫌な想像ばかりが頭を駆け巡っていく。例えば、月に帰りたい、だとか、死にたい、だとか、そういうことを言われたら、私はどうしたらいいのだろうか。
月での生活も、死も、私が奪ってしまった。それは誰にとっても大切なもので、いつ姫が取り戻したいと望んでも不思議ではなかったから。
姫のためなら、何でもする覚悟はある。しかし、それだけは、私の手をもってしても与えることはできない。
心の奥底でいつもくすぶっている罪悪感が、蛆虫のように広がっていく。
心臓は早鐘のようで、耳にうるさい。
背中にはじっとりと冷たい嫌な汗がにじんでいる。
死刑宣告を待つ被告人のような、そんな心地で、姫が静かに唇を動かすのをただ、見つめていた。
「姫って、呼ばないで」
「え?」
「輝夜って、呼んで?」
ただならぬ様子から想像された“お願い”とは似ても似つかない、ささやかなお願いごとに肩透かしを食らったような気分になる。
だが、それと同時に疑問が湧き上がる。それこそ、いつものようにおねだりをすればすむような内容だ。あくまで私が従者である以上、その要求を聞くことはできないけれど。
どうして、こんなにも姫は救いを求めるように私を見つめているのだろう。
「姫、どうしたんですか?」
「姫じゃない、輝夜、私は輝夜なの」
いやいや、とむずがる子供のように両手で耳を塞いで首を横に振る。
上目づかいに見上げてくる瞳には、名前で呼んでくれない限り返事をしないという強い意思を感じさせた。本人は無意識なのだろうが、ほんの少し尖らせた唇と膨らんだ頬はやたらと子どもっぽい。
「……はあ」
どうあっても名前で呼ばない限り、返事をしてくれそうにない。
私は、腰に手を当てて、一つため息をつく。
しかたがない、か。昔からこれと決めたことは頑固に、どんな手段を使ってでも自分の意思を貫こうとする子だったから。
今、私がどんなに拒んだところで、最終的には言うことを聞かざるを得ないだろう。
それならば、変に拒否して、とんでもないことをし始めるより先に言うことを聞いた方がよさそうだ。
「か……」
そう言えば、名前を呼ぶのは始めてだったような気がする。
らしくもなく、緊張して口ごもってしまった。か、の音だけが僅かにかすれて消える。
落ち着け、名前で呼ぶだけだ。かぐや、かぐや、輝夜。
口の中の唾液を飲みこんで、乾いた唇をちょっと湿らせて。すーっと息を吐き出して。
そうして、私は言葉を紡ぐ。
「輝夜様」
「様はいらないの」
「輝夜」
「永琳」
はじめて口に出したその言葉は思っていた以上に甘い。輝夜、輝夜、ころころ転がる飴玉のように舌の上で甘美なその響きを楽しむ。
名前を呼ばれた輝夜は、暗く沈んだその表情を輝くような笑顔へと変える。それはまるで、灯台を見つけた遭難船のように、救われたといわんばかりで。
「永琳、もっと、もっと呼んで?」
「輝夜、輝夜」
「……もっと」
「輝夜」
うっとりとにこにこと聞き惚れる輝夜が望むままに、求められるだけ繰り返し名前を呼ぶ。
ああ、可愛いな、もう。
小難しいことを考えるのも面倒臭くなって、ただただ何度も名前を呼び続けた。
「永琳」
「輝夜」
「えーりん」
「かーぐや」
「ねえ、輝夜? そろそろ、何があったのか聞いてもいいですか?」
「あ、あー……うん」
お互いに声が枯れるほど名前を呼び合って(確かニ回ほど太陽が沈んだ気がする)、いつの間にかもぐりこんでいた布団の上、私の腕の中にいる輝夜の耳元にそっと囁く。
そうすると、ちょっと恥ずかしそうに頬を染めた輝夜は、今考えるとたいしたことじゃないんだけどね、と前置きしてから、小さな声で語りはじめた。
「あのね。あの時、イナバの子たちがてゐみたいに名前がほしいって大騒ぎになっていたの」
「名前、ねえ」
「だから、そうね、必要ねって、ひとりひとり名前をつけてあげていたんだけれど」
それはすごい。何十匹もいるうさぎ達によく名前を付けることが出来たものだ。途中からネタが尽きたり、同じ名前をつけてしまいそうなものだけれど。そもそも、うさぎ達など大同小異、区別するのも面倒だというのに。
「それでね、ある子たちに姫様のお名前も教えてくださいって、言われたの」
「ええ」
名前を与えられた子ども達はさぞかし嬉しかったのだろう。くすくす笑う輝夜の話しぶりからもそれが伝わってくる。
しかし、不意にその声が陰りを帯びる。
「私、とっさに、名前を答えられなかった」
「え?」
「誰も、誰も私のことを名前で呼んでくれないから」
忘れちゃったわけじゃないの。ただ、一瞬答えられなくて。
そう言って寂しげに微笑む。瞳を閉じて思うのは、その名を与えたという地球での養父母のことだろうか。輝夜は彼らを深く愛しているし、彼らも輝夜を何よりも想っていたということを私は知っている。
「誰かに名前で呼んでほしかったの。私が私じゃなくなりそうで怖かったの」
「輝夜……」
「このまま、忘れてしまいたくなかったから。私は姫、なんかじゃなくて、輝夜なんだもの」
「……」
「だからね、お父さんとお母さんと同じぐらい、そばにいる永琳に名前で呼んでほしかったの」
えへへ、とはにかむように言うと、きゅうっと身体を密着させて抱きついてくる。これで、私は輝夜の表情を知ることはできなくなった。
ただ、私も腕に込める力を強める。ただただ、愛おしくてしかたがない。
「本当に、いつまで経っても輝夜は甘えっ子ですね」
「いーんだもーん」
「永琳」
「輝夜」
不意に後ろから名前を呼ばれて、私は回想を中断せざるを得ない。
振り返った先にいたのは、もちろんわが主。
両手を胸の前で合わせてちょっと小首を傾げるいつもの仕草で、私を不思議そうに見つめている。
「もう、さっきから何度も呼んでるのに」
「すいません、ちょっと昔のことを思い出してね」
「昔?」
「ええ。輝夜をはじめて名前で呼んだ時のことを」
「ああ……」
私の言葉であの時のことを思い出したのか、目を細めて懐かしむように微笑む。
「あの時の輝夜は可愛かったわ」
「だ、だって。ほら、なんていうか、そういう時期だったのよ。思春期的な?」
「うふふー。思春期っていうか、ねえ?」
「もう、永琳!」
子どもっぽく頬を膨らませて、腕をばたばたとさせて慌てている。
何百年の月日が過ぎても、変わらないこのあどけなさは貴重なものなのだろう。ああもう、可愛いなあ。
なだめるために、手を伸ばしてその頭を撫でてみれば、よりいっそう不満そうな顔をする。子ども扱いしないでよ、と訴えてくる。
だけど、手を振り払うことをしないあたりの素直さも素晴らしい。
「ねえ、永琳」
「輝夜」
「これからも、ずーっと、名前呼んでくれる?」
「……輝夜が望む限り、何度でも」
「永琳」
「輝夜」
にっこり極上の笑顔を見ていると、私の顔まで綻んでくる。作った笑顔ではなくて、心の奥から湧き上がる自然な笑顔だ。
私にとっては輝夜が幸せでいてくれることが、一番の幸せなのだから。
「永琳、大好き!」
「なっ……!」
それだけで十分なのに。
……こんな風に、最高のご褒美の言葉をもらってしまったら、もう。
ブレーキが利かなくなってしまう。幸せすぎておかしくなってしまいそう。
「私も、愛してるわ。輝夜」
それだけ、耳元でささやいて。彼女を抱きあげる。
驚いた輝夜はひゃう、なんて、可愛らしい声をあげて、私の首にしがみつく。
いつまでもこうしていられれば、いい。
柄にもなく、そんなことを思った。
良いエーテルをありがとう。
甘くて素晴らしかったです!
可愛すぎて身悶えするとはこのこと。
てゐと鈴仙の天国紀行も是非書いてほしいところですw
この溜まったMPを放出したら銀河系を滅ぼせるッ!
えーてる天国紀行の天井か床になりたい。