鴉が此方を見ている。
桜の木に止まっている二羽の鴉が此方をじっと凝視めるのだ。
外では雨が降っていて、蕾しか付いていない、裸の桜の木に止まった処でまるで意味のないことである。
僕は不気味に思い、しゃっとカーテンを閉めた。
「御機嫌よう」
八雲紫であった。
この少女は、ドアを使ってくれない、唯一困った妖怪である。
少々、苦手なのだが、ストーブの燃料を分けてくれるので邪険にできない。
「やあ、いらっしゃい。偶にはドアを通ってくれないだろうか」
「ドアなんて在りました?ああ、あの薄い板っぺらのこと」
紫は、ドアを指差し、ころころと笑う。
云って無駄になることは火を見るより明らかだった。
だが、別に諭す心算などなかった訳だが。
「処で、どうしてカーテンを閉めたのです?景色が何も見えないわ」
「見てみれば、解るよ」
ほう、どれ。と紫は面倒そうに漂い、カーテンを少しだけ開いた。
「何も変な処は在りませんわ。御覧なさい」
僕はカーテンを少しだけ開き、外を見た。
居るのだ。二羽の鴉が、鳴くのでもなく、視線を泳がすのでもなく。
唯、此方を見ているのである。
僕は、カーテンを乱暴に閉めた。
「どうされました?」
「矢張り、外を見る気になれない」
「どうして?」
「鴉がね、居るのさ。君も見ただろう。二羽、桜の木に止まっていてじぃっとこっちを凝視めるからさ」
「可笑しなことを云う人ね。鴉なんて居ませんわ」
紫は、再びカーテンを少しだけ開き、外を見た。
「ほら、やっぱり鴉なんて居ませんわ」
「嘘だろ。何処を見たんだ?桜の木だぞ」
「勿論、桜の木を見ました。けれど鴉なんて居なかった」
まるで、鼬ごっこをやらされているかのような気分だった。
もう一度、カーテンを少しだけ開けて、外の桜の木を見た。
二羽の鴉は、身動き一つせず、此方を凝視めるだけだった。
雨宿りするなら、他の場所に行けば良いのに、どうして此処なのだろう。
せめて、此方をじっと凝視めることを止めてくれれば良いのに。
「どう?居なかったでしょう」
「居たよ。黒くて大きいんだから、視えないなんてことはない筈だろう?」
「気の所為でしょうね。私が身間違うなんて有り得ないもの」
紫は、寝惚けた人が見間違えたのさ。と唄った。
僕はお化けか、それに近しいものを見ているのだろうか。
然し、幽霊は餅を伸ばしたような姿をしていて、鴉の姿になどなる筈はない。
「そうねぇ、鴉天狗を怒らせたとか?謝りに行きますか?」
「恐いことを云うじゃないか。生憎、そんなことをした憶えはないよ」
紫はあらそう、と素っ気ない返事を返してきただけだった。
僕はカーテンを見た。向う側にはまだ、鴉が居るのだろうか。
そう思わなければもう居ないのだろうし、そう思うのならまだ居るのかもしれない。
兎に角、今はカーテンを開けたくなかった。
「カーテン、開けませんか?薄暗くって善く見えませんわ」
紫が顔をぬっと近づけて、ほら、貴方の表情も善く見えません。と云った。
息が掛かる程近かった。瞳が紅く妖しく爛爛と輝いている。
成程、確かに見えないと思った。
然し、カーテンを開けることだけは嫌だった。
この薄暗さが鴉の視線から守ってくれているのだと思えば、これ程安らぐ空間はなかったからである。
紫の顔が遠退いた。
「詰らない人ね」
その言葉の意味の理解は出来ない。
この少女の云う事など、理解しようと思う時点で無駄である。
紫は少し頬を膨らませたが、全く似合っていなかった。
「せめて灯りでも付けませんか?矢張り、嫌なのでしょうね」
此処から逃げ出そうか、と考えたが生憎傘は置いていなかった。
否、偶に来るのだが、今日はそんな気分ではないらしい。
「鴉が、恐いのですか?」
「否、そう云う訳じゃないよ。唯、監視されてるみたいで」
「監視…」
嫌がる気持ちを抑え、ほんの少しだけカーテンを開いた。
鴉はまだ居た。僕を、その黒い羽毛と区別の付かない瞳に映すのか。
紫はくすりと、不気味に笑った。
「恐がりね。よっぽど臆病なのかしら?」
「まあ、そうなのかもしれないね」
紫の笑みは一層不気味さを増した。
さぁさぁと静かに降っていた雨だったが、急に勢いを増し、喧しくなった。
一瞬、八雲紫の不気味さ=雨の激しさと云う、意味も訳も解らない式が浮かんだ。
きっと、意味なんてないし、訳も在る筈がない。偶々なのだろう。
僕はその有り得ない考えを拭い去った。
「処で、紫。君は、何か用があって此処に来たんじゃないのか?」
遅かったと思った。
来店直後に云う筈の言葉を、僕は今頃になって云った。
「ええ、勿論」
紫は、笑みを崩さずにそう云った。
「でも、もう充分ですわ」
「それは一体どう云う――」
「もう良いわ。ありがと」
「――ことなんだ?」
紫はもう、そこに居なかった。
問い掛けに対する返答などなく、薄暗い店内に居るのは僕一人である。
鳥の羽撃く音が雨の轟音に混じって聞こえた。
カーテンを開けて見てみると、既に鴉は二羽とも飛び立った後であった。
桜の木に止まっている二羽の鴉が此方をじっと凝視めるのだ。
外では雨が降っていて、蕾しか付いていない、裸の桜の木に止まった処でまるで意味のないことである。
僕は不気味に思い、しゃっとカーテンを閉めた。
「御機嫌よう」
八雲紫であった。
この少女は、ドアを使ってくれない、唯一困った妖怪である。
少々、苦手なのだが、ストーブの燃料を分けてくれるので邪険にできない。
「やあ、いらっしゃい。偶にはドアを通ってくれないだろうか」
「ドアなんて在りました?ああ、あの薄い板っぺらのこと」
紫は、ドアを指差し、ころころと笑う。
云って無駄になることは火を見るより明らかだった。
だが、別に諭す心算などなかった訳だが。
「処で、どうしてカーテンを閉めたのです?景色が何も見えないわ」
「見てみれば、解るよ」
ほう、どれ。と紫は面倒そうに漂い、カーテンを少しだけ開いた。
「何も変な処は在りませんわ。御覧なさい」
僕はカーテンを少しだけ開き、外を見た。
居るのだ。二羽の鴉が、鳴くのでもなく、視線を泳がすのでもなく。
唯、此方を見ているのである。
僕は、カーテンを乱暴に閉めた。
「どうされました?」
「矢張り、外を見る気になれない」
「どうして?」
「鴉がね、居るのさ。君も見ただろう。二羽、桜の木に止まっていてじぃっとこっちを凝視めるからさ」
「可笑しなことを云う人ね。鴉なんて居ませんわ」
紫は、再びカーテンを少しだけ開き、外を見た。
「ほら、やっぱり鴉なんて居ませんわ」
「嘘だろ。何処を見たんだ?桜の木だぞ」
「勿論、桜の木を見ました。けれど鴉なんて居なかった」
まるで、鼬ごっこをやらされているかのような気分だった。
もう一度、カーテンを少しだけ開けて、外の桜の木を見た。
二羽の鴉は、身動き一つせず、此方を凝視めるだけだった。
雨宿りするなら、他の場所に行けば良いのに、どうして此処なのだろう。
せめて、此方をじっと凝視めることを止めてくれれば良いのに。
「どう?居なかったでしょう」
「居たよ。黒くて大きいんだから、視えないなんてことはない筈だろう?」
「気の所為でしょうね。私が身間違うなんて有り得ないもの」
紫は、寝惚けた人が見間違えたのさ。と唄った。
僕はお化けか、それに近しいものを見ているのだろうか。
然し、幽霊は餅を伸ばしたような姿をしていて、鴉の姿になどなる筈はない。
「そうねぇ、鴉天狗を怒らせたとか?謝りに行きますか?」
「恐いことを云うじゃないか。生憎、そんなことをした憶えはないよ」
紫はあらそう、と素っ気ない返事を返してきただけだった。
僕はカーテンを見た。向う側にはまだ、鴉が居るのだろうか。
そう思わなければもう居ないのだろうし、そう思うのならまだ居るのかもしれない。
兎に角、今はカーテンを開けたくなかった。
「カーテン、開けませんか?薄暗くって善く見えませんわ」
紫が顔をぬっと近づけて、ほら、貴方の表情も善く見えません。と云った。
息が掛かる程近かった。瞳が紅く妖しく爛爛と輝いている。
成程、確かに見えないと思った。
然し、カーテンを開けることだけは嫌だった。
この薄暗さが鴉の視線から守ってくれているのだと思えば、これ程安らぐ空間はなかったからである。
紫の顔が遠退いた。
「詰らない人ね」
その言葉の意味の理解は出来ない。
この少女の云う事など、理解しようと思う時点で無駄である。
紫は少し頬を膨らませたが、全く似合っていなかった。
「せめて灯りでも付けませんか?矢張り、嫌なのでしょうね」
此処から逃げ出そうか、と考えたが生憎傘は置いていなかった。
否、偶に来るのだが、今日はそんな気分ではないらしい。
「鴉が、恐いのですか?」
「否、そう云う訳じゃないよ。唯、監視されてるみたいで」
「監視…」
嫌がる気持ちを抑え、ほんの少しだけカーテンを開いた。
鴉はまだ居た。僕を、その黒い羽毛と区別の付かない瞳に映すのか。
紫はくすりと、不気味に笑った。
「恐がりね。よっぽど臆病なのかしら?」
「まあ、そうなのかもしれないね」
紫の笑みは一層不気味さを増した。
さぁさぁと静かに降っていた雨だったが、急に勢いを増し、喧しくなった。
一瞬、八雲紫の不気味さ=雨の激しさと云う、意味も訳も解らない式が浮かんだ。
きっと、意味なんてないし、訳も在る筈がない。偶々なのだろう。
僕はその有り得ない考えを拭い去った。
「処で、紫。君は、何か用があって此処に来たんじゃないのか?」
遅かったと思った。
来店直後に云う筈の言葉を、僕は今頃になって云った。
「ええ、勿論」
紫は、笑みを崩さずにそう云った。
「でも、もう充分ですわ」
「それは一体どう云う――」
「もう良いわ。ありがと」
「――ことなんだ?」
紫はもう、そこに居なかった。
問い掛けに対する返答などなく、薄暗い店内に居るのは僕一人である。
鳥の羽撃く音が雨の轟音に混じって聞こえた。
カーテンを開けて見てみると、既に鴉は二羽とも飛び立った後であった。
ヤンデレみたい。