マヨヒガにて――
普段は狭いとさえ思う炬燵をうすら広く感じつつ、八雲藍が首まで埋もれ、丸くなっている。
普通にしていればここ幻想郷でも長身に数えられる背丈だが、その面影が今はない。
主人よりも高いんじゃないかと巷で噂される威厳も、同じようになかった。
藍は、もぞもぞと腕を出し、炬燵に乗る蜜柑を手に取り――泣いた。
脳裏に浮かんでいるのは、式。
鼻下に丸めた両拳をあてる、幻想郷の至宝。
蜜柑の匂いに少しばかり顔を顰めつつそれでもあどけない瞳を向けてくる、「ちぇぇぇん……」。
藍は、ありし日を思い出し、啼いた。
それはそう、冬のとある日。
両手に防寒具を抱えてやってきた藍に、橙は剥いた蜜柑を差し出した。
幾つか食べていたのだろう、程よく熟して見た目にも甘そうな蜜柑は、半分に割られていた。
『橙……ついに、蜜柑を食べられるようになったのだな……!』
『えへへ、香りはまだちょっと苦手ですけど、甘くて美味しいです』
『そうかそうか。今日は宴だ。皆呼ぼう。プリズムリバーは空いているかな』
『や、あの、それはちょっと。流石に』
『塩分を人並みに取れるようになった時は催したではないか』
『えっと。恥ずかしかったです』
『仕方あるまい、お前がそうまで言うなら日記に留める程度に……ん?』
『みかんで日記?』
『いいえ、それは吐夢です。じゃなくて、橙、筋を取ってしまっているじゃないか』
『あ、白いのですね。だって、そこ、美味しくないんです』
『うぅむ、いかん、いかんぞ、橙。蜜柑の筋は栄養価が高いんだ』
『そうなんですか?』
『そうなんだ。ヘスペリジンという成分が含まれていてな。近大のお墨付き』
『キンダイ……?』
『だからって参千六百円は高いぞこんちくしょう!』
『ら、藍様!?』
『んぅ、ともかく――次からは、ちゃんと筋も食べるんだぞ』
手を後ろに回し自身の腿をひねくりながら、藍は諭すように言った。
愛する橙に苦行を勧めるのだ、己にも何らかの痛みが必要だろう。
そう考えていた。
割と意味のない行為だった。
『わかりました藍様! 橙はちゃんと筋も食べます!』
そんな藍の思惑を知ってか知らずか、いや知らないのだが、橙は両拳を握り、こくりと首を縦に振った。
浮かぶ表情は気高く、誇らしく、毅然としていてかつ世界の至宝と言って差し支えないほど愛らしい。
なんだか広がっているが気にしてはいけない。
藍の愛は膨張し続けているのだから。
けれど、それも今は昔。
「ちぇぇぇぇぇん……」
いや、膨張はなお続けられているのだ。
世界から地球にまで。
そして、太陽系に。
問題は、つまり藍が嘆いている理由は――当の橙がこの場にいないことである。
藍がここマヨヒガにどうかと思う速度で着いた時、炬燵の上には蜜柑を重しとした一枚の書置きが残されていた。
どうかと思うのは速さもさることながら、その走法もであった。
なんというか、十傑衆。
閑話休題――その内容は、以下のとおりである。
『親愛なる紫様、藍様へ
マヨヒガの皆と椛と、地底に遊びに行ってきます。
萃香様と勇儀様、さとりさんが執り成ししてくれたので、きょうてい……? も大丈夫です。
橙より。
P.S. お土産、楽しみにしていてくださいね』
以上。
「ふふ、橙、すっかり大人びて。お前がお土産だよ。ふふ、うふふ」
異常。
――断っておくが、この件に関して橙の落ち度は一切ない。
大地に雪化粧がなされる今の時期、通常、藍の多忙は極まっている。
彼女の主たる‘結界の大妖‘八雲紫が、暫しの間、休養に入るためだ。
その期間中、よほどのことでもない限り紫は仕事をしないし、故に藍はまとまった休暇を取らない。
蜜柑にかぶりつきつつ、藍は推測する。
(だから、仕事の邪魔にならないよう、橙は何も告げずに地底へと降りたのだろう。
読まれる可能性の低い書置きを残した配慮を含めると、むしろ褒めるべきだ。
と言うか褒めよう。橙が帰ってきたら今度こそ宴を!)
因みに、その半紙は既に額縁に収められ、壁に掛けられていた。
(愛する藍様とは、ふふ、橙も言うようになった。紫? ご飯にかけると美味しいよね)
そもそも――何故、多忙を極めているはずの藍が、マヨヒガに来ているのか。
元来真面目と評される彼女なのだから、エスケープしてきた訳ではない。
他の者に命じた訳でもない。
そう、命じられる訳がないのだ――藍のいるべき場所に今いるのは、紫なのだから。
小さな欠伸を噛み殺しやってきた紫に、藍は目を丸くした。
前述のとおり、紫が冬に仕事をこなそうとするのは異例もいいところだからだ。
或いは自身の管理に重大なミスがあったのか――思う藍に、紫が首を振りながら、告げた。
『貴女にも休暇を与えてあげないとね』
え、リストラ? それともガチの首切り?
更に目を丸くする藍だったが、どうやら違うようだ。
言葉を続けず結界を展開する紫の態度を鑑みるに、額面どおりに受け取っていいらしい。
どのような思惑で紫が起きてきたのかは解らない。
けれど、与えられるものは受け入れようと思う藍。
それが単に今回は休暇と言うだけだ。命でも死でも、受け入れる。
頭を下げ去り行く藍に、小さな、聞かせる気があるのかないのか判断が難しい囁き声が届く。
『偶には遊んできなさいな、私の可愛い子狐』
扱いに微苦笑を零し、それでも、藍は思う――(何時まで経っても子狐なんだろうな)。
振り返り、もう一度礼を発して、駆け出す。
素敵走りで。
そんなこんなで辿り着いたマヨヒガにて、藍が見たのは件の書置きなのであった。
という訳で――
「しゅーりょー、私の大型休暇、しゅーりょー」
――炬燵に丸まり管を巻く藍は、有体に言ってこのまとまった休暇を持て余していた。
半分に割れた蜜柑を丸のみし咀嚼しつつも、ぼぅとこの後を考える藍。
橙を追いかけ地底に赴く。
思わないでもなかったが、言うは易し行うは難しとはまさにこのこと。
招かれていない藍が降りるのは面倒が伴うし、橙や椛を招いてくれた地底の面々に申し訳が立たない。
戻って仕事を再開する。
ならばと浮かんだ案は、けれど即座に否定した。
折角紫が気を使ってくれたのだし、何より、藍だって休める時は休みたい。
(じゃあどうしよう)
首を動かし室内を見渡す。
本棚には、紫や藍が外から持ち帰ってきた小説やら漫画やらが溢れている。
畳の上には、此方も同じく持ち帰ってきていた、動力の出所が不明な26cmモニタと幾つかのゲーム機が鎮座していた。
(あー……。
漫画でも読み返そうかな。
それか、ゲームの再プレイも悪くない)
悪くないかもしれないが、生産性の欠片もない。これっぽちもない。
(けどなぁ……。
『超姉貴』はスキマに放り込んだままだし……。
ゲームはゲームで、「彼女」に「橙」ってつけたらぬっ殺されるし……)
何読んでんですか藍様。何やってんですか藍様。
「どーしよっかなぁー!」
半ば自棄になりながら叫んだその言葉に、無論、応える者はいない。
――筈だった。
「何をどうするのよ、式のいない式様」
藍が、外から吹き付ける風を感じる、その時までは。
現れたのは。
藍を呼んだのは。
風と戯れ、風に乗り、風を操るのは――
「……文」
――鴉天狗の射命丸文であった。
「お前かぁ……」
「何その微妙に落胆している声は!?」
「文、それはお前の勘違いだ。微妙にではなく、大いに落胆している」
彼女たちは、斯様に互いにずけずけと言い合える程度の仲なのである。
「珍しいじゃない、貴女がこの時期、ぐぅたらしてるなんて」
「他の季節はぐぅたらしているみたいな言い方だな」
「それはいいから」
「お前な。……紫様が休暇をくれたんだよ」
「わぉ珍しい。だけど、残念だったわね。橙、いないんでしょう?」
靴を脱ぎ、ずかずかとあがってくる文。
礼儀がなっていないと感じた藍は、けれど顔を顰めすらしなかった。
その程度でどうこう騒ぐようなら元より数百年に及ぶ腐れ縁は続いていない。
「そう言えば、お前は何をしに……ヒトの蜜柑を勝手に食うなぁ!」
とは言え、物には限度がある。
漸く炬燵から頭を上げた藍に、さして懲りた様子もなく、文がもっしゃもっしゃと蜜柑を食べながら問い返す。
「けぷぅ。んなことよりも、先に聞くべきことがあるんじゃなくて?」
「お前なぁ……。何故、橙がいないのを知っているのか、か?」
「そぅそ」
「尋ねるまでもない。椛が言ったんだろう」
「あら、お見通しねぇ。あの子ったら嬉しそうだったわよ」
普段は余り見ない文の柔らかな表情に、椛のはしゃぎようが窺える。
「それはまぁ……実に素晴らしかったんだろうなぁ」
「ええ。この私をして、いきりたちましたわ」
「いや待て文。たつものがない」
「いやいや藍。ほら、ちく」
「少し落ち着こうか」
蜜柑片手に身悶えする文に、藍は妖力を溜めた右手を向けた。
フタリは、速さなら文が勝るが、力なら藍が勝る。
そして、ここは藍のベースだ。
「どぅどぅ、どぅどぅ」
「抑えるのはお前だっての」
「わぁーってるわよ。ちょっと待ちなさい」
ひっひっふー、ひっひっふー。
「てぃくびが」
「変わらんわアホー!」
「あぁん文飛んじゃうー!」
放たれた‘力‘に、文字どおり吹っ飛んでいく文。
一方の藍は、出力調整のミスを悔やんだ。
もっとキツめにしなくては。
消し炭となれ。
――概ね、彼女たちの関係が集約されたやり取りであったと言う。
どうということもなく戻ってきた文に炬燵へと入ることを促し、藍は再び問う。
促した時には既に入っていたが気にしない。
蜜柑も食われていたが、もういいや。
もっしゃもっしゃ。
「で、だ。なんでお前はここに? 橙がいないことは知っていたんだろう?」
「あの子がいようといまいと関係ないわよ」
「んだとこら」
もっきゅもっきゅ。
「昨日できた新聞を届けに来ただけよ。因みに、ここで最後」
「あー、それで。隈やらなんやら凄いぞ」
「黒は女を美しくする」
「あー、うん、やかましい」
「元から美しいって? やーん、藍ってば正直!」
もっきゅもっきゅ。
「テンションがむかつくほど高いのも、徹夜明けだからか」
「話がシモにいきやすいのもねー」
「元々ゆるゆるだろうに」
「あら意外。そう言う貴女だって」
「はっはっは、酒が入ったからな。これくらい良かろうて」
因みに、もっしゃもっしゃが蜜柑を咀嚼する音で、もっきゅもっきゅが酒を嚥下する音だった。
「まったく、何が悲しくて折角の休暇をお前とサシで飲み合いしなくちゃならんのだ。
世の美少女たちの目を疑うね。美女フタリを放っておくなんて。
や、や、私には橙がいれば、ちぇぇぇぇぇん!」
ぐぃっと一気に盃をあおった藍は、何かがこみ上げてきて我慢ができず、叫んだ。
昔馴染みの有様に呆れ顔の文は、しかし数瞬後には笑みを浮かべた。
炬燵の中に潜り込み、反対側に坐する藍の隣に移動する。
手にはしっかり酒瓶が握られていた。
すかさず、空の盃を満たす文。
「お前に注がれてもなぁ……」
「言うと思ったわ」
「……何を考えている?」
「私たちのこ・ん・ご」
「お前と乳繰り合ってもなぁ……」
そりゃ混合。
藍様が絶好調だ。
何がと言われても困るが。
「それはそれで面白そうだけど、違うわ。うふ」
わざとらしい文の笑い声。
だけれど、妙に艶があった。
そして、昔馴染みだからこそ、藍は知っている。
この手の笑みを浮かべる文は碌なことを考えていない、と。
「ねぇ、私たちの可愛い椛と橙は地底へと行ったのよね?」
「私の、可愛くも愛らしく、全銀河の至宝、橙だ」
「それはもういいから」
膨張を続ける藍の愛を一蹴する文。
藍は文の扱いに長けている。
その逆も然りであろう。
「橙、あぁ、橙! お前の藍様は、せめてお前が地底の動物園で楽しんでいることを祈るよぅ」
酷い言い草だなぁ、などと思いつつ。
文の笑みが更に妖艶さを増す。
我が意を得たりと告げていた。
「藍、ねぇ、藍」
嘆く藍だったが、肩を掴まれ、顔を突き合わせる姿勢にと変えられる。
視線の交差だけでなく、吐息さえも混じり合う距離。
感じる匂いだけは初々しい柑橘系の香りだった。
「そう、あの子たちはこの場にいない。
だから、だからこそ、今しかないのよ!
私はともかく、貴女が! 大人の動物園に行くのは!!」
あと、酒臭い。
「大人の動物園!? それは、その、……お馬さんだけがたくさんいる所……か!?」
「何今更カマトトぶってんのよ。オヤジ臭い。もち、兎さんや牛さんがいる所よ」
「や、十分おっさんくさ……牛さんも!? そんな所が、この幻想郷に!」
「うふふ、会員制だもの! んっもー、これもんのこれもんよ!」
「会員制! 胸が熱くなるな……!」
やっぱり碌でもなかったと思いつつ、拳を握る藍。
朱に交われば赤くなり、類は友を呼ぶ。
そんな感じ。
「し、しかし、文! お前の手の動き、その体型は」
「好きでしょ、ツルペタ?」
「大好きだっ!!」
こんな感じ。
じゃあ、と弾みをつけ炬燵を抜け出す文。
「行きましょうか、って、藍?」
続くはずの藍は、けれど拳を握った姿勢で固まっていた。
一瞬後、頭を両手で抱え呟きを洩らす。
更に一瞬後、拳を握る。
以下、繰り返し。
色々思うところがあるんだろうなぁ、と藍の思考を容易に掴む文。
その思考を汲んでやる自身は、あぁ、なんて友達思い!
なんて考え鼻で笑い、それでも文は囁いた。
彼女たちは、腐れ縁にて昔馴染み、そして、何より悪友なのだから。
「もちのろんで、猫さんもいるわよ?」
「よぉし、藍様スーツなんて着ちゃうぞぅ!」
「落とす気満々ねって何時着替えたぁぁぁ!?」
野暮なことは言いっこなしだ。
「って、散々煽っといてなんだけど、私も最近はご無沙汰なのよねぇ」
「そりゃぁ椛を連れては行けまいて」
「行ってもいいんだけどね。んだから、女の子は変わってるかもしれないわ」
「ふふ、案ずるな、文」
「うっわ、いい笑顔。貴女のその顔は、碌でもないことを考えている証」
そのとおりだと頷く藍は、確かに晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
「私は、ボインちゃんも、いける」
「っきゃー、藍様格好いい! 濡れる!」
「よぉぉぉし、待っていろ一冬のアバンチュール!!」
とにもかくにも。
生産性のない休暇を過ごすはずだった藍は、文とともに駆け出し、大型休暇を楽しむのであった。
……ある意味生産性のないことに変わりはないが、いやまぁほら、フタリともすげぇいい笑顔だし、いいよね?
<幕>
<後秒談>
外に出たフタリを待っていたのは、それはもう何の苛めかと問いたくなるほどの大雨だった。
「ふぅははは、この程度で私を止めようとは片腹痛いっ!」
「……いやあの、藍。無理だって。前見えないって」
「何を言う文! ちっくしょう幻想郷め、私はヒトリでも負けんぞ!」
「世界規模で邪魔されてんの!?」
「この火照った身体はお前の雨ごときでは冷めんのだ! いや局所的には逆にあがっ!?」
危なかった。
「や、今更って気もするけど。
……あー、雹が混じっていたのね。
見事な適中、二の舞はヤだし、素直に引っ込みましょうかっと」
目を回す藍を担ぎあげ室内に戻る文の背を包むのは、どうということもなく晴れ渡った空、そして、降り注ぐ陽光だけだった――。
普段は狭いとさえ思う炬燵をうすら広く感じつつ、八雲藍が首まで埋もれ、丸くなっている。
普通にしていればここ幻想郷でも長身に数えられる背丈だが、その面影が今はない。
主人よりも高いんじゃないかと巷で噂される威厳も、同じようになかった。
藍は、もぞもぞと腕を出し、炬燵に乗る蜜柑を手に取り――泣いた。
脳裏に浮かんでいるのは、式。
鼻下に丸めた両拳をあてる、幻想郷の至宝。
蜜柑の匂いに少しばかり顔を顰めつつそれでもあどけない瞳を向けてくる、「ちぇぇぇん……」。
藍は、ありし日を思い出し、啼いた。
それはそう、冬のとある日。
両手に防寒具を抱えてやってきた藍に、橙は剥いた蜜柑を差し出した。
幾つか食べていたのだろう、程よく熟して見た目にも甘そうな蜜柑は、半分に割られていた。
『橙……ついに、蜜柑を食べられるようになったのだな……!』
『えへへ、香りはまだちょっと苦手ですけど、甘くて美味しいです』
『そうかそうか。今日は宴だ。皆呼ぼう。プリズムリバーは空いているかな』
『や、あの、それはちょっと。流石に』
『塩分を人並みに取れるようになった時は催したではないか』
『えっと。恥ずかしかったです』
『仕方あるまい、お前がそうまで言うなら日記に留める程度に……ん?』
『みかんで日記?』
『いいえ、それは吐夢です。じゃなくて、橙、筋を取ってしまっているじゃないか』
『あ、白いのですね。だって、そこ、美味しくないんです』
『うぅむ、いかん、いかんぞ、橙。蜜柑の筋は栄養価が高いんだ』
『そうなんですか?』
『そうなんだ。ヘスペリジンという成分が含まれていてな。近大のお墨付き』
『キンダイ……?』
『だからって参千六百円は高いぞこんちくしょう!』
『ら、藍様!?』
『んぅ、ともかく――次からは、ちゃんと筋も食べるんだぞ』
手を後ろに回し自身の腿をひねくりながら、藍は諭すように言った。
愛する橙に苦行を勧めるのだ、己にも何らかの痛みが必要だろう。
そう考えていた。
割と意味のない行為だった。
『わかりました藍様! 橙はちゃんと筋も食べます!』
そんな藍の思惑を知ってか知らずか、いや知らないのだが、橙は両拳を握り、こくりと首を縦に振った。
浮かぶ表情は気高く、誇らしく、毅然としていてかつ世界の至宝と言って差し支えないほど愛らしい。
なんだか広がっているが気にしてはいけない。
藍の愛は膨張し続けているのだから。
けれど、それも今は昔。
「ちぇぇぇぇぇん……」
いや、膨張はなお続けられているのだ。
世界から地球にまで。
そして、太陽系に。
問題は、つまり藍が嘆いている理由は――当の橙がこの場にいないことである。
藍がここマヨヒガにどうかと思う速度で着いた時、炬燵の上には蜜柑を重しとした一枚の書置きが残されていた。
どうかと思うのは速さもさることながら、その走法もであった。
なんというか、十傑衆。
閑話休題――その内容は、以下のとおりである。
『親愛なる紫様、藍様へ
マヨヒガの皆と椛と、地底に遊びに行ってきます。
萃香様と勇儀様、さとりさんが執り成ししてくれたので、きょうてい……? も大丈夫です。
橙より。
P.S. お土産、楽しみにしていてくださいね』
以上。
「ふふ、橙、すっかり大人びて。お前がお土産だよ。ふふ、うふふ」
異常。
――断っておくが、この件に関して橙の落ち度は一切ない。
大地に雪化粧がなされる今の時期、通常、藍の多忙は極まっている。
彼女の主たる‘結界の大妖‘八雲紫が、暫しの間、休養に入るためだ。
その期間中、よほどのことでもない限り紫は仕事をしないし、故に藍はまとまった休暇を取らない。
蜜柑にかぶりつきつつ、藍は推測する。
(だから、仕事の邪魔にならないよう、橙は何も告げずに地底へと降りたのだろう。
読まれる可能性の低い書置きを残した配慮を含めると、むしろ褒めるべきだ。
と言うか褒めよう。橙が帰ってきたら今度こそ宴を!)
因みに、その半紙は既に額縁に収められ、壁に掛けられていた。
(愛する藍様とは、ふふ、橙も言うようになった。紫? ご飯にかけると美味しいよね)
そもそも――何故、多忙を極めているはずの藍が、マヨヒガに来ているのか。
元来真面目と評される彼女なのだから、エスケープしてきた訳ではない。
他の者に命じた訳でもない。
そう、命じられる訳がないのだ――藍のいるべき場所に今いるのは、紫なのだから。
小さな欠伸を噛み殺しやってきた紫に、藍は目を丸くした。
前述のとおり、紫が冬に仕事をこなそうとするのは異例もいいところだからだ。
或いは自身の管理に重大なミスがあったのか――思う藍に、紫が首を振りながら、告げた。
『貴女にも休暇を与えてあげないとね』
え、リストラ? それともガチの首切り?
更に目を丸くする藍だったが、どうやら違うようだ。
言葉を続けず結界を展開する紫の態度を鑑みるに、額面どおりに受け取っていいらしい。
どのような思惑で紫が起きてきたのかは解らない。
けれど、与えられるものは受け入れようと思う藍。
それが単に今回は休暇と言うだけだ。命でも死でも、受け入れる。
頭を下げ去り行く藍に、小さな、聞かせる気があるのかないのか判断が難しい囁き声が届く。
『偶には遊んできなさいな、私の可愛い子狐』
扱いに微苦笑を零し、それでも、藍は思う――(何時まで経っても子狐なんだろうな)。
振り返り、もう一度礼を発して、駆け出す。
素敵走りで。
そんなこんなで辿り着いたマヨヒガにて、藍が見たのは件の書置きなのであった。
という訳で――
「しゅーりょー、私の大型休暇、しゅーりょー」
――炬燵に丸まり管を巻く藍は、有体に言ってこのまとまった休暇を持て余していた。
半分に割れた蜜柑を丸のみし咀嚼しつつも、ぼぅとこの後を考える藍。
橙を追いかけ地底に赴く。
思わないでもなかったが、言うは易し行うは難しとはまさにこのこと。
招かれていない藍が降りるのは面倒が伴うし、橙や椛を招いてくれた地底の面々に申し訳が立たない。
戻って仕事を再開する。
ならばと浮かんだ案は、けれど即座に否定した。
折角紫が気を使ってくれたのだし、何より、藍だって休める時は休みたい。
(じゃあどうしよう)
首を動かし室内を見渡す。
本棚には、紫や藍が外から持ち帰ってきた小説やら漫画やらが溢れている。
畳の上には、此方も同じく持ち帰ってきていた、動力の出所が不明な26cmモニタと幾つかのゲーム機が鎮座していた。
(あー……。
漫画でも読み返そうかな。
それか、ゲームの再プレイも悪くない)
悪くないかもしれないが、生産性の欠片もない。これっぽちもない。
(けどなぁ……。
『超姉貴』はスキマに放り込んだままだし……。
ゲームはゲームで、「彼女」に「橙」ってつけたらぬっ殺されるし……)
何読んでんですか藍様。何やってんですか藍様。
「どーしよっかなぁー!」
半ば自棄になりながら叫んだその言葉に、無論、応える者はいない。
――筈だった。
「何をどうするのよ、式のいない式様」
藍が、外から吹き付ける風を感じる、その時までは。
現れたのは。
藍を呼んだのは。
風と戯れ、風に乗り、風を操るのは――
「……文」
――鴉天狗の射命丸文であった。
「お前かぁ……」
「何その微妙に落胆している声は!?」
「文、それはお前の勘違いだ。微妙にではなく、大いに落胆している」
彼女たちは、斯様に互いにずけずけと言い合える程度の仲なのである。
「珍しいじゃない、貴女がこの時期、ぐぅたらしてるなんて」
「他の季節はぐぅたらしているみたいな言い方だな」
「それはいいから」
「お前な。……紫様が休暇をくれたんだよ」
「わぉ珍しい。だけど、残念だったわね。橙、いないんでしょう?」
靴を脱ぎ、ずかずかとあがってくる文。
礼儀がなっていないと感じた藍は、けれど顔を顰めすらしなかった。
その程度でどうこう騒ぐようなら元より数百年に及ぶ腐れ縁は続いていない。
「そう言えば、お前は何をしに……ヒトの蜜柑を勝手に食うなぁ!」
とは言え、物には限度がある。
漸く炬燵から頭を上げた藍に、さして懲りた様子もなく、文がもっしゃもっしゃと蜜柑を食べながら問い返す。
「けぷぅ。んなことよりも、先に聞くべきことがあるんじゃなくて?」
「お前なぁ……。何故、橙がいないのを知っているのか、か?」
「そぅそ」
「尋ねるまでもない。椛が言ったんだろう」
「あら、お見通しねぇ。あの子ったら嬉しそうだったわよ」
普段は余り見ない文の柔らかな表情に、椛のはしゃぎようが窺える。
「それはまぁ……実に素晴らしかったんだろうなぁ」
「ええ。この私をして、いきりたちましたわ」
「いや待て文。たつものがない」
「いやいや藍。ほら、ちく」
「少し落ち着こうか」
蜜柑片手に身悶えする文に、藍は妖力を溜めた右手を向けた。
フタリは、速さなら文が勝るが、力なら藍が勝る。
そして、ここは藍のベースだ。
「どぅどぅ、どぅどぅ」
「抑えるのはお前だっての」
「わぁーってるわよ。ちょっと待ちなさい」
ひっひっふー、ひっひっふー。
「てぃくびが」
「変わらんわアホー!」
「あぁん文飛んじゃうー!」
放たれた‘力‘に、文字どおり吹っ飛んでいく文。
一方の藍は、出力調整のミスを悔やんだ。
もっとキツめにしなくては。
消し炭となれ。
――概ね、彼女たちの関係が集約されたやり取りであったと言う。
どうということもなく戻ってきた文に炬燵へと入ることを促し、藍は再び問う。
促した時には既に入っていたが気にしない。
蜜柑も食われていたが、もういいや。
もっしゃもっしゃ。
「で、だ。なんでお前はここに? 橙がいないことは知っていたんだろう?」
「あの子がいようといまいと関係ないわよ」
「んだとこら」
もっきゅもっきゅ。
「昨日できた新聞を届けに来ただけよ。因みに、ここで最後」
「あー、それで。隈やらなんやら凄いぞ」
「黒は女を美しくする」
「あー、うん、やかましい」
「元から美しいって? やーん、藍ってば正直!」
もっきゅもっきゅ。
「テンションがむかつくほど高いのも、徹夜明けだからか」
「話がシモにいきやすいのもねー」
「元々ゆるゆるだろうに」
「あら意外。そう言う貴女だって」
「はっはっは、酒が入ったからな。これくらい良かろうて」
因みに、もっしゃもっしゃが蜜柑を咀嚼する音で、もっきゅもっきゅが酒を嚥下する音だった。
「まったく、何が悲しくて折角の休暇をお前とサシで飲み合いしなくちゃならんのだ。
世の美少女たちの目を疑うね。美女フタリを放っておくなんて。
や、や、私には橙がいれば、ちぇぇぇぇぇん!」
ぐぃっと一気に盃をあおった藍は、何かがこみ上げてきて我慢ができず、叫んだ。
昔馴染みの有様に呆れ顔の文は、しかし数瞬後には笑みを浮かべた。
炬燵の中に潜り込み、反対側に坐する藍の隣に移動する。
手にはしっかり酒瓶が握られていた。
すかさず、空の盃を満たす文。
「お前に注がれてもなぁ……」
「言うと思ったわ」
「……何を考えている?」
「私たちのこ・ん・ご」
「お前と乳繰り合ってもなぁ……」
そりゃ混合。
藍様が絶好調だ。
何がと言われても困るが。
「それはそれで面白そうだけど、違うわ。うふ」
わざとらしい文の笑い声。
だけれど、妙に艶があった。
そして、昔馴染みだからこそ、藍は知っている。
この手の笑みを浮かべる文は碌なことを考えていない、と。
「ねぇ、私たちの可愛い椛と橙は地底へと行ったのよね?」
「私の、可愛くも愛らしく、全銀河の至宝、橙だ」
「それはもういいから」
膨張を続ける藍の愛を一蹴する文。
藍は文の扱いに長けている。
その逆も然りであろう。
「橙、あぁ、橙! お前の藍様は、せめてお前が地底の動物園で楽しんでいることを祈るよぅ」
酷い言い草だなぁ、などと思いつつ。
文の笑みが更に妖艶さを増す。
我が意を得たりと告げていた。
「藍、ねぇ、藍」
嘆く藍だったが、肩を掴まれ、顔を突き合わせる姿勢にと変えられる。
視線の交差だけでなく、吐息さえも混じり合う距離。
感じる匂いだけは初々しい柑橘系の香りだった。
「そう、あの子たちはこの場にいない。
だから、だからこそ、今しかないのよ!
私はともかく、貴女が! 大人の動物園に行くのは!!」
あと、酒臭い。
「大人の動物園!? それは、その、……お馬さんだけがたくさんいる所……か!?」
「何今更カマトトぶってんのよ。オヤジ臭い。もち、兎さんや牛さんがいる所よ」
「や、十分おっさんくさ……牛さんも!? そんな所が、この幻想郷に!」
「うふふ、会員制だもの! んっもー、これもんのこれもんよ!」
「会員制! 胸が熱くなるな……!」
やっぱり碌でもなかったと思いつつ、拳を握る藍。
朱に交われば赤くなり、類は友を呼ぶ。
そんな感じ。
「し、しかし、文! お前の手の動き、その体型は」
「好きでしょ、ツルペタ?」
「大好きだっ!!」
こんな感じ。
じゃあ、と弾みをつけ炬燵を抜け出す文。
「行きましょうか、って、藍?」
続くはずの藍は、けれど拳を握った姿勢で固まっていた。
一瞬後、頭を両手で抱え呟きを洩らす。
更に一瞬後、拳を握る。
以下、繰り返し。
色々思うところがあるんだろうなぁ、と藍の思考を容易に掴む文。
その思考を汲んでやる自身は、あぁ、なんて友達思い!
なんて考え鼻で笑い、それでも文は囁いた。
彼女たちは、腐れ縁にて昔馴染み、そして、何より悪友なのだから。
「もちのろんで、猫さんもいるわよ?」
「よぉし、藍様スーツなんて着ちゃうぞぅ!」
「落とす気満々ねって何時着替えたぁぁぁ!?」
野暮なことは言いっこなしだ。
「って、散々煽っといてなんだけど、私も最近はご無沙汰なのよねぇ」
「そりゃぁ椛を連れては行けまいて」
「行ってもいいんだけどね。んだから、女の子は変わってるかもしれないわ」
「ふふ、案ずるな、文」
「うっわ、いい笑顔。貴女のその顔は、碌でもないことを考えている証」
そのとおりだと頷く藍は、確かに晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
「私は、ボインちゃんも、いける」
「っきゃー、藍様格好いい! 濡れる!」
「よぉぉぉし、待っていろ一冬のアバンチュール!!」
とにもかくにも。
生産性のない休暇を過ごすはずだった藍は、文とともに駆け出し、大型休暇を楽しむのであった。
……ある意味生産性のないことに変わりはないが、いやまぁほら、フタリともすげぇいい笑顔だし、いいよね?
<幕>
<後秒談>
外に出たフタリを待っていたのは、それはもう何の苛めかと問いたくなるほどの大雨だった。
「ふぅははは、この程度で私を止めようとは片腹痛いっ!」
「……いやあの、藍。無理だって。前見えないって」
「何を言う文! ちっくしょう幻想郷め、私はヒトリでも負けんぞ!」
「世界規模で邪魔されてんの!?」
「この火照った身体はお前の雨ごときでは冷めんのだ! いや局所的には逆にあがっ!?」
危なかった。
「や、今更って気もするけど。
……あー、雹が混じっていたのね。
見事な適中、二の舞はヤだし、素直に引っ込みましょうかっと」
目を回す藍を担ぎあげ室内に戻る文の背を包むのは、どうということもなく晴れ渡った空、そして、降り注ぐ陽光だけだった――。
>参千六百円
ぼったくり価格wwwww
あ、アハハハハハ……
……大人って、大人ってやつはぁよぉ!
ほんとどうしようもねえ。
いいねぇ藍文いいねぇ
そういう天気のときこそ空いてて向こうから総出で相手してくれるんだぞ!!
こんな関係の夫婦が有ったって良いのになぁ。
子供は悪影響をモロに受けそうですけれど。