木に腰掛け、遠くに眼をやる。
風が蕾を震わす。萌える緑に雨垂れの装飾。春雨に煙る山は麗しい。
なんとなしに写真を一枚撮った。ただの風景写真。
最近はこういったものをよく撮るようになった。
日常を切り取るようにカメラを向ける。もちろん記事になりはしない。
撮って、日付を書いて、本に綴じて、自分が楽しむ為の写真。
生まれる春、育つ夏、秋に華やぎ、冬に眠る。
風だけで覚えているには、この世界は忙し過ぎる。
しかし雨が止まない。帰れない訳ではないが、羽が濡れると乾かすのが面倒だ。
仕方ない、雨宿りを続けながら今日得た情報を整理しよう。
背後でぱさりと音がした。
振り返ると、傘を持った早苗が居た。
「お迎えに来ました」
「やや、これは有り難い」
驚きを隠して立ち上がる。どうしてここに。
「いい眺めですね」
「お気に入りの場所です」
傘についた水滴を振り払って、当然のように隣に収まってくる。
竹のしなりを見、新緑の色を見、それから顔を向けられる。笑っていた。
「こんなに素敵な眺めなら、もっと早くおしかければ良かった」
「……秘密の場所だったんです。なのに、どうして」
面白くて仕方ない風に笑われた。気に障ってそっぽを向くと、するりと胸元に潜り込んできた。
いつものように腕を回す。背中から包まれるような抱擁は、早苗の好む体勢だった。
顔の横に手を添えられて、耳の後ろを指で優しく叩かれる。
「文さん、あっちを向いて。人里と山を結ぶ道の、あの山桜。あそこを良く見ていたでしょう?」
「ええ。よくご存知で」
早苗がまた、屈託無く笑う。
「あの山桜の下で、私は文さんを見ていましたから」
「はい?」
「花を見るフリをして文さんを眺めていたんです、私」
「はぁ、あんなに濃い枝葉の隙間からですか」
「私は現人神なので。しっかり見えていましたよ? 雨の日だけじゃなく晴れの日も居ましたね」
なるほど、本当に見えていたらしい。
「変な方だとずっと思っていました。桜が好きなのだろうと思っていたら、夏になっても眺めている。
葉桜もまた良いものですよねと共感していたら、秋も変わらず。でも冬は居ませんでしたね? 寂しい木は嫌いですか?」
「本当によく、見えていたんですね」
「言ったじゃないですか。文さんを眺めていたと」
盲点だった。自分から相手が見えるということは、相手もまた私を見ることが出来たということだ。
不意に早苗が震え始めた。寒いのかと気を遣って羽で包む。
手遊びに羽根を毛羽立たせ、撫で付けて整えられる。これをするときの彼女は何かを言いたがっている。
顔を覗き込むとはにかみ照れた様な顔。
「懐かしいなぁ。私、あの山桜に嫉妬してたんです」
「どうしてですか」
「文さんにあんなに見つめられて、羨ましいと……いい機会だから訊いちゃおうかな。ね、文さん。今なら私と山桜、どちらのほうが好きですか?」
「かぁ」
なんてことを訊く娘だ。
彼女は気づいていない。
私が木なんて見ていなかったことに。木に嫉妬していたことに。
自分が言えなかったそれらを、なんでも無いように伝えてくる彼女をどうしようもなく好んでいることに。
「早苗さん、の、ほうが、好きです」
「噛みすぎですよ」
ころころ笑う早苗と向かい合ってなくて良かった。
この娘の年齢の十倍は生きているというのに、まったく気恥ずかしい。自分が赤面しているのが分かる。
「信じきれないなぁ」
「そんなぁ」
「こうしましょう。春になったらあの山桜の下で私の写真を撮ってください。私のほうが山桜よりも綺麗に写っていたら信じてあげます」
「……分かりました。頑張りますから期待しててください」
「楽しみです」
私もですと、聞えないように口だけ動かした。写真が増える。思い出を形に出来る。
雨が止んだら、疾く咲くように東風を吹かせよう。
懐の暖かさは譲ってやらない。
風が蕾を震わす。萌える緑に雨垂れの装飾。春雨に煙る山は麗しい。
なんとなしに写真を一枚撮った。ただの風景写真。
最近はこういったものをよく撮るようになった。
日常を切り取るようにカメラを向ける。もちろん記事になりはしない。
撮って、日付を書いて、本に綴じて、自分が楽しむ為の写真。
生まれる春、育つ夏、秋に華やぎ、冬に眠る。
風だけで覚えているには、この世界は忙し過ぎる。
しかし雨が止まない。帰れない訳ではないが、羽が濡れると乾かすのが面倒だ。
仕方ない、雨宿りを続けながら今日得た情報を整理しよう。
背後でぱさりと音がした。
振り返ると、傘を持った早苗が居た。
「お迎えに来ました」
「やや、これは有り難い」
驚きを隠して立ち上がる。どうしてここに。
「いい眺めですね」
「お気に入りの場所です」
傘についた水滴を振り払って、当然のように隣に収まってくる。
竹のしなりを見、新緑の色を見、それから顔を向けられる。笑っていた。
「こんなに素敵な眺めなら、もっと早くおしかければ良かった」
「……秘密の場所だったんです。なのに、どうして」
面白くて仕方ない風に笑われた。気に障ってそっぽを向くと、するりと胸元に潜り込んできた。
いつものように腕を回す。背中から包まれるような抱擁は、早苗の好む体勢だった。
顔の横に手を添えられて、耳の後ろを指で優しく叩かれる。
「文さん、あっちを向いて。人里と山を結ぶ道の、あの山桜。あそこを良く見ていたでしょう?」
「ええ。よくご存知で」
早苗がまた、屈託無く笑う。
「あの山桜の下で、私は文さんを見ていましたから」
「はい?」
「花を見るフリをして文さんを眺めていたんです、私」
「はぁ、あんなに濃い枝葉の隙間からですか」
「私は現人神なので。しっかり見えていましたよ? 雨の日だけじゃなく晴れの日も居ましたね」
なるほど、本当に見えていたらしい。
「変な方だとずっと思っていました。桜が好きなのだろうと思っていたら、夏になっても眺めている。
葉桜もまた良いものですよねと共感していたら、秋も変わらず。でも冬は居ませんでしたね? 寂しい木は嫌いですか?」
「本当によく、見えていたんですね」
「言ったじゃないですか。文さんを眺めていたと」
盲点だった。自分から相手が見えるということは、相手もまた私を見ることが出来たということだ。
不意に早苗が震え始めた。寒いのかと気を遣って羽で包む。
手遊びに羽根を毛羽立たせ、撫で付けて整えられる。これをするときの彼女は何かを言いたがっている。
顔を覗き込むとはにかみ照れた様な顔。
「懐かしいなぁ。私、あの山桜に嫉妬してたんです」
「どうしてですか」
「文さんにあんなに見つめられて、羨ましいと……いい機会だから訊いちゃおうかな。ね、文さん。今なら私と山桜、どちらのほうが好きですか?」
「かぁ」
なんてことを訊く娘だ。
彼女は気づいていない。
私が木なんて見ていなかったことに。木に嫉妬していたことに。
自分が言えなかったそれらを、なんでも無いように伝えてくる彼女をどうしようもなく好んでいることに。
「早苗さん、の、ほうが、好きです」
「噛みすぎですよ」
ころころ笑う早苗と向かい合ってなくて良かった。
この娘の年齢の十倍は生きているというのに、まったく気恥ずかしい。自分が赤面しているのが分かる。
「信じきれないなぁ」
「そんなぁ」
「こうしましょう。春になったらあの山桜の下で私の写真を撮ってください。私のほうが山桜よりも綺麗に写っていたら信じてあげます」
「……分かりました。頑張りますから期待しててください」
「楽しみです」
私もですと、聞えないように口だけ動かした。写真が増える。思い出を形に出来る。
雨が止んだら、疾く咲くように東風を吹かせよう。
懐の暖かさは譲ってやらない。
愛し合う相手がいるのは良いなぁ…。