それは永夜の夜も、第二次月面戦争も歴史となったある日のこと。一冊の本を読みながら、永琳が少し皮肉の混じった笑みを浮かべていた。
「どうしたの?」
「見てみればわかるわよ」
永琳が手渡してきた本は英語で書かれている――つまりは外の世界の物。そこには英語による解説らしきものに混じって、私には皆目検討の付かない、そして永琳から見れば児戯にも見たぬ程幼稚であろう図面や、データらしきものが並べられていた。
英語を見たことが無いわけではないが、殆ど解すことはできない。せいぜい、永琳に取っては釈迦に説法にもならない科学書の類だろう、とあたりを付けることしかできず、退屈しのぎに学んでおけばよかった。と思ったが、それは後の祭りだ。
「あいにく英語はわからないのよね」
「やりたいことが見つからないのなら、とりあえず語学でも学んでみれば? 世界が広がるわよ?」
永琳は笑みを漏らしつつ、そう告げたが、その笑みに皮肉が混じっていること、そしてこの図面から大まかに想像できることを考えれば、そんな事を言いたくてこの雑誌を手渡したのではないのだろう。と思い、私は永琳の言葉を流しながら問いかける。
「でも見た感じだけど、これって宇宙船についての本かしら?」
「そうね、正確に言えば月探索計画についての本よ、例えばこのページの計画はセレーネ計画っていうの」
幻想郷に住まう私たちにも、月兎たちの通信がもたらす噂によって、大まかには月と、外の世界の情報を伺い知ることができる。太陽神アポロの名を冠したアポロ計画以降、人類は何度も月進出を企てたという話は時折耳にしていた。
まあ、結局の所、月と地球の技術力の差。そしてアポロ――月ともっとも相容れぬ存在の名を冠したことにより、失敗を繰り返し、近頃は外の世界では月に向かうものはいなくなったとされる。……真実は「報道されなくなった」だけらしいのだが。
「でも、前言を撤回しないといけないわね」
「前言?」
「ええ、人類は退化する一方じゃないかって言葉よ」
アポロの名に拘る人類を、永琳が随分と馬鹿にしていた記憶はある。その名こそが月の都を人の目から隠しているのに、と。
「人間もわかってきたのね、最近は名前もしっかり考えてるわ。なるほど。これなら成功しそうね。報道してもよさそうだわ」
「どういうこと?」
「月への脅威を考えてるみたい、これなんて随分と忌み嫌われた名を付けてくれてるわよ」
永琳はパラパラとページを捲ると、「Chang'e Program」と見出しにあるページを開き、私に手渡した。
「嫦娥計画。大陸――今は中華人民共和国、って国になったみたいだけど、そこの月探査計画らしいわ」
「嫦娥!」
月で生まれ育った私が、その名を知らぬわけがない。私と同じ蓬莱人――最大の禁忌を犯した咎人である嫦娥の名を。
「ええ、私たちと同じ、穢れに満ちた存在。そして――」
「同じ蓬莱の薬を飲んだ存在」
「……私の作った、ね」
その名を聞き、私は思わず溜息を漏らす。少し重くなった気分を払うかのように、私は勤めて明るい、そして巫山戯た声色を作り、永琳に話しかける。
「でも、月の都はびくびくしてるんじゃない? あんな穢れに満ちた名前の船が来たら」
「そうね、耳にするのも嫌がりそうな名前だから」
と、永琳が言った言葉には何処かに含むようなものがあった。だがそれを口には出さず、静かに笑いながら先ほどの本を手渡してきた。
「ねえ輝夜。どうせ退屈なんでしょう?」
「それはそうだけど」
「暇なら読んでみなさいよ。語学も科学も学べて一石二鳥だから」
その日、私は夜になっても、辞書を片手にのんびりとその本を見ていた。時間はかかるが、永遠の時間を持つ私はそれを気にする必要もないので、単語と辞書を逐一見比べながらゆっくりと読み進めていた。
宇宙船の仕組みや図などを見ていると随分と高度なものだな、と私には思えた。羽衣の方がよっぽど単純な構造に思える。例えばこのチャンドラヤーン――「月の乗り物」という名の天竺の船は見ているだけで頭痛がしそうになるほど複雑な仕組みに見えた。
とはいえ、私が宇宙に飛び立つことは、少なくとも地球が無くなるまではないだろう。と思い、私は頭痛のする難解な解説から目を反らし、窓の向こうを見上げる。水無月の暖かな夜に、立待月の月が輝いていた。
私はその輝きに任せ、先ほどの本を片手に庭に出て、窓の外の椅子に腰掛けた。天を見ると、雲一つ無い空に月が輝いている。生憎満月は一昨日に過ぎさってしまったが、それでも、室内から漏れる灯りと合わせれば、十分本を読める程度には輝いていた。だが、月を見ていると本のことを忘れてしまいそうになる。
私は表の月が如何に荒涼とした風景であるかを知っている。だが、それでも遙か上空で黄色く輝く月を心から美しいと思った。その輝きは私の持つどんな宝よりも神秘的に見えた。望郷の念からではなく、地べたに這いずり回って生きる地上の民として、届くことの無い存在への憧れの念を感じながらぼんやりと月を見上げ続けていた。その中でふと思う。
月探査計画。無謀で無意味な計画なのだろう。果てしない費用と労力がかかるのだろう。きっと、その費用と力を民に回せば多くの民が助かるのだろう。それを考えずとも、表の月は生命が存在することを許す環境ではなく、例え月の都を見つけたところで、月人は今の人間が敵に回せる存在ではないのだから。
だが、そんな正論はあまりに美しい頭上の月を見ていると霞んでしまう。どれだけ無意味でも、辿り着き、己の物としたい。そう思わせるだけの魔力が月にあるのだろうと思えた。そして、永遠の罪人である私は決して月に帰る、いや、辿り着くことはないのだろう。と思うと、無性に寂しい気分が襲ってきた。あれほどまでに忌み嫌い、一度は隠した月が無性に愛しく見えた。
「あら? お月見? 珍しいわね」
そんな時、ふと永琳の声が聞こえた。私は椅子から立ち上がり、永琳の所へと向かいながら、
「ええ、でも、地上から見る月は本当に美しいわね」
天を見上げ続け、声だけを永琳に返す。
「かぐや姫の物語を伝えた人の気持ちがわかった?」
私は少し恥ずかしくなり、言葉を返せなかった。なんの因果か、私が地上に降りてきたときの出来事は、物語として千年を経た今でも語り継がれているらしい。絶世の美女かぐや姫の逸話と共に。別に自分が醜女などと卑下するつもりはないが、類を見ない美女、などと言われるとどうにも気恥ずかしい気分になる。
あの頃の人間はただ一人生きてはいないのに、物語の中では今でも生き続けていて、私も物語の中で、随分と美化されて生き続けているようだから。そして、幻想の私しか知らない人間と対面したときのあの感覚はどうにもむず痒い。特に幻想の私しかしらない外来人――例えば早苗と会ったときなどは。まあ、これも蓬莱人の特権かもしれない。そう思いながら私は月を眺め続け、短い一言でようやく答えた。
「少しはわかるわね」
己の事だと思うと気恥ずかしく思うが、月を女性に仮託した、と思えばわからなくはない。これほどまでに美しいところから来た存在ならば、地上に類を見ない美しさだろう。そう思わせるだけの美しさを月は持っていた。
「月は本当に美しいわ……三十八万四千キロ先から見る月は」
知識としてだけは聞いた距離。月と地球の距離。月人に取っては須臾の時間で行き来出来る距離。地球の民にとっては余りにも遠い距離。あの荒涼とした表の月を美しく見せるには十分すぎる距離。
「ねえ? セレーネ計画の所は読んだ?」
「いや、まだね、英語は難しいわ」
そう言った私をまどろっこしく思うかのように、永琳は話し始めた。
「セレーネはね。月の女神よ」
「どこの国の神様?」
「ギリシャよ。天竺のもっともっと西の国」
永琳の言葉によれば、彼女は美しい女神であり、エンデュミオーンと言う名の美少年との悲恋が伝えられるという。ギリシャ。地上人から見れば遙か遠くの国。それでも月を美女に仮託するのは万国共通で変わらないな、と少しおかしく思いながら私は返した。
「そんな遠くの国でも、月を美女に見立てるのは変わらないのね」
「そうね」
「ギリシャの計画は美しい女神に託したのね」
それを聞いた永琳は一瞬きょとん、とした表情を浮かべると、気を取り直したような顔で話し始めた。
「ああ、違うわよ、セレーネ計画はギリシャじゃないわ、アポロがアメリカ――遙か東の大陸の神でないようにね」
「そうなの? だったらどこの計画かしら?」
「セレーネ計画はここ、日本の計画よ」
私は少し意外な気がして、永琳に問いかける。
「それなら日本の神様の名前でも付ければいいのにね。月夜見なんてどうかしら?」
月夜見。夜を統べる神であり、月の都の祖でもあり、永琳の旧友でもある。当然、穢れなど欠片も無い存在だ。
「それも悪くないかもね。でも、月夜見が来たって月人は驚かないでしょうけど」
「嫦娥に比べればねえ」
そして、永琳は先ほどの本を捲り、一箇所を指さした。柔らかい光に照らされたほの暗い文字を見つめる。
「セレーネは計画名。実際に月に行く船には素晴らしい名前が付いてるわよ」
私は永琳の指先を見つめ、思わず言葉を無くした。一つの図の下に、誰よりも見慣れ、聞き馴染んだ名前が書かれている。なるほど、永琳の皮肉っぽい笑みがようやく理解できた。その船の名は「Kaguya」と書かれていたのだから。
「……かぐや?」
「そうよ。この船の名前はかぐや、外の世界じゃ彼女が月に向かったみたい」
私は吹き出した。なるほど。月人に取っては最悪の名前だろう。嫦娥にも負けぬ咎人の私の名は。おまけに「おきな」と「おうな」という、もう私以外にその名を覚える者のいない老夫婦にあやかった名を付けられた二つの船も共に月へ向かっているらしい。月人がそれを聞けば、どれだけ穢れた存在が襲ってくると思うことか。
「月に帰ったかぐやについてどう思う?」
「どうもこうもねえ」
皮肉な気分で一杯だった。この名はかぐや姫の物語からとったのだろう。私の手の及ぶはずもない、幻想の私から。そして、彼らは私、蓬莱山輝夜には決して出来ないことをかぐやに成し遂げさせようとしている。月に向かう、と言うことを。
「感謝すればいいのか悪いのか」
「どうかしらね。でも、名前が残っているのは羨ましいわ」
あの物語に永琳の名は残っていない、私を匿ってくれた老夫婦が名を記されなかったのと同様、ただの月の使者として記されるに留まっている。一方、名を残した私は、千年の後に勝手に月に送り出されたわけだ。
「その『かぐや』さんは今はどうしてるの?」
「今は月の裏側を飛びながら、あれこれと月を調べてるみたいね」
私はもう一度月を見上げた。月の裏側という、決して地球からは見ることが出来ない場所だけど、そこに確かに「かぐや」はいて、月を調べているらしい。
「月人たちは慌ててるんじゃない? 地上からの刺客かぐや来る! みたいに」
「そうかもしれないわね。少なくとも、多少の意趣返しにはなるんじゃないかしら?」
私が望んだことでも、計画したことでもないのだけど。私の名を口にすることすら躊躇う月人の元へ「かぐや」が飛んでいくことは愉快に思え、私たちは二人で笑みをこぼしあう。
「それで、そのかぐやさんは最後どうなるの? こっちに帰ってくるの?」
「いや、燃料が切れたら月に落として壊すみたいよ」
そこまで言うと、永琳は何やら計算をし始めるように考えてから続ける。
「噂で聞いた打ち上げの時期と、計画を見た感じだと、多分近い内に月に落とされるはずよ」
それを聞くと、もう声を出して笑うしか私には出来なかった。まあ、道具なのだから当然ではあるのだが、外の世界の人間は、月に帰るだけではなく、死ぬ、という事までも、かぐやに行わせるらしい。私には叶うことのない夢でしかない二つの事を、外の世界の人間はあっさりと成し遂げようとしている。
彼女は勝手に作られて、勝手に打ち上げられて、勝手に働かされて、勝手に殺されるらしい。おまけに勝手に私の名を付けられて。
「でも、少しは羨ましいわね、死ねるんだから」
それがおかしくて、私は苦笑いしながらそう話しかける、すると、永琳もまた苦笑しながら返してきた。
「そう思う?」
永琳は苦笑を浮かべたまま、再びページを捲る。英語で私は読めなかったので、永琳が解説をしてくれた。
「かぐや二号や三号も計画しているらしいわ」
「殺されては蘇り、殺されては蘇りってわけ?」
「ええ、蓬莱人の名を冠した船に相応しいわね」
それだけを言い残すと、永琳はまだ何かを含むような、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべながら、
「たまには一人でのんびりと月見を楽しむのもいいわね、私は用事が有るけど、貴方はお酒でも飲みながら楽しんでみれば?」
という言葉を残して自室に戻り、月夜の庭には私だけが残された。月明かりの下で、「かぐや」についてひとしきり読み終えると、私は邸内から一献の酒と、とてもとても懐かしい物語の本を運び、再び庭の椅子に腰掛けた。
「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり――」
その言葉で始まる物語を、無理難題を押しつける我が侭娘の物語を、若気の至りに半ば赤面しつつ読み終える。最初に出てきた感想を端的に言えば、かぐや姫とは酷い女だな、という他人事のような思いだった。そして、それが許されるとは、彼女はどこまでの美人なのだろうと言う思いだった。……少なくとも、鏡に映る蓬莱山輝夜はそこまでは至らない気はした。
確かに、物語の中のことは全てが正しいわけではなくて、完全にこの通りの出来事があったわけではないから他人事に思えるのは当然ではあるけれど、それ以上に千年前の自分と今の自分の心境の変化が大きいのだろうな、と思った。私は誰よりも高貴な存在だと思っていたし、人間は皆道具だと思っていたから。
そして、私は「道具」という言葉を聞いて、また苦笑いを漏らした。何故なら道具だと思っていた人間が、今や「かぐや」を道具として使っているのだから。私はどうにもおかしな気分で酒を飲み続ける。酒が無くなり、台所に向かうとイナバの姿が有った。
「ああ、輝夜様。そうですよね。輝夜様が永遠亭を離れるわけがないですよね」
「どういうこと?」
「いえ……月の兎が何やら騒いでいたんですよ。『かぐやが月に降りて来た!』みたいに」
それを聞いた私は声を出して笑い、それを見た彼女は不思議そうな顔をしていた。
「まあ、そんなことあるわけありませんしね。相変わらず適当な噂ばっかり話してる連中ですよ」
私はそれに応えることなく、
「そうそう、イナバ、お酒を燗して庭まで運んでもらえる?」
とだけ言い残し、再び庭に出て、月を見上げた。ここから見る月は先ほどまでと何も変わらないけど、あそこには確かに「かぐや」の残骸があるのだろう。
果たして役目を果たして墜落することにしたのか、志半ばで故障して墜落したのか。私には知る術を持たない。だけど、私は確信していた。私の名を冠した船が計画を失敗することはないだろうと。永琳のように緻密な考えの元にそう予測したわけではなかった。それでも、「かぐや」の名は必ずこの計画を成功させてくれる、と私は思った。
人の信仰によって生まれた住吉三神は、幻想郷の人妖を月まで運んでいった。私は神というわけではないが、「かぐや」の名は千年以上の間、人々の心を月へと運んできた。ならば、たった三基の船を月に無事に連れて行けないわけがないだろう。
まあ、巫女でも神でも無い私にはそれも推測、いや、願望でしかない。でも、私はそれを信じていた。少なくとも、今日の酒の肴として幻想を見させてくれるには十分なほどには。そう思う中で、イナバが熱燗を運んできた。
「輝夜様、お酒をお持ちしました」
「お疲れ様」
「いえ、お気になさらないで下さい」
「お疲れ様」その言葉の半分はイナバに向けてだったけれど、半分は彼女に、決して手の届かない地で生まれ変わりを待つ、私と同じ名を持つ彼女に向けての言葉だった。
そして、私は天へと手を向けた。地上から一メートル半程度しかない場所で杯を掲げた。穢れに満ちた混じりっけたっぷりの、だけど私には月の酒よりよっぽどおいしく思える地上の暖かい酒を、三十八万四千キロ先の、荒涼とした大地で眠る「かぐや」に捧ぐために――
でも俺はかぐや打ち上げについて「姫が強制送還されてしまうww」ぐらいの発想しかありませんでしたorz
言葉でうまく言い表せない自分が悔しい…orz
もう、何と言いましょうか。自分にとってはドストライク、ど真ん中のお話でした!!!
あと、後書きにはとっても同意できます!
良いね。もっと読みたいって思うのは良い作品の証拠だ。
しかしいい話である。
読めてよかったです。
日本の宇宙機の名前は全てひらがな。優雅な感じでセンス良いですね。
でも中国のにも目を見張るものがありますよ。宇宙開発機関の名は「国家航天局」、計画中の宇宙ステーションは「天宮」。漢字カッコイイww
私は輝夜も神のたぐいだと思ってますけど、まあそんな解釈の違いは些細なことですね。
まさにその通りですね。かぐや姫は、月を見上げる我々の心をどれだけあたためてきてくれたことか。
あの衛星は壊れてしまったけれど、月に対する愛着のいっぱい詰まった、いい名前だったんだなと思えました。
妹紅も居たのかと思ったぜ
響きも字面も、日本人好みですよね。
そこに込められた思いや意味に思いをはせるとそれだけで感動です。
記憶に残しました。
ぐわーってなるぞぐわーって
会話など、良い雰囲気でした。