昔アラブの偉いお坊さんが
恋を忘れた哀れな男に
しびれるような 香りいっぱいの
琥珀色した飲みものを 教えてあげました
(J.M.ペローニ『コーヒー・ルンバ』より 訳詞:中沢清二)
ドアをノックする音が三回聞こえたら、それがティータイムの合図だ。
「入りなさい」
促すと、壁越しでもよく通る透明なアルトで「失礼します」と返事。蝶つがいをきしませることなくスッとドアが開いて、瀟洒なメイドが入ってくる。
「あら」
レミリアは顔を上げるとぱちくりと瞬きをした。齢五百を数える夜天の女王らしからぬ、見た目どおりの少女らしい素直な驚きの仕草だった。メイドはすました顔で、マホガニーの上品なティーテーブルの上に、お盆の上のものを置いた。
「それは何かしら」
するとメイドはその質問を待っていましたというように、ニコリと微笑んだ。
「コーヒーですわ、お嬢様」
ひとつずつ並べられる、大きめのポット、茶色い豆粒のぎっしり詰まった小瓶、ハンドルのついた小物入れのようなもの、漏斗(じょうご)のようなものを乗せた取っ手つきの容器……。今までのティータイムには見なかったものばかりだ。
「コーヒー? 私に紅茶以外のものを飲めというのかしら」
「ええ、面白いことを聞いたものですから」
と、なにやら得意げな顔。その先を話したくてたまらない、と言いたげ仕草に、レミリアはあごを手に乗せて、「ふぅん?」と大して興味がある風でもないように、さりげなく先を促す。それでもくりくりの目は紅く輝き、引かれる興味を隠しきれていなかった。メイドは時を計るようにスッと息を吸うと、言った。
「コーヒーは、悪魔の飲み物と言われていたそうです」
近世欧米ではあまりの人気に、コーヒーの禁止令が出ることも珍しくなかったとか、特に女性はカフェに入ることすら困難だったとか。十字教としては異教徒の飲み物である上に、民を誘惑するという意味で、確かに悪魔の飲み物だったのだろう。当事の為政者は頭を抱えたようだった。
その答えに、レミリアは「私にうってつけね」とケラケラ笑った。主人につられるように笑って、メイドは内心少しの安堵を覚える。紅茶が用意できなかったとは言わない。茶葉を全部ダメにしたのは例の黒白だけど、彼女はメイド長としての管理責任がある(黒白は責任を持って吊るし上げておいた)。それにそんな些末なことで主人の心を曇らせることは彼女自身のプライドが許さない。しかしないものはどうしようもないので、急遽代用品を用意。主人の機嫌を損ねない演出もばっちり。さすがは十六夜咲夜、緊急事態対応も瀟洒。
「もちろん、希少品なんでしょうね」
「ええ、『悪魔のように黒く、地獄のように熱く、愛のように甘い』と謳われた豆に私が独自ブレンドをしました、名づけて『ヴァンピリッシュナイト』ですわ」
歌うように言うと、レミリアはますます面白いというように足を組み直した。
「いいわ、淹れなさいな」
「承知しました」
小物入れ、ではなく豆挽き器――コーヒーミルに豆を入れ、てっぺんのハンドルを回す。きゅるきゅると回すほどにカリカリと豆粒の砕かれる感触、そしてほのかに広がる芳ばしい香り。レミリアの目が咲夜の手を追って右左、右左。幼子のような仕草に咲夜の頬が緩む。豆を挽き終わるとドリッパーの漏斗にろ紙を置き、こなごなになった茶色い豆を敷く。咲夜はサイフォンよりもドリッパーでつくったコーヒーを好んだ。砂時計に似てるからかしらん、となんとなく思ってクスリと笑い、ポットを持ち上げる。沸騰してすぐに時を止めておいたため、中のお湯は熱々だ。軽くお湯を豆に注いで少し放置。蒸らすことによって香りが増すのだ。そろそろ頃合、と咲夜は懐中時計を手放し、蒸れた豆の上に勢いよくお湯を注いだ。すると漏斗の下から瓶の中に、琥珀色のしずくがポタポタポタ……と溜まりはじめる。レミリアはもはやそれの虜になったように、一滴一滴が落ちるさまを食い入るように見つめた。
待つこと数秒、瓶の中は黒い液体で満たされた。咲夜はそれをカップに注ぐ。もちろんいつものティーカップを使うなどといった落ち度はない。お嬢様お気に入りの、茶葉の匂いが染みるほどに使われたカップに別の液体を注ぐなど無粋極まりないと、彼女はちゃんと知っていた。コーヒーにはコーヒーのために、新たに飾り気のない真っ白なカップを用意した。ソーサーに金のスプーンを乗せて、レミリアの前に音を立てずに差し出した。
「お砂糖とミルクはいかがいたしましょう」
「いらないわ」レミリアは黒い湖面をためつすがめつして、カップを鼻先に近づけて香りを楽しんだ。ツンとほろ苦く、しかしどこか甘い香り。「コーヒーの味を楽しむならブラックが一番、なのでしょう?」
「かしこまりました」
メイドは一礼するとさりげない足取りでテーブルから一歩離れた。そんな知識を吹き込んだのは誰だろうかと考えつつ、主人の横顔を、失礼にならない程度に眺める。目をつぶって香りを楽しむようにしていたレミリアは、ハープを弾くような柔らかな手つきでカップを持ち上げると、ヒラリと一口、琥珀の液体をすすった。コクン、と白い喉が動く。そして、
「……にが」
「え」
主人の口からわずかに漏れたつぶやきは、確かに咲夜の耳に入った。「あの、お嬢様。お砂糖とミルクを」
「いらないと言っているでしょう」
レミリアは咲夜をにらんだ。しかし夜天の女王の鋭さはない。ひりひりする舌を隠してちょこっと涙を浮かべ、拗ねたような上目遣いになっている。「そんな子供だましにたよらなくても、コーヒーの味くらいわかるわ」
私を誰だと思っているのかしら、と鼻を鳴らすお嬢様。咲夜は表面上の平静を保つことに全神経を集中していた。心のダムが決壊寸前だった。少しでも気を抜けば、お嬢様をめいっぱい抱きしめてしまいかねない。お嬢様は今も平気な顔をしてコーヒーに口をつけているけど、我慢をしているのが見え見えだ。背伸びをして大人の味に挑戦する幼子のような様子に、愛おしさはすでにカンスト。彼女をなんとか踏みとどまらせているのは瀟洒なメイドとしてのプライドとお嬢様への忠誠心だった。
「お、おいしいわ咲夜」
だからそう可愛らしく眉をひそめられながら仰っても説得力がなくて破壊力は抜群ですお嬢様。
「……お褒めに与り光栄ですわ」
なんとかそれだけ言う。お互いに微妙にギクシャクしつつも、レミリアがたっぷりと時間をかけてカップの中身を飲み干し、ティータイムならぬコーヒーブレイクは終わりを告げた。
「面白い趣向だったわ」
ナプキンで口を拭き、レミリアは読みかけの文庫本を開いた。咲夜はテーブルの上を片付けると、恭しく一礼した。そしてすました顔をして文字を追うお嬢様の横顔に、ちょっとした悪戯心がわくのを抑えられなかった。
「それでは、これからも偶にはコーヒーをお出ししましょうか」
ぴたりとレミリアの目の動きが止まった。さらに追いうち。「お気に召されたようですから……やはり悪魔の飲み物はお嬢様に相応しいですわ」
お嬢様の顔が形容しがたい表情を作る。拗ねているような、引きつろうとするのを我慢するような、中途半端な笑みのような。そう、ぴったりの言葉があった。“苦々しい顔”だ。
「……そうね。悪魔だもの。……そうなさい」
その返事に満足して、咲夜はドアのところでまた一礼した。「あ、い、一か月に一度くらいで良いわよ!」と慌てて付け足すお嬢様に微笑み返してから、部屋の外に出て音を立てずにドアを閉めた。
ちょうど部下のメイドが一人廊下を通り過ぎて、すれ違いざまに一礼すると、咲夜の顔を不思議そうに見た。さっき入れたコーヒーはいまだ盆の上で芳しい香りを立てている。我ながら良い出来だ、後で頂こうかしら、クラシックのレコードなど聞きながら。咲夜はクスクスと笑みがこぼれるのを堪えられず、うきうきとした足取りでキッチンへと向かった。
こうして、十六夜咲夜の生活にまたひとつ、楽しみが加わったのだった。
ええ! コーヒーのおいしさったら、
千のキスよりなお甘く、
マスカットワインよりもなおソフト。
コーヒー、コーヒー欠かせない。
私を慰めてくれるつもりなら、
ああ、コーヒー入れてちょうだいな!
(J.S.バッハ『コーヒー・カンタータ』BWV211.より 作詞:ピカンダー 訳詞:杉山好)
いいぞ咲夜さんもっとやれ。
にやけが止まりません
(誰が上手いこと言えとry
次は是非エスプレッソをw
>鱸様
あのフレーズは、蝶最高な漫画のライナーノートにもありましたがフランスの政治家タレーランが美味しいコーヒーを誉めたときの言葉だそうです。俺もそんなコーヒー飲みたい。
>名無し妖怪様
流行だったのか! とりあえずお嬢様はなんか弄りたくなるという風潮は間違っていないと思います。
>名無し妖怪様
上手い! コーヒーソーサー10枚!(迷惑
>CODEX様
それだと枕詞に「夜明けの」が付きそうでどうにもアレです。
……むしろアリ?
ご馳走様でしたっ!