かつて聖白蓮が布教していた時代。
尼僧は、俗世や恋愛を捨てることができず、欲に引きずられた弱き者であり、周囲を堕落させるという認識でした。
その中でも尼入道というのは、女の立場でさらに俗世を捨てずに僧を名乗ったため、仏道を修める者から鼻で笑われる存在。
それを赦し、受け入れてくれた白蓮を、一輪が慕ったのは、極自然な流れだったのでしょう。
一輪には負い目がありました。千年前、白蓮のことを守りきれずに封印の憂き目にあわせてしまったこと。
あの時自分にもう少し力があればこんなことにはならなかったのではないかと。
今でも夜中にうなされて跳ね起き、白蓮の姿を探す。こんなことが毎日のように続いているのでした。
その日も一輪は、敬愛している白蓮のために、溜めた手間賃で櫛を一本買ってきたのでした。
漆塗りに朱が塗られた櫛。一妖怪が早々手が出せる値段の物ではなく、八雲紫や西行寺幽々子などの、洒落者が買う品物。
姐さんには身の回りからも綺麗にしていて欲しい。
白蓮に尽くすのが自分の幸せなのだと思っていましたし、それを疑うことも、今まで生きていて一度もなかったのです。
彼女のためならば自らの命を捨てても良いとまで――もちろんそれを許さないだろうとも、思っているのだけど。
一輪が包みを胸元に大事に抱きかかえて、命蓮寺へと戻る途中でした。
ぬえが、小さな子供と一緒に遊んでいるのを見かけたので、声をかけようかかけまいかと逡巡していると、彼女のほうから気づいたようで手を振ってきました。
「一輪じゃん。何を大事そうに抱えてるの?」
「里で買ってきたのよ」
「なになに? 食べ物?」
「ううん。残念だけど食べ物じゃないわ」
「ふぅん」
食べ物じゃないとわかると、ぬえの反応は途端に冷めたものに変わりました。
丁度小腹が空いてたのになぁと呟きつつお腹を押さえて、隣の子供にも同意を求めるぬえに、一輪は苦笑します。
「友達?」
「んー。まぁそんな感じかな? そろそろ日も暮れるし帰りな」
ぬえが背中を押すと、子供は手を大きく振って駆けて行きました。
それを二人で見送ったあとで、ぬえは緩い表情を急にきつく締めなおして一輪に問います。
「ねぇ、またなの?」
「またって、そんな……」
ぬえには一輪の買った物の見当がついていたのです。
自分の物は質素な物しか揃えないくせに、白蓮のためならば惜しみなく使ってしまう。
命蓮寺で居を共にしている者ならば、誰しもが知っていることでした。
「一輪。あんたはそれでいいのかもしれないけどね。あたしはそんなあんたが嫌いだよ。気持ち悪いよ。せめて見返りを求めないの?」
「見返りだなんて、ぬえ。姐さんから何かしてもらおうだなんてそんな、おこがましい」
「そこが気持ち悪いって言ってるのさ。何かにつけて姐さん姐さん姐さん姐さんっ。あんたの頭の中にはそれしかないわけ?
これだから女って奴ぁ、嫌いなのさ。依存するだけ依存して、完璧であることを強要して息苦しいったらありゃしない。
あたしが白蓮の立場だったら、そんな物貰っても息苦しいだけだよ」
先に帰る、とだけ言い残してぬえは歩いて行きましたが、一輪は足が地面にくっついてしまったように動けずにいました。
何か自分は、間違ってしまったのかと、その答えが知りたいと周りを眺めてみても、誰も答えをくれそうにはありません。
食事の時も、一輪は出されたカレーライスに手を出さずに居ました。ナズーリンが肉を取っていっても、スプーンを持ったまま動かないのです。
「一輪? 具合でも悪いの?」
命蓮寺の中でも仲の良いムラサが話しかけても、考え込んだままの一輪はああうん、と身のない返事をするばかり。
早々に食事を終えたぬえは、ごちそうさまと食器を片付けてそのまま部屋へと戻りました。
「まったくご主人は頭が固い。こういうときに肉を食べるのはね? つまり美味いものは美味いときに食わなきゃ作った人に失礼ってことなんだよ」
「ナズ。今日という今日はあなたの屁理屈に惑わされるわけにはいかないんです。人のお皿から食べたらはしたないでしょう」
「とかいって。シュークリームなるものを食べたときは、甘い物が苦手な私の分まで食べたくせに」
「そ、それは、それはですね……えっと……」
毘沙門天コンビが夫婦漫才をしている中で、一輪はスプーンを机に置きました。
チリン、という銀の鳴らした音に一瞬だけ、食卓を囲む全員が沈黙して、目配せを交わしたのでした。
「ごちそうさま、でした」
力無い足取りで、部屋へと戻っていく一輪を、ムラサは心配そうに見送って、毘沙門天コンビは少し居心地悪そうにして。
白蓮はおかわりの皿をそっと、ムラサへと差し出したのでした。
「ふぁー……。空気悪くしちゃったなぁ……」
風呂に浸かった一輪は、顔まで湯に沈めてぶくぶくと泡を吹きました。
ぬえに言われた言葉がショックで、カレーも喉を通らなかったけれど、皆に気を遣わせてしまうようじゃどうしようもないと、また自己嫌悪に陥る一輪。
今まで白蓮にしてきたこと全てが、もしかしたら迷惑なことだったのかもしれないと思うと、だんだんと目頭は熱を帯びてきました。
「私、尼僧失格かな、ははっ……」
姐さん姐さんと、後ろをついてまわることばかりに夢中になって、他の事を疎かにしてきたのだと思うと、後悔が沸き立って胸をかきむしりたくなるのです。
敬愛、心酔。いずれにしても、煩悩に囚われているには違いなかったし、ぬえに言われたことも確か。
「一輪? 入りますよ」
「ちょ、ままま、待ってください! 今出ますから」
「ざんねーん。もう入っちゃいました」
「あぶぶぶっ」
ガラリと扉が開かれて、入ってきたのは一糸纏わぬ姿の白蓮。驚いた一輪は風呂の水をがぶがぶ飲んでしまい、そのまま部屋で介抱されることになったのでした。
白蓮の部屋で、膝枕をされて、団扇で扇いでもらって。萎縮する一輪に、白蓮は微笑みかけました。
「悩んでいるようですが、何かありましたか? 私で良ければ聞きますよ」
「姐さん……」
姐さんの匂いが悩ましいです、と言いかけたのをぐっと堪えて、一輪は櫛のことを話しました。
「私は、姐さんにもっと綺麗になってほしくって。でもぬえが、そんな風に想っても、迷惑だって言うから」
一言ずつ、喉から絞り出していく一輪と、その一言に頷いていく白蓮。
すぐに一輪の目元からは、雫が零れはじめました。
「私は姐さんが好きだけど、ホントにホントに大好きだけど。姐さんは迷惑? 私から贈り物されたら迷惑なの?」
「迷惑じゃありませんよ。一輪から貰ったものも――ぬえから貰ったものも、みんなきちんと、大切に仕舞ってありますから」
「……ぬえからも?」
「ええ、それに星も、ナズーリンも、ムラサもみんな。物よりも、そこに込められた気持ちが暖かくって、私は胸が一杯です」
「本当? 本当に本当? 幸せだって思ってくれる?」
「ええ。本当です。嘘なんてついたら、それこそ南無三ですよ」
そう言った白蓮がそっと、洗いたての一輪の髪を手櫛して。
「でもあの櫛は、一輪が使ってほしいものですね」
「うっ……」
「せっかく綺麗な顔立ちをしているんだから、ね? 今からしてあげますね」
「姐さんの、ばかっ」
一輪は頭巾を下ろそうとして、被っていないことに気づいてまた赤面して。
白蓮はその様子に、クスクスと笑ったのでした。
「ぬえ」
「ん?」
寒風が吹きすさぶ中、一人外に立っていたぬえが呼びかけに振り向くと、ムラサが日本酒の小瓶を月光に透かせて見せました。
「飲もっか」
「あいあい」
命蓮寺の面々は、おおむね全員白蓮が大好きで、煩悩だらけです。
それはさておき心温まる良い作品でした。姐さんを慕う一輪はいいものだ。
どうもいいSSをありがとうございます。あと雲山さんはそのまま見守ってていい
ところで雲山は風呂で湯気に紛れていたということでよろしい?
※このSSは我々が監視しています
※気にせず続けて下さい
雲山…
ただ気になるところが…ふと振り返ると白いもやが見えるのは何故だろう……
みんな、あとがきは気にするでないぞw
最後のムラサとぬえの会話、というか掛け合いが良い味出してました。
うまいなぁ、と思った
白蓮さんの過去ふと思ったら涙が出てきてしまった
あ!雲山さん、お勤めご苦労様です!