妹紅が台所に立っている。
その珍しい光景を、慧音はぼんやりと見つめている。リズミカルな包丁の音を聞きながら、てきぱきと動く後姿を、何をすることもなく見ている。普段のYシャツともんぺの上に割烹着を着た姿は、中々に似合っていた。仕草がやけに落ち着いているせいで、新妻というよりは家政婦さんにしか見えない。
それでも、自分のために甲斐甲斐しく料理を作ってくれている――その事実が慧音の心を躍らせた。
本当に新妻ならいいのに。
左右に動く尻を、もとい後姿を見ながら慧音はそう思う。いや、別に新妻に限ったことではない。姉でも妹でも母でも娘でも何でもないいのだ。
家族という絆が築ければ。
家族という枠組みにはめれれば。
妹紅は自由だ。生と死すら彼女を縛りつけることはできない。燃え上がる炎がどこまでも広がっていくように、彼女は遠くへいつでも行ける。幻想郷にとどまっているのは、蓬莱山 輝夜がいるからに過ぎない。
もし、輝夜がどこかへ行ってしまえば。
それに妹紅はついていってしまうのだろう――慧音は、ひそかにそう不安に思っていたのだ。
そうすれば、自分は置いていかれてしまう。妹紅はきっと振り返りもしないだろう。彼女にとっての目標は、目的は、蓬莱山 輝夜への復讐なのだから。たとえ、怨む気持ちが一片も残っていなかったとしても。
だから、家族になりたいのだ。
ずっと一緒にいられるように。
勝手にどこかへ行ってしまわないように――家族という単位で、家族という絆で、妹紅をくくりつけてしまいたいのだ。
それが浅ましい考えだとは解っていたが、それでもその思考を否定することはできなかった。
何よりも深いところで、妹紅がいなくなれば寂しくなると、慧音は自覚していたから。
「――つッ」
どこまでも深く沈んでいきそうな思考は、妹紅の声に遮られた。
小さく押し殺した、痛みに耐える声が聞こえたのだ。
「妹紅……? どうしたんだ」
かける声は、かすかに震えていた。さっきまで、変なことを考えていたからだ。下手すれば漏れ出してしまいそうな『不安』の感情を、慧音は限りなく限界まで押し殺した。
そんな感情を知ってか知らずか、妹紅は明るい声で答えた。
「いや、指を斬っただけさ」
ほら、と言って妹紅が振り返り、右手を広げて突き出した。
妹紅の白い人差し指。その指が、今は紅色に染まり始めていた。
指さきが、ぱっくりと裂けていたのだ。調理中に包丁で切ってしまったに違いない。傷は深くはなさそうだったが、とろとろと血が溢れ出ていた。
――奇麗な血の色だ。
まるで、妹紅の放つ火のように明るい血だ。そんな、場違いなことを慧音はふと思ってしまった。そんなことを考えていたのはわずかな間だった。すぐに思考は現実へと引き戻される。
「だ、大丈夫なのか!? すぐに治療を、」
慌てて立ち上がりかける慧音。
その慧音の動きを、妹紅は「いやいや慧音」と言って留める。
「こんな傷、舐めてりゃ治るって」
言って、妹紅は指をくわえる。血のついた、傷のついた指を。
その仕草を慧音は不安そうに見つめる。大丈夫だろうか、今のうちに包帯でも持ってきた方がいいだろうか。そんなことを考えながら。
二秒が過ぎ、三秒を越え、四秒を迎えたあたりで、慧音は口から指を離した。
その指に、もう血はついていない。かすかな唾液がついてるだけだ。
そして、傷もまた、残ってはいなかった。
ようやく慧音は思い出す。妹紅にとっては、傷など意味をなさないものだと。
不死者である妹紅。老いることも死ぬこともない程度の能力。あんな小さな傷など、あっという間に治ってしまうのだ。
妹紅が怪我をした。その衝撃が強すぎて、そんな当たり前な、単純なことが、慧音の頭からすっぽりと抜け落ちていた。
「そうか……そうだったな」
「だろう? さ、飯にしよう」
妹紅は唾がついた指をエプロンでぬぐい、出来上がった料理――今日は鍋だった。妹紅がイノシシを刈ってきたのだ――を、慧音の前の机にまで運んできた。
とん、と優しく机に鍋を置き、妹紅はエプロンを外して、慧音の正面に座った。注ぎ皿と箸はすでに机の上に備えてある。
妹紅が先に手を合わせる。
それに次いで、慧音も同じように手を合わせた。
『いただきます』
二人の少女の声が輪唱し、同時に鍋へと箸を伸ばした。本当は箸で直接取るのは行儀が悪いのだが、今は二人しかいないので気にしてはいない。野菜が中心なので、箸のほうがすくいやすいのだ。時折、汁をそそぐときにだけお玉を使う。
美味かった。
妹紅がとってきたイノシシで妹紅が作った鍋を妹紅と食べるのは、他のどんな料理、どんな食事よりも美味しいと、慧音は思うのだ。
それは勿論直接の味の問題ではない(もっとも、妹紅が作る料理は、慧音でなくとも美味しいと褒め称えただろうが)。
食材ではなく、料理であり。
栄養摂取ではなく、食事ならば。
感情が味に多く影響を与えるのは、間違いのないことだった。
好きな人と、好ましく思う相手と一緒に食べるご飯以上に美味しいご飯が、どこにあろうか?
つまりは、そういうことだった。
■ ■ ■
「――痛ぃ」
食事が中ほどまで進んだとき。
今度苦痛の声を漏らしたのも、また妹紅だった。
鍋に目を落としていた慧音が顔をあげると、妹紅が食器を机に置き、口を半開きにしていた
。
半開きになった口の向こうに、紅色のものが覗いている。
唇と、舌と、それ以外の理由で紅色に染まったものが。
「しひゃはんだ」
口を開いたまま妹紅がそう言う。
その口の中からは、血が滴り出ていた。
今日は疲れてるんだ、そうその顔が言っていた。慧音に心配をかけさせまいという笑み。
しかし、慧音はそんなものを見てはいなかった。
慧音はただただ、何かに魅入られたかのように、一心に妹紅の舌を見ていた。
血が滴り落ちる、妹紅の舌を、見つめていた。
傷ついた舌を、じっと見ていた。
「――れば」
慧音の口から漏れた声は、意識したものではなかった。
意識の管轄から離れた感情が、勝手に声を出したのだ。
「な、なんひゃ?」
そのおかしな様子に気づいたのか、妹紅の声はすこしどもっていた。
が、やはり慧音はそんなことを気にしない。
慧音の目は、舌にだけ、血にだけ、紅色のソレにだけそそがれている。
視線をそらさずに、慧音は動く。
じりじりと、立たないままに、妹紅の眼前へと迫る。
――妹紅にとっては、傷など意味をなさないものだ。
そう解っていた。
解っていても、意味などなかった。
目の前に傷ついた舌がある。血が出た舌がある。
紅色の唇の向こうに、紅色の舌が覗いている。
奇麗な――紅の色。
その紅に、慧音は、ふらふらと引き寄せられた。
止められなかった。
止める気など、少しもありはしなかった。
「――舐めれば、治るんだろう?」
今度は、意識して言った。
そして――妹紅が何を言い返すよりも、何をするよりも早く、慧音は動いた。
加減することなく、目の前の妹紅の唇に、自らの唇を重ねたのだ。
キス、などという、生易しいものではなかった。
荒々しく、口から血と、生気をすうのを目的とした吸血鬼のような、勢いと情欲に満ちたものだった。
「ん――ッ!」
重なった口の向こう。妹紅の舌と喉が動いたのを、慧音は直接肌で感じた。
もっと感じたいと、思ってしまった。
舌を伸ばす。妹紅の口の中へと。口と舌と血を、慧音は自らのしたで蹂躙していく。
それは蹂躙だった。
貪欲に愛情を求めるかのような、舌を使っての強姦だった。
舌といわず口といわず、妹紅の中全てを、慧音は舌で嘗め回していく。口の中にある血を一片も残さないように。
気づけば、慧音は、妹紅を押し倒していた。
畳と慧音に挟まれた妹紅の身体が、時折感極まったようにびくんびくんと震えた。それでも慧音は止まらず、よりいっそう強く舌を動かす。
口からこぼれ出たよだれが、畳に後をつけた。
何分たったか、慧音にも、妹紅にも解らなかった。
ようやく慧音が正気に戻ったのは、唾液がでなくなり、喉が渇くような――それほどまでに
キスをしたあとだった。
「あ――」
正気に戻りかけた慧音が、ゆっくりと顔を離す。
少しだけ離れて、倒れたままの妹紅の顔を見る。
妹紅の瞳が、かすかに潤んでいた。その紅く上気した表情を見て、慧音はもう一度口付けしたくなるのを必死にこらえた。
「とりあえず落ち着け慧音」
ばっ、と。
今度は身体を起こして、慧音は少し距離をとった。
なんてことをしてしまったんだ――そう後悔すらできない。あまりにもキスの感触が生々しく残っていて、後悔しようとする気にはなれなかった。
ただ、とんでもないことをしてしまったという、漠然とした感情だけがそこにあった。
何を言えばいいのかもわからない。
ただただ、妹紅の反応を、しかられるのを待つ子供のように慧音は待つ。
妹紅は、ゆっくりと上体を起こして、慧音を見て、口を開きかける。
が、何かを言われるのが怖くて、慧音はその言葉を遮って言った。
「あ、その、すまない……」
謝る慧音。
その慧音を見て、妹紅は、やれやれ、とでも言いたげに、小さくため息をついた。
あきれられたのだろうか。嫌われたのだろうか。
慧音の心配を吹き消すかのように、妹紅は小さく笑った。
「気にするな、よくあるさ……多分」
そう言って、妹紅は慧音と視線を合わせる。
その瞳は、真っ向から、慧音を見つめていた。
慧音もまた、視線を外さずに、妹紅を見た。
絡み合った視線の中、妹紅が言う。
「慧音も切ったな。血ぃ出てるぞ」
「え?」
反射的に慧音は問い返す。
が、内心では、その意味に気づいていた。
慧音の唇の紅色。
それが、本当に怪我だったのか、妹紅にも慧音にもわからない。
妹紅の血が付いただけなのかもしれない。本当に怪我をしたのかもしれない。そもそも血などついていなかったのかもしれない。ただの唇の紅色というだけかもしれない。
けれど、そんなことは、二人の少女にとっては、意味のないことだった。
もはやそれは口実でしか過ぎなかった。理由でしかないと解っていた。本当のことなど、もはやどうでもよかったのだ。
今度は――妹紅から動いた。
ほんの少し離れた慧音の頬に手をそえ、その頭を優しく引き寄せて、
「ん――」
怪我をしないよう、優しく唇をつけた。
今度のキスは、甘く――長く続いた。