まだ慣れない感触を味わいながら、地上に出ている上体を支える為にしっかりと根を伸ばす。仕方の無いこととはいえ、そこから吸い取る水と土の味は昨日までとはやはり異なっている。もし口があったなら愚痴のひとつもこぼしていようが、残念ながら私に口は存在しない。満足に前途を憂うことも出来ないこの身を、今更ながらに不便に思った。
慣れない手付きで私の鉢に水を注いでいた銀髪のメイドは、とりあえずこれでいいかとばかりに小さく息を吐いた。再三言うが、私が口を持っていないことが惜しい。水不足で枯らされるよりはずっと良いが、少々水が多すぎる。下手をすれば根腐れを起こすかもしれぬ、と進言したい所だがそれは叶わない。せめて鉢から受け皿に流れる水の量が明らかに多いことに気付いてほしいものだが、あまり私達の扱いに慣れているようには見えない彼女にそれを期待するのは不毛だろうか。
物珍しさと、仕事上がり故か僅かな疲労感と、それからよく分からない感情を複雑絡めたたえた青いまなこで、ベッドに横たわりながら彼女は私をじっと見つめていた。それからふと腕を伸ばして、まだ濡れている葉の先に触れる。そうして優しくも冷たくもない手付きで私の末端を撫でながら、独り言のように彼女は呟いたのだった。
「今日からここが、あなたの住む場所」
▽
我が輩は植物である。名前はまだ無い。
とまあ冗談めかしてみたが、どこも間違ってはいない。私に個としての名は存在しないし、品種としての名はもちろん有るがそれは省いておこうと思う。自分で断言するのも悲しいものがあるが、私に特筆すべきことなど無いからだ。珍しくも何ともなく、里の花屋で安価で購入出来るような、ただの一年草だ。
そんなことを言ってはみたが、私は花屋の生まれではない。この紅魔館と呼ばれる館の庭で生まれ、そこで育った。育っていたというのが正しいやもしれん。目眩がするような数の同胞の中で育ち、ようやっと蕾を実らせたかと思えば、急に無粋にも根から掘り返され、狭い鉢に植えられた。ざくざくとスコップが少しずつ土を削ってゆく段階で、私は内心で何度も抗議の声を上げたが当然届くはずもない。だがしかし、「何をする」「やめてくれ」「居住権の侵害だ」以下諸々の不平不満は結局、鉢に収まった私を見ながら紅髪の門番が発した「ごめんね」の一言で露と散ったのである。
仕方の無いことだ。日々熱心に私達の面倒を看てくれる彼女の為すことに文句を付ける権利が私のどこにあろう。ただ、それでも敢えて納得の行かない箇所を挙げるならば、私の新たな持ち主が門番ではなく、あのメイドの女性だったことだ。悪人ではなさそうだが彼女はどう見ても、私達のような存在を育てるには向いていないように見える。勘ではあるが、おそらくそう的を外してはいまい。
花壇の手入れが仕事のひとつである門番と比較するのは不適切かもしれないが、彼女と門番では私達に向ける視線の温度も、触れる時の手付きもまるで違う。
善し悪しではない。純粋に、私達のような存在を愛しているかそうでないかの違いだ。
彼女は朝早くに起床して、夜遅くに部屋に戻ってくる。ほとんど明け方近くに帰ってきて一時間ほど眠っては、すぐにまた部屋を出て行くことなどざらだ。
そんな生活を繰り返している彼女は、それでも私への水遣りを忘れることは一度として無かった。清潔に保たれている部屋の様子や、綺麗に整頓された机や寝台を見れば、彼女が几帳面であることはすぐに分かる。そのせいかもしれない。寝る時間はばらついていても、朝はきっちりと同じ時間に起きて身支度を整え、私に水を遣り、部屋を出て行く。
相変わらず水の量は多かったが、彼女が日が当たる場所に私を置いてくれたのは幸いだった。彼女が部屋に居ない日中に私は、窓から差し込む日光を存分に堪能した。もしくは、私の新たな住まいとなった部屋の中をじっくりと観察した。八畳間に寝台、洒落た造りのタンス、本棚、小さな机と椅子。前述した通り部屋はいつも清潔で、整頓されていた。たまに、仕事のためか床いっぱいによく分からない書類やファイルが広がることもあったが、不思議なことにそれらは一瞬の間に消え失せるように片付いていた。
彼女はいつも部屋に戻ってくると、すぐに倒れ込むようにベッドに横になる。そうしてさながら、泥のように眠り込む。時には着替えもせず、メイド服姿のまま眠ってしまうことも多い。そんな時は普段よりも早めに起きて朝風呂に入っているようだが、よくもそれほど起床時間を自分で自由に変えられるものだと感心する。
そんな生活を繰り返すうちに、少しずつ彼女の視線が私に向けられる時間が増えてきたように思う。
蕾が綻びかけてきたことも一因かもしれない。幸いに根が腐ることもなく、私はすくすくと成長を続けていた。
▽
それからしばらくの時間が経った、とある夜。彼女が語りかけてきたことがある。
窓から覗く星の綺麗な晩であった。
彼女が私に向かって口を開いたのは、私をあの門番から引き取ってきた日以来のことだ。
「私ね」
そう言ってから、あの日と同じようにベッドにうつ伏せになりながらこちらを見ていた彼女は、何かを考え込むように黙り込んだ。私は元より、黙ることしか出来ない性質であるから、やはり彼女と同じように黙したまま彼女の次の言葉を待っていた。
「……最初は、花になんて全く興味が無かったの。どうせすぐ枯れてしまうものに、何かしらの感情を抱くなんて馬鹿らしいからって」
すぐ枯れてしまうもの、とは酷い言い草ではあるが、事実なので反論はしなかった。
すると私を見下ろしていた彼女は、今度はぽふんと枕に頭を横たえて私を見る。美しい銀髪が枕の上に広がり、天井の灯りを反射してか所々輝いていた。空に浮かんでいる星の瞬きにも劣るまい。私は自分がまだ外の花壇で、有象無象と肩を並べながら夜空を眺めた日々のことを思い出した。
「でもね」と呟くようにして彼女は続けた。
「でも、あの人からすれば、私だって同じようなものなのよね。まあ、人じゃないけど」
あの人という言葉に、親愛と恋慕が混ざり合ったような響きを見出したような気がした。きっと今彼女が口にしている人物は、私もよく知っている相手なのではないか。ただの想像に過ぎないけれども。
彼女の声は大変耳心地が良かったので、私は貴重な彼女の声を聞き逃すことのないよう、まさに全身全霊を彼女の方に傾け、一言も聞き漏らすまいとした。
だから彼女の声のトーンが少しばかり下がったことには、すぐに気付いた。
「あの人が私のことをそう思ってるんじゃないか、すぐに死ぬつまらない存在として情けをかけられてるに過ぎないんじゃないか。
私には、それが怖くてたまらないの」
彼女の表情が、今までとはまるで変わる。
まるで置き去りにされた子どものそれのようになる。不安と悲哀と、形容出来ない様々な感情とを混ぜ合わせたような淡い影を浮かべて、唇を固く結ぶ。
今までに、彼女がこのような弱々しい面を見せることは一度たりとも無かった。それはおそらく私の前だけではなく、彼女が顔を合わせる全ての人物の前でもそうなのだろうと、漠然とした確信を抱いていた私は少し驚いた。
けれども、そんな時間はそう長くは続かなかった。
十数秒後には彼女の顔付きはいつもの毅然としたものに戻った後に、柔らかな笑みが満ちた。伏せられていた睫毛が上げられて、憂いを帯びていた影が消え失せる。きつく結ばれて色を失っていた薄い唇が赤味を取り戻す。
私が見てきた中で、もっとも好きな表情をたたえながら、彼女は腕を伸ばして、今度は葉ではなく私の花弁に触れた。
「貴方はいい子ね。こんなに綺麗に咲いてくれたもの」
そうして、手のひらで柔らかく撫でてくれたのだった。
もう花弁もほとんど抜け落ち、あらかた水分を失ってしわしわに乾涸びている私のどこが綺麗だというのか。そう疑問を抱いたが、彼女が私に向ける視線はあの日とは異なり、慈愛のようなものに満ちているように見えたものだから、少なくとも彼女が満足する程度には美しく咲くことが出来たのだろうと自分を納得させることにした。
褒めて貰った代わりに何か気の利いた言葉でも返せれば良かったのだが、残念だ。これほどまでに自分に口が存在しないことをうらめしく思った日は無い。だからせめて、私の考えていることが彼女に少しでも伝わってくれればいいものなのだがと思いながら、そっと心うちで念じてみた。
あなたの意中の相手は、あなたに対してそんなことをこれっぽっちも思ってはいまい。安心するといい。
なぜなら彼女はあなたを見る時はいつだって、あなたが今私に向けているような目をするからだ。それこそ綺麗な花を見るような。
安心するといい。
彼女はしばらくの間、私を撫で続けていた。
その間はもう喋ることもせず、私から目を離すこともしなかった。
それからしばらくして、いつものように泥のごとく深く眠った。
▽
何事も無かったかのように、また日は昇る。
彼女は今日も、少しばかり眠そうな目を擦りながら私に水を遣っている。
やっぱり水が多すぎやしないか、としみじみ考えている私はいつものように、そのうち外が明るくなって日が差し込む瞬間が早く来ないものか、待ちわびているのである。
fin.
綺麗な花が古風な話しかた(?)というのが面白かったです
出来ることなら、花になりたいです…
花になりたい。
面白かったです
奇麗な話ですね。いいわぁ。
来たれ、60年周期の花の異変ッ!
でも、綺麗に咲いてくれたんだから許します(笑
花を贈った「彼女」の想いがほのかに見え隠れするさまが、美しいですね。