蓬莱山輝夜の猛攻に耐えかねた藤原妹紅は、為す術なく背中から倒れ込み。
そのまま、輝夜に唇を奪われた。
(……へ?)
あまりにも突然のことにうろたえる妹紅を、そのまま輝夜は蹂躙し続ける。
舌が歯をねぶりまわす。そのまま顎をこじ開けられた。舌先が、舌先に触れる。輝夜がためらったのはほんの一瞬で、すぐにそれを容赦なく絡めとった。
倒れた妹紅の背に腕を回して抱き起こし、輝夜はそのまま口を吸い続ける。
ぬめぬめと動く舌は、時に柔らかく、時に強引に妹紅をいたぶった。柔らかいときはそのまま溶け合ってしまいそうだったし、硬いときはそのまま喉を刺し貫かれるかと思った。
必至に逃れようとしても、自分の口の中に逃げ場があるはずもなく、舌の付け根を痛めるだけの徒労に終わった。
自分を抱き起こしていた輝夜の手は、そのまま肩に上ってくる。
もはや傍目には、抱き合っているようにしか見えないだろう。
もうなんかどうでもいいや、と妹紅は思ってしまった。
ここまでに至る過程を思い返してみる。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ここは竹林の外れにある、少しだけ開けた草叢だ。ちょうど天頂には、もうすぐ満ちる月がかかっている。ここからの月の眺めに、月の姫だった輝夜は思うところがあったのだろう。ここ一月ほど、ひとり永遠亭を抜け出して、空を見つめていることがよくあった。
最近になってその宿敵の習性を知った妹紅は、そこを狙って輝夜に襲い掛かるようになったのである。物思いにふける彼女を邪魔すれば、興も大いに削がれることだろうと思ったからだ。
そして、丑三つ時になろうかという頃。今夜もいつもと同じように、ひとり佇む輝夜に前口上もなく勝負を挑んだ。
溢れる殺気をすでに感じ取っていたのだろう。すぐさま輝夜も応戦し、いつもの殺し合いが始まった。
今夜の戦いは、終始輝夜の優位だった。妹紅も決して調子が悪いわけではなかったが、相手がどうやら絶好調すぎたようだ。弾幕を次々とその身体に叩き込まれた妹紅は、ついに体勢を崩し。
そのまま、押し倒されて唇を奪われた。
「ん……」
「んあ……」
少し力の弱まった時を見計らい、顔を背けて逃れようと試みる。
しかしまるで、獲物に喰らい付いた蛇のごとく、輝夜は離れようとしない。
逆にそのまま迫られて押し返され、ついに彼女の重みを全部預かる格好となってしまった。
輝夜の衣からは、香が焚き染めてあるのだろう、何とも言えない香りが立ち昇る。
鼻でしか呼吸の許されない妹紅は、先程からそれを余すところなく吸わされている。くらり、と意識が揺れた。
このままじゃ、溺れてしまう。
妹紅は左手を地についたまま、右手を輝夜の頭へと持っていった。無理矢理引き剥がすことにしたのだ。そのまま全力を以って鷲掴み、頭蓋を砕かんという勢いで頭を握る。
始めは抵抗したものの、輝夜は意外にすんなりと唇を離した。
始まりと同じく、終わりも突然であった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
口周りが、自分のものでない唾液で濡れている。気持ちが悪くて、袖口でごしごしと拭った。
「な、な」
なんでこんなことを、と問い詰めたいのだが、頭が全く回らない。口付けのせいだろうか、それとも香のせいだろうか。
輝夜は何も言わず、月を背にして、ただ無邪気に笑っていた。少しだけ満ち足りぬ月が、その輝夜の顔に陰を足し、どうしようもなく妖艶に見せている。
こいつはいつもこうだ、と妹紅は思う。
輝夜の動作には、どんなものであろうと気品が漂う。空を見上げる姿はもちろん、スペルカードを発動する時も、空を飛ぶ時も、虫の息の自分を踏みつけている時も。自分が死ぬ時ですら例外ではない。火焔に包まれ炭と化していく姿に、思わず見惚れてしまったこともある。
「な、なんで」
「ねぇ、妹紅」
ふわりと、輝夜は浮き上がった。
「今日は私の負けでいいわ」
「……はぁ?」
「うん、私の負け。だから――」
楽しそうに言葉を紡ぐ輝夜の唇は、回折した月光を受けたのか、てらてらと輝いている。
袖で口を拭うなどという下品な所作はしない。多分、袖でそうすることなど端から知らないのかもしれない。
「また明日、ここで会いましょう」
呆然と座り込む妹紅をひとり残して。
輝夜は、飛び去っていってしまった。
◆ ◆ ◆
朝昼夕と過ぎ、日付は変わって、そしてまた丑三つ時。
妹紅はあばら家の戸を開け、外へ出た。
欠けることない強烈な満月が、そろそろ南中を過ぎようとしている。
この時間の風も、随分過ごし良いものになった。次の満月には、あちこちで月見の宴が開かれることだろう。
その美しい月は妹紅の瞳には映れども、しかし染みこむことはなかった。
「はぁ。行くか」
昨夜の輝夜の言動が、あれからいちいち思い返されて、全く眠れなかったのである。
こんな寝不足では、昨夜よりもボロボロにされるのは火を見るより明らかだ。
そして、また昨夜のように……
「………………」
頭を振って、妹紅は飛び上がった。
貴女の勝ち、と輝夜は言ったが、そんな文句をそのまま受け取ることは当然できない。
というか、何を以って自分が勝ったのかが全く分からない。
満月に浮かされて、妖精たちが竹林のあちこちで乱舞している。そのなかの一匹が妹紅に向かってきた。それは彼女の腕の一振りでいなされ、瞬く間に消滅してしまう。
ふと、ぶり返す、昨日のあの、舌の感触。
ぞくりと肌が粟立ち、思わず妹紅は自分の肩を抱いた。
まただ。また前触れもなく、昨夜のことがフラッシュバックする。
顔が火照ってきて、このままどこまでも飛んでいってしまいたくなる。
「……なんなのよ、一体」
誰かに口を吸われるなど、妹紅には経験がなかった。初めてだった。
しかもそれを、女にされるなど。
なぜそんなことをしたのだろうかと、ずっと思いを巡らせていたものの、答えは出なかった。
宇宙人の考えることなど、誰にも理解できないのだから。
眼に剣呑な光を湛えた妖精がまた一匹、妹紅に突進してきた。
羽虫でも追い払うように、振り払う。
そういえば、と今になって思い当たった。
「輝夜が次の日の約束をしたことなんて、あったっけ?」
二人の戦闘が始まるのは、どちらから仕掛けるにせよ、いつだって突然であった。
そしていつも、殺すか殺されるかして終わる。怪我をしたからといって、戦いから逃げることに意味などないからだ。腕や脚の一本を吹き飛ばされたところで、殺し合いに影響はない。
だから、そもそも明日の約束など取り付けられようはずもないのだ。
それに、永遠を生きる者にとって、明日がどれほどの意味を持つだろうか。
命に限りある人間同士であればいざ知らず、死ぬことのできぬ蓬莱人ふたりの間で、明日の約束を交わす意味など果たしてあるのだろうか。
特に輝夜は、過去でも未来でもなく、「今」だけをとりわけ大事にして生きているのではないか、と思わせる節がある。永遠の命を持つくせに、その闇夜を舞う様は、なぜか妹紅に明日のない蜉蝣を喚起させるのである。
「ん?」
不意に、妖精たちのダンスの奔流が、向きを変えた。
妹紅の真正面、竹林のはるか向こうから、妖力のような力を感じる。
どうも妖精たちは、そちらへ引き寄せられているようだった。
妖怪も(あるいは人間でさえも)、満月の夜には気狂いのように力を持て余す。見えない光に導かれ彷徨い出た妖怪が竹林で暴れているとか、そんなところだろう。
ならば、殺し合いの準備運動代わりにでも退治してやるか。
ふふ、と笑い、妹紅はスピードを上げた。
この距離なら、あの下手人の下に辿り着くまで1分も要しない。
弾幕が嵐のように跳ね回る場所を遂に目視して、妹紅は、
「はぁ?」
なんだか間の抜けた声を漏らしてしまった。
暴れているのは、というかじゃれつく妖精たちを片っ端から薙ぎ倒しているのは、人と妖の女ふたり組だ。
片方はどうやら、服装から見るに巫女のようだ。
もう一方の妖怪には見覚えがない。だがその佇まいを見る限り、輝夜に比肩する力を持っていそうだ。
御札が、針が乱れ飛んでいる。轟音のなかふたりは、妖精たちの弾をものともせずにかわし切り、程なくしてそれらを全て調伏した。
つかの間の静寂の中、声が聞えてくる。
「どうしてわざわざこんな夜に、こんな所に来なきゃいけないのよ」
「暇だったんでしょう。別にいいじゃないの」
「これで何もなかったら、あの女またとっちめてやるんだから」
「確かにあの姫君、適当な嘘をつきそうではあるわね。胡散臭いもの」
「……あいつも、あんたに言われたくはないでしょうよ」
「ふふ。でも、ほら」
紫の妖怪が、こちらを振り返った。
「どうやら嘘はついていなかったようよ」
こいつらは、どうやら自分が目的らしい。妹紅は問い掛けた。
「そこのお二人さんは何の御用事かしら? こんな月夜に、迷いの竹林まで」
「いやね、ちょっとばかり肝試しに参りましたの」
「暇だったしね」
暇、か。
見たところ、妖怪の方はともかく、巫女の方はまだあどけなさの残る顔立ちをしている。人の生は、特に若くあれる時間は余りにも短いというのに、その貴重な時間を「暇」の一言で斬って捨てるとは。
「ここには、肝を試せるようなものなど何もないわよ」
どうやらこいつらは、満月に狂わされてここまで来たというわけではないらしい。ならば、さっさと追い返してしまおう。
輝夜の下に、行かなければならないのだ。
だがそんな妹紅の思考を断ち切るように、目の前の妖怪が言葉を紡ぐ。
「そうかしら? 今しがた永遠亭の姫君から、『今宵の竹林には本当に怖いものがある』と聞かされて参りましたのに」
「……輝夜が?」
「あら、あいつと知り合いなの? なら――」
巫女が御札を構えた。霊力を受けてだろう、指に挟まれたそれは淡く光を発している。
「肝を試してくれるのは、あんたってことよね」
「いや、もしかしたら、『私たちの肝を試す』のではなくて、『私たちが肝を試す』のかもしれない」
「どっちでもいいわよ。弾幕を叩き込んで、ハンコ押してもらえば任務完了だわ」
だんだんと張り詰めていくふたりの戯言は、しかし妹紅の耳には入らなかった。
「約束、したんじゃなかったの? あいつってば」
「ん、何? 何か言った?」
「……ふん。いや、別に何も」
吐き捨て、同時にその身から火焔を滾らせる。形を持たないはずの炎が、まるで衛星のように周回を始める。
何故だかそれは、いつもより赤々と燃え盛っているような気がした。
「ハンコは簡単にはあげられないわ。今宵は満月だからね、私も気が立っているの」
心の隅で、千の齢を生きてもまだ知らなかった感情が渦巻き始めている。
昨夜の輝夜の、あの微笑みが蘇る。
だが妹紅は、それら全てを無視することに決めた。
このふたりは、輝夜が自分に差し向けた刺客なのだ。あの約束を踏みにじって。
いやそもそも、どうして自分は、あんないけすかないヤツとの約束を律儀に守ろうとしていたのだろう。
「私は死なない、死ねない人間。貴女たちがどれだけ頑張ろうと、不死は超えられない」
風が止んだ。
妖精たちも、余りに強大な力のぶつかり合いを予感したのか、その羽音さえも聞こえない。
「殺しはしないから、帰ったら輝夜に伝えなさい。『刺客なんかお呼びでない。あんたじゃなきゃ、私は倒せない』ってね!」
そして月夜の竹林で、永い永い弾の舞いが始まった。
◆ ◆ ◆
「いざ肝試し。肝を試すのよ。肝」
博麗神社で、肝試しの挑戦者たちを見送った輝夜に、控えていた永琳が進言した。
「ところで、今夜はあの炎使いと待ち合わせていたのではなかったのですか?」
「そうだったっけ?」
「そうですよ。貴女が明日の予定を立てるなんて、って。今日は槍が降るかと思っていたのに」
「そういえば、そんなこともあった気がするわ」
振り向いた輝夜の笑顔は、満月のように穢れがない。
そして満月が星灯りを消し去ってしまうように、輝夜の笑顔もまたきっとどこかで何かを吹き飛ばしているのだろう。
かつて五つの難題を男たちに投げかけるような事態になったのも、この笑顔が元凶だったのだから。
「ま、あの人間たちがみんな追い払われて戻ってきたら、その時は私が行ってあげる」
「はぁ。そうですか」
永琳は物陰へ下がり、そのまま陽炎のように消えた。
輝夜は、相変わらず笑い続けている。
その思うところなど、推し量れようはずもない
宇宙人の考えることなど、誰にも理解できないのだから。
そのまま、輝夜に唇を奪われた。
(……へ?)
あまりにも突然のことにうろたえる妹紅を、そのまま輝夜は蹂躙し続ける。
舌が歯をねぶりまわす。そのまま顎をこじ開けられた。舌先が、舌先に触れる。輝夜がためらったのはほんの一瞬で、すぐにそれを容赦なく絡めとった。
倒れた妹紅の背に腕を回して抱き起こし、輝夜はそのまま口を吸い続ける。
ぬめぬめと動く舌は、時に柔らかく、時に強引に妹紅をいたぶった。柔らかいときはそのまま溶け合ってしまいそうだったし、硬いときはそのまま喉を刺し貫かれるかと思った。
必至に逃れようとしても、自分の口の中に逃げ場があるはずもなく、舌の付け根を痛めるだけの徒労に終わった。
自分を抱き起こしていた輝夜の手は、そのまま肩に上ってくる。
もはや傍目には、抱き合っているようにしか見えないだろう。
もうなんかどうでもいいや、と妹紅は思ってしまった。
ここまでに至る過程を思い返してみる。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ここは竹林の外れにある、少しだけ開けた草叢だ。ちょうど天頂には、もうすぐ満ちる月がかかっている。ここからの月の眺めに、月の姫だった輝夜は思うところがあったのだろう。ここ一月ほど、ひとり永遠亭を抜け出して、空を見つめていることがよくあった。
最近になってその宿敵の習性を知った妹紅は、そこを狙って輝夜に襲い掛かるようになったのである。物思いにふける彼女を邪魔すれば、興も大いに削がれることだろうと思ったからだ。
そして、丑三つ時になろうかという頃。今夜もいつもと同じように、ひとり佇む輝夜に前口上もなく勝負を挑んだ。
溢れる殺気をすでに感じ取っていたのだろう。すぐさま輝夜も応戦し、いつもの殺し合いが始まった。
今夜の戦いは、終始輝夜の優位だった。妹紅も決して調子が悪いわけではなかったが、相手がどうやら絶好調すぎたようだ。弾幕を次々とその身体に叩き込まれた妹紅は、ついに体勢を崩し。
そのまま、押し倒されて唇を奪われた。
「ん……」
「んあ……」
少し力の弱まった時を見計らい、顔を背けて逃れようと試みる。
しかしまるで、獲物に喰らい付いた蛇のごとく、輝夜は離れようとしない。
逆にそのまま迫られて押し返され、ついに彼女の重みを全部預かる格好となってしまった。
輝夜の衣からは、香が焚き染めてあるのだろう、何とも言えない香りが立ち昇る。
鼻でしか呼吸の許されない妹紅は、先程からそれを余すところなく吸わされている。くらり、と意識が揺れた。
このままじゃ、溺れてしまう。
妹紅は左手を地についたまま、右手を輝夜の頭へと持っていった。無理矢理引き剥がすことにしたのだ。そのまま全力を以って鷲掴み、頭蓋を砕かんという勢いで頭を握る。
始めは抵抗したものの、輝夜は意外にすんなりと唇を離した。
始まりと同じく、終わりも突然であった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
口周りが、自分のものでない唾液で濡れている。気持ちが悪くて、袖口でごしごしと拭った。
「な、な」
なんでこんなことを、と問い詰めたいのだが、頭が全く回らない。口付けのせいだろうか、それとも香のせいだろうか。
輝夜は何も言わず、月を背にして、ただ無邪気に笑っていた。少しだけ満ち足りぬ月が、その輝夜の顔に陰を足し、どうしようもなく妖艶に見せている。
こいつはいつもこうだ、と妹紅は思う。
輝夜の動作には、どんなものであろうと気品が漂う。空を見上げる姿はもちろん、スペルカードを発動する時も、空を飛ぶ時も、虫の息の自分を踏みつけている時も。自分が死ぬ時ですら例外ではない。火焔に包まれ炭と化していく姿に、思わず見惚れてしまったこともある。
「な、なんで」
「ねぇ、妹紅」
ふわりと、輝夜は浮き上がった。
「今日は私の負けでいいわ」
「……はぁ?」
「うん、私の負け。だから――」
楽しそうに言葉を紡ぐ輝夜の唇は、回折した月光を受けたのか、てらてらと輝いている。
袖で口を拭うなどという下品な所作はしない。多分、袖でそうすることなど端から知らないのかもしれない。
「また明日、ここで会いましょう」
呆然と座り込む妹紅をひとり残して。
輝夜は、飛び去っていってしまった。
◆ ◆ ◆
朝昼夕と過ぎ、日付は変わって、そしてまた丑三つ時。
妹紅はあばら家の戸を開け、外へ出た。
欠けることない強烈な満月が、そろそろ南中を過ぎようとしている。
この時間の風も、随分過ごし良いものになった。次の満月には、あちこちで月見の宴が開かれることだろう。
その美しい月は妹紅の瞳には映れども、しかし染みこむことはなかった。
「はぁ。行くか」
昨夜の輝夜の言動が、あれからいちいち思い返されて、全く眠れなかったのである。
こんな寝不足では、昨夜よりもボロボロにされるのは火を見るより明らかだ。
そして、また昨夜のように……
「………………」
頭を振って、妹紅は飛び上がった。
貴女の勝ち、と輝夜は言ったが、そんな文句をそのまま受け取ることは当然できない。
というか、何を以って自分が勝ったのかが全く分からない。
満月に浮かされて、妖精たちが竹林のあちこちで乱舞している。そのなかの一匹が妹紅に向かってきた。それは彼女の腕の一振りでいなされ、瞬く間に消滅してしまう。
ふと、ぶり返す、昨日のあの、舌の感触。
ぞくりと肌が粟立ち、思わず妹紅は自分の肩を抱いた。
まただ。また前触れもなく、昨夜のことがフラッシュバックする。
顔が火照ってきて、このままどこまでも飛んでいってしまいたくなる。
「……なんなのよ、一体」
誰かに口を吸われるなど、妹紅には経験がなかった。初めてだった。
しかもそれを、女にされるなど。
なぜそんなことをしたのだろうかと、ずっと思いを巡らせていたものの、答えは出なかった。
宇宙人の考えることなど、誰にも理解できないのだから。
眼に剣呑な光を湛えた妖精がまた一匹、妹紅に突進してきた。
羽虫でも追い払うように、振り払う。
そういえば、と今になって思い当たった。
「輝夜が次の日の約束をしたことなんて、あったっけ?」
二人の戦闘が始まるのは、どちらから仕掛けるにせよ、いつだって突然であった。
そしていつも、殺すか殺されるかして終わる。怪我をしたからといって、戦いから逃げることに意味などないからだ。腕や脚の一本を吹き飛ばされたところで、殺し合いに影響はない。
だから、そもそも明日の約束など取り付けられようはずもないのだ。
それに、永遠を生きる者にとって、明日がどれほどの意味を持つだろうか。
命に限りある人間同士であればいざ知らず、死ぬことのできぬ蓬莱人ふたりの間で、明日の約束を交わす意味など果たしてあるのだろうか。
特に輝夜は、過去でも未来でもなく、「今」だけをとりわけ大事にして生きているのではないか、と思わせる節がある。永遠の命を持つくせに、その闇夜を舞う様は、なぜか妹紅に明日のない蜉蝣を喚起させるのである。
「ん?」
不意に、妖精たちのダンスの奔流が、向きを変えた。
妹紅の真正面、竹林のはるか向こうから、妖力のような力を感じる。
どうも妖精たちは、そちらへ引き寄せられているようだった。
妖怪も(あるいは人間でさえも)、満月の夜には気狂いのように力を持て余す。見えない光に導かれ彷徨い出た妖怪が竹林で暴れているとか、そんなところだろう。
ならば、殺し合いの準備運動代わりにでも退治してやるか。
ふふ、と笑い、妹紅はスピードを上げた。
この距離なら、あの下手人の下に辿り着くまで1分も要しない。
弾幕が嵐のように跳ね回る場所を遂に目視して、妹紅は、
「はぁ?」
なんだか間の抜けた声を漏らしてしまった。
暴れているのは、というかじゃれつく妖精たちを片っ端から薙ぎ倒しているのは、人と妖の女ふたり組だ。
片方はどうやら、服装から見るに巫女のようだ。
もう一方の妖怪には見覚えがない。だがその佇まいを見る限り、輝夜に比肩する力を持っていそうだ。
御札が、針が乱れ飛んでいる。轟音のなかふたりは、妖精たちの弾をものともせずにかわし切り、程なくしてそれらを全て調伏した。
つかの間の静寂の中、声が聞えてくる。
「どうしてわざわざこんな夜に、こんな所に来なきゃいけないのよ」
「暇だったんでしょう。別にいいじゃないの」
「これで何もなかったら、あの女またとっちめてやるんだから」
「確かにあの姫君、適当な嘘をつきそうではあるわね。胡散臭いもの」
「……あいつも、あんたに言われたくはないでしょうよ」
「ふふ。でも、ほら」
紫の妖怪が、こちらを振り返った。
「どうやら嘘はついていなかったようよ」
こいつらは、どうやら自分が目的らしい。妹紅は問い掛けた。
「そこのお二人さんは何の御用事かしら? こんな月夜に、迷いの竹林まで」
「いやね、ちょっとばかり肝試しに参りましたの」
「暇だったしね」
暇、か。
見たところ、妖怪の方はともかく、巫女の方はまだあどけなさの残る顔立ちをしている。人の生は、特に若くあれる時間は余りにも短いというのに、その貴重な時間を「暇」の一言で斬って捨てるとは。
「ここには、肝を試せるようなものなど何もないわよ」
どうやらこいつらは、満月に狂わされてここまで来たというわけではないらしい。ならば、さっさと追い返してしまおう。
輝夜の下に、行かなければならないのだ。
だがそんな妹紅の思考を断ち切るように、目の前の妖怪が言葉を紡ぐ。
「そうかしら? 今しがた永遠亭の姫君から、『今宵の竹林には本当に怖いものがある』と聞かされて参りましたのに」
「……輝夜が?」
「あら、あいつと知り合いなの? なら――」
巫女が御札を構えた。霊力を受けてだろう、指に挟まれたそれは淡く光を発している。
「肝を試してくれるのは、あんたってことよね」
「いや、もしかしたら、『私たちの肝を試す』のではなくて、『私たちが肝を試す』のかもしれない」
「どっちでもいいわよ。弾幕を叩き込んで、ハンコ押してもらえば任務完了だわ」
だんだんと張り詰めていくふたりの戯言は、しかし妹紅の耳には入らなかった。
「約束、したんじゃなかったの? あいつってば」
「ん、何? 何か言った?」
「……ふん。いや、別に何も」
吐き捨て、同時にその身から火焔を滾らせる。形を持たないはずの炎が、まるで衛星のように周回を始める。
何故だかそれは、いつもより赤々と燃え盛っているような気がした。
「ハンコは簡単にはあげられないわ。今宵は満月だからね、私も気が立っているの」
心の隅で、千の齢を生きてもまだ知らなかった感情が渦巻き始めている。
昨夜の輝夜の、あの微笑みが蘇る。
だが妹紅は、それら全てを無視することに決めた。
このふたりは、輝夜が自分に差し向けた刺客なのだ。あの約束を踏みにじって。
いやそもそも、どうして自分は、あんないけすかないヤツとの約束を律儀に守ろうとしていたのだろう。
「私は死なない、死ねない人間。貴女たちがどれだけ頑張ろうと、不死は超えられない」
風が止んだ。
妖精たちも、余りに強大な力のぶつかり合いを予感したのか、その羽音さえも聞こえない。
「殺しはしないから、帰ったら輝夜に伝えなさい。『刺客なんかお呼びでない。あんたじゃなきゃ、私は倒せない』ってね!」
そして月夜の竹林で、永い永い弾の舞いが始まった。
◆ ◆ ◆
「いざ肝試し。肝を試すのよ。肝」
博麗神社で、肝試しの挑戦者たちを見送った輝夜に、控えていた永琳が進言した。
「ところで、今夜はあの炎使いと待ち合わせていたのではなかったのですか?」
「そうだったっけ?」
「そうですよ。貴女が明日の予定を立てるなんて、って。今日は槍が降るかと思っていたのに」
「そういえば、そんなこともあった気がするわ」
振り向いた輝夜の笑顔は、満月のように穢れがない。
そして満月が星灯りを消し去ってしまうように、輝夜の笑顔もまたきっとどこかで何かを吹き飛ばしているのだろう。
かつて五つの難題を男たちに投げかけるような事態になったのも、この笑顔が元凶だったのだから。
「ま、あの人間たちがみんな追い払われて戻ってきたら、その時は私が行ってあげる」
「はぁ。そうですか」
永琳は物陰へ下がり、そのまま陽炎のように消えた。
輝夜は、相変わらず笑い続けている。
その思うところなど、推し量れようはずもない
宇宙人の考えることなど、誰にも理解できないのだから。
真理はここにあった!
姫様、もっとやっちゃってください
俺なら姫様のお考えだって理解できますよモチロンジャナイデスカ