私は空を飛んでいた。
その日はすごく気分が良くて、まるで空気が私をこの底の見えない空へと、どこまでも引っ張ってくれているような感覚になった。
ふわりと白く優しく浮かぶ雲は、私の目には何となく廃墟と同じ雰囲気をまとっているように見える。そこに確かに存在するのに、今は本来の目的を忘れ、ただただ力無く浮かんでいる、そんなイメージ。
それは、動かなくなった物、例えば死体とかと全く一緒だった。
ずうっと向こうには巨大な山がそびえたつ。妖怪の山。この幻想郷で、唯一と言っていいだろう、人間以外のコミュニティーをもつ土地。あそこに近づくや否や、あっという間に天狗に狙撃され追い払われてしまう。だから普段からあの山に近づいてはいけない。
私はぴたりと立ち止まって深緑の山を見つめる。
私の記憶があるころから、その外見を全く変えない山。
つい最近から、鬼に代わり天狗が山の指揮を執っているらしいが、その姿形は容易に変えられるものではない。
正面から穏やかに流れる風が、私の頬をぬぐっていく。髪の毛が不規則に揺れ動いた。
「ミスティアさん、こんな所に何か用ですか?」
不意に後ろから声をかけられる。真っ黒い服に、派手な金髪を揺らす少女。
「いいえ、別に」
「うそだ。何かあったんでしょう?」
「なぜ、そう言い切るのですか」
「特に理由なんか無いよ。生きていりゃ、理由の無い事なんてたくさんあるだろう? そのうちの一つ」
ルーミアの、訳の分からない理屈はいつもの事だ。私たちの会話は、いつも会話にならない。
「もう帰ります。そこをどいて」
「どうせ、暇なんでしょ? 勝負をしていこうか」
ルーミアがおどろおどろしげに腕を伸ばす。
下らないな、と思いつつ私はルーミアを無視して横を通り過ぎた。
「何だ、可愛げが無い」
ルーミアは残念そうにそう言って、森の中へと消えていった。彼女はいつも、唐突で本能に忠実だった。
私はそれを、至極賢明だと思っていた。理屈や自分の道楽だけで動く妖怪や人間に比べれば、この幻想郷によく馴染んだ生き方。
だがそれは決して完璧な姿ではない。
三つの時計の針が重なる、その一秒手前が、ルーミアの在り方なのだ。
澄んだ空には、たくさんの雲の死体が浮かんでいた。私はいつか、その一部になるだろう、と何となく思う。
何となく。
自分の住処に帰ると、そこにはチルノが座っていた。
「おそいよ」
不満そうにそう言うと、ぐっと立ちあがって、にこりと笑う。
「約束をした覚えは無いけれど……?」
「でも、おそい。いつもなら、もう少し早い」
参ったなあ、と私は吹き出した。
「途中でルーミアに邪魔された」
「なら、いいわ。じゃあついてきて」
そう言ってチルノは私の家の扉を開けた。
以前、チルノが嘆いていた。勝手に人の家の扉を開けてはならないと怒られたらしい。
「ねえなんでだと思う? どうして私はこの世界中のただ一つの扉しか開けてはいけないの?」
そう質問したチルノに、私はもう何十回と説明した言葉を吐いた。
「開けていいかどうかは、全く問題じゃない。開くかどうかが問題なのよ。チルノ、あなたはその扉を開ける事が出来たならば、別にそれ自体はさしたる問題じゃあ無い。本質は別の所にある」
チルノは理解できたのか、出来なかったのかよく分からないような中途半端な表情をして、こう呟く。
「じゃあ、分かったわ。あたいは全部の扉を開けてみるよ、ミスティア」
妖精らしい、中身の伴わない考えだった。しかし、他の人間や妖怪に比べれば、まだましなほうでもある。
なぜなら、彼女たちは扉すら見えないのだから。
「それでねミスティア、さっそく何だけど、どれくらい進んでる?」
不意に目の前のチルノに意識が移った。
「もう、これ以上物事を覚えることは出来ないし、だんだん忘れてる」
「そっかあ。実は私もね、そうなの。やっぱり止められないのかなあ」
「あなたは妖精でしょ。忘れることで、長く細く生きていく種族」
「生きる事は忘れる事よ。しかしその逆は成り立たない事が多いのも興味深い」
チルノは椅子を引いて座る。私もチルノの目の前に視線を合わせた。
「懐かしい。あなたが夜の女王と呼ばれたのはいつだったかなあ。長く生きる者の運命だと分かっていても、やはり寂しいな、蟲使いのリグル、闇の暗殺者ルーミアと三人でよく覇権争いをしていたあのころが……」
チルノは懐かしそうにその話をしているが、私にはさっぱり興味が無い事だった。私はただ黙って、チルノの話を聞いている。
「ああ、君がこの話に興味が無い事は分かっているよ。けれど、全てを忘れる者たちが集まる、最後の晩餐ぐらい、郷愁に浸ってもいいんじゃないかな?」
「時間の無駄よ。チルノ。あなたはどうして、頭の中で無駄だと分かっていながらも、わざわざ行動を起こすの?」
「そりゃあ、私が馬鹿だからさ」
風がカーテンを揺らす。古い空気と新しい空気が溶けあい、静かに繋がっていく。
私は、そこには繋がってはいない。
では、私はどこに繋がっているのだろう。
記憶を無くし、どこまでも広がる海のような荒野に一人取り残される。
それも、悪くは無い。ただ、完全ではない。
「……今日の夜、リグルが勝負したいそうよ。全てを忘れる前に、もうひと勝負したいと言っていた」
「彼女はそれでしか、生きる事を実感できない?」
「彼女に聞けばいい」
「聞いても、答えは決まっているわ」
そう、全ては決まっていた。酸素が燃えれば、二酸化炭素が出来る様に、至極単純な事。
「私は、もう多分忘れているから無理ね」
「今話したことも?」
「忘れているわ」
長く生きた妖怪は、ある日を境に急に記憶が無くなる。それに気付いたのは、ルーミアの異変を見てからだった。彼女は一晩で、名前と本能以外の全てを忘れて、一から出直している。
私の古びた記憶も、もう崩れようとしていた。積み重なった化石のような記憶がぼろぼろと無くなる。形無き記憶が、跡形もなく無くなる、というのも変な話だが。
「私は、もうひと眠りする間に、全てを忘れるでしょうね」
「実に自然な事だ」
「そう。本能に忠実であることは、無駄が無いということ」
「エネルギーの節約にもなる」
「とても甘い死、ね、これは」
「生きているのに?」
「生きている事の定義はとても難しい。あまりその言葉は使わない方がいいわよ」
「死ぬ事の定義は簡単?」
「ええ、だって死は単純ですもの。生きている事に比べれば、ね」
痛みの伴わない、死。
それこそが、一時代を築き、この幻想郷を支えてきた我々への、神からの褒美かもしれないな、と思った。
チルノはしばらくぼうっとしていたが、今日は帰る、と席を立った。
「あたいも、あとひと眠りすれば全部忘れちゃうんだろうなあ」
名残惜しそうに、チルノはそう言った。
「最後に握手でもする?」
「おいおい、それこそ、無駄な事なんじゃないの?」
「冗談よ」
私は笑う。
チルノは何だ、と言ってもう差し出していた右手を元に戻した。
「じゃあ、さよなら」
扉が閉まる。ドアの間から洩れる光が絞られていく。
そして、壊れた人形のような鈍い音をたてて、扉が閉まる。
死ぬ時と同じだな、と思う。生物が死ぬ時も、その瞬間だけは凄まじいエネルギーと耳が潰れるほどのあらゆる音が出る。
もし、亡霊や何かが音楽をやっていると、さぞ耳につんざくような音が鳴るだろう。
そして、私はベッドに横になった。
こうして身体を横にすると、まるで人形のようだな、と思う時がある。
重力に身を任せ、不安定な状態。
よく人は、寝転んだまま無防備で眠る事が出来るなあ、と思う。
或いはそれが死を受け入れる事なのか?
私はそっと目を閉じる。最近は、何かにつけて死をイメージする事が多くなった。それ自体を考える事は苦痛ではないが、一切の面白みが無い。
だから、もう少し楽しい思い出を探る事にした。
頭の中にある記憶を探る。しかし、そこにはもう何も無かった。
そこで私は気がついた。死のイメージしか、もう考える事が残っていないのだ。
何かを考えるには、材料が必要だ。生きる事も、何かを生み出す事も、明日のご飯の献立も。
しかし今、私の中には何も無い。
死だけは、何もなくても考える事が出来る。なぜなら、死とは零であり無限だから。
意識が薄れる。
甘い死に、私は感謝する。
これほどまでに幸福な事は無いのだから。
夢を見た。そこで八雲紫に遭った。
彼女は世界の扉を全て開くことのできる、唯一の妖怪。妖精のように、一つ一つを手で開けることなく、頭の中でシミュレートできる、抜群の柔軟性と客観性を持った頭脳。
「夜の女王よ。今の気分はいかが?」
八雲紫はわざとらしく、そういった。女王などと呼ばれていたのはいつの時だっただろうか。
「素晴らしいよ。忘れることで、生きる苦痛から解放される」
「生きる事は、死ぬことより辛い」
「そう。死はもっとずっと甘く愛おしい。生は苦痛の連続でしかない」
「けれど人々はそれを長く求めている」
「なぜならそれが生き物のなすべき事だからよ。所詮、この幻想郷も一つの生命体。私たちは赤血球や白血球みたいなものなのだから。主には、逆らえない」
「ふふ、そうかもしれないわね」
八雲紫は多分、これから千年ほど妖怪の賢者として生きていくのだろう。彼女にはそれだけの能力がある。
私がそうだったように。
「おやすみ。ミスティアローレライ。次の時代は任せてちょうだい」
「先に眠るよ。八雲紫」
私は夢を見た。その中で八雲紫は優しく笑っていた。
たぶん、朝起きる頃には、私は全てを忘れている。もしかしたらルーミアみたいに原始的な生き物になっているかもしれない。
そうだな、どうせ眠るんだったら、声を張り上げて、歌いながら眠りに落ちたい。
生物が死ぬ瞬間は、凄まじい音がする。
だが生まれる瞬間は、どうだろうか。やはり音を鳴らすのだろうか。
声を出してみよう、と思った。
朝目覚めたら、歌うのだ。歌う事で、甘い死の続きを体験しよう。
起きたばかりの私では上手くいかないかもしれないけれど。
そして、私は、最後の記憶にキスをする。
その日はすごく気分が良くて、まるで空気が私をこの底の見えない空へと、どこまでも引っ張ってくれているような感覚になった。
ふわりと白く優しく浮かぶ雲は、私の目には何となく廃墟と同じ雰囲気をまとっているように見える。そこに確かに存在するのに、今は本来の目的を忘れ、ただただ力無く浮かんでいる、そんなイメージ。
それは、動かなくなった物、例えば死体とかと全く一緒だった。
ずうっと向こうには巨大な山がそびえたつ。妖怪の山。この幻想郷で、唯一と言っていいだろう、人間以外のコミュニティーをもつ土地。あそこに近づくや否や、あっという間に天狗に狙撃され追い払われてしまう。だから普段からあの山に近づいてはいけない。
私はぴたりと立ち止まって深緑の山を見つめる。
私の記憶があるころから、その外見を全く変えない山。
つい最近から、鬼に代わり天狗が山の指揮を執っているらしいが、その姿形は容易に変えられるものではない。
正面から穏やかに流れる風が、私の頬をぬぐっていく。髪の毛が不規則に揺れ動いた。
「ミスティアさん、こんな所に何か用ですか?」
不意に後ろから声をかけられる。真っ黒い服に、派手な金髪を揺らす少女。
「いいえ、別に」
「うそだ。何かあったんでしょう?」
「なぜ、そう言い切るのですか」
「特に理由なんか無いよ。生きていりゃ、理由の無い事なんてたくさんあるだろう? そのうちの一つ」
ルーミアの、訳の分からない理屈はいつもの事だ。私たちの会話は、いつも会話にならない。
「もう帰ります。そこをどいて」
「どうせ、暇なんでしょ? 勝負をしていこうか」
ルーミアがおどろおどろしげに腕を伸ばす。
下らないな、と思いつつ私はルーミアを無視して横を通り過ぎた。
「何だ、可愛げが無い」
ルーミアは残念そうにそう言って、森の中へと消えていった。彼女はいつも、唐突で本能に忠実だった。
私はそれを、至極賢明だと思っていた。理屈や自分の道楽だけで動く妖怪や人間に比べれば、この幻想郷によく馴染んだ生き方。
だがそれは決して完璧な姿ではない。
三つの時計の針が重なる、その一秒手前が、ルーミアの在り方なのだ。
澄んだ空には、たくさんの雲の死体が浮かんでいた。私はいつか、その一部になるだろう、と何となく思う。
何となく。
自分の住処に帰ると、そこにはチルノが座っていた。
「おそいよ」
不満そうにそう言うと、ぐっと立ちあがって、にこりと笑う。
「約束をした覚えは無いけれど……?」
「でも、おそい。いつもなら、もう少し早い」
参ったなあ、と私は吹き出した。
「途中でルーミアに邪魔された」
「なら、いいわ。じゃあついてきて」
そう言ってチルノは私の家の扉を開けた。
以前、チルノが嘆いていた。勝手に人の家の扉を開けてはならないと怒られたらしい。
「ねえなんでだと思う? どうして私はこの世界中のただ一つの扉しか開けてはいけないの?」
そう質問したチルノに、私はもう何十回と説明した言葉を吐いた。
「開けていいかどうかは、全く問題じゃない。開くかどうかが問題なのよ。チルノ、あなたはその扉を開ける事が出来たならば、別にそれ自体はさしたる問題じゃあ無い。本質は別の所にある」
チルノは理解できたのか、出来なかったのかよく分からないような中途半端な表情をして、こう呟く。
「じゃあ、分かったわ。あたいは全部の扉を開けてみるよ、ミスティア」
妖精らしい、中身の伴わない考えだった。しかし、他の人間や妖怪に比べれば、まだましなほうでもある。
なぜなら、彼女たちは扉すら見えないのだから。
「それでねミスティア、さっそく何だけど、どれくらい進んでる?」
不意に目の前のチルノに意識が移った。
「もう、これ以上物事を覚えることは出来ないし、だんだん忘れてる」
「そっかあ。実は私もね、そうなの。やっぱり止められないのかなあ」
「あなたは妖精でしょ。忘れることで、長く細く生きていく種族」
「生きる事は忘れる事よ。しかしその逆は成り立たない事が多いのも興味深い」
チルノは椅子を引いて座る。私もチルノの目の前に視線を合わせた。
「懐かしい。あなたが夜の女王と呼ばれたのはいつだったかなあ。長く生きる者の運命だと分かっていても、やはり寂しいな、蟲使いのリグル、闇の暗殺者ルーミアと三人でよく覇権争いをしていたあのころが……」
チルノは懐かしそうにその話をしているが、私にはさっぱり興味が無い事だった。私はただ黙って、チルノの話を聞いている。
「ああ、君がこの話に興味が無い事は分かっているよ。けれど、全てを忘れる者たちが集まる、最後の晩餐ぐらい、郷愁に浸ってもいいんじゃないかな?」
「時間の無駄よ。チルノ。あなたはどうして、頭の中で無駄だと分かっていながらも、わざわざ行動を起こすの?」
「そりゃあ、私が馬鹿だからさ」
風がカーテンを揺らす。古い空気と新しい空気が溶けあい、静かに繋がっていく。
私は、そこには繋がってはいない。
では、私はどこに繋がっているのだろう。
記憶を無くし、どこまでも広がる海のような荒野に一人取り残される。
それも、悪くは無い。ただ、完全ではない。
「……今日の夜、リグルが勝負したいそうよ。全てを忘れる前に、もうひと勝負したいと言っていた」
「彼女はそれでしか、生きる事を実感できない?」
「彼女に聞けばいい」
「聞いても、答えは決まっているわ」
そう、全ては決まっていた。酸素が燃えれば、二酸化炭素が出来る様に、至極単純な事。
「私は、もう多分忘れているから無理ね」
「今話したことも?」
「忘れているわ」
長く生きた妖怪は、ある日を境に急に記憶が無くなる。それに気付いたのは、ルーミアの異変を見てからだった。彼女は一晩で、名前と本能以外の全てを忘れて、一から出直している。
私の古びた記憶も、もう崩れようとしていた。積み重なった化石のような記憶がぼろぼろと無くなる。形無き記憶が、跡形もなく無くなる、というのも変な話だが。
「私は、もうひと眠りする間に、全てを忘れるでしょうね」
「実に自然な事だ」
「そう。本能に忠実であることは、無駄が無いということ」
「エネルギーの節約にもなる」
「とても甘い死、ね、これは」
「生きているのに?」
「生きている事の定義はとても難しい。あまりその言葉は使わない方がいいわよ」
「死ぬ事の定義は簡単?」
「ええ、だって死は単純ですもの。生きている事に比べれば、ね」
痛みの伴わない、死。
それこそが、一時代を築き、この幻想郷を支えてきた我々への、神からの褒美かもしれないな、と思った。
チルノはしばらくぼうっとしていたが、今日は帰る、と席を立った。
「あたいも、あとひと眠りすれば全部忘れちゃうんだろうなあ」
名残惜しそうに、チルノはそう言った。
「最後に握手でもする?」
「おいおい、それこそ、無駄な事なんじゃないの?」
「冗談よ」
私は笑う。
チルノは何だ、と言ってもう差し出していた右手を元に戻した。
「じゃあ、さよなら」
扉が閉まる。ドアの間から洩れる光が絞られていく。
そして、壊れた人形のような鈍い音をたてて、扉が閉まる。
死ぬ時と同じだな、と思う。生物が死ぬ時も、その瞬間だけは凄まじいエネルギーと耳が潰れるほどのあらゆる音が出る。
もし、亡霊や何かが音楽をやっていると、さぞ耳につんざくような音が鳴るだろう。
そして、私はベッドに横になった。
こうして身体を横にすると、まるで人形のようだな、と思う時がある。
重力に身を任せ、不安定な状態。
よく人は、寝転んだまま無防備で眠る事が出来るなあ、と思う。
或いはそれが死を受け入れる事なのか?
私はそっと目を閉じる。最近は、何かにつけて死をイメージする事が多くなった。それ自体を考える事は苦痛ではないが、一切の面白みが無い。
だから、もう少し楽しい思い出を探る事にした。
頭の中にある記憶を探る。しかし、そこにはもう何も無かった。
そこで私は気がついた。死のイメージしか、もう考える事が残っていないのだ。
何かを考えるには、材料が必要だ。生きる事も、何かを生み出す事も、明日のご飯の献立も。
しかし今、私の中には何も無い。
死だけは、何もなくても考える事が出来る。なぜなら、死とは零であり無限だから。
意識が薄れる。
甘い死に、私は感謝する。
これほどまでに幸福な事は無いのだから。
夢を見た。そこで八雲紫に遭った。
彼女は世界の扉を全て開くことのできる、唯一の妖怪。妖精のように、一つ一つを手で開けることなく、頭の中でシミュレートできる、抜群の柔軟性と客観性を持った頭脳。
「夜の女王よ。今の気分はいかが?」
八雲紫はわざとらしく、そういった。女王などと呼ばれていたのはいつの時だっただろうか。
「素晴らしいよ。忘れることで、生きる苦痛から解放される」
「生きる事は、死ぬことより辛い」
「そう。死はもっとずっと甘く愛おしい。生は苦痛の連続でしかない」
「けれど人々はそれを長く求めている」
「なぜならそれが生き物のなすべき事だからよ。所詮、この幻想郷も一つの生命体。私たちは赤血球や白血球みたいなものなのだから。主には、逆らえない」
「ふふ、そうかもしれないわね」
八雲紫は多分、これから千年ほど妖怪の賢者として生きていくのだろう。彼女にはそれだけの能力がある。
私がそうだったように。
「おやすみ。ミスティアローレライ。次の時代は任せてちょうだい」
「先に眠るよ。八雲紫」
私は夢を見た。その中で八雲紫は優しく笑っていた。
たぶん、朝起きる頃には、私は全てを忘れている。もしかしたらルーミアみたいに原始的な生き物になっているかもしれない。
そうだな、どうせ眠るんだったら、声を張り上げて、歌いながら眠りに落ちたい。
生物が死ぬ瞬間は、凄まじい音がする。
だが生まれる瞬間は、どうだろうか。やはり音を鳴らすのだろうか。
声を出してみよう、と思った。
朝目覚めたら、歌うのだ。歌う事で、甘い死の続きを体験しよう。
起きたばかりの私では上手くいかないかもしれないけれど。
そして、私は、最後の記憶にキスをする。
しかしリグルは結構強いイメージありますよ、俺も。