桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。
坂口安吾『桜の森の満開の下』より
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そもそものきっかけは、そろそろまともな風呂に入ろうと思い至ったことだ。
魔理沙の家には自作のシャワーはあっても浴槽が無い。魔法の研究に没頭している時分は家から出ることはほとんど無いので、二日に一回軽いシャワーを浴びただけで満足することが多いのだが、研究が一段落すると急に湯船に浸かりたい気分になる。そこまで風呂好きと言うわけでもないのに、熱めの湯にのんびりと浸かってぼうっとするのが落ち着くのはおそらく子供時代の習慣だったからだろう。今回も例に漏れず、新しい魔法を一つ成功させることが出来た魔理沙は、急に長風呂に入りたい気分になったのだ。
珍しく、魔理沙は博麗神社の温泉ではなく人里の銭湯まで足を伸ばしていた。風呂ついでに外で夕飯も済ませてしまおうと考えたのが理由だ。特に何が食べたいというのがあるわけでも無かったが、適当に店を物色するのは好きなので、湯上がりの身体を代えの魔女服に包んで魔理沙は歩いていた。
どこで食うべきかと目をきょろきょろさせていると、何やら派手な髪色が目に入ってきたので魔理沙は一瞬足を止めた。紺青の和服を纏ったその人影は、魔理沙よりもかなり背丈があることが分かる。
(お。……あれは)
少し離れた所にいるとはいえ、普通の人間が多いこの場所では彼女の姿は明らかに異質なのでそこそこに目立っていた。行き過ぎる通行人もちらりと彼女の方を一瞥するが、当の本人は全く気にしていない様子である。
ふらふらと歩いていた彼女は、やがて心を決めたように木造の構えの店の暖簾をくぐっていった。控えめに掲げられているその店の看板を見て、確かあそこは蕎麦屋だということに思い当たる。
蕎麦かぁ、と一言呟いてから、魔理沙も彼女の後を追うようにその店に入ってみることにした。当てがあったわけでもないし、自宅ではあまり口にする機会の無い蕎麦を食べるのは良いかもしれないと考えたからだ。
それなりの老舗らしく色の褪せかけた暖簾をくぐり、がらがらと扉を開いて中に入る。いらっしゃいという威勢の良い声を聞きながら魔理沙は先程の赤髪を探した。彼女はちょうど店主に注文をしている所らしい。魔理沙はそこに近付くと、隣の椅子を引きながらぽんと彼女の肩を叩いた。
「よう、久しぶりだな」
ざるそばを注文したらしい小町は、魔理沙を見て少し目を丸くする。
「こっちで会うたあ珍しい」
「派手な奴が店に入ってくのが見えたからな。今日はあの大鎌はどうしたんだ?」
「さすがに人里にそんなもん持ち込むほど酔狂じゃないよ」
「月見そばひとつ」と店主に向かって声を上げてから、出された煎茶をずずっと啜る。小町はそんな魔理沙をまじまじと見ながら「髪濡れてるじゃないか」と口にした。
「銭湯行ってきた」
「ああ、いいねえ銭湯。あたいもたまにはゆっくり湯に浸かりたいよ」
「いくらでも浸かれるだろ、お前は時間有り余ってるんだから」
「忙しいさ。この時期になるといるんだよ、浮かれて事故死する奴。結構な数だから毎日あくせく働かされてる」
あくせくねえ、と呟いて魔理沙は頬杖をついた。信用ならないという目線に気付いたのか小町は「本当だって」とひらひら手を振る。こういう軽い動作が言動から真実味を損なっているんじゃないかと思いつつ、木目の浮いている机に目を遣る。外から見れば店自体は古めかしいようにも見えたが、想像していたよりも店内は清潔だ。現に机の上にも埃やごぼれたつゆのような物は見当たらない。
茶の味も悪くなかったし、ひょっとしたら当たりかもしれないと考えていると、やがて小町の分の蕎麦が運ばれてきた。「お。きたきた」と嬉しそうに呟いて、ぱきんと箸を割ってからつゆに山葵を溶かし入れ、やがて蕎麦に取りかかる。
「ここの蕎麦美味いからさ、よく来るんだよ」
「ふうん。店の名前は聞いたことあったけど、入るのは初めてだな」
「じゃあ今日は良い見付けもんをしたもんだなァ。ほれ、お前さんの分も来たよ」
小町の言った通り、店主の太い腕が魔理沙の前にどんと椀を置いた。しばし椀を上から覗き込み、久々のだしつゆの匂いを楽しむ。それから箸をつけてみると、表面のざらつきと蕎麦独特の香りが味覚を刺激した。
ずるずると吸い上げてから「これ、美味いな」と呟くと「だろ?」と小町はにやりと笑う。
どうやら偶然小町に出会えたのは幸運だったらしい。だしの濃さも蕎麦の味も、美味いと表現する他に無かった。魔理沙の反応が良かったことに気を良くしたらしく、小町もまた蕎麦をすすり始める。両者が麺が伸びる前に食べようとするので、自然と口数が少なくなった。
次に魔理沙が口を開いたのは、椀の中の蕎麦が半分以上減った後である。
「……ああそうだ。そのうち神社で花見を兼ねた宴会やるんだけど、お前も来ないか?」
神社に集まるような面々にとって、花見というのは酒を飲む口実にしかならない。口実が無くとも飲むが、あっても飲むのが幻想郷の住人だ。厳密に言えば幻想郷の住人ではない小町も、その気質を持ち合わせているようで酒を匂わせて誘えば大抵やって来る。当然返事は色よいものだと思っていたが、予想に反して小町の口調は静かだった。
「花見ねえ。そうさなぁ……悪いけど、あんまり乗り気じゃないね」
「あれ、桜嫌いなのか? 花の異変の時は来てたらしいじゃないか」
「まあ、あん時は神社に行くって言ったの四季様だしねぇ。でも正直言うと、あたいはあんまり桜には関わりたくないんだよね。紫の桜なんかはまた別だけど」
魔理沙より早く食べ終わったらしい小町は、出された蕎麦湯を啜りながら不思議なことを言う。口調自体はとりたてていつもと違うわけでもないが、言っている内容がよく理解出来ない。そもそも花を嫌う口実などそう見つかるものでもない。魔理沙はしばらく考えてから、ふと思い付いたことを口にしてみた。
「まさか桜の下に死体が~とか、そういうの気にしてるのか?」
「まさか。まあ何かしら埋まってる桜も多いがね、そんなん怖くもなんともないよ。一応死神なんだから」
「言われてみればそうだな。じゃ、何か他に理由でもあるのか?」
ようやく麺を食べ終えた魔理沙は、残っている葱と卵を箸で絡めとりながら訊ねてみる。無理に宴会に誘うつもりは無いが、あまり細かいことは気にしない性質である小町がどうして桜を嫌うのか、持ち前の好奇心がくすぐられた。その片鱗を感じ取ったらしい小町は若干怠そうな表情になって、ふうと息を吐く。ここに煙管でもあれば今にもふかしそうな様子で、小町は組んだ手の甲の上に顎を載せた。
「桜は怖いからな。死体なんてどうってことはないね。あの樹自体が恐ろしい」
「はぁ。よく分からんよ、私には」
「お前さん達は桜ってもんを根本的に勘違いしてるのさ。この時期になるとね、色んな所で花見が行われるだろう。だから馴染みがないのはしょうがないけど、お前、だぁれもいない桜並木って見たことがあるかい?」
「……無いな。私の家の周りに桜は生えてないし、花が咲いてりゃ人間も妖怪もそこに集まるからな」
「ほらみろ。今度朝早く、それこそほんのり空が明るくなりかけてるような時分に桜並木の下を歩いてみな。想像するだけでぞぉっとするねえ、あたいはまっぴらごめんさね」
小町はけけけと変な笑い声を上げる。脅かそうとしているのか、若干低めの声がわざとらしい凄みを帯びていた。
「分からないな。誰もいない桜並木なんて、絶景を独り占めするみたいなものだろう」
「お前さんが絶景だと思ってるのは人の集まる桜さ。夜だろうが昼だろうが、人のいない桜は怖いね」
怖い、ねぇと呟いて魔理沙は肩をすくめる。小町の言葉の意味がとんと理解出来ない。もっとも妖怪と人間の間では同じ考えを共有することが出来ないなんてことは多々あることだから、今回の話題もそんな部類なのだと解釈することにした。
蕎麦湯を飲み終えたらしい小町は湯のみを机に戻し、懐から小銭を出して勘定の分を数えている。つゆの中にもう麺も具も残っていないことを確認して、魔理沙は椅子から立ち上がった。
「悪いが、お前の言ってることは私にはよく分からないぜ」
「ま、無理に分かってもらおうとは思わんさ。そろそろあたいは帰るけど、お前さんもだろ?」
「ああ。やることはやったし、真っ直ぐ家に戻るさ」
風呂にも入って、夕飯も食べた。もう人里に用事は何もないはずだ。ひょっとしたら家の食料がそろそろ無くなりかけているかもしれないが、それは後で確認してまた別の日に買いにくれば良いだろう。
それから少し考えて「私の分も払っておいてくれよ」と言ってみたが、「無理」と当然のような口調ですぐさま返された。
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湯と蕎麦で温まった身体に、夜風が心地良い。とはいえ夜間となると完全に冬の気配が遠のいたわけでもなく、空気はやや冷たかった。外套を持ってきたのは正解だったのだろう。人里を抜けたところで魔理沙は手製の上着を羽織ると、ぽんと愛用の箒を取り出した。それから少しばかり考えて、すぐに飛ぶのはやめにしてちょっと歩くことにする。空は地上よりもだいぶ寒いから、飛べば早く家には着くだろうが蕎麦の温かさはすぐに逃げてしまうだろう。どうせいつかは身体も冷めてしまうのだろうが、それまでは歩いてみるのも良いかもしれないと思ったのだ。普段は箒に乗るばかりで、森で魔法の材料を採取する時以外はあまり足を使わないのだから。
人里から離れててくてくと歩いていく途中、花見をしている集団に何度も出くわした。桜はちょうど今が一番の見頃といった具合で、白く浮かぶ夜桜の下で大勢の人間が、あるいは妖怪が陽気に飲んだり食べたりしている。時折知り合いを見付けて声を掛けつつ、魔理沙も桜を眺めながら歩いた。その度に小町の言葉を思い出す。
「怖い、なぁ」
こっそりと口に出して首を捻る。こうして実際に並木の下を歩いてみても、小町の言っていたようなことはほとんど実感出来ない。もう少し経って葉桜になればいつ虫が降ってくるか分からないから、それは怖いけれども。よく分からんと思っていると、向こうの方から誰かが「魔理沙ー、お前も一杯やっていかないかぁ」と声を掛けてきた。ここからだと姿はよく見えないが、あちらからこっちが見えているということは相手は妖怪の知り合いなのだろう。誰の声だったかと考えながら、魔理沙は声のした方向に大きく叫び返した。
「悪いなあー、今からもう帰る所なんだ」
大きく手を振ってからまた歩き出す。もうしばらく里から離れたせいかぽつぽつと花見客の姿は減ってきていて、魔理沙を呼び掛ける声もそれが最後となった。
もうどのくらい歩いたのだろうか、やがて花見の灯りや賑わいは少しずつ遠くなり、やがては掻き消えた。あとはただひたすら続く桜並木と、夜らしい暗闇と静寂だけが静かに辺りに根付いている。
夜目がまったく利かないというわけでもないが、魔理沙は簡単な魔法を唱えて箒の先端辺りに火の玉を灯した。これなら十間くらいまでの距離なら明るく照らし出してくれる。そうして、そろそろ箒に乗って帰ろうかと考えてみた。足を動かしてきたせいか寒いというほどではないものの、蕎麦を食べた直後のような温かさはすっかり抜けてしまっている。
箒にいつものように跨がろうとして、ふと今の辺りの状況が小町の言っていた「誰もいない桜並木」だということに気が付いた。
特に小町の言葉を信じていたわけでもないが、それでも一瞬身構えてしまう。しかしそうしてみたところで何かが変化するわけでもなく、濃い闇の中に照らされている桜は、やはりただの桜でしかない。時折風が拭いては桜の細い枝を揺らし、その度に雪か何かのように白い花弁がはらはらと降ってくる。
「……帰ろ」
そう独りごちて、今度こそしっかりと箒に跨がった。足で地面を軽く蹴ると、ぶんと身体が浮かび上がって空気を切る。途端に冷たい空気が外套の隙間から入り込んできて首筋を冷やした。寒いなあと顔をしかめつつ、魔理沙はあちこちに伸びている枝を折らないよういつもより慎重に飛び上がる。木々よりもずっと高い位置まで上昇して、それから安心して加速した。
結局小町の言っていたことは最後まで分からずじまいだった。何だか拍子抜けしたような気分で、魔理沙は帰路を飛ぶ。今度彼女に会った時にどんなからかいの言葉をかけてやろうか考えながら、落ちないようにバランスを取りつつ、魔理沙は服のあちこちにくっついている白い花弁を摘み取ることに専念し始めた。
それにしても、さっきからいつまでも背中に張り付いているこの無数の視線のような気配は、一体誰のものなのだろうか。
fin.
非常に面白かった