「これは何?」
色とりどりの液体の入った数々の小さなガラスの小瓶の一つを手にとって、咲夜は首を傾げる。中にはきらきらと光に反射する粉末や、星やハートの形をしたチップが入っているものもある。
薄緑のケースの中にお行儀よく収まったそれを見ているとどこか心が躍る。
それを懐かしそうに目を細めて眺めていた早苗は、咲夜の声に微笑んで答えた。
「これは、マニキュアですよ」
しかし、その言葉だけでは伝わらなかったのか、怪訝そうな顔は崩れない。
そこで、早苗は口の端に左の人差し指を当てて、うまい説明を考える。今日は何度も同じように噛み砕いた説明を繰り返したためか、時間をかけることなく再び口を開いた。
「ネイルアートって言って分かりますか?」
「爪芸術?」
「あはは……。直訳しますか」
大真面目な顔で呟く咲夜に少し苦笑。しかし、それでもニュアンスは間違っていない。
最近では色を塗るだけではなく、絵を描いてみたり、盛って飾りつけたりすることも一般的になりつつあった。それはもう芸術の域に近いほどに。
「要するに、爪のお化粧ですよ。磨いてみたり、色を塗ってみたり」
「爪紅のこと?」
「あー、こっちではそう言うんだっけ」
現代っ子の早苗からしてみれば、幻想郷の時代がかった言い回しは聞きなれない。よく知ったものであるはずなのに、言葉が違うがために分からない、伝わらないということもしばしばある。
普段、どれだけカタカナ語に依存してきたか、ということを実感させられた。
「向こうではたくさん色があるのね」
「そうですか?」
「ええ」
普段の冷静な姿はどこへやら、興味津々といった様子で次々と手にとっては眺めている咲夜。それを見ていると、早苗は不思議と楽しい気分になってきた。
咲夜が早苗の部屋を訪れたのは、今日が初めてのことだ。
もともと、二人は霊夢や魔理沙も交えて人間飲みを決行することも少なくはなかったが、お互いに若干距離感のある付き合いをしていた。直接の友人同士というよりは、友人の友人同士といった関係が近いだろうか。
宴会を行う際にも、ともに支度や片付けを担当することも多かったが、どこか他人行儀感の抜けない二人は、霊夢、魔理沙と接する時とは違い、わざわざ二人きりになることはこれまでなかった。
しかし、ついこの間行われた宴会の際、早苗が外の世界にいた時の話をしたことで咲夜と早苗の関係は変わりつつあった。
もともと珍しい品物を眺めたり、集めたりするのを好む咲夜が、その時早苗の持っていた道具に強い興味を示し、これまでにないほどに積極的に絡んでいったのである。戸惑いつつもそれを楽しんだ早苗が、家に遊びに来るよう誘ったのが今日の訪問のきっかけである。
「これは何かしら?」
「ああ、それはCDですよ。中に音楽のデータが内蔵されているんです」
「音楽?」
「レコードの亜種ですね。蓄音器では再生できないけど」
「できないの?」
「残念ながら、幻想郷では電池も電気もありませんからね」
「宝の持ち腐れね」
「そんなことはないですよ。いらないのはカラス除けにも使えますし」
「妖怪の山でそれを使う必要って」
「それに、あと何十年かしたら幻想入りしてくるかもしれませんしね」
「ああ」
「その時、懐かしく聞けたらいいなぁ、なんて」
「……いいんじゃない?」
「これは?」
「タンブラーです」
「コップということでいいのかしら。ふたがついてるのね」
「水筒代わりにもなるから便利なんですよー。これは魔法瓶になってますし」
「魔法?向こうでは魔法は使えないんじゃなかった?」
「これはそう言う名前だって言うだけで魔法は関係ありません」
「じゃあ、どういう意味なのよ?」
「温かいものは温かいまま、冷たいものは冷たいまま持ち歩けるので、それが魔法みたいってことなんじゃないですか」
「ふーん……。仕組みはどうなっているのかしらね」
「そこまではちょっと……って、咲夜さん!ばらそうとしないでください!」
「ちっ」
「舌打ちしないでください。これコーヒーショップの限定品でお気に入りなんですから」
「これは?」
「ああっ、それは見ないでください!」
「そう言われると見たくなるのが人のさがよね」
「咲夜さーん、いやー」
「アルバム?あらあら、小さい早苗がいっぱいいるわ」
「うう、ひい」
「このポーズにはなにか意味があるのかしら。前に聞いた時はピースが一般的だと言っていたけど」
「こ、これは……その」
「年代ごとにポーズが変わるのね。そういう儀式か何か?」
「……分かってて聞いてるでしょう」
「さあ?」
「……その時好きだったキャラクターの決めポーズの真似をしているだけです、いいじゃないですか、子供だったんですから」
「あ、これは弾幕ごっこの時のポーズね」
「あああ、言わないでー」
「ぜぇぜぇ、咲夜さんあなた鬼ですか……」
「残念、悪魔の狗よ」
「……、みんなには言わないでくださいよ」
「どうしようかしら。あ、これは?」
「誤魔化さないでください!って、懐かしい、プリクラだ」
「ぷりくら?」
「友達と撮りに行く写真のシールですよ。よく撮りに行ったなあ……」
「我等友情永遠不滅、映画見てきちゃったよ~、テストサイアク」
「落書きは自分たちでできるんですけど、真顔で読み上げられると何とも言えない気持ちになりますね」
「これは一体どういうことなのかしら」
「ああ、変顔ですか。あえて、変な顔をして写るんです」
「なんで?」
「様式美、ですかね。意外とやってみると楽しいんですよ?」
「じゃあ、今この顔をしてみてくれる?」
「……絶対やです」
これは、あれは、と次々に質問を投げかけてくる咲夜に答えるのは楽しかった。懐かしいものや、当たり前だと思っていたものが実はそうではなかったり。異文化コミュニケーション。
何より、普段大人びていて少し怖いような印象を持っていた咲夜が意外にも子どもっぽく、気さくなところがあると知れただけでも早苗としては大満足だった。結局同じような年頃の少女に変わりはないのだということに気付かされた。
用意したお菓子も次々と減り、咲夜自ら淹れた紅茶はすっかり冷めきっていて。
それでも二人の会話は途切れることはなかった。
そうして、今、咲夜が目をつけたのが早苗のネイルアートグッズだった。
一時期、ものすごく凝っていたためにコレクションしていたのだが、幻想郷に来てからは使う機会がなかったそれはやや埃をかぶっている。
しかし、それを楽しそうに見やる咲夜を見ていると、早苗の中に当時の情熱が甦り、むらむらしてくる。
「よかったらつけてみません?」
「え?」
「心配しないでください、これでも私すごい得意なんですよ」
戸惑う様子の咲夜に胸を張って語る。事実、あちらにいた頃、自分はもとより神奈子や諏訪子にも塗っていたし、学校の友達にもうまいと褒められ、時には頼まれることもあったほどだ。
少しばかりブランクはあるけれど、そんなに簡単には鈍らないはずだ。
咲夜が答えるよりも先に、早苗の頭の中ではどの色を使うか、どのチップを使うか、その配置など迅速にプランニングが始まっていた。
「せっかくだけど、いいわ」
「ええっ、そんな」
しかし、あっさりと咲夜は断りの言葉を告げる。既に盛り上がった気持ちでいた早苗は心底残念そうに声を上げた。
咲夜は、そんな早苗の髪をそっと撫でながら、少しだけ楽しそうに笑う。
「仕事が仕事だもの。掃除はともかく、お嬢様方のお食事の支度をするのにそんなのつけてたら不衛生でしょう?」
「あ……そっか」
その理由は早苗にも言えることだった。そもそも幻想郷に来てから、ネイルアートをしなくなったのは、風祝という職業があるからこそ。神に仕え、信仰を集める存在が珍妙な色の爪をしていてはいけないと思っていた。
メイドである咲夜はそういう精神論以前に、実務的にマニキュアを付けるわけにはいかない。
しかし、頭では分かっていてもやはり名残惜しいのか、再び咲夜は小さな容器を手にとっては、心持ちうっとりした様子で眺めている。
今だけ。
今だけ塗って帰り際に除光液で落としてしまえばいいんじゃないだろうか。
そんな考えが浮かびかけるけれども、早苗は首を振ってそれを否定する。それじゃあ、ほんの一時間も付けていられない、つまらない。
そう言えば、初めてのマニキュアを買ってもらった時も同じように悩んでいたことを思い出す。高校と違って校則の厳しい中学校ではマニキュアなんてもってのほかだった。
友達の中には、遊びに行くたびに塗っては学校に来る前に落としているせいで、爪がぼろぼろなんて子もいた。流石に早苗はそんなことはしなかったけれど。
ただ、靴下を脱ぐ用事のない日には、足の爪にこっそりと仕込んでいたものだ。
誰にも見られることはないけれど、それを塗っているということ自体が楽しかったのを覚えている。
「そうです!咲夜さん!」
「ちょ、早苗?」
思いついてしまった。早苗は瞳をきらりと輝かせて、咲夜の両手を握りしめる。
「足を出してください!」
「はあ?」
「足があるじゃないですか!」
こうなった早苗は誰にも止めることができない。咲夜が何か言うよりも先に靴下を脱がしにかかる。タイツではなかったのが不幸中の幸いか。
あまりに突然すぎて目を白黒させる咲夜はしかし、時間を止めて逃げることはしなかった。その代わりに、足を動かして早苗の手を蹴り上げる。
「あう。何するんですか?」
「それはこっちのセリフ。いきなり靴下を脱がそうとするとかどんな変態よ?」
呆れた様子で腕組みをし、ため息をつく咲夜を見て、少し正気に戻った早苗は申し訳ない気持ちになる。
一度だけ深呼吸。
「足の爪に塗るペディキュアって言うのがあるんです。使うのは同じものですけど」
「足の爪、ねえ」
「足なら別に仕事にも差し支えないでしょう?だから……その」
恥じ入るような、申し訳なさそうな中途半端な表情でぼそぼそと呟く。どうも思い込むと一直線みたいな癖が抜けなくて困る。
すっかりしょげてしまった様子の早苗を横目で見ながら、咲夜は少し考える。
足の爪という発想はなかった。幻想郷は常識にとらわれないと、早苗は言うけれど、咲夜にしてみれば外の世界の方がよっぽど常識にとらわれていないように思う。
しかし、足か。
足ならば仕事に差し支えることもなければ、美鈴やらレミリア、ついでに魔理沙や霊夢に見られることもまずない、すなわち冷やかされることもない。
それは咲夜にとっては申し分ない条件だった。
「じゃあ、お願いしようかしら」
「え?いいんですか?」
その言葉を聞くと同時にぱっと顔をあげた早苗の顔は希望に満ちあふれている。
先ほどまでの落ち込みぶりが嘘のように輝いている瞳に僅かに苦笑した。
「じゃあ、靴下を脱いでそこのベッドにでも腰かけてください」
「ベッドに?」
「ああ、勉強机の椅子でもいいですけど。いまはちょっと……」
勉強机の上のみならず、椅子の上にまで積み上げられた品々は、今日咲夜が興味を持って引っ張り出してきたものばかりだ。どければ座ることができるが、それをするのは面倒くさい。
そんな早苗の心境を読み取った咲夜は小さく頷いて、座布団からベッドに移動する。
「流石に床に座ったままだとやりづらいですからね」
「確かに」
換気のために窓を開けた早苗は、腕まくりをして咲夜の前に座る。そうして、咲夜の白い足を手に取って、爪の色や形を確かめた。
それをされている咲夜は恥ずかしい。普段まじまじと足を眺められることなんかまずあり得ないのだから。
「ちょっと、早苗、くすぐったい」
「ああ、すいません。それにしても咲夜さん」
「……なによ」
「爪の形、きれいで羨ましい。こんなにきれいな人あんまりいませんよ」
「……っ、いいから、早く始めなさいよ」
「あれ?照れてる?」
「そんなわけないでしょう?」
軽い言葉の応酬。そうして、まず早苗はベースコートを手にとって、小指から順番に塗り始める。
「透明なの?」
「これは化粧下地みたいなものですよ。必要以上に傷まないようにするためかな」
「ふーん」
「あ、動かないでくださいね。はみ出たらみっともないですし」
「ええ。……ねえ、早苗」
「なんですか?」
「この体勢、何かを彷彿とさせない?」
「なにか?」
「ひざまずいて足をお舐め的な」
「……それは流石に」
「そうかしら」
「レミリアさんに毒されすぎだと思いますけど。その発想は普通ないです」
「……」
憮然とした様子の咲夜を見て早苗は笑う。ベースコートが乾くのを待ちながら、どのマニキュアを使うか、チップを使うか考える。
「どの色がいいですか?」
「早苗に任せるわ。その方がよさそうだし」
ひらひらと手を振る咲夜。実際にどんな発色をするかも分からないのだし、ここは詳しい人に任せるのが得策に違いない。
自由というお許しを得た早苗は、本領発揮とばかりに考える。
せっかくだから、少しばかり奇抜な色合いにしてみようか。足だし立ち仕事も多いからチップはほんの少しだけにした方がいいに違いない。
うん、これでいいかな。
ケースの中からいくつかの小瓶を取り出して、準備はオーケー。
ずり下がってきた袖を再び上げ直して、早苗は再び咲夜の足を手にとった。その瞳に宿るのは闘志か。情熱か。
「じゃあ、始めますね」
「よろしく」
真剣な表情で情熱的に、しかし、丁寧に色をのせていく早苗を手持無沙汰に眺める咲夜。
ちょっと恥ずかしいけれど、楽しい。
紅魔館の面々と過ごす時間とも、霊夢や魔理沙との付き合いとも違う。
これまでに経験したことがない新しい友人関係。
それは不思議と心地よく、悪いものではないと咲夜は思った。
「じゃあ、今日はありがとう、楽しかったわ」
「いえいえ、こちらこそ。とってもやりがいがありました」
帰りがけ、玄関先まで咲夜を見送ってきた早苗に咲夜は微笑む。
ブーツを履く際に、靴下の下、思っていたよりもずっと素晴らしい出来のネイルアートが隠れていることを思い出して、こそばゆいような落ち着かない高揚のようなものを覚えた。
早苗もまた、自分のすべてを出し切った満足感から笑顔を崩すことはない。今日、神奈子様と諏訪子様が帰ってきたら、久しぶりにやらせてもらおうかしら、そんなことを考えるほどに充実した時間を過ごした。
「また、来てくださいね。それで、またやらせて?」
「ええ、こちらこそお願いするわ」
おねだりをするような瞳で、少し甘えた声を出す早苗と、それに笑って答える咲夜の間に隔たりは存在しない。
ようやく、ここにきて本当の意味で友人となったように、二人は感じていた。
「今度は私にもやらせてもらえる?」
「ええ?」
「ダメかしら?」
「いえいえ!手とり足とり教えちゃう!」
「なにそれ」
「えへへ」
早苗さんは外の経験活かして財をなせそうな気がするなw
おちょくるって言うか茶目っ気のある咲夜さんはやっぱり素敵だ。
「この体勢、何かを彷彿とさせない?」
↑ごめん。足に塗るって言った瞬間から思ってた。俺も毒されてたようだ。
とっても面白かったです。
微笑ましいのと…なんか貴重な物を見た…っていう読後感がすごいw
>当時の情熱が甦り、むらむらしてくる
早苗さん、メラメラして下さいww