・クロスオーバーです
どこかで声がした。
「―――ようやく、時が来た」
「千年。……永かったものよなあ」
「ははっ! ははは! 姫、貴女の声を、声を聞かせ頂きます!」
「落ち着きなされ」
「落ち着けないから今こうしているのだろう?」
「うむ。……この思いは忘れられぬ」
「ならば! 私たちの、この力を持って!」
「解決しよう―――」
どこかで、始まりの声がした。
―――むかしむかし。
ある所におじいさんとおばあさんがいました。
ある日、おじいさんが竹を切っていると、月のように光る竹を見つけました。
おじいさんがその竹を切ってみると、なんと竹の中には小さな女の子が居ました。
おじいさんはその女の子を家に連れ帰って、自分たちの子供として育てることにしました。
竹から出てきた女の子、
かぐや姫は、おじいさんとおばあさんに大切にされてすくすくと成長し、
都でも評判の美しい娘になりました。
かぐや姫をお嫁さんにしようとするものたちが大勢現れ、かぐや姫の家に通います。
その中に他よりも目立つ五人の貴公子がいました。
かぐや姫は、その貴公子たちにひとりひとり違うものを持ってくるよう言いました。
持ってくることが出来た方と私は結婚しますと。
五人の貴公子はそれぞれのやり方でかぐや姫の言ったものを用意しようとしましたが、
結局は誰ひとり姫の望むものを用意できませんでした。
そんな事があったあと、
かぐや姫はおじいさんとおばあさんに言いました。
実は自分は月に住んでいた人間なのです。
月で事件があったためにこの地上へ降ろされたのです。
そろそろ月から迎えが来るので月に帰らなくてはなりません。
おじいさんとおばあさんは、大切に育ててきた娘を失うのが嫌で、
人を集めてかぐや姫を月に行かせないようにしました。
そして月から迎えがやってきました。
かぐや姫を守るために人々は戦おうとしましたが、
不思議な力によって体を縛られてしまいます。
それでもおじいさんとおばあさんは抵抗しましたが、
これ以上抵抗してはおじいさんとおばあさんが危ないと、
かぐや姫はおじいさんとおばあさんに今まで育ててくれたお礼を言って、月に帰っていきました。
おじいさんとおばあさんは、月を見るたびにかぐや姫の事を思い出して過ごしました……。
「で?」
園児服を着た坊主頭の子供が、ふてぶてしい印象を受ける顔で言った。
子供の名は野原しんのすけ。
ふたば幼稚園ひまわり組の園児である。
「この世の力ははかないもの、ってお話だろ?
けど、キャラが少ないせいでちょっとストーリーが薄いよね、この話」
と、訳知り顔で言う子供の名は風間トオル。
しんのすけと同じ園、同じ組の園児だ。
「求婚者の娘とか出すのはどうかしら?
父親を侮辱した女に対する怒りや、女としての嫉妬とか」
楽しそうに言う女児は桜田ネネ。
「姫が、月にいたころの先生とかどうだろう」
ぼうっとした顔つきの、鼻水をたらした子供は、通称ボーちゃん。
「かぐや姫の地上での幼馴染の少年とか出して、
その子が月のお迎えをばったばったとやっつけるのはどうかな?」
これはおにぎりに似た頭の子供、マサオくん。
「ふ~。マサオくんはハナカサってものをわかってないなあ」
「なんでボクにだけ言うのさしんちゃん!?」
この五人はいつもよく五人で行動しては騒動を引き起こす、
ひまわり組きってのトラブルメーカー集団だ。
五人の中にひとり物凄いトラブルメーカーがいるせいで他の四人までトラブルメーカーになってしまい、
集団と見なされるのであるが。
……五人が居るのはふたば幼稚園ひまわり組の教室。
ひまわり組のほかの園児たちと、ひまわり組を受け持つ教職員の女性石坂みどり。
通称よしなが先生がそこには居る。
よしなが先生は今、かぐや姫の紙芝居を演り終わったところであった。
よしなが先生は、しんのすけたち五人の喋りに、
困った。
これは時間内に語って聞かせるために細かいエピソードを端折っているの。
偽物で姫を騙そうとするくだりや不死の薬の存在は考えた結果削っているの。
分かって。分かってくださいお願いします。
そう言えればどれほど楽だろう。
でも言えない。言ったら色々だいなしになる。
なのでよしなが先生は、
「むかしむかし、ある所にふわふわとした魔法使いが―――」
念のため用意しておいた別の話を始めることにした。
子供のそれ以上に大人には付き合いというものが大切であるが、
しかし今日のところはとりあえずその必要はなく、彼、
「ただいまー」
野原ひろしは家族の待つマイホームに無事帰りつき、その靴を脱いだ。
足からひろしの頑張りの証とも言えるキツいにおいが展開される、そこに
「とーちゃんおかえりー」
白い布でぐるりと身を覆ったひろしの息子、しんのすけが現れた。
「何だあ? その格好?」
「てるてるぼーずだゾ」
ひろしの問いにしんのすけはそう答え、今日の夜が晴れるように歌いだした。
「そーして明日を雨にしてーおねいさんをスケスケにしておくれー」
「邪な事を願うんじゃない……!」
ろくでもない事を歌うしんのすけの頭を両側から拳で挟んで締め上げるのは、
ひろしの妻、みさえだ。
「……おー、ぐりぐり坊主」
しんのすけの格好以外は(ある意味では格好も)日常である光景に、
ひろしはそんな事をつぶやく。
……しんのすけへのお仕置きを済ませたみさえはひろしに顔を向け、
「お帰りなさい、あなた」
「ただいま。―――今日の夜、晴れが必要になるような事あったっけ?」
「ええ。お月見よ、お月見」
ああとひろしは納得する。そういえばそんな行事もあった。
来る日も来る日も電車に押し込められて会社という戦場で闘っていると、
そういう事が頭から抜け落ちてしまうから人間は悲しい。
「よし、今日は月見酒と行くか!」
しかし思い出せばこちらのもの、月を眺めながらの酒はよいものだ。
その傍らに愛する家族が居るのなら、さらによい。
空にあるのは丸い月、手近にあるのは月と同じくらい丸い団子。
そしてあまり丸くないしんのすけの頭。
夜。
雲一つない空の下、野原家のものたちはその家で月見をしている。
「くう~! ふーりゅーですな~」
ジュースを飲み、唸るしんのすけ。その姿にひろしとみさえは笑みを誘われる。
「生意気なこと言いやがる」
「たとえネコの額ほどの庭でも、充分ふーりゅーですなー」
「……生意気なこと言いやがる」
ひろしの気分が盛り下がる、
が、しんのすけは大体いつも生意気なことを言うので耐性は出来ている。
すぐに気を取り直した。
「しかし、恐ろしいほどスッキリとした夜空だな」
ビールを飲み、空を見て言うひろし。
「てるてる坊主が効いたのかもね」
その胸に赤ん坊、しんのすけの妹のひまわりを抱いたみさえが言った。
「それじゃ明日はスケスケのおねいさんが」
「ぐりぐり坊主が効いたのかも知れないわねぇ」
飽くことなく口で災いを呼び寄せるしんのすけに、
小さな白い犬、野原一家の一員たる犬のシロと、ひまわりが呆れの視線を向けた。
そんな中、月を見て、ひろしは思う。
(俺が大人になる頃には、月旅行なんて気軽に出来るようになると思ってたんだけどな)
生憎現実はそうならなかった。
月の石が持ち帰られてからもう随分と経つというのに、人類の飛行高度は昔よりも低くなってしまった。
それがどうしてか、子供のころのひろしにはどうしても理解不能だったろうが、
大人になったひろしには容易に理解できる。
採算が合わないと分かったのだ。
まったく、難題を不可能事にするのはいつだって人の心だ。
……それでも。
未来というやつは神様にだって判らないものだ。判るなら零落しないよう手を打つ。
どこもかしこも携帯電話で溢れる街の姿を、過去の誰が想像出来ただろう?
だから、いつかは、
しんのすけとひまわりが大人になる頃には、月旅行が夢ではなくなっているかもしれない。
笑顔も合成のものになっているかもしれないが。
――月光は人を沈ませるか?――
(……いや)
笑顔は合成にならないだろうとひろしは思った。
なりはしないと、己の家族を見ていると信じられた。
――月光は人を沈められなかった――
―――平穏無事に時は過ぎ、月見は終わる。
そして幻視の夜が来る。
「……」
親子仲よく枕を並べて眠っていたしんのすけは、もよおして目を覚ました。
部屋は暗い。時は何時だろう? 朝が遠いことは確かだ。
しんのすけは七割ほどが眠りの世界のままトイレへ向かい、用を足した。
「ふー」
水を流してさっぱりとした心地でしんのすけは再び眠るために歩く、
と。
月のような光を見つけた。
「お?」
しんのすけはそれに興味をそそられた。
光は、野原家の庭のほうから来ている。
しんのすけは一瞬たりとも躊躇うことなくそれを探りに向かった。。
しんのすけは寝間着のまま庭に出る。
そこには―――
「おお~!」
声を上げてしまうほど見事な竹林があった。
数え切れないほどの本数の竹が、その一本一本が月まで届きそうなほど高く伸びていて、
向こう側の見えない世界を作り出していた。
そしてその世界には、虫鳴と、涼風と、月光がある。
それを見るしんのすけは、一瞬、自分の名前もどうしてそこに居るかも忘れた。
天然の自然の衝撃だった。
―――その忘却が一瞬で済んだのは、声がしたせいである。
シロの声だった。
「おお、シロか」
シロはしんのすけの後ろで、怯えを表わしながらもしんのすけを心配するように鳴いていた。
しんのすけはシロに振り返り、
「シロ、これなんだと思う?」
問われてもシロは妖怪系でも科学系でもない普通の犬なので普通に返せない。
ただ竹林から離れたげな様子をしんのすけに見せるだけだ。
それを見るしんのすけの目は―――輝いている。
それはもちろん、未知のものへのときめきである。
深夜、自分の家の庭に謎の竹林が現れた。
そんな不思議な事に怯える子供はいても、嫌う子供は滅多にいない。
怯えも嫌悪もない子供がこんな場合にどうするかは決まっていた。
「オラ、ちょっと見てくる!!
しんのすけは竹林に足を踏み入れた。
シロはそんなしんのすけへ、警告するように、そしてすがるように吠えるが、
しんのすけはまるきり聞こえていないかのように竹林の奥へと進んでいく。
シロは決断しなくてはならなかった。
シロの心にあるのは怯えだ。
こんなところに入りたくない、頼りになる誰かを連れてきたい。
朝が来るまで自分の小屋に引っ込んでいたい。
この竹林には、妖気を感じる。
だからシロは、決断した。
走り、しんのすけを追いかける。―――ここで追わなければ永遠に会えない予感がした。
しんのすけは歩き、シロは走り、だからシロはしんのすけに追いついて、
一人と一匹は竹林の陰に消える。
それを見ていたのは月だけだった。
―――そしてしんのすけが見るのは、竹林だ。
歩いても歩いても歩いても、いくら歩いてもそこには竹しかなく、何とも出会わない。
しんのすけは退屈を感じ始めた。
「へーいへーい」
軽く歌ってみるが退屈は消えない。
せっかく不思議に現れたのだから、もっと不思議なことが起こってもいいはずなのに。
まったくなんなのだろう、この竹林は―――
と考えているとしんのすけは何かに足を取られて転んだ。
泣き顔に蜂、その場は斜面であったから、
しんのすけは斜面を転がり転がり子供にも子犬にも止められない勢いで斜面の終わりへ。
そこにはちょうど岩がある。
岩との激突はまず避けられない。……普通ならば。
しんのすけの運動神経は、普通には出来ていなかった。
「ほい!」
ぶつかる寸前、しんのすけは地面を蹴って跳び上がり、そのまま岩の上へ着地した。
審査員が居たなら高得点は確実の、見事な着地であった。
そしてしんのすけは、自分の事を……
―――もしもの話だが。
会えば幸運になる兎としんのすけがここまでに出会っていたら、その出会いは無かったろう。
全ての出会いが幸運なものであるわけではない。
当人がどう思おうと。
……そしてしんのすけは、自分のことを幸運だと思う。
岩から少し離れた、今のしんのすけの跳躍と着地が見える位置に、一人の少女が居た。
静かな眼をした、長い黒髪の少女だ。
世間一般において美しくないとされているものを美しいと感じ、
美しいとされてるものを美しくないと感じる美的感覚の持ち主が居るとする。
その者が様々な世間における美を見て美しくないと感じるなか、
ひとつだけ、世間における美であるのに美しいと感じるものがあった。
それは。
どんな時代、どんな場所のものにも通用するもの。
『永遠』という属性を持つ美。
その少女の美しさは、そういうものだった。
美しいものを見たとき、人はそれへ中々近付けない。
自分などが近付いてもいいのか、迂闊で損ねてしまうのではないか。
そんな思いを抱くからだ。
そしてその思いによって、近づいた場合でも他のものへするように接する事は出来ない。
その価値を重く見るがゆえの反応、正常な反応である。
しんのすけは少女にすすすと近づき、言った。
「へーい彼女~、オラと一緒に月見だんごでもどう~?」
男が、可愛い女の子に見せるだらしのない顔で。
……それは、しんのすけが綺麗なお姉さんを見かけた時にするいつもの行動であった。
しんのすけはいつもお姉さんに声をかけるが、いつも相手にされない。
時も台詞も発言者も適切ではないからだ。
どれかひとつでも適切でなければ上手く行く率は大きく下がるのに、
全てが不適切ならば……上手く行くわけがない。
少女は、しんのすけに答えた。
「丸いわねぇ。どんな育ちをしたのかしら?
いいわよ、うちのお団子を味あわせてあげましょう」
適切であったようだ。
しんのすけは思いがけない展開に大興奮、真っ赤な顔で、
「オラ、野原しんのすけと言います! おねいさんのお名前は?」
「輝夜」
蓬莱山輝夜、と。少女は自分の名前を告げる。
それを見ていたのは、月とシロだけだった―――
そして次の日の、朝。
「あなた、ねえ、起きて! しんのすけが居ないの! シロも!」
みさえの青ざめた声が、野原家に響いた。
「居ない……? 落ち着け。
寝ぼけてどっか妙な所で寝てるんじゃないのか」
愛する家族が居ないと聞いて、ひろしの頭は寝起きながらも臨戦態勢。
慌てているみさえの分まで冷静になろうと務める。
「うちの中は全部探したわ。でもどこにも居なくって、
しんのすけが着替えた跡も何かを持ち出した様子も……」
「むう。とすると、自発的に居なくなったわけじゃあなくて」
何かの手によるものか。ひろしは真剣な表情で考えを口にする。
「誘拐、事故……あるいは、ひょっとして―――」
「ええ……」
みさえは、そのひょっとしての考えが一番あると思っている。
ひょっとして。
しんのすけはまた、大層な事件に関わったのかも知れない。
……戦国時代にタイムスリップする。
世界を思いのままにしようとする悪の組織と戦う。
映画の中に入る。
それらはどれか一つだけでも一生に一度あるかないかの出来事であるが、
野原一家にはその全ての経験がある。
どこかの昼寝とあやとりと射撃が大の得意な小学生にも負けないくらい、
運命に愛されているのだった。
「……手は一つだな」
数々の冒険を越えてきた男の渋みを漂わせ、ひろしは言った。
「もうちょっと探して、それでも見つからなかったら警察に行こう」
常識内の判断だった。
「……常識に囚われていては勝ち残れぬ!」
突如場に響いたその男の声になんだなんだとひろしたちが反応するよりも早く、
「キャー!?」
壁を盛大に壊してそれは現れる。
一台の、牛車であった。
「だあーッ! 何しやがるーッ!」
この現代に牛車? などとは思わずにひろしは叫ぶ。
ローンがあと32年も残っているものを壊されては細かいことに構ってはいられない。
修理費を請求してやると意を固めたひろしは、
牛車に近づこうと思ったがちょっと怖いので中から誰かが出てくるのを待った。
待ち時間は無い。
「大事の前の小事よ、気にするでない」
ゆるりと、壁の破片の散乱する場に牛車の中から降り立ったのは、
宇宙人か何かが着ているようなぴっちりとした銀色の全身タイツに身を包んだ青年だ。
明らかに変人だった。
「障子感覚で壁を壊されてたまるか! ていうか何だアンタは!」
飲まれてはいけない、変人相手には強気に行くのが一番だとひろしは気を張る、
しかし青年はまるで気にした様子もなく。
「我が名は安英(あんえい)。
お主らの子の向かった先へ、案内するためここへ来た」
「なんですって! うちのしんのすけが今どこに居るか知っているの!?」
「うむ。遠い所だが、往くか?」
「ったり前だ! しんのすけが居るなら火星にだって行ってやる!」
家族のためならタマのひとつやふたつ惜しくはない。
安英は口元に笑みを浮かべ、言った。
「良い心じゃ。
―――幻想郷。あれは今、幻想郷の永遠亭におる」
幻想郷。
そこは、魔法使いが空を飛び、妖怪変化が終日のたりとする領域。
古いものが今もあり、伝説の存在が身近にある、天と死が近い土地。
そこに、迷いの竹林と呼ばれる場所がある。
名の通り、入り込んだものは迷いに迷って酷い目にあう場所だ。
その奥に、ひっそりと屋敷があった。
名を永遠亭。
蓬莱山輝夜を主とする、兎の多い屋敷である。
時は月が出ていた点まで遡る―――
「輝夜様、お帰りなさい」
薄い紫色の髪と真っ赤な瞳をした、兎の耳を頭に持つ少女が、永遠亭に着いた輝夜たちを出迎えた。
「おかえりー」
と兎耳の少女に続けて言ったのは、しんのすけだ。
「間違って覚えているのか、お客様なのに輝夜様へ向けて言っているのか。
さーてこれは難問だ……」
「三つ四つ、ときにおやじ、いま何問だ。へぇ、六問目でございます。七つ八つ……」
「鈴仙、お茶を淹れてちょうだい」
ボケとボケとマイペース、残ったシロは喋れないため突っ込みとしては力不足である。
シロはくやしさに身を震わせた。
それとは関係なく話は進んだ。しんのすけは兎耳の少女に向かい、
「初めまして、オラ野原しんのすけ、輝夜おねいさんにお招かれ中の五歳児、好きな言葉は平熱。
おねいさんはウサギごっこ中?」
「ようこそいらっしゃいました。それとごっこじゃないわ」
「じゃ、専業バニーガール?」
「ブブー! 外れ!
私は鈴仙・優曇華院・イナバ! この永遠亭の兎たちのまとめ役の―――」
「私のペットよ」
「す、ススんでるう~」
須臾を読んで言う輝夜に、発言内容に感心するしんのすけ。兎耳の少女、鈴仙は、
「……ちょっと足出してくれる? ありがとう」
シロの足を『あらかじめ』用意しておいた雑巾で拭き出して間を計った。
一見すると兎耳を付けただけの人間の少女に思える
鈴仙・優曇華院・イナバは特殊な力を持つ月の兎である。
その力で離れた輝夜の事を見張り、しんのすけとシロが来ることを知ったのだ。
「では、失礼します……」
月光射し込む部屋の中、輝夜たちにお茶を出した鈴仙は襖の向こうに消えていく。
しんのすけはそれに目もくれない。
お姉さん好きのしんのすけが鈴仙に対して反応が薄いその理由は、輝夜だ。
輝夜の引力がしんのすけを虜にしている。
五歳児の精一杯の決め顔でしんのすけは言った。
「やっと二人っきりになれましたね」
「貴方のペットも居るけど」
シロはしんのすけの傍で大人しく座っている。
「やっと二人と一匹っきりになれましたね」
「さっきと同じじゃない」
「やっとお月見が出来ますね」
「そうね」
輝夜は月を見た。
月は今日も月である。明日も月は月だろう。
輝夜は団子をひとつ口に運ぶ。しんのすけも、団子を口に。
「むう、これはまったりとしていながらせつなげでさびしげでスピード感があり
まろやかさもありボリュームとチャレンジ精神たっぷりの素晴らしいお団子ですな~」
「貴方は、食べられる子供ね」
そして輝夜は茶を飲む。しんのすけは頬を染めて、
「ハイ! オラは食べられる子供です! ピーマンでもニンジンでもタマネギでも!」
「無警戒で無謀で無力で」
「そしてムクシロでムシンケーでムテキです!」
「無知。
……私が人間を喰らうものだったらどうするの?
貴方はここで終ってもいいというの?
貴方のご家族は、きっと悲しむ事でしょう」
ここでは何もかもがすぐに変わっていくのだから、しっかりしていなければいけない。
傷はずっと残る。後悔はずっと続く。
死をキャンセルして生を入力し大逆転、とはいかないのだ。
―――真剣な思いで言う輝夜に、しんのすけはどう応えたか。
「大丈夫」
しんのすけは、真剣な目ではっきりと言い切った。
「おねいさんいい人だから」
「―――」
輝夜は珍品を見つけたコレクターのように まじまじとしんのすけを見た。
大盗人だとか、外道だとか、金閣寺だとか。
そう様々に罵られたことはあっても、いい人だなどと言われたことは無かった。
なんとも、新鮮な感覚だ。
「ああん……もっと見つめて……」」
しんのすけは輝夜の視線に素敵な感覚を味わった。
そうだ、綺麗なお姉さんに悪い人は居ないのだ。
たまに要るが居ないのだ。
綺麗なお姉さんは素敵だからいい人なのだ。
まったく変なリアクションをする奴である。
輝夜は、どこかから瞬時に扇を取り出し、それで口元を隠しながら言った。
「糠釘ね。明日のことは明日に考えましょう。
―――誰かが夜を止めなければ、朝はすぐに来るでしょう」
誰かが夜を止めたなら、飛んで行って瞬く間に破ってやるが。
「オラ、おねいさんとなら永遠の夜も全然オッケーえ~ん」
「そうですか」
三分後。
「うーん、アクションローリング……」
しんのすけは寝言を言うくらい完璧に眠っていた。非常にだらしのない恰好で。
団子や茶に薬は入れていないから、それはしんのすけがお子様だという証だ。
「先に寝ちゃうなんて、ひどい人ね?」
いっつもこんなものですよと、輝夜に同意を求められたシロは身振り。
しかし輝夜にそれはまったく通じていない。
「私もそろそろ寝ようっと。鈴仙ー」
「お呼びですか」
輝夜が呼べばすぐに鈴仙は現われた。
「私もう寝るから、後はよろしくね」
と言って輝夜はさっさと部屋から消えてしまう。
鈴仙は了解してすぐに終わらせることにする。自分ももう寝たいのだ。
準備は既に済ませてある。
―――鈴仙は来客用の布団を部屋に運び込み、しんのすけをそこに寝かせた。
「……子供は本当に子供だなぁ」
呟き、盆と共に部屋を去る。残るのはしんのすけとシロのみ。
その寝姿を見るのは月だけだ。
―――時が過ぎて場所が移る。
月が移る日が移る、人が移る。
陽光の中。
安英の牛車とひろしの愛車アンジェリーナ号は竹林を走っている。
今は危険なものもなく、そう身構えずにいられる。
アンジェリーナ号内のみさえは陽気に己が今見たものを告げた。
「ねえあなた、あたし今UFO見たわ」
「ハハハ。俺もさっき空飛ぶメイドさんを見たぜ」
「たぁ、たったー」
あたしもツチノコを見たよ、とひまわり。
「すげーなあ、ここ」
「帰ったら自慢できるわねー」
あっはっは、と笑ってから、ひろしとみさえは声を揃えて言った。
「どこなんだここは……」
会社に休みの電話を入れて、薬や食糧といった役立ちそうなものを車に詰め込んで、
野原家を車で出発し辿る道は普通の道。
だったが、いつの間にやら見知らぬ峠道に変わり、そしておかしなものを見た。
妖精だとか幽霊だとか弾幕だとか、
ひろしたちの住む場所では非常識なものを立て続けに。
その非常識なものが在る背景が異国や異星や異世界風ならまだ解る。納得できる。
しかし在る背景、風景は明らかに日本。
今はもうない、古の花と鳥と風のある日本であった。
だから動揺する。
「あいつに付いてきて良かったのかな……」
「今さら何言ってんのよ。
……あの人が何を考えているのかは解らないけど、あんな力を持ってるんだもの。
付いていけばきっと……」
「……まあ、あんなの見せられちゃなあ……」
符と呪文で壁を直すというものを見せられては、安英に付いていかないという手はない。
あの力があれば、人ひとりの居場所を探ることなど朝飯前だろう。
「とにかく今は前向きに行かなきゃな。よし、話はやめだ!」
(ここで話していることも聞かれてるかもしれないしな)
(そうね)
最後は夫婦のシークレットサインで密かにやり取りして、
ひろしは運転に集中し、みさえはひまわりをあやし始めた。
一方、牛車の中でも今後についての会話がなされていたが、それを聞くものはない。
ゆえに車は先へ先へ。
竹林の奥にある、永遠亭に辿り着いた。
「うひゃあ……こりゃあ、土地だけですげえ額になるだろうな……」
アンジェリーナ号を停め、外に出たひろしは、己の前方にある古い屋敷を見てしみじみ言った。
「維持費も相当になるでしょうね……買い物にも不便そうだし。
こういう所に住む人って、やっぱりお金と時間を相当持ってる人なんでしょうね。
……ここにしんのすけが―――」
みさえが問いかけようとして牛車の方を向けば、
そこには牛車の姿が無い。安英の姿も無い。
どこに行ったのかと周囲を見回してみるが、見える範囲には求める姿は無し。
「やだ、置き去り?」
「しまったな……。
ま、しょうがない。とりあえず屋敷を訪ねてみようぜ」
そうしましょうか、とみさえはひまわりを背負い、三人は屋敷へと徒歩で近づく。
「鬼が出るか蛇が出るか……」
鬼よりも蛇よりも嵐を呼ぶ五歳児が出るか。
……。
「百三十六、百三十七、百三十八、」
出たのは跳ねる兎だった。
屋敷の前で。
薄紫色の髪をした兎耳少女が、真剣な表情でウサギ跳びをしていた。
数える声はその少女の、跳んだ回数を数える声だ。
そして、少女の後には沢山の兎らしい見た目の兎たちがぴょんぴょんと跳んで続いている。
……その少女はもちろん鈴仙である。
「こ、これがウサギ跳びする兎……! 父ちゃん、母ちゃん、オラやったよ!」
そしてそう感激するのはしんのすけである。
「しんのすけ!」
奇天烈なカラーリングの服を着ているが、間違いない。
ひろしとみさえが異口同音に叫べば、しんのすけは二人を向いて考える顔。
「う~ん、どっかで見たことあるような貧乏っぽい人たちだぞ」
「お前の実の家族だよじゃがいもボーズ……!」
「へえあああ……」
即座に距離を詰めたひろしが一方、
みさえがもう一方からしんのすけの頭に拳を押しつけて、ねじり込むように動かす。
……こんなふざけた事を言うのは間違いなくしんのすけだ。
「まったく、心配かけやがって……!」
ひろしとみさえは、しんのすけを胸一杯に抱きしめる。
「良かったじゃん、再び家族に巡り会えて」
優しいような、そうでもないような声だった。
鈴仙がウサギ跳びを中断してひろしたちを見ている、のをひろしたちは見る。
続く兎たちはひろしたちを見ずウサギ跳びを継続中。
「あなたは……」
この屋敷のものかとみさえが問おうとすると鈴仙は姿勢を変えぬまま、
「どうしてこんな事をしているのでしょう。
1天罰、2仏罰、3神罰。さて答えは……」
「答えは4、私の命令でしたー」
雲の陰から月が出るように、すっと屋敷の中から現れた黒髪の少女が柔く笑って答えを言う。
輝夜だ。
「初めましてお嬢さんがた。僕は野原ひろし。
嵐にも負けない敏腕サラリーマンです。以後よろしく」
ひろしがしんのすけを放し、しんのすけの考える決め顔とそう変わらない顔で言った。
けっ、とみさえとひまわりがそっぽを向く。
綺麗な女の子を見るとすぐこれだ。本当に男というやつはどうしようもない。
輝夜たちにはもちろんひろしの決めは蚊に刺されたほども効かない。
「貴方達、しんのすけの家族ね? 良く似ているわ」
「そりゃあ家族ですから」
言う輝夜が何を考えているのか分からないので、とりあえず素直にみさえは言葉を返す。
「似てない家族も珍しくないでしょう。
中で話しましょう? お客様にはそれなりの扱いをしないとね」
どうぞ、と輝夜はひろしたちを招き入れ、
その後ろに安英が立つ。
「……昔、こうして招いてくれてさえいたなら―――それで良かったのに」
湿った声で安英が言った。
その手は白色の玉を、刃物を突き付けるように輝夜の背へ向けている。
輝夜は安英に振り向かず、
「あら。貴方達は話ではなく挑みに来たんじゃない」
笑って言い。
安英が持つ白色の玉の中に吸い込まれた。
(最悪―――!)
輝夜の危機を見ながらもしかし鈴仙は動けない。
安英が輝夜の背後に立つまでその存在に気づけず、
立ってからは輝夜を盾にされる事を恐れ、
いま玉に輝夜を隠されてからは玉を傷つけられるのを考えて。動けない。
この男はなんだ。あの玉はなんだ。輝夜はかわせなかったのか。
次に動くのは誰だ―――
「手に入れた、ぞ。大盗人め、ようやくお前を手に入れたぞ! わしが!」
安英は己の手の玉を見つめて、言う。
その顔は歪んでいる。その声はねじれている。その内の思いが、漏れ出ている。
安英は狂喜していた。
ずっと昔に手に入れられなかったもの、ずっと昔から憎んでいたものを今手に出来て。
どうしてくれよう、ああしてくれようこうしてくれようそうしてくれようと思考は膨らむばかり。
「ロコォッ!?」
隙は膨らむばかり。―――安英は尻の急所への不意打ちをくらった。
しんのすけの一撃であった。
「ほいっ」
衝撃で安英の手から転げ落ちた玉をしんのすけは空で掴み、小走りに安英から離れる。
事情はよく分からないが、輝夜の入った玉を安英に持たせていたくない。
そう思っての行動である。
「こっちに渡して!」
花が咲くくらいのチャンスだ。鈴仙は動く、しんのすけに玉を要求しつつ重めの攻撃波動を安英へ。
安英は波動を受けて吹き飛びしんのすけは鈴仙に玉を渡し、
鈴仙は屋敷の中へ走り出す。
「わ、私の玉を返せ―――!」
安英は吹き飛びからすぐに立ち直って鈴仙を追いかけ屋敷の中へ入る。
屋敷の中から破壊音が響きそして屋敷の破片がひろしみさえと兎たちの居るほうに飛来し
「どわあーっ!?」
ひろしたちは大慌てで破片弾幕を避ける避ける避ける避ける。
そして破片と共に安英が飛び出してきた。
その目指す先はひまわり。
ひまわりの手にはいつの間にか白色の玉が握られていた。破片に紛れて飛来したのだ。
「寄こせ!」
必死の形相で迫る安英に対抗する形相は
「俺の家族に手は出させねえぞ!」
同じく必死のひろしのもの。
ひろしは素手で安英に殴りかかり、「うっ!」逆に拳の一発で地面に転がされる。
その間にみさえは思いつきのままひまわりから玉を取り上げて空中に放り投げた。
玉より自分たちの安全の方が大事だ。
邪魔ものの排除より玉の確保を大事とする安英は跳躍、
笛を吹いて己の牛車を呼びつつ玉に手を伸ばす―――そして掴む。
「おお!」
その喜び顔にしんのすけの尻が正面からぶつかった。
「いやあ~ん」
狙い通りに当てたしんのすけは頬を赤く染めてそんなくねった声を出した。
しんのすけの見事な跳躍と尻使いぶりに、兎たちがどっと沸く。
「うおおおおお!」
安英の怒りも沸く。
しかし何かをする前に鈴仙の跳び蹴りが背中に上から当たり大地へと叩き落とされて、
「よくもやってくれたなこの野郎……!」
立ち上がったひろしの、物凄い悪臭を放つひろし靴下攻撃で追い打ちされる。
鈴仙もそこに降りてきて安英を蹴って殴って首を極めて大暴れ―――
「この、脱臭してやる! 脱毛してやる! ……はっ! 変わり身!?」
いつの間にか鈴仙が技をかけていた相手がひろしになっていた。
安英は服をボロにしつつもしっかりと玉を握り、やってきた牛車に乗り込むところだ。
「姫は頂いていく! さらば地上のものども! 永遠に!」
そして牛車は飛び立った。
牛とは思えない圧倒的高速で、空に向かって駆けていく。
勝利を確信した安英の笑い声だけを残し。
「……あそこに逃げ込むつもりね」
鈴仙は空の、牛車が駆ける先にあるものを見て静かに言った。
その中へ入られる前に追いつければ良し、追いつけなくても中に入ることが出来ればまあ良しだ。
「時間がない。行きましょう」
と鈴仙は、ひろしたちに向けて言う。
「えっ、俺たちも?」
ひろしは露骨に嫌そうな顔をした。どうして自分たちが行かねばならないのか。
……あの美しい少女がさらわれてしまったのはお気の毒だし腹も立つが、
人を(それも不思議な術で!)さらう手合いに喧嘩を売りたくはない。命が惜しい。
幸い自分もみさえもひまわりも無事で、
「おい。しんのすけは?」
ひろしはようやくしんのすけの姿が見えないことに気づいた。
「―――しんちゃん?」
みさえはあたりを見回すが、居るのは兎やひろしやシロや鈴仙で、しんのすけの姿はない。
しんのすけがどこに居るかは鈴仙が知っていた。
「しんのすけなら、あの牛車の中よ」
「嘘だろ!?」
真実である。
「……」
牛車の中、玉の感触に酔い痴れる安英の声を聞きながら、必死に隠れている。
輝夜を救わなければ、と思っての行動だ。
鈴仙の能力、波長操作能力で安英に気取られぬようにしてはいるものの、
「いつ見つかってしまうことか。それでも行きたくないと?」
「行くさ!」
迷いはない。我が子をどうして見捨てられよう?
「みさえ、ひまわり、……シロ!」
すぐそばのみさえに、その腕の中のひまわりに、そしていつの間にか場に居たシロに、
ひろしは声を放つ。すぐに頷きが返ってきた。
安英と輝夜の間にどのような因縁があるかは知らないが、自分たちの絆は断たせない。
「野原一家かっこ除くしんのすけかっこ閉じる、ファイヤー!」
ひろしたちは闘志を燃やした。
(―――)
よし。
ひろしたちがどれほど役に立つかは神のみぞ知るが、最悪でも時間稼ぎには使える。
使った結果どうなるかは知ったことではない。
鈴仙にとって重要なのは輝夜である。永遠亭である。
だから、輝夜を助けるため手薄になった永遠亭が襲撃される、という展開を考えて
兎たちは永遠亭に残す。
行くのは自分とひろしたちだけだ。
「それで、あいつが逃げ込む先ってのはどこなんだ?」
心当たりのないひろしは鈴仙に問う。アンジェリーナ号で行ける所だといいが。
「あそこよ」
鈴仙は空を指し示す。
ひろしたちにはそこには何も無いように見える。しかし鈴仙には違う。
他者に見られないよう術を利かせた物でも、波長を操れば簡単に見ることが出来る。
空には、球があった。
それは安英が手に入れた力の結晶。
輝夜を捕えて旅立つための船である。
―――鈴仙・優曇華院・イナバの鈴仙という字は当て字であり、優曇華院とイナバは愛称である。
本来はただレイセンとだけ言う。
それと同じように輝夜も、本来はカグヤと言う。
カグヤは月の民であり、その中で姫として大切に育てられた。
しかし禁忌とされる事をしてしまい、月から地上にと落とされた。
そこで後の養親に拾われ、地上の人間・輝夜として生きることになった。
昔の話である。
そこからもう少し今に近い昔に至るまでの話は、『かぐや姫』として伝えられている。
……この衣着つる人は、物思いなくなりにければ、車に乗りて―――
輝夜は、伝えられている話とは違って月には帰らなかった。
それから色々とあって――色々と無くて――、その生は幻想郷に流れついた。
それは世に知られぬ話。今と続く過去の話。
その過去ゆえに輝夜は安英に捕らえられた。
鈴仙は波長操作で牛車内の安英の言葉を聞き、それを知る。
「見えた!」
緊張と興奮が混ざったそのひろしの声が響くのは空だ。
あまりに大地との距離がありすぎて、落下感覚を遊戯に出来るほどの高位置。
ひろしとみさえとひまわり、シロはそこを車で飛んでいた。
アンジェリーナ号でである。
アンジェリーナ号自体に空を飛ぶ力はない。
アンジェリーナ号は市販車で、ひろしたちが住む時空の位置に空を飛ぶ車は無い。
たとえあっても、空を飛ぶ車は事故の規模を増すため永遠に市販はされない。
アンジェリーナ号が空を飛ぶのは、永遠亭の蔵内の道具のためだ。
『天神午睡』。
そんな名前を持つ、小さな梅の木。
雷の力で空を飛ぶそれがアンジェリーナ号の上部にあるから、空を飛べている。
「俺たちはこのまま突っ込んでいいんだな!?」
「ええ。あとは適当に。大人なんだから」
アンジェリーナ号の上に立つ鈴仙が、力を使って伝える。
ひろしの視線の先には安英の牛車が。鈴仙の視線の先には牛車が模型に見えるほど大きな球がある。
速度を出すための残力はまだあり、敵の妨害はここまでは無い。
動きの波は今が天井だ。
「こっちはとにかく回り込む。真っ直ぐに、ねえ!」
鈴仙はその手に持つ弓を引き、放した。
だが矢は飛ばない。
その弓に矢はつがえられていないからだ。
それは矢ではなく音を飛ばすためのものだからだ。
―――耳障りとしか言えない音が、牛車へ飛ぶ。
そしてどれほどのダメージがあったかを知る前に鈴仙は車上から跳んで空を飛びだす。
アンジェリーナ号は加速を始め、牛車との距離をぐんぐんと詰め始める。
安英の牛車はその内から、内に収まりきるはずのない量の紙を溢れ出させる。
それらは移動と移動と攻撃だ。
……牛車から溢れた紙は、紙の兜に紙の鎧、紙の弓矢で武装した紙の兵士たち。
術によって動く安英の下僕たち。
それは風に乗って追撃者たちに近づき、絶妙な位置で一斉に紙の矢を放つ。
目標物に集中するのではなく、空間に満遍なくあるよう放たれたそれは、
素材は紙でも動かす力は強力で、追撃者たちは矢に近づく方向に動いているからその分速度は上乗せ。
「うひょお!?」
ひろしは慌ててハンドルを操作するも、何本も当たってしまう。
「ぎゃあ―――!」
悲鳴を上げるのはひろしだ。
天神午睡の力で車内までは届かなかったものの、車体には相応の傷がついてしまった。
「よくもアンジェリーナに傷を!」
「元々傷だらけなんだからいいじゃない! それよりちゃんと前!」
「だからって傷が増えていいわけないだろ!? チクショーもう当てさせねえー!」
叫べばひろしに気合が充填、迫る第二波矢群を次々にかわし、
鈴仙の射撃が紙兵士を吹き飛ばして空いたそこにアンジェリーナ号は進み牛車との距離を縮めていくが。
(ああ。これは間に合わない)
鈴仙は正しく見極めた。球の内部へ入るまでに牛車を抑えるのはもう無理だ。
今、鈴仙が敵紙兵士に波動を浴びせているとき牛車はまだ球の外にある。
しかしそこから少し後の今。鈴仙がアンジェリーナ号の上に再び立ったとき、牛車はもう球の中にある。
しんのすけも輝夜も取り戻していない以上退く理由はない。
アンジェリーナ号は球の中へ。
そこに待ち受けていたのは、先に空に展開されたのと変わらぬ量の紙兵士と、
「やっぱり天井……!」
鳥の形をした火。
そして、鳥形の火がアンジェリーナ号を押し包んだ。
「……儚いものだ」
追撃者の車が消えた空を見ながら、安英は笑みを浮かべて言った。
「私たちとは根から違う。生まれが違う―――」
そして、笑みを保ったまま安英は顔を左に向ける。
「儚さを十重二十重と重ねても、別のものにはならないわよ」
そこには輝夜が居る。
輝夜を捕らえた玉、『春雪』という名のその玉が捕える力を発揮するのは
春に現れた雪が消えるまでと同じ程度の短時間だ。
「大物は五重で充分塔になる。そして塔は、天底を越えて望む所へ行くのです」
安英は無警戒。今の輝夜に対して警戒する理由はない。
何故なら輝夜は力を振るえない。
ここは球の中、安英の領域の内。輝夜を留め置くために時を費やし調節した場所。
ここに居る限り輝夜はただの少女に過ぎない。
安英は輝夜に手を伸ばし、
「その旅を永遠に見届けるのは貴女。
そして、私たちと姫の旅立ちを世に伝えるのは、お前だ」
触れずに止まり。輝夜の隣、ただの五歳児らしく絶望で青ざめたしんのすけに指を突き付ける。
眩しい場所だった。
広さはわからない。大人が縦横に走り回れるほどの空間はあるとわかるが、
その外周は光に満ちて何があるのかないのか。
上方からは白とも黄とも取れる色の光が、目をくらますほど降り注いでいる。
そして場の中央には、城砦を思わせる外見の、真っ赤な機械があった。
その機械が、安英をこの状況まで導いた。
「おかえりぃ~英ちゃん、万事上手くいったでショ?」
「行きましたとも。恥を捨てた甲斐があった」
機械が男の声で喋り、安英はそれに喜びに満ちた声を返す。
「ふふん、未知の選択ならこのアカツ機ノテラにお任せよぉ」
「杯の裏?」
響く大きさで言ったのは輝夜だ。
普段このように名を間違えるのはしんのすけの得意だが、今のしんのすけは。
「……」
心が暗黒。
……しんのすけは五歳時だ。
いくら普段が太くとも、いくら冒険を乗り越えてきても、まだ五歳児だ。
家族が火の中に消えるのを見て、明るくいられるわけがない。
「ちょっとお、間違えないでよ。アカツ機だってば」
「殻付きのヒナ?」
「卵生じゃないわよアタシ」
「でも卵は産むかも知れないわ」
「卵を産む装置は、ここではなく他の場所に御座いますよ。
花を生む装置も、光を生む装置も」
そろそろ流れを自らの手に取り戻そうとし、安英が口を開く。
「生きていくために必要な装置は全てこの球の中に。
この球は海ですから。山を浮かべるための海ですから」
安英はそこでしんのすけに意を向けた。
しんのすけは沈んだまま、しかし安英は気にもせず。
「……この球は方丈海(ほうじょうかい)という。
この方丈海の全ては―――お前のような子供には解るまいが、胸を焦がす恋心のためにある!」
びくり、としんのすけが身を震わせた。
そして安英が。
「輝夜という」安英の一部が、
「この世の」安英の一部が、
「何よりも価値がある」安英の一部が、
「宝のためなのだ!」安英の一部がそれぞれ言って、
「ははははは―――!」
安英の全『員』が、 高く笑った。
過去。
輝夜がまだ伝説にはなっていなかったころ、輝夜には大勢の求婚者が居た。
その中に、他の求婚者とはパワーの違う五人が居た。
この五人はちょっとやそっとでは自分のことを諦めてはくれないだろう。
そう考えた輝夜は五人に難題を出すことにした。
自分との結婚を望むならある物を持ってくるように、と。
龍の頸の玉。
仏の御石の鉢。
火鼠の皮衣。
燕の子安貝。
蓬莱の玉の枝。
一人に要求したのはそのうちの一つのみとはいえ、どれも入手の極めて難しい物であった。
五人は失敗し、そして輝夜は人の目の届かぬ所へ消えた。
それで諦められればよかったのだ。
あのような娘にそれほどの価値はないと。
短い生は大切に使うべきだと。
この世に女はいくらでも居ると。
そう考えられれば、五人は安らかに生きられただろう。
しかし。
人間がそう簡単に執着を捨てられるものなら、この世に苦しみというものはない。
五人は諦められなかった。
輝夜が欲しい、輝夜を振り向かせたい、輝夜を―――輝夜。
その思いを核に五人は纏まった。
一人一人ばらけていたのでは輝夜を手に入れる前に死ぬと見て、五人は一人になった。
安英と名乗るようになった。
そして安英は、長い間旅を続け。
恋を支援するため作られた機械に巡り合った。
アカツ機ノテラ。
占うことによって使い手の望む運命を引き寄せる装置。
その力で安英は方丈海を見つけ出し、
全てが上手くいく時間、野原一家という要素によって隙が出来る時を待って―――
こうして輝夜をさらった。
「私と姫はこの方丈海で宇宙の果てに旅立つ。
月の民も地上の民も、誰も私たちの邪魔を出来ない場所へ。
そこで―――」
安英は内側の思いがだだ溢れた顔になり、少しの間無言でいた。
「……そこでふたりは末永く幸せに暮らしましたと世に語り継ぐのはお前だ!」
宇宙の果てまで追いかけて来るものの事を考えれば、それは危険度を増すだけのことだ。
誰にも知られず旅立ったほうが賢明である。
しかしそれでは満たされない!
この自分こそがあの輝夜を手に入れたのだと世に知られなくては、
語り継がれなくては、羨ましがられなくてはこの千年の報酬には足りない!
だから安英はしんのすけに語り、生きて帰そうとしていた。
「さあ。言ってみなさい。竹林に隠れ住んでいた輝夜姫は?」
「うっ……」
鼻が触れ合うほどまで顔を近づけて言う安英に、しんのすけは圧されるまま。
相手の耳に息を吹きかけることも、尻をぶつけることも、ボケをかますこともない。
今のしんのすけの心は、弱り果てていた。
まだ立ち直らないのか。まだ立ち直らせないのか。
―――しようがないと輝夜は思い、
「ほほ。子供相手に凄んでみせる男の方なんて、最低ね」
思ったことを口にした。
「偽物で人を騙そうとする、知恵も羞恥心も無いお方ではしょうがない事ですけど」
「私は騙そうとしていません―――偽物さえ手に入れられなかっただけではないかね?―――
ハナから結婚する気など無かったのだろうが―――誤解ですよ、あれはすり替え―――
ええい! 私に喋らせろ!」
痛むところを言葉に突かれ、安英のそれぞれがそれぞれの反応をして揉める。
その揺れから立ち直る暇を輝夜は与えない。
「繰り返させなくてもこの子は言うわ。トラウマになったから。
あの火の鳥の術者にしっかり言いつけて、もう地上に帰しなさい。
……ふたりきりがお望みでしょ?」
「すぐに返す事にしましょう」
安英はすぐさま答えた。揺れを収めて、火の鳥の術者に連絡するための鳥を術で作る。
その術には多少の時間がかかり、その間に輝夜は言う。
「地上に戻れば後はどうとでもなるでしょう。
地上に着いたら、いいえ今この瞬間から、自分の安全だけを考えて行動しなさい。
貴方の命は貴方だけのものなのだから」
それをしんのすけは聞いてはいるが、反応はない。
不安、怒り、悲しみ、惑い。胸の中でそれらによる嵐が暴れているからだ。
なぜそうなっているのか、輝夜は理解している。
―――いつもこうだ。
―――私は、関わる人を不幸にするように出来ている。
……輝夜は、言った。、
「しんのすけ。ごめんね」
その輝夜の顔を見たしんのすけは―――何も言わずにうつむく。
安英の術が終わった。
「後は到着を待つのみ……ん?」
安英はそれに意を向ける。
しんのすけがうつむいたまま何事かを呟いていた。
「……竹林に隠れ住んでいた輝夜姫は……」
そこでしんのすけは勢いよく顔を上げ、
「悪いやつにさらわれかけましたがオラの活躍で無事お家に帰りましたー!」
と力の限り吼えた。
……胸で暴れる思いの嵐を吹き飛ばすものはたったひとつ。
より強い思いの嵐である。
「何ぃ?」
眉をしかめる安英をしんのすけは真っ直ぐに見据え、胸を張った。
「決めたぞ! オラ、輝夜おねいさんを守る!」
守らねばならない。
ごめんねと言った時の輝夜は透明な笑顔だった。
胸撃ち抜かれる悲しい表情だった。
綺麗なお姉さんにあんな顔をさせたままでいるのは男として失格だ。
そして人をさらうのは最大に悪いやつだ。
しんのすけは安英を何度も踏みつける身振りをしつつ、
「お前みたいな悪いやつ、
メタメタのグリグリのボコボコのデケデケのジクジクの
ムリムリのヘロヘロのヌメヌメのビキビキのジンジンにしてやるーっ!」
「どうやって?」
見下す顔で問う安英にしんのすけはファイティングポーズを取って言う。
「オラのテクニックで!」
―――とは言うが、勝ち目は零に等しい。
そこには大人と子供の体力差があり、加えて安英には術がある。
いくらしんのすけの運動神経が良くとも、武器なしでは無理だ。
だから輝夜は言った。
「ねえ。私たちを助ける気はない?」
アカツ機ノテラに向けて。
……ノテラは、安英に対するのと同じ声の調子でそれに応えた。
「どうしてアタシがアンタたちを助けなけりゃイケないのよ?」
「貴方は恋を手助けするための装置でしょ?
恋するものはどこの誰であっても手助けする対象になるはず」
でなければ、支援装置失格である。
「確かにそうよ。オッケー、アンタたちの支援をしましょう」
安英は心の底から驚いた。
「裏切る気か!?」
「英ちゃん、アタシは装置なの。求められたら応えるのが装置なの。
そこを曲げたらアタシはアタシじゃなくなってしまうのよ―――」
「それじゃ『子供の幻想・馬の卵』をしんのすけによろしく」
輝夜が口にしたその馬の卵という言葉は、ノテラが今まで聞いたことのない言葉であったが、
しかしそれを聞いて何をするべきかは基底に刻み込まれていた。
オープン。
ノテラの下部に人の腕が入れられる口径の穴が開き、そこから矢のような勢いで物が飛ぶ。
それはしんのすけに向かい、その首にするりと巻きついた。
黄金色に輝く縄のような物だった。
「おお?」
「しんのすけ、『ホンバー』と叫びなさい。そうすれば貴方は武器を手に出来る」
何がよく判らないが、輝夜が言うなら嘘ではあるまい。
躊躇うことなくしんのすけは叫んだ。
「やっぱり目黒はサンマのホンバ―――ッ!」
すると、縄の輝きが増して、しんのすけを包み
数瞬で輝きが消えた時そこにあるのは。
その逞しい足で場を踏みしめ。
厚い胸は鎧で覆われ。
太い腕で剣を持ち。
広い背に盾を背負い。
そして、真っ直ぐな眼差しは安英を射抜く。
そんな、立派な青年剣士の姿。
「お~。オラ、また大きくなっちゃったぞ」
しんのすけが黄金の縄の力で変じた姿であった。
「ぬう―――!」
目を見開く安英に、輝夜は自信に満ちた顔で言った。
「これは『奔るホース』という、子供にしか使えないレアアイテムの力よ。
その威力がどれ程のものかは―――その身で確かめてみなさい?」
「何故そんな物が!?」
何故そんな物がノテラの中にある? 何故そんな物があると輝夜は知っている?
輝夜は柔らかくノテラを示して言った。
「だって、これを作ったのは私だもの」
その発言にノテラが一番驚いた。
「マジー!?」
「うん。マジ」
昔、ちょっとした事があって輝夜はアカツ機ノテラを作成した。扇風機感覚で。
それからまあ色々とあって、どこかに失くしてしまったのだが……
まさか安英が持ってきてこうなるとは。
「奇縁よねえ」
しみじみと輝夜は言う。じゃあノテラの喋りは輝夜の趣味なのか、
と考えた安英はどうするべきかを見出した。
姿を変えたからどうだと言うのか。
勝ってしまえばいい。
勝って、自分の力を輝夜に印象づけてしまえばいい。
そうすれば輝夜も―――。
「多少鎧ったところで、男ぶりは変わらん」
……安英の周囲に、紙で出来た五本の刀が浮かんだ。術の力だ。
安英は笑みを浮かべて吼える。
「勝つのは常に色男だと教えてやろう!」
しんのすけ―――信之介は剣と盾を構えて、
「もう知ってるぞ! だからつまりオラが勝つ! オラはちょー色男だ!」
「たわ言ぉ!」
戦いが始まる。
静かな場所だ。
騒ぐものも無ければ上方から発せられる光も穏やか。
他の場所の騒ぎなど、そこには全く関係がない。
方丈海の通路のひとつである。
そこに、鈴仙はあちらこちらに火傷を負って倒れていた。
(強すぎ……る……)
そのまま意識を失いそうなほど気力は減じ、呻き声のひとつも出せないほど体力が失われている。
じっとしていたい、という考えが鈴仙の耳を占めた。しかし
(立たないと……)
自分が倒れれば後を詰めるものはない。
こんな時に頼りになるものたち、八意永琳も因幡てゐも永遠亭を留守にしている。
永琳は薬の材料探しで。てゐは資金調達で。
居さえすれば自分がこのような痛みを食らうことも―――いや、留守でよかったのか。
鈴仙が居ながら輝夜をさらわれるなど、永琳が知ればお仕置きは確実だ。
だから立ち上がらなければいけない。
たとえ奪還してもお仕置きはされるだろうが、それでもさらわれっぱなしの場合よりは手心を加えてくれるだろう。
原形を留めるレベルに。
(……)
少しやる気を失いながらも、鈴仙は体の隅々から力をかき集め始めた。
鈴仙が倒れている今そこに。
今そこに野原一家は居る。
鳥形の火を放った術者が、倒さなくては進めない敵が居る。
火がアンジェリーナ号を押し包んだ瞬間、鈴仙は自身の能力を最大限に使った。
自分たちの位相をずらして火の威力から身を守りつつ振幅を弱めてやられたように見せかけ、
波長を短くして高速移動。
―――かなりの綱渡り行為であったが、結果良ければ問題はなし。
そして安英らが場を去るのを物陰で待って、こっそりと通路を進み始めた。
アンジェリーナ号は通路の入口を通れなかったため、そこに残して徒歩で。
ひろしとみさえとシロが、緊張した面持ちで通路を行く。ひまわりはみさえに抱かれて緩い顔だ。
野原一家はそれぞれが天神午睡の枝を持っていた。
「……」
一行のすぐ横を時たま紙の兵士が通り過ぎる―――鈴仙の力が己らを発見されないようにしている。
それが信じていいものと解っているとはいえ、やはり胸に悪かった。
鈴仙は野原一家の数歩先にいる。
背筋を伸ばしてすたすたと歩くその様子は、焦りや怖れを感じる部分が無いかのようだ。
……もちろんそんな事はない。
鈴仙は焦りも恐れも充分に持っている。
輝夜との連絡は出来ず―――この球の中にはある種の力が働いていて、輝夜との交信が出来ない。
もう少し近づけばなんとかなるかも知れないが、そこまで持つかどうか。
いつ、あの火の術者と遭遇してしまうことか。
その場にいないものの事を考える、あるいは口にすることでそれとの遭遇率を上げる。
良くない方位を避けて目的地に移動するのと同じ、運命操作法のひとつである。
―――遭いたくないと思っていてもそれは働き、世に色々な事を引き起こす。
「いけない!」
と唐突に声を上げた鈴仙に野原一家は驚き身構えた。
だが今いる通路に目に見える変化はない。普通の目に見える変化は。
鈴仙の特殊な目は通路に張られた力の幕を捉えていた。
これは―――
「藤原式霊力鳥籠、名付けて藤原ケージ」
「ふ、藤原ケージ!?」
ひろしが衝撃を受けた顔で声を上げた。
……藤原ケージと最初に言ったものは、鈴仙らの前方に立っている。
どうにも沈んだ雰囲気をした、青白色の長髪の少女だ。
「やはり貴女か―――」
少女を見ても鈴仙に驚きはない。
安英が輝夜の過去の求婚者たちだというのなら、彼女が出てくるのは当然だ。
彼女はその求婚者のひとりを父に持つのだから。
彼女は、輝夜を敵と見做しているのだから。
「―――藤原妹紅!」
「そうさ。わたしは藤原妹紅だ」
青白色の長髪の少女―――藤原妹紅は、自らに言い聞かせるようにそう言った。
「ここから先へは行かせられない。大人しく地上に帰れ」
身構えず、妹紅は言った。それへの反応は、
「しんのすけを返してくれたらすぐに帰る!」
「姫を取り戻したら帰ります。……貴女にとってもそっちの方がいいんじゃない?」
懐柔が二重。
……それは、悲しいほどに力不足であった。
「出来ないね」
静かだが断固とした調子で妹紅は言う。
「あの子供はどうだか知らないけど、輝夜だけは返せない。
わたしは、望みを叶えなくては」
「どんな望みです。誰の望みです」
「……」
妹紅は答えない。切り込もう、と鈴仙は口を開いた。
「そんなにお父上に頭を撫でられたいのですか?」
「……っ」
子を殺す親はいる、親を殺す子もいる。
子に関心を持たない親も、親に関心を持たない子もいる。
親と子の関係というのは特別なものではなく、ただの人と人との関係に過ぎないからだ。
だからそこにある思いも他と同じように変わる。
……長い年月の間に、最初の思いは大分変わった。
「あの方、輝夜様しか見ていないようですよ」
「……うるさい!」
それでも。
「どんなに時が経ってもどんなに色々な物が変わっても、それでもわたしは娘であの人は父なんだよ!
見て欲しいって! 愛して欲しいって思うんだよ―――!」
心のままに、妹紅は体に火を纏って鈴仙に攻撃を仕掛けた。
「ちぇ、説得失敗かッ!」
説得どころか逆鱗に矢を撃ち込んでいたようにしか見えなかった
と突っ込める野原一家は慌てて逃げ出すのに手一杯。
鈴仙は跳び、そして通路に攻防の波が生まれる。
そして鈴仙は場に叩き伏せられた。
その結果を決めたものには経験の差があった。運勢の差もあった。
しかし一番大きかったのは、出力の差だ。
鈴仙が百の力で位相をずらしたところで、二百の力で攻撃されれば当たってしまう。
どれほど頭を絞ったところで、どれほど身を削ったところでその事実は変えられない。
だから鈴仙は倒れた。立ち上がろうともがく事になった。
ひろしたちが妹紅と向き合うことになった。
「帰りなさい。ここはもうじき帰れないほど遠くなる」
妹紅に疲労の影はない。
たとえひろしたちが全力で戦ったところで、そこには僅かな疲労さえ加えることは出来ないだろう。
戦って道が開けないなら―――あとは身を投げ出すしかない。
「お願いします! どうかしんのすけを返してください!」
ひろしとみさえは膝をついて頭を下げた。
これは色々な面で卑怯な行いだとひろしたちは思っている。
だが卑怯程度で家族が取り戻せるのなら、いくら卑怯者と罵られようと痛くもかゆくもない。
「大切な家族なんです!」
「あー……」
困ったな、と妹紅は頬をかいた。
殴りかかってきてくれれば気兼ねなく投げ飛ばすことも出来るが、こうされたら何も出来ない。
妹紅はそこまで非道ではない。
「分かったよ。わたしがあの子を」
鈴仙はそこに隙を発見した。
即断即決、国士無双の薬の瓶を噛み砕いて血ごと瓶の破片ごと中身を飲みパワーアップ、
跳ね起きて距離を詰め妹紅の腰を抱いてバックドロップ。
……バックドロップ時の体の曲線はそのバックドロップの波長である。
そして、曲線が綺麗であればあるほどそのバックドロップは強力なものである。
つまり波長を操ることが出来る鈴仙がそれに力を使った時月下無双のバックドロップは顕現する―――!
伝説「バックドロップはヘソで投げろ」
「か」
と息をもらして、妹紅はあっけなく気絶した。
妹紅のような体質のものの動きを止めるには、意識を刈り取るのが一番である。
「さあ、行きましょう! 目標地点まではあと少しですきっと!」
薬と戦闘の影響でテンション高めの鈴仙が言う。これは逆らってはいけないとひろしたちは思った。
「よ、よし! 行こうぜ!」「え、ええ!」
一行は通路を走り、身内を目指す。
(いいのかこれで……?)
微妙な思いを抱えながら。
微妙な呼吸のずれが一度で勝敗を決定づける。そんな時間を、
「ふ~」
信之介は自然体で過ごしている。
―――その身に迫る空飛ぶ剣群を、信之介は踊るように斬り抜ける。
信之介の剣は天性の剣であった。
人並み外れた運動神経と恵まれた筋肉でもって放たれるそれは現世の幻。
形を知るものが見れば惑い、形を得たものが見れば感心する無形の剣。
時を重ねて凡なる剣才を育ててきたものにとって、それは嫉妬をかきたてるだけのもの。
「ぬ―――っ!」
信之介が全力で放った横薙ぎの一撃を、
安英は紙の剣に受け止めさせつつ信之介の横腹に蹴りを入れて信之介を吹き飛ばす。
空に吹き飛ばされた信之介はすかさず身を捻り正しい姿勢で着地した。
しぶとい。安英は苛立つ。
「全く! 大人しくしていれば無傷で帰れるものを!」
何故抗う? 何故戦う?
執着で染まった頭は、執着に染まった答えをはじき出した。
「―――そうか! お前も姫を狙っているのか!」
「そりゃ狙ってるぞ!」
信之介は胸を張って答えた。
「輝夜おねいさんは美人だしいい人だしなんか守ってあげたいって感じだし!
結婚を前提としてお付き合いしたいぞー!」
「まあ」
信之介の後方で戦いを見守っている輝夜が、そんな声をあげた。
安英は怒髪天に達した。
「させるか! 姫は私が守る―――!」
紙の剣をその手に握り、形をもって安英は撃ちかかる。
上段中段中段中段上段、烈火のごとく襲い来る剣を信之介は剣と盾を存分に使っていなし、
機を見て―――断つ。
矢弾さえも防ぐ紙で出来た剣は、豆腐のようにごくあっさりと斬り飛ばされた。
ちぃ、と安英は新たな剣を用意するところに信之介は突きかかり、戦いの流れは信之介ものとなる。
「おまえ! だいたいなんでこんな事をするんだ!
お付き合いがしたいなら普通にお茶に誘えばいいぞ!」
豪雨のように剣を浴びせかけながら信之介。
安英は防御に力を注ぎこみながら、
「そんなで振り向いてくれる女かよ!
輝夜は高級な女だ! 秘宝を持ってこなければ歌の一つもくれはせん!」
「給料三カ月分で問題ない! 問題ない?」
信之介は剣を止めてくるりと輝夜のほうを向いて訊ねた。
「本物ならね」
輝夜の答えは安英の耳には入らない。目の前の隙を突くことで頭が一杯だ。
「馬鹿者め!」
敵の不意を突いた一撃は、伝説さえ倒す威力を持つものである。
紙の剣が信之介の鎧を刺し貫いた。
―――信之介が一瞬で脱ぎ捨てた鎧を。
「空蝉だと!?」
その時信之介は既に安英の横を通り抜けようとしている。
師から学んだ一撃を、放とうとしている。
「あんとろわどう―――!」
胴を抜く一撃。
放ちながら駆け抜けた信之介は、安英の後方で動きを止め。
安英は、しばし静止したあと、ばたりと倒れた。
……。
「でも、給料三カ月分って具体的にはどれくらいだろ?」
高級なお菓子が山ほど買える額か、と信之介は想像する。
そんな姿を見ながらノテラは言った。
「これで終わり、じゃあないわよ?」
「ええ、解っているわ」
輝夜は当たり前のことを言われたように答えた。
信之介がその手に握る剣には刃が無かった。
それは断とうと思わない限り、命を断つことは出来ない剣だ。
それで斬られた安英は、気絶しているだけでまだ生きている。
「だから帰ります。ここでは何も出来ないから」
輝夜は信之介のほうへと歩き出し、信之介もまた輝夜を目指して駆け出す。
その半ばで、信之介の体が光に包まれて―――子供の、しんのすけ本来の体になった。
「おー……。戻っちゃった」
「すぐに今くらい大きくなるわよ。こんなものを使わなくてもね」
近づき、しんのすけの首に巻きついた奔るホースを淀みない手つきで自分の手に収めて、
輝夜はノテラに振り向いた。
「貴方は後で取りに来るわ。その時まで貴方が残っていたら、の話だけど」
「貴女のお好きに。アタシは道具、機能を求める誰かに従うだけ」
「……」
輝夜は無表情に背を向けて、いつの間にか開いた――ノテラが開けた――出口にと歩き出す。
「じゃ」
としんのすけはその後を追った。
安英は倒れたまま動かず、ノテラは何も言わず何もしない―――
「しんのすけ!」「輝夜様!」
出口より通路に出てからほんの少しで、輝夜たちはひろしたちと出くわした。
「良かった……!」
その姿を見て感情のたがが緩み、ひろしはしんのすけを抱きしめる。
しんのすけは最初は家族の生存を驚いていたが、すぐにその事実を受け入れると、
「あーあ、これで輝夜おねいさんとふたりっきりじゃなくなった……」
などと言って頭をぐりぐりとされた。
「鈴仙。脱出路は?」
「拓けます」
そう、と輝夜は相槌を打って、しんのすけを抱きしめるひろしを見た。ほんの僅かだけ。
「先導しなさい。ここに働く術から早く逃れたいわ」
「はい、こちらです―――」
そして何とも遭遇することなく、一行はアンジェリーナ号まで辿り着き、
問題なく乗り込み問題なく外へ。
太陽光を耳に受ける。
「―――」
鈴仙はその光と周囲の空間を力で調べ、自分たちが妙な仕掛けに囚われていないことを確かめる。
……囚われてはいない。そう感じた。
方丈海は順調に小さくなっていく。
「なあ」
「何?」
アンジェリーナ号を加速させ続けながら、ひろしが口を開いた。
何かと問うのは、物質的にも精神的にも近いみさえだ。
「追手とか爆発とか来ると思ったんだけどさ。何にも来ない。
こういう状況、なんて言うんだっけ」
「嵐の後の静かさ?」としんのすけ。
「それを言うなら嵐の前の静けさでしょ……」
アンジェリーナ号の中でそのようなやりとりが成された直後、
ひとりアンジェリーナ号の外で飛ぶ鈴仙は、
方丈海の方向からやってきた一条の光に射抜かれて意識を耳放し落下した。
「……それでも来たのね」
アンジェリーナ号の後部席で輝夜が呟く。
光による落下は無音で進行したため、車中のものでそれを認識しているのは輝夜とシロのみ。
それが見えるまでは数秒。
「逃がしませんよ、姫。大盗人輝夜私の花!」
その叫び声は車内の全員が聞いた。
その声の主の姿を車内の全員が見た。
光で出来た翼を背に生やした安英が、猛烈な勢いで迫ってきている。
「―――!」
ひろしとみさえは悲鳴をあげる。
己を追ってくる者が威力ありげな光の矢を何十何百と放ってくれば、普通は悲鳴をあげるものだ。
車ごと落とせば邪魔者は一掃できると遠慮なしに撃つ安英、
当たれば死ぬぞと必死に回避機動を取るひろし。
堪らず、ひろしは叫んだ。
「危ねえ! 一人の女を思い続けるのは確かに恰好いいが、ちょっとは手段を選べこのストーカー!」
「お前に何が解る!? 私が輝夜のためにどれほどの金を注ぎ込んだと思っている!
厩より狭い屋敷しか持てない者は黙れ!」
「んだとお!?」「もっと給料が高ければねえ……」
この状況下でぼやくみさえにひろしは軽く肩を落とす。
「おま……どーせ俺は大したことのない男ですよ……」
そんな事はない、とそれに言ったものがあった。
「貴方は約束通りに立派な大人になったわ。ひろし」
輝夜だった。
……輝夜がそう言った理由に、野原ひろしは思い至れない。―――出会いを思い出せない。
「充填完了。借りを返してやるわ」
それを気にすることなく輝夜は己の能力を使い、車外の空に一瞬で出る。
時間を止めて移動するのではなく空間を操って移動する、移動形式だった。
輝夜は、永遠と須臾を操る程度の能力を持っている。
それは平たく言えば時間=空間に干渉する力である。
時間を操ることでその時間線上にあるものを線上から離し、永遠のものとすることも可能なら、
時間を操ることで時間軸に潜めておいた道具を取り出すことも出来る。
そんな力だ。
普段輝夜が戦う際は、その力でもって道具を取り出し戦う。
空間を操れば大きさも重さも問題にならない。天井だって投げられる……
だが今回は、道具を使わない
今持つ道具では望む結果を引き出せないからだ。
「輝夜!」
「地上の人は全て物ぞきね。故郷を離れて千年経っても変わらない」
輝夜が出てきたことに安英は喜び、真っ直ぐに輝夜へ飛ぶ。
輝夜は、狙いを定めて『紐』を引いた。
「さようなら」
そして空に起きるは大きな津波。
時間で出来た津波。
それを身に受けたものは、時間の波が進む先―――すなわち未来に押し流され、今からは永遠に消える。
安英はそれを正面から受けた。
抵抗は出来ない。
安英の全ては未来に押し流される―――
( )
たったひとつの名前だけを思いながら。
「また会いましょう」
……そして輝夜は鈴仙を空間操作で手元に引き寄せ、共にアンジェリーナ号の中へ移動した。
そこから後に、危機は無い。
月は今日も月であった。
永遠亭の一室、月光射す部屋の中。
輝夜はそこにうつ伏せでいる。その体には全く力というものが入っていなかった。
そして輝夜の前には、妹紅が居る。こちらは輝夜と違い、姿勢正しく座っている。
「何かお土産はないのー」
だらりとした調子で輝夜が言う。妹紅は澄ました顔で答えた。
「お前にやる土産なんてあるもんかい」
「じゃあ兎たちへのお土産はないのー」
「それはもう渡した」
「そうなの」
後で兎から聞いてみようと輝夜は思い、後で聞いてがっかりしろと妹紅は思った。
妹紅の渡した土産とは、鈴仙のバックドロップへの表彰状と人参で作ったメダルである。
「……で、彼らはもう帰ったの?」
「ええ」
輝夜は、しんのすけから贈られた菓子を能力で取り出して見せた。
野原一家はもうここには居ない。幻想郷のどこにも居ない。
自分たちの帰るべき場所にちゃんと帰った。
「残ったのはこれと僅かな物だけ。どう? これ食べてみる?」
結構美味しいわよ、と言う輝夜に、妹紅は首を横に振った。
「いや、いい」
腹痛の薬でも混ぜられていたらたまらないから、というわけではない。いやそれもあるが主ではない。
思い出を味わうのは味方の特権だろうと思ったのだ。
「……あの子供、気に入ったみたいだな?」
「ここから遠い時間線ではね、弟だったこともあるのよ」
「ふん?」
どういうことだろう。遠まわしな謎かけなのか。
「まあそれはどうでもいいんだ。本当に」
輝夜が誰を気に入ろうが気に入るまいが。……手の届く世界に居てくれれば。
妹紅は、輝夜を訪ねたその理由を口にした。
「殺めずに済ませてくれて、ありがとう」
「……」
輝夜は何も言わず、何お顔には出さない。
妹紅はさっと立ち上がり、
「用はそれだけ。じゃあね」
「またねー」
振り向くことなく部屋から去った。残るのは輝夜のみ。
そこに至ってもまだ輝夜は身を起こさない。
気が乗らないのだ。
―――気が乗らない時に何かをすれば、現在を台無しにしてしまう。
だから輝夜はひとり時を待つ。
気の向くその時を、楽しみに待つ。
「誰も居ない、誰も訪れない。
退屈過ぎるわよね、そんなもの」
月は今日も月であった。
月光射す部屋の中、しんのすけはひとり頭を悩ませていた。
立派な大人とはどんなものだろう?
その問いを抱いたのは、過去―――
「ねえしんのすけ。貴方、結婚を前提に付き合いたいって言っていたわね」
と輝夜は正面からしんのすけに言った。
「う、うん。言った」
しんのすけは胸の鼓動を速めながらも、しっかり頷いた。
「一つ、条件を出してもいいかしら?」
「もちろん! オラ、なんだって聞いちゃうぞ!」
ななこおねいさんの事はどうしようかと考えながら、しんのすけは輝夜の次の言葉を待った。
輝夜は、笑って言った。
「じゃあ、言うわ。―――立派な大人になること。それが貴方に出す条件。どう? やる気はある?」
もちろん答えは決まっていた。
……しかし。それからずっと考えても、納得できる像が見つからなかった。
立派な大人とは何だ?
どうすれば立派な大人になれるのだ?
―――子供であるしんのすけはまだ知らない。
それがどんな秘宝を手に入れるより難しいことであることを。
今まで数えきれないほどの人々が挑み、敗れてきた難題であることを。
「む~」
さっぱり解らない。
解らないが、諦めない。
今日考える。明日も考える。そしてやってみる。
綺麗なお姉さんのためならどんな苦労だってどうということはないのだ。
「よーし! オラはこの月に誓う―――」
……そして時は過ぎていく。
その先に何があるかは誰にも判らない。ものはすぐに変わってしまう。
しかし、確かなことが二つある。
輝夜は待ち続ける。
しんのすけには未来がある。
その二つは、変わらない。
だから、再びその言葉は放たれる。
「へーい彼女~、オラと一緒に月見だんごでもどう~?」
言葉を受けるのは輝夜。言葉を放つのは……
どこかで声がした。
「―――ようやく、時が来た」
「千年。……永かったものよなあ」
「ははっ! ははは! 姫、貴女の声を、声を聞かせ頂きます!」
「落ち着きなされ」
「落ち着けないから今こうしているのだろう?」
「うむ。……この思いは忘れられぬ」
「ならば! 私たちの、この力を持って!」
「解決しよう―――」
どこかで、始まりの声がした。
―――むかしむかし。
ある所におじいさんとおばあさんがいました。
ある日、おじいさんが竹を切っていると、月のように光る竹を見つけました。
おじいさんがその竹を切ってみると、なんと竹の中には小さな女の子が居ました。
おじいさんはその女の子を家に連れ帰って、自分たちの子供として育てることにしました。
竹から出てきた女の子、
かぐや姫は、おじいさんとおばあさんに大切にされてすくすくと成長し、
都でも評判の美しい娘になりました。
かぐや姫をお嫁さんにしようとするものたちが大勢現れ、かぐや姫の家に通います。
その中に他よりも目立つ五人の貴公子がいました。
かぐや姫は、その貴公子たちにひとりひとり違うものを持ってくるよう言いました。
持ってくることが出来た方と私は結婚しますと。
五人の貴公子はそれぞれのやり方でかぐや姫の言ったものを用意しようとしましたが、
結局は誰ひとり姫の望むものを用意できませんでした。
そんな事があったあと、
かぐや姫はおじいさんとおばあさんに言いました。
実は自分は月に住んでいた人間なのです。
月で事件があったためにこの地上へ降ろされたのです。
そろそろ月から迎えが来るので月に帰らなくてはなりません。
おじいさんとおばあさんは、大切に育ててきた娘を失うのが嫌で、
人を集めてかぐや姫を月に行かせないようにしました。
そして月から迎えがやってきました。
かぐや姫を守るために人々は戦おうとしましたが、
不思議な力によって体を縛られてしまいます。
それでもおじいさんとおばあさんは抵抗しましたが、
これ以上抵抗してはおじいさんとおばあさんが危ないと、
かぐや姫はおじいさんとおばあさんに今まで育ててくれたお礼を言って、月に帰っていきました。
おじいさんとおばあさんは、月を見るたびにかぐや姫の事を思い出して過ごしました……。
「で?」
園児服を着た坊主頭の子供が、ふてぶてしい印象を受ける顔で言った。
子供の名は野原しんのすけ。
ふたば幼稚園ひまわり組の園児である。
「この世の力ははかないもの、ってお話だろ?
けど、キャラが少ないせいでちょっとストーリーが薄いよね、この話」
と、訳知り顔で言う子供の名は風間トオル。
しんのすけと同じ園、同じ組の園児だ。
「求婚者の娘とか出すのはどうかしら?
父親を侮辱した女に対する怒りや、女としての嫉妬とか」
楽しそうに言う女児は桜田ネネ。
「姫が、月にいたころの先生とかどうだろう」
ぼうっとした顔つきの、鼻水をたらした子供は、通称ボーちゃん。
「かぐや姫の地上での幼馴染の少年とか出して、
その子が月のお迎えをばったばったとやっつけるのはどうかな?」
これはおにぎりに似た頭の子供、マサオくん。
「ふ~。マサオくんはハナカサってものをわかってないなあ」
「なんでボクにだけ言うのさしんちゃん!?」
この五人はいつもよく五人で行動しては騒動を引き起こす、
ひまわり組きってのトラブルメーカー集団だ。
五人の中にひとり物凄いトラブルメーカーがいるせいで他の四人までトラブルメーカーになってしまい、
集団と見なされるのであるが。
……五人が居るのはふたば幼稚園ひまわり組の教室。
ひまわり組のほかの園児たちと、ひまわり組を受け持つ教職員の女性石坂みどり。
通称よしなが先生がそこには居る。
よしなが先生は今、かぐや姫の紙芝居を演り終わったところであった。
よしなが先生は、しんのすけたち五人の喋りに、
困った。
これは時間内に語って聞かせるために細かいエピソードを端折っているの。
偽物で姫を騙そうとするくだりや不死の薬の存在は考えた結果削っているの。
分かって。分かってくださいお願いします。
そう言えればどれほど楽だろう。
でも言えない。言ったら色々だいなしになる。
なのでよしなが先生は、
「むかしむかし、ある所にふわふわとした魔法使いが―――」
念のため用意しておいた別の話を始めることにした。
子供のそれ以上に大人には付き合いというものが大切であるが、
しかし今日のところはとりあえずその必要はなく、彼、
「ただいまー」
野原ひろしは家族の待つマイホームに無事帰りつき、その靴を脱いだ。
足からひろしの頑張りの証とも言えるキツいにおいが展開される、そこに
「とーちゃんおかえりー」
白い布でぐるりと身を覆ったひろしの息子、しんのすけが現れた。
「何だあ? その格好?」
「てるてるぼーずだゾ」
ひろしの問いにしんのすけはそう答え、今日の夜が晴れるように歌いだした。
「そーして明日を雨にしてーおねいさんをスケスケにしておくれー」
「邪な事を願うんじゃない……!」
ろくでもない事を歌うしんのすけの頭を両側から拳で挟んで締め上げるのは、
ひろしの妻、みさえだ。
「……おー、ぐりぐり坊主」
しんのすけの格好以外は(ある意味では格好も)日常である光景に、
ひろしはそんな事をつぶやく。
……しんのすけへのお仕置きを済ませたみさえはひろしに顔を向け、
「お帰りなさい、あなた」
「ただいま。―――今日の夜、晴れが必要になるような事あったっけ?」
「ええ。お月見よ、お月見」
ああとひろしは納得する。そういえばそんな行事もあった。
来る日も来る日も電車に押し込められて会社という戦場で闘っていると、
そういう事が頭から抜け落ちてしまうから人間は悲しい。
「よし、今日は月見酒と行くか!」
しかし思い出せばこちらのもの、月を眺めながらの酒はよいものだ。
その傍らに愛する家族が居るのなら、さらによい。
空にあるのは丸い月、手近にあるのは月と同じくらい丸い団子。
そしてあまり丸くないしんのすけの頭。
夜。
雲一つない空の下、野原家のものたちはその家で月見をしている。
「くう~! ふーりゅーですな~」
ジュースを飲み、唸るしんのすけ。その姿にひろしとみさえは笑みを誘われる。
「生意気なこと言いやがる」
「たとえネコの額ほどの庭でも、充分ふーりゅーですなー」
「……生意気なこと言いやがる」
ひろしの気分が盛り下がる、
が、しんのすけは大体いつも生意気なことを言うので耐性は出来ている。
すぐに気を取り直した。
「しかし、恐ろしいほどスッキリとした夜空だな」
ビールを飲み、空を見て言うひろし。
「てるてる坊主が効いたのかもね」
その胸に赤ん坊、しんのすけの妹のひまわりを抱いたみさえが言った。
「それじゃ明日はスケスケのおねいさんが」
「ぐりぐり坊主が効いたのかも知れないわねぇ」
飽くことなく口で災いを呼び寄せるしんのすけに、
小さな白い犬、野原一家の一員たる犬のシロと、ひまわりが呆れの視線を向けた。
そんな中、月を見て、ひろしは思う。
(俺が大人になる頃には、月旅行なんて気軽に出来るようになると思ってたんだけどな)
生憎現実はそうならなかった。
月の石が持ち帰られてからもう随分と経つというのに、人類の飛行高度は昔よりも低くなってしまった。
それがどうしてか、子供のころのひろしにはどうしても理解不能だったろうが、
大人になったひろしには容易に理解できる。
採算が合わないと分かったのだ。
まったく、難題を不可能事にするのはいつだって人の心だ。
……それでも。
未来というやつは神様にだって判らないものだ。判るなら零落しないよう手を打つ。
どこもかしこも携帯電話で溢れる街の姿を、過去の誰が想像出来ただろう?
だから、いつかは、
しんのすけとひまわりが大人になる頃には、月旅行が夢ではなくなっているかもしれない。
笑顔も合成のものになっているかもしれないが。
――月光は人を沈ませるか?――
(……いや)
笑顔は合成にならないだろうとひろしは思った。
なりはしないと、己の家族を見ていると信じられた。
――月光は人を沈められなかった――
―――平穏無事に時は過ぎ、月見は終わる。
そして幻視の夜が来る。
「……」
親子仲よく枕を並べて眠っていたしんのすけは、もよおして目を覚ました。
部屋は暗い。時は何時だろう? 朝が遠いことは確かだ。
しんのすけは七割ほどが眠りの世界のままトイレへ向かい、用を足した。
「ふー」
水を流してさっぱりとした心地でしんのすけは再び眠るために歩く、
と。
月のような光を見つけた。
「お?」
しんのすけはそれに興味をそそられた。
光は、野原家の庭のほうから来ている。
しんのすけは一瞬たりとも躊躇うことなくそれを探りに向かった。。
しんのすけは寝間着のまま庭に出る。
そこには―――
「おお~!」
声を上げてしまうほど見事な竹林があった。
数え切れないほどの本数の竹が、その一本一本が月まで届きそうなほど高く伸びていて、
向こう側の見えない世界を作り出していた。
そしてその世界には、虫鳴と、涼風と、月光がある。
それを見るしんのすけは、一瞬、自分の名前もどうしてそこに居るかも忘れた。
天然の自然の衝撃だった。
―――その忘却が一瞬で済んだのは、声がしたせいである。
シロの声だった。
「おお、シロか」
シロはしんのすけの後ろで、怯えを表わしながらもしんのすけを心配するように鳴いていた。
しんのすけはシロに振り返り、
「シロ、これなんだと思う?」
問われてもシロは妖怪系でも科学系でもない普通の犬なので普通に返せない。
ただ竹林から離れたげな様子をしんのすけに見せるだけだ。
それを見るしんのすけの目は―――輝いている。
それはもちろん、未知のものへのときめきである。
深夜、自分の家の庭に謎の竹林が現れた。
そんな不思議な事に怯える子供はいても、嫌う子供は滅多にいない。
怯えも嫌悪もない子供がこんな場合にどうするかは決まっていた。
「オラ、ちょっと見てくる!!
しんのすけは竹林に足を踏み入れた。
シロはそんなしんのすけへ、警告するように、そしてすがるように吠えるが、
しんのすけはまるきり聞こえていないかのように竹林の奥へと進んでいく。
シロは決断しなくてはならなかった。
シロの心にあるのは怯えだ。
こんなところに入りたくない、頼りになる誰かを連れてきたい。
朝が来るまで自分の小屋に引っ込んでいたい。
この竹林には、妖気を感じる。
だからシロは、決断した。
走り、しんのすけを追いかける。―――ここで追わなければ永遠に会えない予感がした。
しんのすけは歩き、シロは走り、だからシロはしんのすけに追いついて、
一人と一匹は竹林の陰に消える。
それを見ていたのは月だけだった。
―――そしてしんのすけが見るのは、竹林だ。
歩いても歩いても歩いても、いくら歩いてもそこには竹しかなく、何とも出会わない。
しんのすけは退屈を感じ始めた。
「へーいへーい」
軽く歌ってみるが退屈は消えない。
せっかく不思議に現れたのだから、もっと不思議なことが起こってもいいはずなのに。
まったくなんなのだろう、この竹林は―――
と考えているとしんのすけは何かに足を取られて転んだ。
泣き顔に蜂、その場は斜面であったから、
しんのすけは斜面を転がり転がり子供にも子犬にも止められない勢いで斜面の終わりへ。
そこにはちょうど岩がある。
岩との激突はまず避けられない。……普通ならば。
しんのすけの運動神経は、普通には出来ていなかった。
「ほい!」
ぶつかる寸前、しんのすけは地面を蹴って跳び上がり、そのまま岩の上へ着地した。
審査員が居たなら高得点は確実の、見事な着地であった。
そしてしんのすけは、自分の事を……
―――もしもの話だが。
会えば幸運になる兎としんのすけがここまでに出会っていたら、その出会いは無かったろう。
全ての出会いが幸運なものであるわけではない。
当人がどう思おうと。
……そしてしんのすけは、自分のことを幸運だと思う。
岩から少し離れた、今のしんのすけの跳躍と着地が見える位置に、一人の少女が居た。
静かな眼をした、長い黒髪の少女だ。
世間一般において美しくないとされているものを美しいと感じ、
美しいとされてるものを美しくないと感じる美的感覚の持ち主が居るとする。
その者が様々な世間における美を見て美しくないと感じるなか、
ひとつだけ、世間における美であるのに美しいと感じるものがあった。
それは。
どんな時代、どんな場所のものにも通用するもの。
『永遠』という属性を持つ美。
その少女の美しさは、そういうものだった。
美しいものを見たとき、人はそれへ中々近付けない。
自分などが近付いてもいいのか、迂闊で損ねてしまうのではないか。
そんな思いを抱くからだ。
そしてその思いによって、近づいた場合でも他のものへするように接する事は出来ない。
その価値を重く見るがゆえの反応、正常な反応である。
しんのすけは少女にすすすと近づき、言った。
「へーい彼女~、オラと一緒に月見だんごでもどう~?」
男が、可愛い女の子に見せるだらしのない顔で。
……それは、しんのすけが綺麗なお姉さんを見かけた時にするいつもの行動であった。
しんのすけはいつもお姉さんに声をかけるが、いつも相手にされない。
時も台詞も発言者も適切ではないからだ。
どれかひとつでも適切でなければ上手く行く率は大きく下がるのに、
全てが不適切ならば……上手く行くわけがない。
少女は、しんのすけに答えた。
「丸いわねぇ。どんな育ちをしたのかしら?
いいわよ、うちのお団子を味あわせてあげましょう」
適切であったようだ。
しんのすけは思いがけない展開に大興奮、真っ赤な顔で、
「オラ、野原しんのすけと言います! おねいさんのお名前は?」
「輝夜」
蓬莱山輝夜、と。少女は自分の名前を告げる。
それを見ていたのは、月とシロだけだった―――
そして次の日の、朝。
「あなた、ねえ、起きて! しんのすけが居ないの! シロも!」
みさえの青ざめた声が、野原家に響いた。
「居ない……? 落ち着け。
寝ぼけてどっか妙な所で寝てるんじゃないのか」
愛する家族が居ないと聞いて、ひろしの頭は寝起きながらも臨戦態勢。
慌てているみさえの分まで冷静になろうと務める。
「うちの中は全部探したわ。でもどこにも居なくって、
しんのすけが着替えた跡も何かを持ち出した様子も……」
「むう。とすると、自発的に居なくなったわけじゃあなくて」
何かの手によるものか。ひろしは真剣な表情で考えを口にする。
「誘拐、事故……あるいは、ひょっとして―――」
「ええ……」
みさえは、そのひょっとしての考えが一番あると思っている。
ひょっとして。
しんのすけはまた、大層な事件に関わったのかも知れない。
……戦国時代にタイムスリップする。
世界を思いのままにしようとする悪の組織と戦う。
映画の中に入る。
それらはどれか一つだけでも一生に一度あるかないかの出来事であるが、
野原一家にはその全ての経験がある。
どこかの昼寝とあやとりと射撃が大の得意な小学生にも負けないくらい、
運命に愛されているのだった。
「……手は一つだな」
数々の冒険を越えてきた男の渋みを漂わせ、ひろしは言った。
「もうちょっと探して、それでも見つからなかったら警察に行こう」
常識内の判断だった。
「……常識に囚われていては勝ち残れぬ!」
突如場に響いたその男の声になんだなんだとひろしたちが反応するよりも早く、
「キャー!?」
壁を盛大に壊してそれは現れる。
一台の、牛車であった。
「だあーッ! 何しやがるーッ!」
この現代に牛車? などとは思わずにひろしは叫ぶ。
ローンがあと32年も残っているものを壊されては細かいことに構ってはいられない。
修理費を請求してやると意を固めたひろしは、
牛車に近づこうと思ったがちょっと怖いので中から誰かが出てくるのを待った。
待ち時間は無い。
「大事の前の小事よ、気にするでない」
ゆるりと、壁の破片の散乱する場に牛車の中から降り立ったのは、
宇宙人か何かが着ているようなぴっちりとした銀色の全身タイツに身を包んだ青年だ。
明らかに変人だった。
「障子感覚で壁を壊されてたまるか! ていうか何だアンタは!」
飲まれてはいけない、変人相手には強気に行くのが一番だとひろしは気を張る、
しかし青年はまるで気にした様子もなく。
「我が名は安英(あんえい)。
お主らの子の向かった先へ、案内するためここへ来た」
「なんですって! うちのしんのすけが今どこに居るか知っているの!?」
「うむ。遠い所だが、往くか?」
「ったり前だ! しんのすけが居るなら火星にだって行ってやる!」
家族のためならタマのひとつやふたつ惜しくはない。
安英は口元に笑みを浮かべ、言った。
「良い心じゃ。
―――幻想郷。あれは今、幻想郷の永遠亭におる」
幻想郷。
そこは、魔法使いが空を飛び、妖怪変化が終日のたりとする領域。
古いものが今もあり、伝説の存在が身近にある、天と死が近い土地。
そこに、迷いの竹林と呼ばれる場所がある。
名の通り、入り込んだものは迷いに迷って酷い目にあう場所だ。
その奥に、ひっそりと屋敷があった。
名を永遠亭。
蓬莱山輝夜を主とする、兎の多い屋敷である。
時は月が出ていた点まで遡る―――
「輝夜様、お帰りなさい」
薄い紫色の髪と真っ赤な瞳をした、兎の耳を頭に持つ少女が、永遠亭に着いた輝夜たちを出迎えた。
「おかえりー」
と兎耳の少女に続けて言ったのは、しんのすけだ。
「間違って覚えているのか、お客様なのに輝夜様へ向けて言っているのか。
さーてこれは難問だ……」
「三つ四つ、ときにおやじ、いま何問だ。へぇ、六問目でございます。七つ八つ……」
「鈴仙、お茶を淹れてちょうだい」
ボケとボケとマイペース、残ったシロは喋れないため突っ込みとしては力不足である。
シロはくやしさに身を震わせた。
それとは関係なく話は進んだ。しんのすけは兎耳の少女に向かい、
「初めまして、オラ野原しんのすけ、輝夜おねいさんにお招かれ中の五歳児、好きな言葉は平熱。
おねいさんはウサギごっこ中?」
「ようこそいらっしゃいました。それとごっこじゃないわ」
「じゃ、専業バニーガール?」
「ブブー! 外れ!
私は鈴仙・優曇華院・イナバ! この永遠亭の兎たちのまとめ役の―――」
「私のペットよ」
「す、ススんでるう~」
須臾を読んで言う輝夜に、発言内容に感心するしんのすけ。兎耳の少女、鈴仙は、
「……ちょっと足出してくれる? ありがとう」
シロの足を『あらかじめ』用意しておいた雑巾で拭き出して間を計った。
一見すると兎耳を付けただけの人間の少女に思える
鈴仙・優曇華院・イナバは特殊な力を持つ月の兎である。
その力で離れた輝夜の事を見張り、しんのすけとシロが来ることを知ったのだ。
「では、失礼します……」
月光射し込む部屋の中、輝夜たちにお茶を出した鈴仙は襖の向こうに消えていく。
しんのすけはそれに目もくれない。
お姉さん好きのしんのすけが鈴仙に対して反応が薄いその理由は、輝夜だ。
輝夜の引力がしんのすけを虜にしている。
五歳児の精一杯の決め顔でしんのすけは言った。
「やっと二人っきりになれましたね」
「貴方のペットも居るけど」
シロはしんのすけの傍で大人しく座っている。
「やっと二人と一匹っきりになれましたね」
「さっきと同じじゃない」
「やっとお月見が出来ますね」
「そうね」
輝夜は月を見た。
月は今日も月である。明日も月は月だろう。
輝夜は団子をひとつ口に運ぶ。しんのすけも、団子を口に。
「むう、これはまったりとしていながらせつなげでさびしげでスピード感があり
まろやかさもありボリュームとチャレンジ精神たっぷりの素晴らしいお団子ですな~」
「貴方は、食べられる子供ね」
そして輝夜は茶を飲む。しんのすけは頬を染めて、
「ハイ! オラは食べられる子供です! ピーマンでもニンジンでもタマネギでも!」
「無警戒で無謀で無力で」
「そしてムクシロでムシンケーでムテキです!」
「無知。
……私が人間を喰らうものだったらどうするの?
貴方はここで終ってもいいというの?
貴方のご家族は、きっと悲しむ事でしょう」
ここでは何もかもがすぐに変わっていくのだから、しっかりしていなければいけない。
傷はずっと残る。後悔はずっと続く。
死をキャンセルして生を入力し大逆転、とはいかないのだ。
―――真剣な思いで言う輝夜に、しんのすけはどう応えたか。
「大丈夫」
しんのすけは、真剣な目ではっきりと言い切った。
「おねいさんいい人だから」
「―――」
輝夜は珍品を見つけたコレクターのように まじまじとしんのすけを見た。
大盗人だとか、外道だとか、金閣寺だとか。
そう様々に罵られたことはあっても、いい人だなどと言われたことは無かった。
なんとも、新鮮な感覚だ。
「ああん……もっと見つめて……」」
しんのすけは輝夜の視線に素敵な感覚を味わった。
そうだ、綺麗なお姉さんに悪い人は居ないのだ。
たまに要るが居ないのだ。
綺麗なお姉さんは素敵だからいい人なのだ。
まったく変なリアクションをする奴である。
輝夜は、どこかから瞬時に扇を取り出し、それで口元を隠しながら言った。
「糠釘ね。明日のことは明日に考えましょう。
―――誰かが夜を止めなければ、朝はすぐに来るでしょう」
誰かが夜を止めたなら、飛んで行って瞬く間に破ってやるが。
「オラ、おねいさんとなら永遠の夜も全然オッケーえ~ん」
「そうですか」
三分後。
「うーん、アクションローリング……」
しんのすけは寝言を言うくらい完璧に眠っていた。非常にだらしのない恰好で。
団子や茶に薬は入れていないから、それはしんのすけがお子様だという証だ。
「先に寝ちゃうなんて、ひどい人ね?」
いっつもこんなものですよと、輝夜に同意を求められたシロは身振り。
しかし輝夜にそれはまったく通じていない。
「私もそろそろ寝ようっと。鈴仙ー」
「お呼びですか」
輝夜が呼べばすぐに鈴仙は現われた。
「私もう寝るから、後はよろしくね」
と言って輝夜はさっさと部屋から消えてしまう。
鈴仙は了解してすぐに終わらせることにする。自分ももう寝たいのだ。
準備は既に済ませてある。
―――鈴仙は来客用の布団を部屋に運び込み、しんのすけをそこに寝かせた。
「……子供は本当に子供だなぁ」
呟き、盆と共に部屋を去る。残るのはしんのすけとシロのみ。
その寝姿を見るのは月だけだ。
―――時が過ぎて場所が移る。
月が移る日が移る、人が移る。
陽光の中。
安英の牛車とひろしの愛車アンジェリーナ号は竹林を走っている。
今は危険なものもなく、そう身構えずにいられる。
アンジェリーナ号内のみさえは陽気に己が今見たものを告げた。
「ねえあなた、あたし今UFO見たわ」
「ハハハ。俺もさっき空飛ぶメイドさんを見たぜ」
「たぁ、たったー」
あたしもツチノコを見たよ、とひまわり。
「すげーなあ、ここ」
「帰ったら自慢できるわねー」
あっはっは、と笑ってから、ひろしとみさえは声を揃えて言った。
「どこなんだここは……」
会社に休みの電話を入れて、薬や食糧といった役立ちそうなものを車に詰め込んで、
野原家を車で出発し辿る道は普通の道。
だったが、いつの間にやら見知らぬ峠道に変わり、そしておかしなものを見た。
妖精だとか幽霊だとか弾幕だとか、
ひろしたちの住む場所では非常識なものを立て続けに。
その非常識なものが在る背景が異国や異星や異世界風ならまだ解る。納得できる。
しかし在る背景、風景は明らかに日本。
今はもうない、古の花と鳥と風のある日本であった。
だから動揺する。
「あいつに付いてきて良かったのかな……」
「今さら何言ってんのよ。
……あの人が何を考えているのかは解らないけど、あんな力を持ってるんだもの。
付いていけばきっと……」
「……まあ、あんなの見せられちゃなあ……」
符と呪文で壁を直すというものを見せられては、安英に付いていかないという手はない。
あの力があれば、人ひとりの居場所を探ることなど朝飯前だろう。
「とにかく今は前向きに行かなきゃな。よし、話はやめだ!」
(ここで話していることも聞かれてるかもしれないしな)
(そうね)
最後は夫婦のシークレットサインで密かにやり取りして、
ひろしは運転に集中し、みさえはひまわりをあやし始めた。
一方、牛車の中でも今後についての会話がなされていたが、それを聞くものはない。
ゆえに車は先へ先へ。
竹林の奥にある、永遠亭に辿り着いた。
「うひゃあ……こりゃあ、土地だけですげえ額になるだろうな……」
アンジェリーナ号を停め、外に出たひろしは、己の前方にある古い屋敷を見てしみじみ言った。
「維持費も相当になるでしょうね……買い物にも不便そうだし。
こういう所に住む人って、やっぱりお金と時間を相当持ってる人なんでしょうね。
……ここにしんのすけが―――」
みさえが問いかけようとして牛車の方を向けば、
そこには牛車の姿が無い。安英の姿も無い。
どこに行ったのかと周囲を見回してみるが、見える範囲には求める姿は無し。
「やだ、置き去り?」
「しまったな……。
ま、しょうがない。とりあえず屋敷を訪ねてみようぜ」
そうしましょうか、とみさえはひまわりを背負い、三人は屋敷へと徒歩で近づく。
「鬼が出るか蛇が出るか……」
鬼よりも蛇よりも嵐を呼ぶ五歳児が出るか。
……。
「百三十六、百三十七、百三十八、」
出たのは跳ねる兎だった。
屋敷の前で。
薄紫色の髪をした兎耳少女が、真剣な表情でウサギ跳びをしていた。
数える声はその少女の、跳んだ回数を数える声だ。
そして、少女の後には沢山の兎らしい見た目の兎たちがぴょんぴょんと跳んで続いている。
……その少女はもちろん鈴仙である。
「こ、これがウサギ跳びする兎……! 父ちゃん、母ちゃん、オラやったよ!」
そしてそう感激するのはしんのすけである。
「しんのすけ!」
奇天烈なカラーリングの服を着ているが、間違いない。
ひろしとみさえが異口同音に叫べば、しんのすけは二人を向いて考える顔。
「う~ん、どっかで見たことあるような貧乏っぽい人たちだぞ」
「お前の実の家族だよじゃがいもボーズ……!」
「へえあああ……」
即座に距離を詰めたひろしが一方、
みさえがもう一方からしんのすけの頭に拳を押しつけて、ねじり込むように動かす。
……こんなふざけた事を言うのは間違いなくしんのすけだ。
「まったく、心配かけやがって……!」
ひろしとみさえは、しんのすけを胸一杯に抱きしめる。
「良かったじゃん、再び家族に巡り会えて」
優しいような、そうでもないような声だった。
鈴仙がウサギ跳びを中断してひろしたちを見ている、のをひろしたちは見る。
続く兎たちはひろしたちを見ずウサギ跳びを継続中。
「あなたは……」
この屋敷のものかとみさえが問おうとすると鈴仙は姿勢を変えぬまま、
「どうしてこんな事をしているのでしょう。
1天罰、2仏罰、3神罰。さて答えは……」
「答えは4、私の命令でしたー」
雲の陰から月が出るように、すっと屋敷の中から現れた黒髪の少女が柔く笑って答えを言う。
輝夜だ。
「初めましてお嬢さんがた。僕は野原ひろし。
嵐にも負けない敏腕サラリーマンです。以後よろしく」
ひろしがしんのすけを放し、しんのすけの考える決め顔とそう変わらない顔で言った。
けっ、とみさえとひまわりがそっぽを向く。
綺麗な女の子を見るとすぐこれだ。本当に男というやつはどうしようもない。
輝夜たちにはもちろんひろしの決めは蚊に刺されたほども効かない。
「貴方達、しんのすけの家族ね? 良く似ているわ」
「そりゃあ家族ですから」
言う輝夜が何を考えているのか分からないので、とりあえず素直にみさえは言葉を返す。
「似てない家族も珍しくないでしょう。
中で話しましょう? お客様にはそれなりの扱いをしないとね」
どうぞ、と輝夜はひろしたちを招き入れ、
その後ろに安英が立つ。
「……昔、こうして招いてくれてさえいたなら―――それで良かったのに」
湿った声で安英が言った。
その手は白色の玉を、刃物を突き付けるように輝夜の背へ向けている。
輝夜は安英に振り向かず、
「あら。貴方達は話ではなく挑みに来たんじゃない」
笑って言い。
安英が持つ白色の玉の中に吸い込まれた。
(最悪―――!)
輝夜の危機を見ながらもしかし鈴仙は動けない。
安英が輝夜の背後に立つまでその存在に気づけず、
立ってからは輝夜を盾にされる事を恐れ、
いま玉に輝夜を隠されてからは玉を傷つけられるのを考えて。動けない。
この男はなんだ。あの玉はなんだ。輝夜はかわせなかったのか。
次に動くのは誰だ―――
「手に入れた、ぞ。大盗人め、ようやくお前を手に入れたぞ! わしが!」
安英は己の手の玉を見つめて、言う。
その顔は歪んでいる。その声はねじれている。その内の思いが、漏れ出ている。
安英は狂喜していた。
ずっと昔に手に入れられなかったもの、ずっと昔から憎んでいたものを今手に出来て。
どうしてくれよう、ああしてくれようこうしてくれようそうしてくれようと思考は膨らむばかり。
「ロコォッ!?」
隙は膨らむばかり。―――安英は尻の急所への不意打ちをくらった。
しんのすけの一撃であった。
「ほいっ」
衝撃で安英の手から転げ落ちた玉をしんのすけは空で掴み、小走りに安英から離れる。
事情はよく分からないが、輝夜の入った玉を安英に持たせていたくない。
そう思っての行動である。
「こっちに渡して!」
花が咲くくらいのチャンスだ。鈴仙は動く、しんのすけに玉を要求しつつ重めの攻撃波動を安英へ。
安英は波動を受けて吹き飛びしんのすけは鈴仙に玉を渡し、
鈴仙は屋敷の中へ走り出す。
「わ、私の玉を返せ―――!」
安英は吹き飛びからすぐに立ち直って鈴仙を追いかけ屋敷の中へ入る。
屋敷の中から破壊音が響きそして屋敷の破片がひろしみさえと兎たちの居るほうに飛来し
「どわあーっ!?」
ひろしたちは大慌てで破片弾幕を避ける避ける避ける避ける。
そして破片と共に安英が飛び出してきた。
その目指す先はひまわり。
ひまわりの手にはいつの間にか白色の玉が握られていた。破片に紛れて飛来したのだ。
「寄こせ!」
必死の形相で迫る安英に対抗する形相は
「俺の家族に手は出させねえぞ!」
同じく必死のひろしのもの。
ひろしは素手で安英に殴りかかり、「うっ!」逆に拳の一発で地面に転がされる。
その間にみさえは思いつきのままひまわりから玉を取り上げて空中に放り投げた。
玉より自分たちの安全の方が大事だ。
邪魔ものの排除より玉の確保を大事とする安英は跳躍、
笛を吹いて己の牛車を呼びつつ玉に手を伸ばす―――そして掴む。
「おお!」
その喜び顔にしんのすけの尻が正面からぶつかった。
「いやあ~ん」
狙い通りに当てたしんのすけは頬を赤く染めてそんなくねった声を出した。
しんのすけの見事な跳躍と尻使いぶりに、兎たちがどっと沸く。
「うおおおおお!」
安英の怒りも沸く。
しかし何かをする前に鈴仙の跳び蹴りが背中に上から当たり大地へと叩き落とされて、
「よくもやってくれたなこの野郎……!」
立ち上がったひろしの、物凄い悪臭を放つひろし靴下攻撃で追い打ちされる。
鈴仙もそこに降りてきて安英を蹴って殴って首を極めて大暴れ―――
「この、脱臭してやる! 脱毛してやる! ……はっ! 変わり身!?」
いつの間にか鈴仙が技をかけていた相手がひろしになっていた。
安英は服をボロにしつつもしっかりと玉を握り、やってきた牛車に乗り込むところだ。
「姫は頂いていく! さらば地上のものども! 永遠に!」
そして牛車は飛び立った。
牛とは思えない圧倒的高速で、空に向かって駆けていく。
勝利を確信した安英の笑い声だけを残し。
「……あそこに逃げ込むつもりね」
鈴仙は空の、牛車が駆ける先にあるものを見て静かに言った。
その中へ入られる前に追いつければ良し、追いつけなくても中に入ることが出来ればまあ良しだ。
「時間がない。行きましょう」
と鈴仙は、ひろしたちに向けて言う。
「えっ、俺たちも?」
ひろしは露骨に嫌そうな顔をした。どうして自分たちが行かねばならないのか。
……あの美しい少女がさらわれてしまったのはお気の毒だし腹も立つが、
人を(それも不思議な術で!)さらう手合いに喧嘩を売りたくはない。命が惜しい。
幸い自分もみさえもひまわりも無事で、
「おい。しんのすけは?」
ひろしはようやくしんのすけの姿が見えないことに気づいた。
「―――しんちゃん?」
みさえはあたりを見回すが、居るのは兎やひろしやシロや鈴仙で、しんのすけの姿はない。
しんのすけがどこに居るかは鈴仙が知っていた。
「しんのすけなら、あの牛車の中よ」
「嘘だろ!?」
真実である。
「……」
牛車の中、玉の感触に酔い痴れる安英の声を聞きながら、必死に隠れている。
輝夜を救わなければ、と思っての行動だ。
鈴仙の能力、波長操作能力で安英に気取られぬようにしてはいるものの、
「いつ見つかってしまうことか。それでも行きたくないと?」
「行くさ!」
迷いはない。我が子をどうして見捨てられよう?
「みさえ、ひまわり、……シロ!」
すぐそばのみさえに、その腕の中のひまわりに、そしていつの間にか場に居たシロに、
ひろしは声を放つ。すぐに頷きが返ってきた。
安英と輝夜の間にどのような因縁があるかは知らないが、自分たちの絆は断たせない。
「野原一家かっこ除くしんのすけかっこ閉じる、ファイヤー!」
ひろしたちは闘志を燃やした。
(―――)
よし。
ひろしたちがどれほど役に立つかは神のみぞ知るが、最悪でも時間稼ぎには使える。
使った結果どうなるかは知ったことではない。
鈴仙にとって重要なのは輝夜である。永遠亭である。
だから、輝夜を助けるため手薄になった永遠亭が襲撃される、という展開を考えて
兎たちは永遠亭に残す。
行くのは自分とひろしたちだけだ。
「それで、あいつが逃げ込む先ってのはどこなんだ?」
心当たりのないひろしは鈴仙に問う。アンジェリーナ号で行ける所だといいが。
「あそこよ」
鈴仙は空を指し示す。
ひろしたちにはそこには何も無いように見える。しかし鈴仙には違う。
他者に見られないよう術を利かせた物でも、波長を操れば簡単に見ることが出来る。
空には、球があった。
それは安英が手に入れた力の結晶。
輝夜を捕えて旅立つための船である。
―――鈴仙・優曇華院・イナバの鈴仙という字は当て字であり、優曇華院とイナバは愛称である。
本来はただレイセンとだけ言う。
それと同じように輝夜も、本来はカグヤと言う。
カグヤは月の民であり、その中で姫として大切に育てられた。
しかし禁忌とされる事をしてしまい、月から地上にと落とされた。
そこで後の養親に拾われ、地上の人間・輝夜として生きることになった。
昔の話である。
そこからもう少し今に近い昔に至るまでの話は、『かぐや姫』として伝えられている。
……この衣着つる人は、物思いなくなりにければ、車に乗りて―――
輝夜は、伝えられている話とは違って月には帰らなかった。
それから色々とあって――色々と無くて――、その生は幻想郷に流れついた。
それは世に知られぬ話。今と続く過去の話。
その過去ゆえに輝夜は安英に捕らえられた。
鈴仙は波長操作で牛車内の安英の言葉を聞き、それを知る。
「見えた!」
緊張と興奮が混ざったそのひろしの声が響くのは空だ。
あまりに大地との距離がありすぎて、落下感覚を遊戯に出来るほどの高位置。
ひろしとみさえとひまわり、シロはそこを車で飛んでいた。
アンジェリーナ号でである。
アンジェリーナ号自体に空を飛ぶ力はない。
アンジェリーナ号は市販車で、ひろしたちが住む時空の位置に空を飛ぶ車は無い。
たとえあっても、空を飛ぶ車は事故の規模を増すため永遠に市販はされない。
アンジェリーナ号が空を飛ぶのは、永遠亭の蔵内の道具のためだ。
『天神午睡』。
そんな名前を持つ、小さな梅の木。
雷の力で空を飛ぶそれがアンジェリーナ号の上部にあるから、空を飛べている。
「俺たちはこのまま突っ込んでいいんだな!?」
「ええ。あとは適当に。大人なんだから」
アンジェリーナ号の上に立つ鈴仙が、力を使って伝える。
ひろしの視線の先には安英の牛車が。鈴仙の視線の先には牛車が模型に見えるほど大きな球がある。
速度を出すための残力はまだあり、敵の妨害はここまでは無い。
動きの波は今が天井だ。
「こっちはとにかく回り込む。真っ直ぐに、ねえ!」
鈴仙はその手に持つ弓を引き、放した。
だが矢は飛ばない。
その弓に矢はつがえられていないからだ。
それは矢ではなく音を飛ばすためのものだからだ。
―――耳障りとしか言えない音が、牛車へ飛ぶ。
そしてどれほどのダメージがあったかを知る前に鈴仙は車上から跳んで空を飛びだす。
アンジェリーナ号は加速を始め、牛車との距離をぐんぐんと詰め始める。
安英の牛車はその内から、内に収まりきるはずのない量の紙を溢れ出させる。
それらは移動と移動と攻撃だ。
……牛車から溢れた紙は、紙の兜に紙の鎧、紙の弓矢で武装した紙の兵士たち。
術によって動く安英の下僕たち。
それは風に乗って追撃者たちに近づき、絶妙な位置で一斉に紙の矢を放つ。
目標物に集中するのではなく、空間に満遍なくあるよう放たれたそれは、
素材は紙でも動かす力は強力で、追撃者たちは矢に近づく方向に動いているからその分速度は上乗せ。
「うひょお!?」
ひろしは慌ててハンドルを操作するも、何本も当たってしまう。
「ぎゃあ―――!」
悲鳴を上げるのはひろしだ。
天神午睡の力で車内までは届かなかったものの、車体には相応の傷がついてしまった。
「よくもアンジェリーナに傷を!」
「元々傷だらけなんだからいいじゃない! それよりちゃんと前!」
「だからって傷が増えていいわけないだろ!? チクショーもう当てさせねえー!」
叫べばひろしに気合が充填、迫る第二波矢群を次々にかわし、
鈴仙の射撃が紙兵士を吹き飛ばして空いたそこにアンジェリーナ号は進み牛車との距離を縮めていくが。
(ああ。これは間に合わない)
鈴仙は正しく見極めた。球の内部へ入るまでに牛車を抑えるのはもう無理だ。
今、鈴仙が敵紙兵士に波動を浴びせているとき牛車はまだ球の外にある。
しかしそこから少し後の今。鈴仙がアンジェリーナ号の上に再び立ったとき、牛車はもう球の中にある。
しんのすけも輝夜も取り戻していない以上退く理由はない。
アンジェリーナ号は球の中へ。
そこに待ち受けていたのは、先に空に展開されたのと変わらぬ量の紙兵士と、
「やっぱり天井……!」
鳥の形をした火。
そして、鳥形の火がアンジェリーナ号を押し包んだ。
「……儚いものだ」
追撃者の車が消えた空を見ながら、安英は笑みを浮かべて言った。
「私たちとは根から違う。生まれが違う―――」
そして、笑みを保ったまま安英は顔を左に向ける。
「儚さを十重二十重と重ねても、別のものにはならないわよ」
そこには輝夜が居る。
輝夜を捕らえた玉、『春雪』という名のその玉が捕える力を発揮するのは
春に現れた雪が消えるまでと同じ程度の短時間だ。
「大物は五重で充分塔になる。そして塔は、天底を越えて望む所へ行くのです」
安英は無警戒。今の輝夜に対して警戒する理由はない。
何故なら輝夜は力を振るえない。
ここは球の中、安英の領域の内。輝夜を留め置くために時を費やし調節した場所。
ここに居る限り輝夜はただの少女に過ぎない。
安英は輝夜に手を伸ばし、
「その旅を永遠に見届けるのは貴女。
そして、私たちと姫の旅立ちを世に伝えるのは、お前だ」
触れずに止まり。輝夜の隣、ただの五歳児らしく絶望で青ざめたしんのすけに指を突き付ける。
眩しい場所だった。
広さはわからない。大人が縦横に走り回れるほどの空間はあるとわかるが、
その外周は光に満ちて何があるのかないのか。
上方からは白とも黄とも取れる色の光が、目をくらますほど降り注いでいる。
そして場の中央には、城砦を思わせる外見の、真っ赤な機械があった。
その機械が、安英をこの状況まで導いた。
「おかえりぃ~英ちゃん、万事上手くいったでショ?」
「行きましたとも。恥を捨てた甲斐があった」
機械が男の声で喋り、安英はそれに喜びに満ちた声を返す。
「ふふん、未知の選択ならこのアカツ機ノテラにお任せよぉ」
「杯の裏?」
響く大きさで言ったのは輝夜だ。
普段このように名を間違えるのはしんのすけの得意だが、今のしんのすけは。
「……」
心が暗黒。
……しんのすけは五歳時だ。
いくら普段が太くとも、いくら冒険を乗り越えてきても、まだ五歳児だ。
家族が火の中に消えるのを見て、明るくいられるわけがない。
「ちょっとお、間違えないでよ。アカツ機だってば」
「殻付きのヒナ?」
「卵生じゃないわよアタシ」
「でも卵は産むかも知れないわ」
「卵を産む装置は、ここではなく他の場所に御座いますよ。
花を生む装置も、光を生む装置も」
そろそろ流れを自らの手に取り戻そうとし、安英が口を開く。
「生きていくために必要な装置は全てこの球の中に。
この球は海ですから。山を浮かべるための海ですから」
安英はそこでしんのすけに意を向けた。
しんのすけは沈んだまま、しかし安英は気にもせず。
「……この球は方丈海(ほうじょうかい)という。
この方丈海の全ては―――お前のような子供には解るまいが、胸を焦がす恋心のためにある!」
びくり、としんのすけが身を震わせた。
そして安英が。
「輝夜という」安英の一部が、
「この世の」安英の一部が、
「何よりも価値がある」安英の一部が、
「宝のためなのだ!」安英の一部がそれぞれ言って、
「ははははは―――!」
安英の全『員』が、 高く笑った。
過去。
輝夜がまだ伝説にはなっていなかったころ、輝夜には大勢の求婚者が居た。
その中に、他の求婚者とはパワーの違う五人が居た。
この五人はちょっとやそっとでは自分のことを諦めてはくれないだろう。
そう考えた輝夜は五人に難題を出すことにした。
自分との結婚を望むならある物を持ってくるように、と。
龍の頸の玉。
仏の御石の鉢。
火鼠の皮衣。
燕の子安貝。
蓬莱の玉の枝。
一人に要求したのはそのうちの一つのみとはいえ、どれも入手の極めて難しい物であった。
五人は失敗し、そして輝夜は人の目の届かぬ所へ消えた。
それで諦められればよかったのだ。
あのような娘にそれほどの価値はないと。
短い生は大切に使うべきだと。
この世に女はいくらでも居ると。
そう考えられれば、五人は安らかに生きられただろう。
しかし。
人間がそう簡単に執着を捨てられるものなら、この世に苦しみというものはない。
五人は諦められなかった。
輝夜が欲しい、輝夜を振り向かせたい、輝夜を―――輝夜。
その思いを核に五人は纏まった。
一人一人ばらけていたのでは輝夜を手に入れる前に死ぬと見て、五人は一人になった。
安英と名乗るようになった。
そして安英は、長い間旅を続け。
恋を支援するため作られた機械に巡り合った。
アカツ機ノテラ。
占うことによって使い手の望む運命を引き寄せる装置。
その力で安英は方丈海を見つけ出し、
全てが上手くいく時間、野原一家という要素によって隙が出来る時を待って―――
こうして輝夜をさらった。
「私と姫はこの方丈海で宇宙の果てに旅立つ。
月の民も地上の民も、誰も私たちの邪魔を出来ない場所へ。
そこで―――」
安英は内側の思いがだだ溢れた顔になり、少しの間無言でいた。
「……そこでふたりは末永く幸せに暮らしましたと世に語り継ぐのはお前だ!」
宇宙の果てまで追いかけて来るものの事を考えれば、それは危険度を増すだけのことだ。
誰にも知られず旅立ったほうが賢明である。
しかしそれでは満たされない!
この自分こそがあの輝夜を手に入れたのだと世に知られなくては、
語り継がれなくては、羨ましがられなくてはこの千年の報酬には足りない!
だから安英はしんのすけに語り、生きて帰そうとしていた。
「さあ。言ってみなさい。竹林に隠れ住んでいた輝夜姫は?」
「うっ……」
鼻が触れ合うほどまで顔を近づけて言う安英に、しんのすけは圧されるまま。
相手の耳に息を吹きかけることも、尻をぶつけることも、ボケをかますこともない。
今のしんのすけの心は、弱り果てていた。
まだ立ち直らないのか。まだ立ち直らせないのか。
―――しようがないと輝夜は思い、
「ほほ。子供相手に凄んでみせる男の方なんて、最低ね」
思ったことを口にした。
「偽物で人を騙そうとする、知恵も羞恥心も無いお方ではしょうがない事ですけど」
「私は騙そうとしていません―――偽物さえ手に入れられなかっただけではないかね?―――
ハナから結婚する気など無かったのだろうが―――誤解ですよ、あれはすり替え―――
ええい! 私に喋らせろ!」
痛むところを言葉に突かれ、安英のそれぞれがそれぞれの反応をして揉める。
その揺れから立ち直る暇を輝夜は与えない。
「繰り返させなくてもこの子は言うわ。トラウマになったから。
あの火の鳥の術者にしっかり言いつけて、もう地上に帰しなさい。
……ふたりきりがお望みでしょ?」
「すぐに返す事にしましょう」
安英はすぐさま答えた。揺れを収めて、火の鳥の術者に連絡するための鳥を術で作る。
その術には多少の時間がかかり、その間に輝夜は言う。
「地上に戻れば後はどうとでもなるでしょう。
地上に着いたら、いいえ今この瞬間から、自分の安全だけを考えて行動しなさい。
貴方の命は貴方だけのものなのだから」
それをしんのすけは聞いてはいるが、反応はない。
不安、怒り、悲しみ、惑い。胸の中でそれらによる嵐が暴れているからだ。
なぜそうなっているのか、輝夜は理解している。
―――いつもこうだ。
―――私は、関わる人を不幸にするように出来ている。
……輝夜は、言った。、
「しんのすけ。ごめんね」
その輝夜の顔を見たしんのすけは―――何も言わずにうつむく。
安英の術が終わった。
「後は到着を待つのみ……ん?」
安英はそれに意を向ける。
しんのすけがうつむいたまま何事かを呟いていた。
「……竹林に隠れ住んでいた輝夜姫は……」
そこでしんのすけは勢いよく顔を上げ、
「悪いやつにさらわれかけましたがオラの活躍で無事お家に帰りましたー!」
と力の限り吼えた。
……胸で暴れる思いの嵐を吹き飛ばすものはたったひとつ。
より強い思いの嵐である。
「何ぃ?」
眉をしかめる安英をしんのすけは真っ直ぐに見据え、胸を張った。
「決めたぞ! オラ、輝夜おねいさんを守る!」
守らねばならない。
ごめんねと言った時の輝夜は透明な笑顔だった。
胸撃ち抜かれる悲しい表情だった。
綺麗なお姉さんにあんな顔をさせたままでいるのは男として失格だ。
そして人をさらうのは最大に悪いやつだ。
しんのすけは安英を何度も踏みつける身振りをしつつ、
「お前みたいな悪いやつ、
メタメタのグリグリのボコボコのデケデケのジクジクの
ムリムリのヘロヘロのヌメヌメのビキビキのジンジンにしてやるーっ!」
「どうやって?」
見下す顔で問う安英にしんのすけはファイティングポーズを取って言う。
「オラのテクニックで!」
―――とは言うが、勝ち目は零に等しい。
そこには大人と子供の体力差があり、加えて安英には術がある。
いくらしんのすけの運動神経が良くとも、武器なしでは無理だ。
だから輝夜は言った。
「ねえ。私たちを助ける気はない?」
アカツ機ノテラに向けて。
……ノテラは、安英に対するのと同じ声の調子でそれに応えた。
「どうしてアタシがアンタたちを助けなけりゃイケないのよ?」
「貴方は恋を手助けするための装置でしょ?
恋するものはどこの誰であっても手助けする対象になるはず」
でなければ、支援装置失格である。
「確かにそうよ。オッケー、アンタたちの支援をしましょう」
安英は心の底から驚いた。
「裏切る気か!?」
「英ちゃん、アタシは装置なの。求められたら応えるのが装置なの。
そこを曲げたらアタシはアタシじゃなくなってしまうのよ―――」
「それじゃ『子供の幻想・馬の卵』をしんのすけによろしく」
輝夜が口にしたその馬の卵という言葉は、ノテラが今まで聞いたことのない言葉であったが、
しかしそれを聞いて何をするべきかは基底に刻み込まれていた。
オープン。
ノテラの下部に人の腕が入れられる口径の穴が開き、そこから矢のような勢いで物が飛ぶ。
それはしんのすけに向かい、その首にするりと巻きついた。
黄金色に輝く縄のような物だった。
「おお?」
「しんのすけ、『ホンバー』と叫びなさい。そうすれば貴方は武器を手に出来る」
何がよく判らないが、輝夜が言うなら嘘ではあるまい。
躊躇うことなくしんのすけは叫んだ。
「やっぱり目黒はサンマのホンバ―――ッ!」
すると、縄の輝きが増して、しんのすけを包み
数瞬で輝きが消えた時そこにあるのは。
その逞しい足で場を踏みしめ。
厚い胸は鎧で覆われ。
太い腕で剣を持ち。
広い背に盾を背負い。
そして、真っ直ぐな眼差しは安英を射抜く。
そんな、立派な青年剣士の姿。
「お~。オラ、また大きくなっちゃったぞ」
しんのすけが黄金の縄の力で変じた姿であった。
「ぬう―――!」
目を見開く安英に、輝夜は自信に満ちた顔で言った。
「これは『奔るホース』という、子供にしか使えないレアアイテムの力よ。
その威力がどれ程のものかは―――その身で確かめてみなさい?」
「何故そんな物が!?」
何故そんな物がノテラの中にある? 何故そんな物があると輝夜は知っている?
輝夜は柔らかくノテラを示して言った。
「だって、これを作ったのは私だもの」
その発言にノテラが一番驚いた。
「マジー!?」
「うん。マジ」
昔、ちょっとした事があって輝夜はアカツ機ノテラを作成した。扇風機感覚で。
それからまあ色々とあって、どこかに失くしてしまったのだが……
まさか安英が持ってきてこうなるとは。
「奇縁よねえ」
しみじみと輝夜は言う。じゃあノテラの喋りは輝夜の趣味なのか、
と考えた安英はどうするべきかを見出した。
姿を変えたからどうだと言うのか。
勝ってしまえばいい。
勝って、自分の力を輝夜に印象づけてしまえばいい。
そうすれば輝夜も―――。
「多少鎧ったところで、男ぶりは変わらん」
……安英の周囲に、紙で出来た五本の刀が浮かんだ。術の力だ。
安英は笑みを浮かべて吼える。
「勝つのは常に色男だと教えてやろう!」
しんのすけ―――信之介は剣と盾を構えて、
「もう知ってるぞ! だからつまりオラが勝つ! オラはちょー色男だ!」
「たわ言ぉ!」
戦いが始まる。
静かな場所だ。
騒ぐものも無ければ上方から発せられる光も穏やか。
他の場所の騒ぎなど、そこには全く関係がない。
方丈海の通路のひとつである。
そこに、鈴仙はあちらこちらに火傷を負って倒れていた。
(強すぎ……る……)
そのまま意識を失いそうなほど気力は減じ、呻き声のひとつも出せないほど体力が失われている。
じっとしていたい、という考えが鈴仙の耳を占めた。しかし
(立たないと……)
自分が倒れれば後を詰めるものはない。
こんな時に頼りになるものたち、八意永琳も因幡てゐも永遠亭を留守にしている。
永琳は薬の材料探しで。てゐは資金調達で。
居さえすれば自分がこのような痛みを食らうことも―――いや、留守でよかったのか。
鈴仙が居ながら輝夜をさらわれるなど、永琳が知ればお仕置きは確実だ。
だから立ち上がらなければいけない。
たとえ奪還してもお仕置きはされるだろうが、それでもさらわれっぱなしの場合よりは手心を加えてくれるだろう。
原形を留めるレベルに。
(……)
少しやる気を失いながらも、鈴仙は体の隅々から力をかき集め始めた。
鈴仙が倒れている今そこに。
今そこに野原一家は居る。
鳥形の火を放った術者が、倒さなくては進めない敵が居る。
火がアンジェリーナ号を押し包んだ瞬間、鈴仙は自身の能力を最大限に使った。
自分たちの位相をずらして火の威力から身を守りつつ振幅を弱めてやられたように見せかけ、
波長を短くして高速移動。
―――かなりの綱渡り行為であったが、結果良ければ問題はなし。
そして安英らが場を去るのを物陰で待って、こっそりと通路を進み始めた。
アンジェリーナ号は通路の入口を通れなかったため、そこに残して徒歩で。
ひろしとみさえとシロが、緊張した面持ちで通路を行く。ひまわりはみさえに抱かれて緩い顔だ。
野原一家はそれぞれが天神午睡の枝を持っていた。
「……」
一行のすぐ横を時たま紙の兵士が通り過ぎる―――鈴仙の力が己らを発見されないようにしている。
それが信じていいものと解っているとはいえ、やはり胸に悪かった。
鈴仙は野原一家の数歩先にいる。
背筋を伸ばしてすたすたと歩くその様子は、焦りや怖れを感じる部分が無いかのようだ。
……もちろんそんな事はない。
鈴仙は焦りも恐れも充分に持っている。
輝夜との連絡は出来ず―――この球の中にはある種の力が働いていて、輝夜との交信が出来ない。
もう少し近づけばなんとかなるかも知れないが、そこまで持つかどうか。
いつ、あの火の術者と遭遇してしまうことか。
その場にいないものの事を考える、あるいは口にすることでそれとの遭遇率を上げる。
良くない方位を避けて目的地に移動するのと同じ、運命操作法のひとつである。
―――遭いたくないと思っていてもそれは働き、世に色々な事を引き起こす。
「いけない!」
と唐突に声を上げた鈴仙に野原一家は驚き身構えた。
だが今いる通路に目に見える変化はない。普通の目に見える変化は。
鈴仙の特殊な目は通路に張られた力の幕を捉えていた。
これは―――
「藤原式霊力鳥籠、名付けて藤原ケージ」
「ふ、藤原ケージ!?」
ひろしが衝撃を受けた顔で声を上げた。
……藤原ケージと最初に言ったものは、鈴仙らの前方に立っている。
どうにも沈んだ雰囲気をした、青白色の長髪の少女だ。
「やはり貴女か―――」
少女を見ても鈴仙に驚きはない。
安英が輝夜の過去の求婚者たちだというのなら、彼女が出てくるのは当然だ。
彼女はその求婚者のひとりを父に持つのだから。
彼女は、輝夜を敵と見做しているのだから。
「―――藤原妹紅!」
「そうさ。わたしは藤原妹紅だ」
青白色の長髪の少女―――藤原妹紅は、自らに言い聞かせるようにそう言った。
「ここから先へは行かせられない。大人しく地上に帰れ」
身構えず、妹紅は言った。それへの反応は、
「しんのすけを返してくれたらすぐに帰る!」
「姫を取り戻したら帰ります。……貴女にとってもそっちの方がいいんじゃない?」
懐柔が二重。
……それは、悲しいほどに力不足であった。
「出来ないね」
静かだが断固とした調子で妹紅は言う。
「あの子供はどうだか知らないけど、輝夜だけは返せない。
わたしは、望みを叶えなくては」
「どんな望みです。誰の望みです」
「……」
妹紅は答えない。切り込もう、と鈴仙は口を開いた。
「そんなにお父上に頭を撫でられたいのですか?」
「……っ」
子を殺す親はいる、親を殺す子もいる。
子に関心を持たない親も、親に関心を持たない子もいる。
親と子の関係というのは特別なものではなく、ただの人と人との関係に過ぎないからだ。
だからそこにある思いも他と同じように変わる。
……長い年月の間に、最初の思いは大分変わった。
「あの方、輝夜様しか見ていないようですよ」
「……うるさい!」
それでも。
「どんなに時が経ってもどんなに色々な物が変わっても、それでもわたしは娘であの人は父なんだよ!
見て欲しいって! 愛して欲しいって思うんだよ―――!」
心のままに、妹紅は体に火を纏って鈴仙に攻撃を仕掛けた。
「ちぇ、説得失敗かッ!」
説得どころか逆鱗に矢を撃ち込んでいたようにしか見えなかった
と突っ込める野原一家は慌てて逃げ出すのに手一杯。
鈴仙は跳び、そして通路に攻防の波が生まれる。
そして鈴仙は場に叩き伏せられた。
その結果を決めたものには経験の差があった。運勢の差もあった。
しかし一番大きかったのは、出力の差だ。
鈴仙が百の力で位相をずらしたところで、二百の力で攻撃されれば当たってしまう。
どれほど頭を絞ったところで、どれほど身を削ったところでその事実は変えられない。
だから鈴仙は倒れた。立ち上がろうともがく事になった。
ひろしたちが妹紅と向き合うことになった。
「帰りなさい。ここはもうじき帰れないほど遠くなる」
妹紅に疲労の影はない。
たとえひろしたちが全力で戦ったところで、そこには僅かな疲労さえ加えることは出来ないだろう。
戦って道が開けないなら―――あとは身を投げ出すしかない。
「お願いします! どうかしんのすけを返してください!」
ひろしとみさえは膝をついて頭を下げた。
これは色々な面で卑怯な行いだとひろしたちは思っている。
だが卑怯程度で家族が取り戻せるのなら、いくら卑怯者と罵られようと痛くもかゆくもない。
「大切な家族なんです!」
「あー……」
困ったな、と妹紅は頬をかいた。
殴りかかってきてくれれば気兼ねなく投げ飛ばすことも出来るが、こうされたら何も出来ない。
妹紅はそこまで非道ではない。
「分かったよ。わたしがあの子を」
鈴仙はそこに隙を発見した。
即断即決、国士無双の薬の瓶を噛み砕いて血ごと瓶の破片ごと中身を飲みパワーアップ、
跳ね起きて距離を詰め妹紅の腰を抱いてバックドロップ。
……バックドロップ時の体の曲線はそのバックドロップの波長である。
そして、曲線が綺麗であればあるほどそのバックドロップは強力なものである。
つまり波長を操ることが出来る鈴仙がそれに力を使った時月下無双のバックドロップは顕現する―――!
伝説「バックドロップはヘソで投げろ」
「か」
と息をもらして、妹紅はあっけなく気絶した。
妹紅のような体質のものの動きを止めるには、意識を刈り取るのが一番である。
「さあ、行きましょう! 目標地点まではあと少しですきっと!」
薬と戦闘の影響でテンション高めの鈴仙が言う。これは逆らってはいけないとひろしたちは思った。
「よ、よし! 行こうぜ!」「え、ええ!」
一行は通路を走り、身内を目指す。
(いいのかこれで……?)
微妙な思いを抱えながら。
微妙な呼吸のずれが一度で勝敗を決定づける。そんな時間を、
「ふ~」
信之介は自然体で過ごしている。
―――その身に迫る空飛ぶ剣群を、信之介は踊るように斬り抜ける。
信之介の剣は天性の剣であった。
人並み外れた運動神経と恵まれた筋肉でもって放たれるそれは現世の幻。
形を知るものが見れば惑い、形を得たものが見れば感心する無形の剣。
時を重ねて凡なる剣才を育ててきたものにとって、それは嫉妬をかきたてるだけのもの。
「ぬ―――っ!」
信之介が全力で放った横薙ぎの一撃を、
安英は紙の剣に受け止めさせつつ信之介の横腹に蹴りを入れて信之介を吹き飛ばす。
空に吹き飛ばされた信之介はすかさず身を捻り正しい姿勢で着地した。
しぶとい。安英は苛立つ。
「全く! 大人しくしていれば無傷で帰れるものを!」
何故抗う? 何故戦う?
執着で染まった頭は、執着に染まった答えをはじき出した。
「―――そうか! お前も姫を狙っているのか!」
「そりゃ狙ってるぞ!」
信之介は胸を張って答えた。
「輝夜おねいさんは美人だしいい人だしなんか守ってあげたいって感じだし!
結婚を前提としてお付き合いしたいぞー!」
「まあ」
信之介の後方で戦いを見守っている輝夜が、そんな声をあげた。
安英は怒髪天に達した。
「させるか! 姫は私が守る―――!」
紙の剣をその手に握り、形をもって安英は撃ちかかる。
上段中段中段中段上段、烈火のごとく襲い来る剣を信之介は剣と盾を存分に使っていなし、
機を見て―――断つ。
矢弾さえも防ぐ紙で出来た剣は、豆腐のようにごくあっさりと斬り飛ばされた。
ちぃ、と安英は新たな剣を用意するところに信之介は突きかかり、戦いの流れは信之介ものとなる。
「おまえ! だいたいなんでこんな事をするんだ!
お付き合いがしたいなら普通にお茶に誘えばいいぞ!」
豪雨のように剣を浴びせかけながら信之介。
安英は防御に力を注ぎこみながら、
「そんなで振り向いてくれる女かよ!
輝夜は高級な女だ! 秘宝を持ってこなければ歌の一つもくれはせん!」
「給料三カ月分で問題ない! 問題ない?」
信之介は剣を止めてくるりと輝夜のほうを向いて訊ねた。
「本物ならね」
輝夜の答えは安英の耳には入らない。目の前の隙を突くことで頭が一杯だ。
「馬鹿者め!」
敵の不意を突いた一撃は、伝説さえ倒す威力を持つものである。
紙の剣が信之介の鎧を刺し貫いた。
―――信之介が一瞬で脱ぎ捨てた鎧を。
「空蝉だと!?」
その時信之介は既に安英の横を通り抜けようとしている。
師から学んだ一撃を、放とうとしている。
「あんとろわどう―――!」
胴を抜く一撃。
放ちながら駆け抜けた信之介は、安英の後方で動きを止め。
安英は、しばし静止したあと、ばたりと倒れた。
……。
「でも、給料三カ月分って具体的にはどれくらいだろ?」
高級なお菓子が山ほど買える額か、と信之介は想像する。
そんな姿を見ながらノテラは言った。
「これで終わり、じゃあないわよ?」
「ええ、解っているわ」
輝夜は当たり前のことを言われたように答えた。
信之介がその手に握る剣には刃が無かった。
それは断とうと思わない限り、命を断つことは出来ない剣だ。
それで斬られた安英は、気絶しているだけでまだ生きている。
「だから帰ります。ここでは何も出来ないから」
輝夜は信之介のほうへと歩き出し、信之介もまた輝夜を目指して駆け出す。
その半ばで、信之介の体が光に包まれて―――子供の、しんのすけ本来の体になった。
「おー……。戻っちゃった」
「すぐに今くらい大きくなるわよ。こんなものを使わなくてもね」
近づき、しんのすけの首に巻きついた奔るホースを淀みない手つきで自分の手に収めて、
輝夜はノテラに振り向いた。
「貴方は後で取りに来るわ。その時まで貴方が残っていたら、の話だけど」
「貴女のお好きに。アタシは道具、機能を求める誰かに従うだけ」
「……」
輝夜は無表情に背を向けて、いつの間にか開いた――ノテラが開けた――出口にと歩き出す。
「じゃ」
としんのすけはその後を追った。
安英は倒れたまま動かず、ノテラは何も言わず何もしない―――
「しんのすけ!」「輝夜様!」
出口より通路に出てからほんの少しで、輝夜たちはひろしたちと出くわした。
「良かった……!」
その姿を見て感情のたがが緩み、ひろしはしんのすけを抱きしめる。
しんのすけは最初は家族の生存を驚いていたが、すぐにその事実を受け入れると、
「あーあ、これで輝夜おねいさんとふたりっきりじゃなくなった……」
などと言って頭をぐりぐりとされた。
「鈴仙。脱出路は?」
「拓けます」
そう、と輝夜は相槌を打って、しんのすけを抱きしめるひろしを見た。ほんの僅かだけ。
「先導しなさい。ここに働く術から早く逃れたいわ」
「はい、こちらです―――」
そして何とも遭遇することなく、一行はアンジェリーナ号まで辿り着き、
問題なく乗り込み問題なく外へ。
太陽光を耳に受ける。
「―――」
鈴仙はその光と周囲の空間を力で調べ、自分たちが妙な仕掛けに囚われていないことを確かめる。
……囚われてはいない。そう感じた。
方丈海は順調に小さくなっていく。
「なあ」
「何?」
アンジェリーナ号を加速させ続けながら、ひろしが口を開いた。
何かと問うのは、物質的にも精神的にも近いみさえだ。
「追手とか爆発とか来ると思ったんだけどさ。何にも来ない。
こういう状況、なんて言うんだっけ」
「嵐の後の静かさ?」としんのすけ。
「それを言うなら嵐の前の静けさでしょ……」
アンジェリーナ号の中でそのようなやりとりが成された直後、
ひとりアンジェリーナ号の外で飛ぶ鈴仙は、
方丈海の方向からやってきた一条の光に射抜かれて意識を耳放し落下した。
「……それでも来たのね」
アンジェリーナ号の後部席で輝夜が呟く。
光による落下は無音で進行したため、車中のものでそれを認識しているのは輝夜とシロのみ。
それが見えるまでは数秒。
「逃がしませんよ、姫。大盗人輝夜私の花!」
その叫び声は車内の全員が聞いた。
その声の主の姿を車内の全員が見た。
光で出来た翼を背に生やした安英が、猛烈な勢いで迫ってきている。
「―――!」
ひろしとみさえは悲鳴をあげる。
己を追ってくる者が威力ありげな光の矢を何十何百と放ってくれば、普通は悲鳴をあげるものだ。
車ごと落とせば邪魔者は一掃できると遠慮なしに撃つ安英、
当たれば死ぬぞと必死に回避機動を取るひろし。
堪らず、ひろしは叫んだ。
「危ねえ! 一人の女を思い続けるのは確かに恰好いいが、ちょっとは手段を選べこのストーカー!」
「お前に何が解る!? 私が輝夜のためにどれほどの金を注ぎ込んだと思っている!
厩より狭い屋敷しか持てない者は黙れ!」
「んだとお!?」「もっと給料が高ければねえ……」
この状況下でぼやくみさえにひろしは軽く肩を落とす。
「おま……どーせ俺は大したことのない男ですよ……」
そんな事はない、とそれに言ったものがあった。
「貴方は約束通りに立派な大人になったわ。ひろし」
輝夜だった。
……輝夜がそう言った理由に、野原ひろしは思い至れない。―――出会いを思い出せない。
「充填完了。借りを返してやるわ」
それを気にすることなく輝夜は己の能力を使い、車外の空に一瞬で出る。
時間を止めて移動するのではなく空間を操って移動する、移動形式だった。
輝夜は、永遠と須臾を操る程度の能力を持っている。
それは平たく言えば時間=空間に干渉する力である。
時間を操ることでその時間線上にあるものを線上から離し、永遠のものとすることも可能なら、
時間を操ることで時間軸に潜めておいた道具を取り出すことも出来る。
そんな力だ。
普段輝夜が戦う際は、その力でもって道具を取り出し戦う。
空間を操れば大きさも重さも問題にならない。天井だって投げられる……
だが今回は、道具を使わない
今持つ道具では望む結果を引き出せないからだ。
「輝夜!」
「地上の人は全て物ぞきね。故郷を離れて千年経っても変わらない」
輝夜が出てきたことに安英は喜び、真っ直ぐに輝夜へ飛ぶ。
輝夜は、狙いを定めて『紐』を引いた。
「さようなら」
そして空に起きるは大きな津波。
時間で出来た津波。
それを身に受けたものは、時間の波が進む先―――すなわち未来に押し流され、今からは永遠に消える。
安英はそれを正面から受けた。
抵抗は出来ない。
安英の全ては未来に押し流される―――
( )
たったひとつの名前だけを思いながら。
「また会いましょう」
……そして輝夜は鈴仙を空間操作で手元に引き寄せ、共にアンジェリーナ号の中へ移動した。
そこから後に、危機は無い。
月は今日も月であった。
永遠亭の一室、月光射す部屋の中。
輝夜はそこにうつ伏せでいる。その体には全く力というものが入っていなかった。
そして輝夜の前には、妹紅が居る。こちらは輝夜と違い、姿勢正しく座っている。
「何かお土産はないのー」
だらりとした調子で輝夜が言う。妹紅は澄ました顔で答えた。
「お前にやる土産なんてあるもんかい」
「じゃあ兎たちへのお土産はないのー」
「それはもう渡した」
「そうなの」
後で兎から聞いてみようと輝夜は思い、後で聞いてがっかりしろと妹紅は思った。
妹紅の渡した土産とは、鈴仙のバックドロップへの表彰状と人参で作ったメダルである。
「……で、彼らはもう帰ったの?」
「ええ」
輝夜は、しんのすけから贈られた菓子を能力で取り出して見せた。
野原一家はもうここには居ない。幻想郷のどこにも居ない。
自分たちの帰るべき場所にちゃんと帰った。
「残ったのはこれと僅かな物だけ。どう? これ食べてみる?」
結構美味しいわよ、と言う輝夜に、妹紅は首を横に振った。
「いや、いい」
腹痛の薬でも混ぜられていたらたまらないから、というわけではない。いやそれもあるが主ではない。
思い出を味わうのは味方の特権だろうと思ったのだ。
「……あの子供、気に入ったみたいだな?」
「ここから遠い時間線ではね、弟だったこともあるのよ」
「ふん?」
どういうことだろう。遠まわしな謎かけなのか。
「まあそれはどうでもいいんだ。本当に」
輝夜が誰を気に入ろうが気に入るまいが。……手の届く世界に居てくれれば。
妹紅は、輝夜を訪ねたその理由を口にした。
「殺めずに済ませてくれて、ありがとう」
「……」
輝夜は何も言わず、何お顔には出さない。
妹紅はさっと立ち上がり、
「用はそれだけ。じゃあね」
「またねー」
振り向くことなく部屋から去った。残るのは輝夜のみ。
そこに至ってもまだ輝夜は身を起こさない。
気が乗らないのだ。
―――気が乗らない時に何かをすれば、現在を台無しにしてしまう。
だから輝夜はひとり時を待つ。
気の向くその時を、楽しみに待つ。
「誰も居ない、誰も訪れない。
退屈過ぎるわよね、そんなもの」
月は今日も月であった。
月光射す部屋の中、しんのすけはひとり頭を悩ませていた。
立派な大人とはどんなものだろう?
その問いを抱いたのは、過去―――
「ねえしんのすけ。貴方、結婚を前提に付き合いたいって言っていたわね」
と輝夜は正面からしんのすけに言った。
「う、うん。言った」
しんのすけは胸の鼓動を速めながらも、しっかり頷いた。
「一つ、条件を出してもいいかしら?」
「もちろん! オラ、なんだって聞いちゃうぞ!」
ななこおねいさんの事はどうしようかと考えながら、しんのすけは輝夜の次の言葉を待った。
輝夜は、笑って言った。
「じゃあ、言うわ。―――立派な大人になること。それが貴方に出す条件。どう? やる気はある?」
もちろん答えは決まっていた。
……しかし。それからずっと考えても、納得できる像が見つからなかった。
立派な大人とは何だ?
どうすれば立派な大人になれるのだ?
―――子供であるしんのすけはまだ知らない。
それがどんな秘宝を手に入れるより難しいことであることを。
今まで数えきれないほどの人々が挑み、敗れてきた難題であることを。
「む~」
さっぱり解らない。
解らないが、諦めない。
今日考える。明日も考える。そしてやってみる。
綺麗なお姉さんのためならどんな苦労だってどうということはないのだ。
「よーし! オラはこの月に誓う―――」
……そして時は過ぎていく。
その先に何があるかは誰にも判らない。ものはすぐに変わってしまう。
しかし、確かなことが二つある。
輝夜は待ち続ける。
しんのすけには未来がある。
その二つは、変わらない。
だから、再びその言葉は放たれる。
「へーい彼女~、オラと一緒に月見だんごでもどう~?」
言葉を受けるのは輝夜。言葉を放つのは……
そういや久しく見てないな
これは東方成分よりクレしん成分の方が強めな作品ですね
読んでて浮かんでくるキャラのイメージがみんなクレしんのそれにデフォルメされてしまいましたよw
オリキャラ・オリ設定がちょっとキツイですけど、クレしんの雰囲気やノリがかなり「ありえる」感じに展開されてて面白かったです