「アリスが食べたい」
喉が渇いただとか今日は暑いだとか妖精からPが落ちただとか、そんな他愛もないことを言うような感じで、霊夢は言った。
呆然とした魔理沙の手から、海苔付きの煎餅が支えを失い落ちる。
霊夢はそれを地面衝突寸前で拾い、口の中に入れた。
ぺき、ばり、もぐもぐ、ごくん。ずず。
お茶を飲んで、はふ、と溜息を零す霊夢を見て、魔理沙は先程の言葉は何かの間違いだと思い直し、震える手で湯呑みを持った。
ずずっ。
「あっち!」
「何してんのよ」
じと目で向けられる視線に、ひりひりとする舌を出して情けない顔をする魔理沙。
「うええ、痛い」
「心頭滅却すれば火もまた涼し。もう一回口の中に入れて全部火傷すれば大丈夫よ」
「そういうの焼石に水って言うんだぜ?」
いつも通りだった。おかげで魔理沙の頭の中に残っている霊夢の声らしき幻聴は絶賛削除中だった。
さてと。そういって霊夢は縁側から降りた。
靴を履き、爪先をとんとんと打ち、頭のリボンを整え、背伸びした。
いつもの意味のない掃除か、と思いながらも、魔理沙は尋ねた。
「どこいくんだ?」
「アリスを食べに」
「おぃい!?」
湯呑みが落ちかけたが今度はきちんと持ち直した。
削除中止。照合。幻聴じゃありませんでした。
処理が追い付かずパニック状態に陥った魔理沙の頭では、慌ただしい会議が開かれようとしていた。
『前からこいつはぶっとんだ奴だと思っていたがまさか妖怪を食すだなんて言う奴ではなかったはずだ!あ、別にそうでもなかったかも』
『そういえば』
『なんだいつも通りか』
脳内会議終了。
『いやいや!確かにいつも通りだが色々不可解な面があるだろうが』
『じゃあ尋ねればいいだろ』
再び終了。
魔理沙は冷たい自分達を嘆きながら、霊夢を見据えて、呼んだ。
「霊夢ちょいまち」
「なに」
「いや、唐突すぎるだろ」
「魔理沙はお腹が減った、と過程を持って言うのかしら?」
つまり、アリスを食べる=食欲と同じらしい。魔理沙は背筋がぞっとした。
友人がカニバリストだったなんて。止めるべきだろうか。何だか悲しくなりながらも、続けて尋ねた。
「何でまたアリスなんだ」
「アリス可愛いじゃない。あのクールぶった人形師がどんな表情を見せるのかも気になるし」
つまりアリスを恐怖に陥れたいらしい。魔理沙は再び背筋を凍らせた。
友人がサディストだったなんて。魔理沙はそこまで悲しくなかった。それはわりと普段からな気がしたから。というか幻想郷のやつらちょっと冷たいやつ多いし。続けよう。
「何でだ」
「食欲みたいなもんだって」
「お前一度だってそんなこと」
「食べてみたくなったの」
しつこい。そういいたそうな表情で、うっとうしそうに答える霊夢。
「じゃあ行ってくるから」
霊夢が背を向ける。
このままじゃ霊夢が、アリスが。
魔理沙は湯呑みを置き、乱暴に靴に足を突っ込んで、なりふり構わず背中に叫んだ。
「いくらお前が変だからって、どえすだからって、そりゃないだろう!そんなの、私は見たくない!」
「……あんた、食べられたいの?」
身の毛もよだつほどだった。あまりにも悪意がなさすぎて。ただ、不思議そうな顔。
魔理沙が愕然と立ち尽くしている間に、霊夢はふわふわと飛び立っていった。途中、何か黒い穴に入り込んで。
私は、このまま何もしないでいいのだろうか。
いや違う。私は友人として、すべきことがあるはずだ。
霊夢は何かに唆されたに違いない。自主的にそう思ったなんて、嘘に決まってる。
それにアリスだって、仲はよくないがそれなりに認めちゃいるんだ。お菓子美味いし。人形可愛いし。
なんていうか、死なれちゃ寝覚めが悪いんだよ!
絶対、霊夢を救って、アリスを助けてみせる。
そう決意した魔理沙は箒を引っつかむと、最大出力で魔法の森に向かった。
「待ってろよ、今いくひぇっ、いてえ!火傷したとこ噛んだ!」
台無しである。
***
「アリス」
静かな部屋に、声が響く。
呼ばれた主、アリスは人形製作の手を止め、侵入者の顔を捉えた。
「あれ、霊夢。人形のセンサーが反応しないから魔理沙だと思ったのに」
いつからあの鼠と同じ真似をし始めたのかしら?
相変わらずの冷めた視線で霊夢を射抜き、溜息を吐く。
霊夢はそれを聞いて、鼻を鳴らして笑った。
「ふん、魔理沙ねえ。……あ、私今からあなたを食べようと思うの」
「へ」
アリスの無表情が、間抜けた。
「いただきます」
そして、笑顔の巫女が、御札を掲げた。
視界を覆いつくす程のそれが標的目掛けて飛ぶ。
アリスは慌てず騒がず素早く魔力の糸を接続し、所定の位置に人形を配置する。
主人を守るかのような人形は前横後上の4つに留まり、魔力を放出した。
浮かび上がるは半円上の薄い膜。札は全てそれに弾かれて、焼き切れるように消滅した。
「(結界、精度よしみたい。研究しといてよかった)」
ほっと胸を撫で下ろす気分だが、そうもしていられない。
何故ならアリスの目の前に居るのは、妖怪退治のスペシャリスト、博麗の巫女なのだから。
だが残念なことに、アリスの予想の遥か上で分が悪く、霊夢はもはや目の前すぎたのだった。
「馬鹿ね、私は博麗大結界の管理者。そんな結界お遊びみたいなもんなのに」
「えっ」
気付いたら、目の前に居た。まるであのメイド長のように。
アリスは慌ててバックステップを取ったが、予想を削がれたショックで、退路を失念してしまった。
背中に感じるのは、壁の冷たさ。まずい、と思う内にも、霊夢は小動物を追い詰めるようにゆっくりとアリスに近寄ってくる。
そういえば霊夢は食べるといっていた。いつから食妖に目覚めたのかは知らないけれどお腹を壊すからやめなさいとか説得した方がいいのだろうか。
意外と、アリスは冷静だった。走馬灯が見えそうになるくらいに。
とにかく無防備な背中を狙おうと、向こうの人形たちを操ったら、全部、しかも振り向かずに放たれた針に、落とされた。
何この巫女夢想。アリスは絶望した。
「観念なさい、ふふ、ふふふ」
「霊夢らしくないわよ、やめなさい、やめなさいってば、ちょ、や、こ、こないで」
あまりにも霊夢の笑みが怖くて泣きそうになり始めたアリス。
接触まであと数センチというところで最後の抵抗に出た。掴みかかろうとした霊夢の手を、対応する手で握りしめつつ、互いに譲らない。
だが悲しきかなアリスは体力的にはひ弱な一般人。特殊な才能を持った霊夢にぎりぎりと押されつつある。
アリスは顔をくっと逸らして恐怖から逃れ、この状況に膝を屈しようとした。
だが、この緊迫状態に光をもたらしたのは、二人の聞き慣れた声だった。
「霊夢!私が来たからには好き勝手させないぜ!」
扉を開けてやってきた魔理沙は、アリスにはさぞかし救世主に見えただろう。目を開き、顔をあげ、名前を呼ぼうとした。
油断したその口は、霊夢に塞がれた。
「え」
声の主は、魔理沙である。
助けに来たと思ったら、霊夢がアリスにキスをした。
しかもなんかアリスからなまめかしい声が聞こえる。あ、目がとろんとして顔赤くなってる。うわあエロいどうしよう。
魔理沙は顔をてのひらで覆った。もちろん人差し指と中指の間を少しあけて。
どれくらいの時間が経っただろうか。やがて霊夢とアリスの唇は離れ、間をつうと伝う糸が切り離された。
霊夢が手を離すと、アリスはへなへなと崩れ落ちる。息が荒い。
ほんのり顔を上気させただけの霊夢は満足そうだった。
立ち尽くして口を開けている魔理沙の横をすたすたと歩いて過ぎていく。
そして、振り返り、魔理沙が惚れそうになるくらい嗜虐心たっぷりに笑った。
「アリス」
「……」
「ごちそうさま。紅茶味ね」
「ッ~~!!」
それはもう誰も見たことがないくらいに顔を真っ赤にして、アリスは声にならない声を上げ、近くにあった人形を投げる。
霊夢はその顔を見て満足したのか、それはもう楽しそうに空に逃げた。
そして、そのままこのぐちゃぐちゃな状況を放置した。
つまり普通に勘違いをしていたのだと。普通に一人で突っ走っていたのだと。
それを知った魔理沙は急に恥ずかしくなってきて、無性に頭を掻きむしりたくなった。
自分の黒歴史を思い出してしまったようなむず痒い感覚を我慢しながら、あとちょっぴり悔しい思いをしながら、多分もっと恥ずかしいはずのアリスを見た。
不覚にもときめくくらいぷるぷる震えている。まさか初ちゅーか。霊夢は大変なものを盗んだのか。
魔理沙はこれはいけないことだと思い、自分の中からフォローの言葉を探し出した。
「あーなんだ、その」
「……」
「私も食べていいか?」
「帰れ馬鹿ぁぁあああ!!!」
最後のアリスの叫びが可愛いな。